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第35話
しおりを挟むレイチェルは思わず顔をしかめた。一つ一つがそれほど大声という訳ではないが、普通の声とは違う「欲」そのものの声は、まるでこちらにぶつかってくるような衝撃を伴って聞こえてくる。
『あの野郎、殴ってやりたい』
『少しぐらい私が得してもいいわよね』
『こんな連中の相手してられるか。俺にはもっとふさわしい場所があるんだ』
『皆もっと私を褒めてよ』
『あの娘の幸せを壊したいわ』
『私は他の人達とは違う。私が、私が、私が——』
レイチェルはあまりに暴力的な声の渦に耐えきれず耳を塞いだ。ぐらりと体が傾ぐのを、ヴェンディグが支えてくれる。レイチェルはその胸に縋り付きたくなった。
「そのまま耳を塞いでいろ。すぐに終わらせる」
そう告げると、ヴェンディグは集中するように目を閉じた。その額に汗が滲むのをレイチェルは見た。
この剥き出しの欲望の叫びの中から、蛇に蝕まれた声を探しているのだ。毎晩、十二年間も。
レイチェルは改めてそれを思い知り、たまらない気持ちになった。
どうして、この人がそんな役目を負わなければならなかったのだろう。蛇を受け入れることの出来る肉体を持っていたから。民のことを思う第一王子だったから。その程度の理由では、十二年は長すぎる。
レイチェルは自分の耳からそっと手を外した。
途端、様々な声がレイチェルを襲う。大勢に一気にがなりたてられているようで、頭ががんがん痛む。
こうすれば、少しでもヴェンディグの想いに寄り添えるのではないかと思ったのだ。
「……いないな。……おい、レイチェル」
ややあって、目を開けたヴェンディグが俯いているレイチェルの異変に気付いた。
「お前っ、なんで耳を塞いでいないんだ!」
レイチェルは真っ青な顔でヴェンディグを見上げた。
「申し訳ありません……私、お役に立てなくて……」
ヴェンディグがこれまでどんなことに耐えてきたのか知りたかった。レイチェルも同じ目に遭えば、少しでもヴェンディグに近づけると思って。
「閣下は、毎晩このような……なのに、私はこのくらいで……」
レイチェルはぎゅっと唇を噛んだ。自分の情けなさを思い知ると同時に、ヴェンディグの辛さを思い知らされた。
「気にすることはない。ヴェンディグも昔はしょっちゅう気絶していたし、翌日まで寝込むこともあった」
自分の情けなさを恥じるレイチェルに、ナドガが優しく声をかけた。
「他人の「欲」を聞くのだ。心身が疲労して当然だ」
ヴェンディグも眉間に皺を刻んで頷いた。
「嫌な内容を聞くことも多い。聞くに堪えないような」
レイチェルの肩に手を掛けて、自分の身に寄りかからせてヴェンディグが言った。
「だから、お前にはこんなことさせたくない」
レイチェルの目からぽろりと涙がこぼれた。
「というか、しないでくれ。お前の耳を汚したくない」
そんな風に言って、ヴェンディグが不器用にレイチェルの頭を撫でるものだから、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
レイチェルだって、こんなものに十二年間も耐えてきたのだと思うと、もう何もかも忘れて休んでほしいと思ってしまう。
けれども、きっとヴェンディグは止まらないのだろう。大事な民の中に紛れ込んで人々を貪ろうとする蛇を捕まえるまで、彼は蛇の王と共に夜を駆けるのだろう。
目を開けていられなくなってきた。頭がぼんやりして、霞がかかったように思考が曖昧になっていく。
レイチェルは意識を保とうと頑張ったが、結局はヴェンディグに寄りかかって気を失ってしまった。
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