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百二十二話
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通気口の空洞に反響したのは血を吐くような絶叫。
強制労働から引き揚げたその足で真っ先にやってきた奴らが早い者勝ちで売春夫を犯している、肛門を裂かれる激痛になりふりかまわず泣き叫ぶガキの断末魔がひっきりなしに響き渡る。
ついにこの時がきてしまった。
こんなに早いなんて思わなかった、おれが呑気に居眠りしてるあいだに半日経ってしまったらしい。こんなのはまだ序の口だ、本当の地獄はこれからだ。強制労働から引き揚げてきた第一陣が近隣の房に吸い込まれて行くたびにくぐもった悲鳴と何かを殴り付ける鈍い音が連続する、中で何が行われてるか想像したくもない。しゃぶらせてぶちこんでタマを軽くしにやってきた囚人が快楽にうめく声がもれてくる、スプリングが壊れそうに軋む音に重なるのは乱暴にケツを揺さぶられて裂けた肛門から血を滴らせるガキの悲鳴。
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいゆるしてください、だって苦しくて、喉が」
「言い訳すんな」
一回、二回、三回。おそらくはこぶしで力一杯顔面を殴り付けているのだろう鈍い音が耳底にこびりついて心臓が縮む。廊下を挟んで聞こえてきた嗚咽はけっして他人事じゃない、あと何十分後、いやあと何分後かには俺の身にも迫ってる切実な危機だ。
「お袋、おふくろお」
「凛々……」
「こんなのやだ、こんなのやだ」
「うそだうそだうそだ俺が犯られるなんてうそだ、俺は娑婆にでて女を抱くんだ抱いて抱いて抱きまくるんだそれだけがたのしみで生きてきたのに!」
哀願嗚咽呪詛罵倒、狂気の渦に呑まれかけながら必死に耐えていると隣の房でガラスが割れ砕ける音。
「鍵屋崎?」
耳から手を放し顔を上げる。ガラスが割れ砕ける音は鍵屋崎の房からだ、何がおきたんだ?ガラスの破片が床一面にぶちまかれるかん高い音に続いて降り注いだのは扉を殴る音音音。
「無駄な抵抗はやめてドアを開けろ!」
「いつまで客待たせんだよ、娼夫のくせに生意気だな」
「ドアの前に客がきてるぞ。いさぎよく腹を括ったらどうだ」
台詞の断片から察するに鍵屋崎は内側から房を封鎖して閉じこもっているらしい。あの鍵屋崎が、いつでも冷静沈着な鍵屋崎がそんな無茶やらかすなんてと膝立ちの姿勢で呆然と扉を見つめてたがハッと我に返る。間断なく鼓膜を打つ水音に顔を上げれば壁の上方に設けられた通気口が目にとびこんでくる。
はじかれたように起き上がり、シーツを蹴って通気口の下に駆け付ける。
あとちょっとのところで鉄格子に手が届かないもどかしい現実に歯噛みしながら吠えるように叫ぶ。
「鍵屋崎どうしたんだよ、なにか言えよ」
水音を打ち消す沈黙に急激に不安が募る。不吉な予感に胸締め付けられ壁に拳を打ち付ける。
「おい!!」
分厚い壁にさえぎられて隣の房の様子はわからない、鍵屋崎の身になにが起きてるのかも。わからないから余計に不安になる、返事がないから余計に悪い想像がふくらむ。なにか答えてくれ、お願いだから俺を一人にしないでくれと狂気と紙一量の危機感に駆り立てられて壁を叩いていると扉がぶち破られる轟音と衝撃が拳に伝わる。
隣接した房に慌しい足音が踏み込んでくる、床一面の水たまりをはね散らかして乱入した看守の息遣いまで手にとるようにわかる。通気口の真下の壁に耳をくっつけて息を殺していると隣部屋の様子がまざまざと伝わってくる、扉が閉まり看守が出て行く気配、そして。
だれかが入ってきた。
だれか……わからない。顔は見えない、わかるのは客だということ。鍵屋崎を買いに来た客。肋骨が粉砕されそうに心臓の鼓動が高鳴り喉が乾く。扉が閉まり外側から錠がかけられ完全に密室となった房で鍵屋崎がじりじりと追いつめられてゆく。
なぶり者。
背中を壁に密着させ移動する鍵屋崎。スニーカーの踵が水たまりに突っこんで水滴をはね散らかし、いつ襲いかかってくるかわからない客から壁を手探りしてのろのろあとじさるじれったい光景まで脳裏に浮かぶ。
鼓動が完全に壁と同化した。耳裏で鳴り響く鼓動は自分のものか、壁自体が脈打ってるせいかわからない。聴覚を研ぎ澄まして鍵屋崎の息遣いを拾い上げる、顔の見えない相手の足音を拾い上げる。
突然だった。
均衡が崩れ、小さな悲鳴があがる。何がおきたのかわからない、わからないが鍵屋崎の身に何かが起きたのだけは確かだ。きっとそれは最悪な何か、俺が予想したとおりのこと。
「………………、」
くぐもった声が通気口からもれてくる。鍵屋崎ともうひとりの話し声、息を乱して言い争う声に混じるのは赤裸々な衣擦れの音。いやだ、想像したくない、聞きたくねえ。はやくはやく一刻もはやく通気口からはなれろと脳裏で警鐘が鳴り響いてるのに足が棒のように硬直して一歩も動けない、距離をとることすらできない。鍵屋崎の身にふりかかったのは遠からず俺の身にも起きること、俺が先延ばししようと足掻いて足掻いて足掻きまくっている救いのない現実。いやだ、鍵屋崎が犯されるとこなんて見たくない聞きたくない知りたくないと全身で拒絶してるのに五感は全開で通気口から降ってきたどんな小さな物音にでも電流を通されたように反応してしまう。
金縛りになったように無力に通気口を見上げるしかない俺の脳裏で荒れ狂っているのはここ数日間のいろいろなこと、その殆どがとるにたらないくだらないこと、俺がいつのまにかすっかり馴染んじまった東京プリズンの日常。
顔を洗った水が冷たかった冬が来たレイジの幸せそうな寝顔むかつくコイツは寝相が悪い風邪ひいちまわないか心配まずい朝飯まずい味噌汁ああ肉粽が食いてえ強制労働つらいしんどいいつまで続けりゃいいんだこんなこと水が出たまさか信じられないこんなことって。
希望。
これが希望?
鍵屋崎の言葉『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』むずかしいことはわからないこいつはいつもむずかしことばかりいう屁理屈ばかりいう素直に喜べばいいのに。タジマだ煙草の火だ怖い怖い火は熱い痛い脇腹の火傷『その子面白いでしょう、泣かないのよ』お袋の声眠そうだいつの?
『頑張ったな』
ああ、これは。
これはレイジの声だ。奴にしちゃストレートで飾りけないねぎらいの言葉。あいつは笑ってた、笑っていた。水源を掘り当てたのはあいつじゃないのに俺のことを自分のことのように喜んでた嬉しがってた祝福してくれた。
「………がんばったよ」
鍵屋崎の声に耳をふさぎたいのに手が言うこをきかない、衣擦れの音に耳をふさぎたいのに手が痺れたように動かない。むなしく通気口を仰ぎ見ながら唇を動かす。レイジはもう「がんばったな」なんて言ってくれない、褒め言葉なんかけちゃくれない。もっと素直になっときゃよかった、「謝謝」でも言っときゃよかった。んなこと言ったらあいつはまたひとのことガキ扱いしてなれなれしく頭撫でてきてそうなりゃたぶん確実にぶん殴ってたけど。
あれが最後になるなんて、思わなかった。
あんな別れ方、するんじゃなかった。
駄々をこねるように壁を叩いていた拳から力が抜けてゆく。額を壁に預け、顔を俯ける。
「がんばってるよ、おれ。がんばってるけど、どうしようもねえよ」
壁一枚挟んだ隣の部屋で鍵屋崎がヤられそうになってるのに指くわえてみてるしかないなんて、通気口から生々しい衣擦れの音や肌をまさぐられて強引に追い上げられる息遣いや噛み殺したような苦鳴まで聞こえてくるのに手も足もでずに見過ごしてるしかないなんて。
レイジならこんなときどうする?
決まってる。
俺があっというような胸がすく行動にでるはずだ、あいつはでたらめに強いから回れ右して房から出てって隣にとびこんで汚いケツむきだして鍵屋崎に覆い被さってるガキをひっぺがすくらいなんでもないはずだ、息も乱さずやってのけるはずだ。
俺が胸糞悪くなるほど見慣れた無敵の笑顔を浮かべて。
でも俺はレイジじゃない、レイジほど強くない。鍵屋崎がこれからどうなるかわかってるのにいやというほどわかってるのに勇気がなくて行動できない、度胸が足りなくて助けに行けない。
俺は腰抜けだから、鍵屋崎を助けに行けない。
自分かわいさに鍵屋崎を見捨てようとしてる、アイツの悲鳴に耳をふさぎ目をそむけ無視をきめこもうとしている。
最低だ。
最低の人間だ。
「…………っ、」
壁にすがりつき、惰性の動作で拳を叩きつける。よわよわしく壁を打った拳から伝わってきたのは強固に拒絶的なコンクリートの固さ。今すぐにでも房をとびだしたいのが本音だがそれからどうなる?看守をふりきって隣にとびこんで鍵屋崎を助ける?無茶だ、そんなことできっこない。俺は俺がおかれた立場がよくわかってる、後にも先にも逃げ場がないことがよくわかってる。俺は看守を殴り倒せるほど強くない、鍵屋崎を犯そうとしてるガキを易々ひっぺがせる自信がない。
その時だ、命令調の声が響いたのは。
―『耳朶閉!!』―
耳をふさげ。
「!」
戦慄が走った。
微動だにせずに立ち竦んだ俺の目に映るのは壁上部の通気口、今しがた通気口の闇を震わせて響いたのは聞き間違えようない鍵屋崎の声。……鍵屋崎の声?本当に?たしかに声質は鍵屋崎の物だ、でも違う、俺が知ってる鍵屋崎はいつでも冷静沈着でひとを小馬鹿にした態度で、たとえ何が起ころうが憎たらしいほど落ち着き払ってしれっと澄ましてて声をあげて笑ったことはおろか人前で怒りをあらわにしたことだって滅多にないのに。
腹の底から振り絞るような、喉に血が滲むようなこんな声、鍵屋崎の声とはおもえない。
それでも鍵屋崎の声で金縛りがとかれ、手首が言うことをきくようになった。言われたとおり手を掲げてぴたりと耳をふさぐ、何も聞こえないように背中を丸め壁面に額をつけてずりおちて―
絶叫。
耳をふさいでても何の役にも立たなかった。
麻酔なしで切開手術されてるような、気を失いたくても失えないほどの激痛に引き裂かれた絶叫が長く長く余韻を残す。鼓膜が割れそうだ。固く固く耳を閉ざす、もう何も聞かなくていいように鍵屋崎の悲鳴を聞かなくてすむように。力一杯耳を押さえ付けた手が震えだす。その震えは手首から肘、肘から肩にかけて広がっていき、しまいには全身がたがた震え出した。
固く固く固く目を閉じる。もう何も見ずにすむように、瞼の裏に浮かぶ鍵屋崎の顔を渦中に沈めて罪悪感を打ち消そうと。それでも絶叫は止まず指を食い破って執拗にねじこまれる、通気口を通ってきた絶叫が大気に染みこみ鼓膜に染みこみその余韻が完全に吸収されるのを待たず連続、苦痛を凝縮した叫びには余裕なんかこれっぽっちもなくていっそ気を失ってしまったほうがラクなのにつながった腰を手荒く掴まれ揺さぶられるせいで気が遠くなったそばから引き戻されて地獄に叩き落とされるその繰り返し。
拷問。
これは拷問だ。
腰が抜けて立ち上がれない。隣の部屋でどんなおぞましい行為が繰り広げらてるか想像したくもない、鍵屋崎がどんな目にあってるかなんて知りたくもない。でも声を聞けばわかる、わかってしまう。アイツがどんな辛い目にあってるか痛い思いをしてるかいっそ死んだほうがマシな地獄で足掻いてるか。痛いほど耳を押さえこんで尻で床を擦るように避難、少しでも通気口から離れようとみっともなくもがく俺の脳裏でぐるぐる渦巻いているのは現実に見た悪夢。
11の冬、お袋の身代わりにされてヤられかけた時の記憶。
『風邪ひいたお袋助けてえんだろ?やり方はお袋と男がヤッてるとこ見て知ってんだろ、ベッドで目え閉じて足開いてりゃいいんだよ、なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよお客様の機嫌を損ねねえようにな!あんな淫乱女を母親にもってんならヤり方くらいわかるだろ、娘じゃねえのが残念だが我慢してやる。お前くれえの年ならどっちにしろ処女にゃちがいねーしな!』
血走りぎらついた目、舌なめずりしそうな表情。がさがさに乾いた手が薄汚れたジャンパーを剥ぎ取りシャツの裾にもぐりこんで脇腹を揉みしだいて生臭く湿った吐息が顔をなでて―
いやだ。
男にヤられるのはいやだ。
お袋の二の舞はごめんだ。
鍵屋崎みたいに他の連中みたいに男にヤられるのはごめんだ絶対にごめんだ、まだ女だって一人っきゃ抱いてないのにこれから何人何十人という男に抱かれなきゃいけないなんて犯されなきゃなんねえなんていやだ、絶対にいやだ。
「くそっ、」
体当たりするようにベッドに突撃したのは気が狂ったからじゃない、俺は正気だ、泣きたくなるくらい正気だ。両腕を突っ張り足腰を踏ん張り渾身の力をこめてベッドを押す、ベッドの脚が床を擦る音が長く尾をひいてついてくるが知ったこっちゃない、歯を食いしばり何度もベッドに体当たりし肩で押し出すように前進する。重たい、腕がくじけそうだ。でもここでくじけたらおしまいだ、ここでくじけたら俺はこのベッドの上で男に強姦されるしかなくなる。肛門からの出血でシーツを赤く染めて泣き叫ぶようなみじめな末路はお断りだ、冗談じゃない。顔を真っ赤に充血させ腕に力をこめて押し出す、ベッドの脚が床をひきずる音がやけに空疎に響く。もうすぐ、もうすぐだ。額に滲んだ汗が目にすべりこんで視界がぼやける、ぼやけた視界の中央には歪曲した扉。扉を目指して遅遅とした行進を続けていた俺の背後から聞こえてきたのは、
嗚咽。
隣の房からの、嗚咽。
信じられなかった。
だって、信じられるはずがないじゃないか。隣の房から嗚咽が聞こえてくるなんて、まさかあの、あの鍵屋崎が。違う、本当は信じたくなかったんだ。だってあの鍵屋崎が、
『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
鍵屋崎。
『黙秘権を行使する』
鍵屋崎。
『これは他意のない仮定だが、身内に手紙を書くとき君なら何を書く?』
鍵屋崎。
『馬鹿は風邪をひかないという俗説が流布してるから大丈夫だろう』
鍵屋崎。あいつなりのひねくれたやり方で、俺を元気づけてくれたのに。
「……―っ、」
喉が詰まる。汗がすべりこんだ視界が歪み、霞む。俺は自分の身を守るだけで精一杯であいつを見捨てようとしてる、あいつの嗚咽に背中を向けてしらんぷりを決め込んでる。なんて卑怯でカッコ悪いんだ、なんで俺はこんなに弱くてみっともなくてかっこ悪いんだ。
ここにレイジがいたら、なんて言うだろう。
徹底的に弱くてカッコ悪い俺を笑うだろうか?犬みたいに息を切らしてベッドを移動させてる俺を指さして笑うだろうか?
鍵屋崎が泣いてる顔なんか想像できない。でも実際に通気口からは嗚咽が流れてくる、低くよわよわしい嗚咽が、完膚なきまでにいたぶられて辱められて体を引き裂かれる激痛に喉がすりへるまで絶叫して心が瀕死の状態で、無残に虚勢を剥ぎ取られて身も心もむきだしに晒された状態で泣いている。
これまで支えにしていたプライドを折り砕かれて、すがっていた物すべてを取り上げられて。
床を這うように低く低く流れていた嗚咽の間からかすかに聞こえてきたのは、声。
妹の名前を呼んでる。
助けを求めるように、すがるように。
辛くて苦しくてどうしようもなくて、身も心もばらばらになりそうで。
ああ……聞きたくない、こんな声聞きたくない。いつでも自信にあふれてひとを見下した態度で傲慢な物言いをする鍵屋崎のこんな声は聞きたくない、こんななさけない、救いのない声は聞きたくない。鍵屋崎だって聞かせたくないだろう、死ぬほどプライドが高いアイツのことだ、俺に泣き声を聴かれるくらいなら死んだほうがマシだと思ってるに決まってる。腕が自由になれば耳をふさいでせめて聞かないでいてやることができるのに今はそれさえもできない、ベッドを移動させるのに手一杯で。
廊下を近付いてくるのは足音。一直線に俺の房を目指してくる……客だ。やばい、間に合わない。
「ついてるぜ、おまえ。この房のガキはとびきりイキがいい」
「知ってるよ、半半だろう。おんなじ棟で顔も知ってる、あいつ目当てに来たんだから」
「噛み千切られないよう気をつけろよ」
「おっかねえなあ」
看守と連れ立って歩きながらガキがおどけたように肩をすくめてる図が目に浮かぶ。はやくはやくはやく……気が狂いそうに焦りながら押す、力任せに押し出す。鈍い震動が手首に伝わり扉を塞ぐかたちで入り口にベッドが衝突、と同時に外側で錠が上がる金属音。
「!?なんだ、何かつっかかって……クソガキなめた真似をっ!!」
「なんだなんだ」「どうした」と扉越しに声が交錯、廊下に足音が殺到。逆上した看守が三人がかりでノブを押したり引いたりするのに全力でベッドを押し付けて抵抗、扉に体当たりされる衝撃で舌を噛みそうになりながら必死に耐える。固く固く目を閉じて一刻も早く看守が扉から離れてくれるよう祈る、退散してくれるよう祈る。
「こんなことしても無駄だぞ、わかってんのか!」
「素直にヤられちまったほうがラクになるぜー。人間あきらめが肝心だあ」
扉に激突されるたびに強い震動が突き上げてきて腕が痺れる、もう限界だ―……
「やめろ!」
意外にも俺の窮地を救ったのはこの世でいちばん大嫌いな、俺が殺したいほど憎んでる男……タジマだ。騒ぎを聞き付けて廊下に駆け付けたタジマが同僚から事情を聞きだしてふんふん頷いてる気配。扉に阻まれて廊下の光景が見えない俺は漏れ聞こえてくる会話の断片から想像するしかない。
「どうしますタジマさん、強引に突破しますか。三人がかりならなんとか―……」
「いや、いい。俺に考えがある、お前らは持ち場に戻れ」
警棒を振って同僚を蹴散らしたタジマがじっと扉を見つめてる気配。頑丈な扉を隔ててはいても粘着質な視線が肌に注がれているのがわかるようだ、と、看守が無理矢理こじ開けようとした扉の隙間に目玉が覗く。
扉の隙間に片目を押し付けたタジマが黄色い歯を剥いて笑ってる。
「そうか、お前が意地でも貞操守りとおす気なら俺にも考えがある。一生そうやって閉じこもってろ」
扉の隙間から覗いた目に射竦められる。血走りぎらついた目、11歳の俺を腕づくで犯そうとした客と同じ飢えた光。
「便器もシャワーもベッドもあるスイートルームだ、居心地はけっして悪かねえはずだ。……が、飯はどうする?デリバリーサービスなんてやってねえぞ、この刑務所は。そうやってとじこもって飢え死ぬつもりか」
「………る、せえ」
うるせえよ変態野郎。
片頬がひきつり、唇が笑みの形に歪む。タジマに中指を突き立て宣戦布告。
「男にヤられるくらいなら飢えて死んだほうがマシだ」
タジマの顔に一瞬怒気が迸るが、それはすぐに生ぬるい笑みへと変じた。扉から身を起こしたタジマが靴音も高らかに去ってゆく。
「じゃあ、そうしろ」
遠ざかる靴音に安堵。タジマが去ったことで俺をその場に縛り付けていた威圧感が霧散し、床に尻餅をつく。
安堵はすぐに絶望へと変わる。タジマが言ったことが今頃になって頭に染みてきて目の前が真っ暗になる。ここに閉じこもって一歩も出ないつもりなら飯はどうする?客を寄せ付けない為の苦肉の策が裏目にでたことに頭を抱える。
一体どうすりゃいいんだ。
「レイジ……」
いつものように笑い飛ばしてくれ。
こんなの全然たいしたことねえって、どうにかなるって、お気楽に茶化して笑い飛ばしてくれ。
胸糞悪いけど、認めたくないけど、お前がいないとダメそうなんだ。もう、今度こそダメみたいなんだ。
いつのまにか嗚咽は止み、鼓膜に染み渡るような静寂が房に居座った。
強制労働から引き揚げたその足で真っ先にやってきた奴らが早い者勝ちで売春夫を犯している、肛門を裂かれる激痛になりふりかまわず泣き叫ぶガキの断末魔がひっきりなしに響き渡る。
ついにこの時がきてしまった。
こんなに早いなんて思わなかった、おれが呑気に居眠りしてるあいだに半日経ってしまったらしい。こんなのはまだ序の口だ、本当の地獄はこれからだ。強制労働から引き揚げてきた第一陣が近隣の房に吸い込まれて行くたびにくぐもった悲鳴と何かを殴り付ける鈍い音が連続する、中で何が行われてるか想像したくもない。しゃぶらせてぶちこんでタマを軽くしにやってきた囚人が快楽にうめく声がもれてくる、スプリングが壊れそうに軋む音に重なるのは乱暴にケツを揺さぶられて裂けた肛門から血を滴らせるガキの悲鳴。
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいゆるしてください、だって苦しくて、喉が」
「言い訳すんな」
一回、二回、三回。おそらくはこぶしで力一杯顔面を殴り付けているのだろう鈍い音が耳底にこびりついて心臓が縮む。廊下を挟んで聞こえてきた嗚咽はけっして他人事じゃない、あと何十分後、いやあと何分後かには俺の身にも迫ってる切実な危機だ。
「お袋、おふくろお」
「凛々……」
「こんなのやだ、こんなのやだ」
「うそだうそだうそだ俺が犯られるなんてうそだ、俺は娑婆にでて女を抱くんだ抱いて抱いて抱きまくるんだそれだけがたのしみで生きてきたのに!」
哀願嗚咽呪詛罵倒、狂気の渦に呑まれかけながら必死に耐えていると隣の房でガラスが割れ砕ける音。
「鍵屋崎?」
耳から手を放し顔を上げる。ガラスが割れ砕ける音は鍵屋崎の房からだ、何がおきたんだ?ガラスの破片が床一面にぶちまかれるかん高い音に続いて降り注いだのは扉を殴る音音音。
「無駄な抵抗はやめてドアを開けろ!」
「いつまで客待たせんだよ、娼夫のくせに生意気だな」
「ドアの前に客がきてるぞ。いさぎよく腹を括ったらどうだ」
台詞の断片から察するに鍵屋崎は内側から房を封鎖して閉じこもっているらしい。あの鍵屋崎が、いつでも冷静沈着な鍵屋崎がそんな無茶やらかすなんてと膝立ちの姿勢で呆然と扉を見つめてたがハッと我に返る。間断なく鼓膜を打つ水音に顔を上げれば壁の上方に設けられた通気口が目にとびこんでくる。
はじかれたように起き上がり、シーツを蹴って通気口の下に駆け付ける。
あとちょっとのところで鉄格子に手が届かないもどかしい現実に歯噛みしながら吠えるように叫ぶ。
「鍵屋崎どうしたんだよ、なにか言えよ」
水音を打ち消す沈黙に急激に不安が募る。不吉な予感に胸締め付けられ壁に拳を打ち付ける。
「おい!!」
分厚い壁にさえぎられて隣の房の様子はわからない、鍵屋崎の身になにが起きてるのかも。わからないから余計に不安になる、返事がないから余計に悪い想像がふくらむ。なにか答えてくれ、お願いだから俺を一人にしないでくれと狂気と紙一量の危機感に駆り立てられて壁を叩いていると扉がぶち破られる轟音と衝撃が拳に伝わる。
隣接した房に慌しい足音が踏み込んでくる、床一面の水たまりをはね散らかして乱入した看守の息遣いまで手にとるようにわかる。通気口の真下の壁に耳をくっつけて息を殺していると隣部屋の様子がまざまざと伝わってくる、扉が閉まり看守が出て行く気配、そして。
だれかが入ってきた。
だれか……わからない。顔は見えない、わかるのは客だということ。鍵屋崎を買いに来た客。肋骨が粉砕されそうに心臓の鼓動が高鳴り喉が乾く。扉が閉まり外側から錠がかけられ完全に密室となった房で鍵屋崎がじりじりと追いつめられてゆく。
なぶり者。
背中を壁に密着させ移動する鍵屋崎。スニーカーの踵が水たまりに突っこんで水滴をはね散らかし、いつ襲いかかってくるかわからない客から壁を手探りしてのろのろあとじさるじれったい光景まで脳裏に浮かぶ。
鼓動が完全に壁と同化した。耳裏で鳴り響く鼓動は自分のものか、壁自体が脈打ってるせいかわからない。聴覚を研ぎ澄まして鍵屋崎の息遣いを拾い上げる、顔の見えない相手の足音を拾い上げる。
突然だった。
均衡が崩れ、小さな悲鳴があがる。何がおきたのかわからない、わからないが鍵屋崎の身に何かが起きたのだけは確かだ。きっとそれは最悪な何か、俺が予想したとおりのこと。
「………………、」
くぐもった声が通気口からもれてくる。鍵屋崎ともうひとりの話し声、息を乱して言い争う声に混じるのは赤裸々な衣擦れの音。いやだ、想像したくない、聞きたくねえ。はやくはやく一刻もはやく通気口からはなれろと脳裏で警鐘が鳴り響いてるのに足が棒のように硬直して一歩も動けない、距離をとることすらできない。鍵屋崎の身にふりかかったのは遠からず俺の身にも起きること、俺が先延ばししようと足掻いて足掻いて足掻きまくっている救いのない現実。いやだ、鍵屋崎が犯されるとこなんて見たくない聞きたくない知りたくないと全身で拒絶してるのに五感は全開で通気口から降ってきたどんな小さな物音にでも電流を通されたように反応してしまう。
金縛りになったように無力に通気口を見上げるしかない俺の脳裏で荒れ狂っているのはここ数日間のいろいろなこと、その殆どがとるにたらないくだらないこと、俺がいつのまにかすっかり馴染んじまった東京プリズンの日常。
顔を洗った水が冷たかった冬が来たレイジの幸せそうな寝顔むかつくコイツは寝相が悪い風邪ひいちまわないか心配まずい朝飯まずい味噌汁ああ肉粽が食いてえ強制労働つらいしんどいいつまで続けりゃいいんだこんなこと水が出たまさか信じられないこんなことって。
希望。
これが希望?
鍵屋崎の言葉『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』むずかしいことはわからないこいつはいつもむずかしことばかりいう屁理屈ばかりいう素直に喜べばいいのに。タジマだ煙草の火だ怖い怖い火は熱い痛い脇腹の火傷『その子面白いでしょう、泣かないのよ』お袋の声眠そうだいつの?
『頑張ったな』
ああ、これは。
これはレイジの声だ。奴にしちゃストレートで飾りけないねぎらいの言葉。あいつは笑ってた、笑っていた。水源を掘り当てたのはあいつじゃないのに俺のことを自分のことのように喜んでた嬉しがってた祝福してくれた。
「………がんばったよ」
鍵屋崎の声に耳をふさぎたいのに手が言うこをきかない、衣擦れの音に耳をふさぎたいのに手が痺れたように動かない。むなしく通気口を仰ぎ見ながら唇を動かす。レイジはもう「がんばったな」なんて言ってくれない、褒め言葉なんかけちゃくれない。もっと素直になっときゃよかった、「謝謝」でも言っときゃよかった。んなこと言ったらあいつはまたひとのことガキ扱いしてなれなれしく頭撫でてきてそうなりゃたぶん確実にぶん殴ってたけど。
あれが最後になるなんて、思わなかった。
あんな別れ方、するんじゃなかった。
駄々をこねるように壁を叩いていた拳から力が抜けてゆく。額を壁に預け、顔を俯ける。
「がんばってるよ、おれ。がんばってるけど、どうしようもねえよ」
壁一枚挟んだ隣の部屋で鍵屋崎がヤられそうになってるのに指くわえてみてるしかないなんて、通気口から生々しい衣擦れの音や肌をまさぐられて強引に追い上げられる息遣いや噛み殺したような苦鳴まで聞こえてくるのに手も足もでずに見過ごしてるしかないなんて。
レイジならこんなときどうする?
決まってる。
俺があっというような胸がすく行動にでるはずだ、あいつはでたらめに強いから回れ右して房から出てって隣にとびこんで汚いケツむきだして鍵屋崎に覆い被さってるガキをひっぺがすくらいなんでもないはずだ、息も乱さずやってのけるはずだ。
俺が胸糞悪くなるほど見慣れた無敵の笑顔を浮かべて。
でも俺はレイジじゃない、レイジほど強くない。鍵屋崎がこれからどうなるかわかってるのにいやというほどわかってるのに勇気がなくて行動できない、度胸が足りなくて助けに行けない。
俺は腰抜けだから、鍵屋崎を助けに行けない。
自分かわいさに鍵屋崎を見捨てようとしてる、アイツの悲鳴に耳をふさぎ目をそむけ無視をきめこもうとしている。
最低だ。
最低の人間だ。
「…………っ、」
壁にすがりつき、惰性の動作で拳を叩きつける。よわよわしく壁を打った拳から伝わってきたのは強固に拒絶的なコンクリートの固さ。今すぐにでも房をとびだしたいのが本音だがそれからどうなる?看守をふりきって隣にとびこんで鍵屋崎を助ける?無茶だ、そんなことできっこない。俺は俺がおかれた立場がよくわかってる、後にも先にも逃げ場がないことがよくわかってる。俺は看守を殴り倒せるほど強くない、鍵屋崎を犯そうとしてるガキを易々ひっぺがせる自信がない。
その時だ、命令調の声が響いたのは。
―『耳朶閉!!』―
耳をふさげ。
「!」
戦慄が走った。
微動だにせずに立ち竦んだ俺の目に映るのは壁上部の通気口、今しがた通気口の闇を震わせて響いたのは聞き間違えようない鍵屋崎の声。……鍵屋崎の声?本当に?たしかに声質は鍵屋崎の物だ、でも違う、俺が知ってる鍵屋崎はいつでも冷静沈着でひとを小馬鹿にした態度で、たとえ何が起ころうが憎たらしいほど落ち着き払ってしれっと澄ましてて声をあげて笑ったことはおろか人前で怒りをあらわにしたことだって滅多にないのに。
腹の底から振り絞るような、喉に血が滲むようなこんな声、鍵屋崎の声とはおもえない。
それでも鍵屋崎の声で金縛りがとかれ、手首が言うことをきくようになった。言われたとおり手を掲げてぴたりと耳をふさぐ、何も聞こえないように背中を丸め壁面に額をつけてずりおちて―
絶叫。
耳をふさいでても何の役にも立たなかった。
麻酔なしで切開手術されてるような、気を失いたくても失えないほどの激痛に引き裂かれた絶叫が長く長く余韻を残す。鼓膜が割れそうだ。固く固く耳を閉ざす、もう何も聞かなくていいように鍵屋崎の悲鳴を聞かなくてすむように。力一杯耳を押さえ付けた手が震えだす。その震えは手首から肘、肘から肩にかけて広がっていき、しまいには全身がたがた震え出した。
固く固く固く目を閉じる。もう何も見ずにすむように、瞼の裏に浮かぶ鍵屋崎の顔を渦中に沈めて罪悪感を打ち消そうと。それでも絶叫は止まず指を食い破って執拗にねじこまれる、通気口を通ってきた絶叫が大気に染みこみ鼓膜に染みこみその余韻が完全に吸収されるのを待たず連続、苦痛を凝縮した叫びには余裕なんかこれっぽっちもなくていっそ気を失ってしまったほうがラクなのにつながった腰を手荒く掴まれ揺さぶられるせいで気が遠くなったそばから引き戻されて地獄に叩き落とされるその繰り返し。
拷問。
これは拷問だ。
腰が抜けて立ち上がれない。隣の部屋でどんなおぞましい行為が繰り広げらてるか想像したくもない、鍵屋崎がどんな目にあってるかなんて知りたくもない。でも声を聞けばわかる、わかってしまう。アイツがどんな辛い目にあってるか痛い思いをしてるかいっそ死んだほうがマシな地獄で足掻いてるか。痛いほど耳を押さえこんで尻で床を擦るように避難、少しでも通気口から離れようとみっともなくもがく俺の脳裏でぐるぐる渦巻いているのは現実に見た悪夢。
11の冬、お袋の身代わりにされてヤられかけた時の記憶。
『風邪ひいたお袋助けてえんだろ?やり方はお袋と男がヤッてるとこ見て知ってんだろ、ベッドで目え閉じて足開いてりゃいいんだよ、なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよお客様の機嫌を損ねねえようにな!あんな淫乱女を母親にもってんならヤり方くらいわかるだろ、娘じゃねえのが残念だが我慢してやる。お前くれえの年ならどっちにしろ処女にゃちがいねーしな!』
血走りぎらついた目、舌なめずりしそうな表情。がさがさに乾いた手が薄汚れたジャンパーを剥ぎ取りシャツの裾にもぐりこんで脇腹を揉みしだいて生臭く湿った吐息が顔をなでて―
いやだ。
男にヤられるのはいやだ。
お袋の二の舞はごめんだ。
鍵屋崎みたいに他の連中みたいに男にヤられるのはごめんだ絶対にごめんだ、まだ女だって一人っきゃ抱いてないのにこれから何人何十人という男に抱かれなきゃいけないなんて犯されなきゃなんねえなんていやだ、絶対にいやだ。
「くそっ、」
体当たりするようにベッドに突撃したのは気が狂ったからじゃない、俺は正気だ、泣きたくなるくらい正気だ。両腕を突っ張り足腰を踏ん張り渾身の力をこめてベッドを押す、ベッドの脚が床を擦る音が長く尾をひいてついてくるが知ったこっちゃない、歯を食いしばり何度もベッドに体当たりし肩で押し出すように前進する。重たい、腕がくじけそうだ。でもここでくじけたらおしまいだ、ここでくじけたら俺はこのベッドの上で男に強姦されるしかなくなる。肛門からの出血でシーツを赤く染めて泣き叫ぶようなみじめな末路はお断りだ、冗談じゃない。顔を真っ赤に充血させ腕に力をこめて押し出す、ベッドの脚が床をひきずる音がやけに空疎に響く。もうすぐ、もうすぐだ。額に滲んだ汗が目にすべりこんで視界がぼやける、ぼやけた視界の中央には歪曲した扉。扉を目指して遅遅とした行進を続けていた俺の背後から聞こえてきたのは、
嗚咽。
隣の房からの、嗚咽。
信じられなかった。
だって、信じられるはずがないじゃないか。隣の房から嗚咽が聞こえてくるなんて、まさかあの、あの鍵屋崎が。違う、本当は信じたくなかったんだ。だってあの鍵屋崎が、
『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
鍵屋崎。
『黙秘権を行使する』
鍵屋崎。
『これは他意のない仮定だが、身内に手紙を書くとき君なら何を書く?』
鍵屋崎。
『馬鹿は風邪をひかないという俗説が流布してるから大丈夫だろう』
鍵屋崎。あいつなりのひねくれたやり方で、俺を元気づけてくれたのに。
「……―っ、」
喉が詰まる。汗がすべりこんだ視界が歪み、霞む。俺は自分の身を守るだけで精一杯であいつを見捨てようとしてる、あいつの嗚咽に背中を向けてしらんぷりを決め込んでる。なんて卑怯でカッコ悪いんだ、なんで俺はこんなに弱くてみっともなくてかっこ悪いんだ。
ここにレイジがいたら、なんて言うだろう。
徹底的に弱くてカッコ悪い俺を笑うだろうか?犬みたいに息を切らしてベッドを移動させてる俺を指さして笑うだろうか?
鍵屋崎が泣いてる顔なんか想像できない。でも実際に通気口からは嗚咽が流れてくる、低くよわよわしい嗚咽が、完膚なきまでにいたぶられて辱められて体を引き裂かれる激痛に喉がすりへるまで絶叫して心が瀕死の状態で、無残に虚勢を剥ぎ取られて身も心もむきだしに晒された状態で泣いている。
これまで支えにしていたプライドを折り砕かれて、すがっていた物すべてを取り上げられて。
床を這うように低く低く流れていた嗚咽の間からかすかに聞こえてきたのは、声。
妹の名前を呼んでる。
助けを求めるように、すがるように。
辛くて苦しくてどうしようもなくて、身も心もばらばらになりそうで。
ああ……聞きたくない、こんな声聞きたくない。いつでも自信にあふれてひとを見下した態度で傲慢な物言いをする鍵屋崎のこんな声は聞きたくない、こんななさけない、救いのない声は聞きたくない。鍵屋崎だって聞かせたくないだろう、死ぬほどプライドが高いアイツのことだ、俺に泣き声を聴かれるくらいなら死んだほうがマシだと思ってるに決まってる。腕が自由になれば耳をふさいでせめて聞かないでいてやることができるのに今はそれさえもできない、ベッドを移動させるのに手一杯で。
廊下を近付いてくるのは足音。一直線に俺の房を目指してくる……客だ。やばい、間に合わない。
「ついてるぜ、おまえ。この房のガキはとびきりイキがいい」
「知ってるよ、半半だろう。おんなじ棟で顔も知ってる、あいつ目当てに来たんだから」
「噛み千切られないよう気をつけろよ」
「おっかねえなあ」
看守と連れ立って歩きながらガキがおどけたように肩をすくめてる図が目に浮かぶ。はやくはやくはやく……気が狂いそうに焦りながら押す、力任せに押し出す。鈍い震動が手首に伝わり扉を塞ぐかたちで入り口にベッドが衝突、と同時に外側で錠が上がる金属音。
「!?なんだ、何かつっかかって……クソガキなめた真似をっ!!」
「なんだなんだ」「どうした」と扉越しに声が交錯、廊下に足音が殺到。逆上した看守が三人がかりでノブを押したり引いたりするのに全力でベッドを押し付けて抵抗、扉に体当たりされる衝撃で舌を噛みそうになりながら必死に耐える。固く固く目を閉じて一刻も早く看守が扉から離れてくれるよう祈る、退散してくれるよう祈る。
「こんなことしても無駄だぞ、わかってんのか!」
「素直にヤられちまったほうがラクになるぜー。人間あきらめが肝心だあ」
扉に激突されるたびに強い震動が突き上げてきて腕が痺れる、もう限界だ―……
「やめろ!」
意外にも俺の窮地を救ったのはこの世でいちばん大嫌いな、俺が殺したいほど憎んでる男……タジマだ。騒ぎを聞き付けて廊下に駆け付けたタジマが同僚から事情を聞きだしてふんふん頷いてる気配。扉に阻まれて廊下の光景が見えない俺は漏れ聞こえてくる会話の断片から想像するしかない。
「どうしますタジマさん、強引に突破しますか。三人がかりならなんとか―……」
「いや、いい。俺に考えがある、お前らは持ち場に戻れ」
警棒を振って同僚を蹴散らしたタジマがじっと扉を見つめてる気配。頑丈な扉を隔ててはいても粘着質な視線が肌に注がれているのがわかるようだ、と、看守が無理矢理こじ開けようとした扉の隙間に目玉が覗く。
扉の隙間に片目を押し付けたタジマが黄色い歯を剥いて笑ってる。
「そうか、お前が意地でも貞操守りとおす気なら俺にも考えがある。一生そうやって閉じこもってろ」
扉の隙間から覗いた目に射竦められる。血走りぎらついた目、11歳の俺を腕づくで犯そうとした客と同じ飢えた光。
「便器もシャワーもベッドもあるスイートルームだ、居心地はけっして悪かねえはずだ。……が、飯はどうする?デリバリーサービスなんてやってねえぞ、この刑務所は。そうやってとじこもって飢え死ぬつもりか」
「………る、せえ」
うるせえよ変態野郎。
片頬がひきつり、唇が笑みの形に歪む。タジマに中指を突き立て宣戦布告。
「男にヤられるくらいなら飢えて死んだほうがマシだ」
タジマの顔に一瞬怒気が迸るが、それはすぐに生ぬるい笑みへと変じた。扉から身を起こしたタジマが靴音も高らかに去ってゆく。
「じゃあ、そうしろ」
遠ざかる靴音に安堵。タジマが去ったことで俺をその場に縛り付けていた威圧感が霧散し、床に尻餅をつく。
安堵はすぐに絶望へと変わる。タジマが言ったことが今頃になって頭に染みてきて目の前が真っ暗になる。ここに閉じこもって一歩も出ないつもりなら飯はどうする?客を寄せ付けない為の苦肉の策が裏目にでたことに頭を抱える。
一体どうすりゃいいんだ。
「レイジ……」
いつものように笑い飛ばしてくれ。
こんなの全然たいしたことねえって、どうにかなるって、お気楽に茶化して笑い飛ばしてくれ。
胸糞悪いけど、認めたくないけど、お前がいないとダメそうなんだ。もう、今度こそダメみたいなんだ。
いつのまにか嗚咽は止み、鼓膜に染み渡るような静寂が房に居座った。
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