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第二章
37、聖ミハエル教会での奇跡(一)
しおりを挟む「オリビア!」
暗闇を怖がるサラの手を握っていたキースは、サラの体が一瞬痙攣し、ぐらりと揺れ動いたのを見たと同時に、反射的に握っていた手を力任せに引き寄せながら自分の体を滑り込ませ、サラを庇うようにそのまま床の上に崩れ落ちた。
キースの咄嗟の行動で大事には至らなかったが、聖女がいきなり気を失って倒れてしまったせいで、近くにいた大司教も思わず屈み込み、必死になって二人に呼びかけた。
「聖女様!公子様!」
「…っ、大司教、私は大丈夫だが、それより彼女は――」
キースと大司教は目の前で倒れた少女が気を失っているだけだとわかると、互いに軽く安堵した。だが顔色が悪く、呼吸のリズムも一定ではない様子から、油断できない状況である事に変わりはない。
「とりあえず、先ほどの部屋に聖女様を運びましょう。あそこなら患者用のベッドもありますし、それと、治療院から女医を呼び寄せましょう」
年長者の大司教があたふたと他の司教達に指示を出していると、展示室の前で見張りをしていた二人の騎士達も騒ぎを聞きつけて中に飛び込んできた。
「お嬢様!何があったのですか!?」
「オスカー、さっきの部屋に戻るぞ。ラウラ、先に周辺で不審な点や動きがないか、確認に動いてくれ」
キースは部下達に指示を出すと、先ほど案内された部屋へと引き返すために、サラを抱きかかえて立ち上がった。
気を失った少女のコートを脱がせてベッドに寝かせた後、女性の医師が診察をしている間、キースはそわそわと落ち着かない様子でずっと立ったままだった。大司教は椅子に座って静かにしているが、他の司教達は声を出さずに祈り続けている者もいる。
沈黙が流れる部屋の中で響く時計の秒針の音にさえ苛立ちを感じ始めていると、診察を終えた女医がキースと大司教のもとへやって来て何かを言うより早く、キースの方から女医に詰め寄った。
「どんな状態だ!?」
「はっ、はい!お嬢様はただ気を失っているだけのようです。何か夢を見てうなされているようですが、今は静かに様子を見守るしかありません」
「それは大丈夫ということなのか!?どこもぶつけてはいないはずだが、手を強く引いてしまった。捻ったり骨が折れたりしていないよな!?」
「ええっと、とにかくですね、そのような外傷は一切見当たりませんし、後は御令嬢がお目覚めにならないと、より詳しい診断は出せません。ですがあの様子だと、それがいつになるか…。もしよろしければ、治療院に移っていただく事も可能ですが、いかがなさいますか」
教会の隣にある治療院からやって来た女医は、ごく当たり前のことを提案したのだが、キースはしばらく考え込み、苦渋の決断をした。
「――いや。私がしばらくここに残るとしよう。あまり事を荒立てて変な噂が広まっても困るので、この事は内密にしてほしい。ミハエル大司教、この部屋に誰も近づかぬよう人払いをお願いしたい」
「承知いたしました。何かあればすぐ参りますので、気兼ねなくいつでもお呼び下さい」
「このような騒ぎになって申し訳ない」
「それについては――いえ、今はとにかく静かにお休みいただきましょう」
ぞろぞろと司教達が出て行った後、キースは護衛役の二人に再び廊下で警護を続けるように言うと、部屋のドアを閉めた。
思い詰めた暗い表情のまま振り返り部屋の奥へ視線を戻すと、予期せぬ光景にキースは自分の目を疑った。眠っていると思っていた少女が、気付かぬうちにベッドの上で上半身を起こし、すでに目覚めていたからだ。
何の気配も感じられなかった事に一抹の不安を抱いたまま、キースは目覚めたばかりの少女の横顔を伺った。
少女はキースがいる事にも気づかず、無言で何もない壁を虚ろな目で見つめているだけで、やはりどこか様子がおかしい事が伝わってくる。
「…オリビア?」
嫌な予感が拭えないまま、本当の名前を知らない少女を別の名前で呼んだ時、ピクッと反応して、こちらを向いたその目がキースの姿を捉えた。
生気を失っていた少女の瞳に茶色の色味が戻ってきた気がして、やっと安心する事ができたキースが近づこうと歩き出したところで、少女はにっこりと笑ってこう言った。
「どうして、私が『オリビア』だってわかったの?お兄様」
その一言でキースは恐怖を感じて踏み留まった。その声はたしかにキースが知っている彼女の声だったが、中身はまったく違う人物だと気づいたからだ。
「うふふ。ねぇ、どうしてわかったのかしら。サラの魂は今この体にはいないし、この世にもいないわ。あぁ、やっぱり嬉しい。私やっとサラになれたのね…!」
嬉しそうに鏡の前に立った少女の肉体には、明らかに違う魂が宿っている。
キースにはそれが妹のオリビアである事はすでにわかりきっているのだが、それを事実として受け入れることも、今何が起きているのかも、全てがあまりにも非現実的過ぎて、精神的には混乱の渦から抜け出せずにいる。
サラの肉体を支配するオリビアは鏡に映った自分の姿を見て、ヒップラインに膨らみもない質素なドレスを着ている事に不満をもったのか、キースが近くにいるにも関わらず、気にすることなく突然ドレスを脱ぎ始めた。
「なっ、何をしている!?」
キースはオリビアから目を背けながらその行動を咎めるが、オリビアはコルセットとシュミーズだけの姿になってしまったサラの体を鏡で満足気に眺めながらこう言った。
「だって、すっごくダサいドレスなんだもの。バッスルも着けてないじゃない。もっとこの容姿に似会うものを着なくちゃね」
ここがどこなのかわかっていない様子のオリビアは、ドレスがありそうなクローゼットを探して辺りを見回すが、ここがそういう部屋ではないと悟ると、不服そうにキースに顔を向けた。
ずっと視線をそらしているキースのもとへ、オリビアはふらりと近づいて来て、キースの前に立った。
「彼がね、私に教えてくれたの。私にチャンスをくれるって。大好きなサラを完全に私のものにしてもいいって言ってくれたの」
「…彼?」
「彼は自分の事を悪魔って言ってたわ」
キースはオリビアの言葉に驚愕し、体の内側から込み上がる恐怖に体が震えるのを感じて拳を握りしめた。
「…彼女をお前のものにするとはどういう意味だ?彼女の魂は…、この世にいないと言ったな。それじゃあ、今はどこにいるんだ…?」
震える声を絞り出すキースを見たオリビアは、少し考えて「ふうん」と呟いた後、
「ねぇ、キース。あなた、私がお父様の実の子供じゃないって知っていたんじゃないの?」
と、サラの顔で微笑みながら、その両手を自分を直視しようとしないキースの頬にそっとあてた。温かい手の感触にキースはビクッと震えてしまう。
「――どうしてお前がそれを知っているんだ」
「やっぱり知っていたのね。お母様も酷い人だわ…。でも今はもうどうだっていいの。私はこの体が手に入ればいいのよ。だって、そうすれば全部思い通りになるもの!ねぇ、あなたにとってもその方が都合がいいでしょう?」
オリビアが予想外の力でキースの顔を引き寄せると、強引にその唇にサラの柔らかい唇を押し当ててきた。キースが抵抗してオリビアの肩を掴んで引き剥がそうとした瞬間、甘い香りが漂い始めたかと思えば、何故かキースの思考はその香りに奪われ、甘美な口づけに溺れてしまいそうになる。
乱れる口づけから逃れようと、キースは必死にオリビアに訴えた。
「オリ、ビア…!やめろ…!血は関係ない。お前はッ、妹のオリビアだ!他人の肉体を使ったとしても、それが変わる事はない…!」
キースの言葉がオリビアの気に障ったのか、オリビアは強引に押し当てていた唇を離してペロリと上唇を舐めると、睨むような目つきでキースを見上げた。
「今更そんな事を言ったってもう手遅れよ…私がサラになったのよ。私はこの体で生き続けるの!じゃないと――」
オリビアがそのまま何かを言い続けようとした時、その様子は一変した。オリビアはキースの顔から手を離すと、徐々に後ろへと後退していきながら、苦しそうに頭を抱えて悶え出した。
「ダメ…ッ!ダメよ!やめて!あなたはずっと私と一緒でしょ!?」
発狂したように一人で誰かと話し始めたオリビアを前に、キースは為す術もなく立ち尽くしている。
やがて少女の胸元から小さな無数の光が現れると、それは徐々に一つとなって丸い真珠のような大きさになったかと思えば、突如その球体から目を覆うほどの閃光が部屋中に放たれた。
あまりの眩しさに動揺し体勢を崩したキースは目をつぶったままドアにぶつかってしゃがみ込んだ。
そのままどう動いていいのかもわからずにじっとしていると、近くでドサッと何かが倒れた音がした。キースが恐る恐る目を開いてみると、あれほど眩しかった世界は何もなかったかのように普通の状態に戻っていて、ただそこには再び気を失って床に倒れているサラの姿があった。
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