少年プリズン

まさみ

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百三十一話

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 鉄扉を閉じる。
 房の中は暗かった。サムライは不在らしい。施錠する手間も惜しんで洗面台に直行する。鍵をかけないと危険だと本能が警鐘を鳴らしていたがそんなの今更だ。僕が今更どうなろうがかまわない、輪姦されようがリンチされようがどうでもいい。僕はこの五日間で地獄を見た、今更レイプされたところで構うものか。もっと酷い体験をしてもっと酷い苦痛だって味わった、既に蹂躙された体と心がさらに恥辱にまみれようが構いやしない。
 これ以上汚れようがないのだから。
 真っ暗闇の中を一直線に突き進んで洗面台に到達したのは裸電球を点ける手間を惜しんだからじゃない、裸電球の光に満ちた房の中で鏡の中の顔と向き合う自信がなかったからだ。洗面台の手前で立ち止まって蛇口を捻る。最初はよわよわしく、蛇口を緩めるごとに水量が多くなる。勢いよく迸った水の下に手を突っこんで手の甲に付着した返り血を洗う。
 リョウの血だ。
 爪の間まで念入りに手を洗いながら回想する。廊下でリョウに声をかけられた。無視して立ち去ろうとした。とてもじゃないが彼の相手ができる精神状態じゃなかった、今はだれとも関わり合いになりたくなかった。この頃酷く情緒不安定になってる、感情の振れ幅が大きくてほんの些細なことでも怒りを爆発させてしまう。だからなるべく人との関わり合いを避けて過ごしていたのに、食事だって人目を避けてひとりでとっていたのに……。

 『男にヤられてる時妹さんの顔思い浮かべた?』

 あの一言で、完全に理性を喪失してしまった。
 瞼の裏側によみがえるのはすべてを見透かすようなリョウの薄笑い。惠の、妹のことに触れられた途端それまで抑圧していた感情が堰を切ったように噴き上がって体内を席巻して気付いた時には僕の膝の下でリョウが頭から血を流してうめいていた。最初は自分がしたことが信じられなかった、まさかこの僕が、いついかなる時も冷静沈着で理性的な人間であろうと自らを律していたこの僕が我を忘れてリョウに殴りかかっただなんて。否定したかった、あんな安っぽい挑発に乗って取り乱してしまうなんて僕らしくもない、リョウなんて同レベルで怒るにも値しない下劣で低俗な人間だというのに。目の前の現実を全否定したくても出来なかった、手の甲にはべったりと返り血が付着していて眼下のリョウの顔が醜く崩れつつある。暴力をふるってる最中も後も爽快感は微塵もなかった、看守に取り押さえられてリョウから引き離された時は放心状態だった。廊下には点々と血が滴っていた、リョウのこめかみから滴った血、だらりと力なくさげた僕の拳から滴り落ちる血。

 手が汚い。

 早く洗いたいとそればかりを考えていた、早く房に帰って手を洗いたいと強迫観念に駈られて廊下を歩いた。房に辿り着いて洗面台に直行して蛇口を捻れば勢いよく水道水が迸る。蛇口の下に手を突っ込んで手を洗う、指の又の間も爪の間も先から先まで神経質に擦って洗って不純物を取り除く。手から流れた血が水に薄まり淡く溶けて渦を巻きながら排水口へと呑まれてゆく。二十回以上擦って洗って汚れを洗い落として、綺麗になった手を見下ろせば手の甲が薄赤く擦り剥けていた。力任せにリョウを殴った時に擦りむいたのだろう、人を殴るのに慣れてないと手の甲を擦りむくと聞いたことがある。
 『拳に怪我をしてるんじゃないか?』 
 五十嵐に聞かれたとき力を込めて否定したのにはわけがある。手の甲の擦り傷を医者に見せるよりも重大な理由。
 手首を見られたくなかったのだ。
 今は上着の袖で隠れているから人目に触れる心配はないがもし何かの折に袖がめくれたら、と考えると憂鬱になる。初日につけられた首筋の痣もようやく皮膚に馴染んで消えたといのに……
 「無意味だな」
 自嘲的に呟く。
 どうせ首筋の痣が消えたところでまたすぐ別の客につけられるのだから意味がない。売春班の就労開始から五日間、漸く体が慣れてきた。初日は歩行するのも困難で寝返りを打つ度に下肢を引き裂かれるような激痛に苛まれる有り様だったが、今ではなんとか独りで歩けるようになった。だからと言って痛くなくなったわけじゃない、今でも気を抜けば苦鳴をもらしてしまいそうに間接は軋んでいる。それでも壁を支えにして食堂に行けるようになったのは有り難い、いつまでもサムライの世話になってるわけにはいかない。
 この五日間、僕は首筋に痣をつけられるのを避けて必死に愛撫をかわしてきた。
 巧みに、とは言えないまでも不自然ではない程度に演技は成功したと思いたい。服で隠れる部分ならいい、サムライに知られることもない。だが首筋なら確実に知られてしまう、目に触れてしまう。彼の目に触れたらまた要らぬ詮索を招く、僕の身を案じるあまり腫れ物にさわるかのような接し方をされるのは鬱陶しい。服に隠れて見えない部分ならどうなってもかまわない、好きにしていい。腹部を殴られて青痣ができようが膝の裏側を強く吸われて発疹のような赤い斑点が生じようがどうでもいい。
 他人に弱味を見せるのはプライドが許さない。それが友人なら尚更だ。
 僕は不感症だが、感じてる演技をすることくらいはできる。客に愛撫されながら快感を感じるフリで首を傾げて唇を避ける演技も最近は上手くなった。僕が本当に感じてると勘違いした客に『敏感な体だな』と揶揄されたから。

 幸せな低脳どもだ。僕が本当に感じてるわけないじゃないか。

 蛇口を締め、水を止める。休憩時間はもうすぐ終了する。早く仕事場に戻らなければ看守に叱責される。自分のベッドに戻り、力なく腰掛ける。左のポケットから取り出したのは初日に支給されたコンドームの箱。長方形の箱を振ってみればからからと乾いた音が鳴る。中身が残り少ない証拠だ、今日あたり看守に言って補給してもらわなければ。同性とセックスする場合避妊の必要はないが性病感染の危機まで回避できたわけじゃない。娼夫を買いに来る客の中にはコンドームを面倒くさがる者が少なからずいて性病が蔓延してるのが現状だ。僕は毎回命がけで客にコンドームの着用を強要してる、他はどんなことをされてもこれだけは譲れない。

 同性に性病を伝染されるなんて冗談じゃない。

 殴られても罵られても主張を譲らずに睨み付けていれば、客の大半は不承不承コンドームを着用した。中には進んで着用する者もいた、売春班が性病の巣窟と化した実状を知ってる客だろう。娼夫に性病を伝染されてはたまらないと用心してるのだ。性病感染を疑われるのは非常に不本意だが僕にとっても有り難いので異議を唱えるのは慎んで大人しく抱かれてやった。まあ、『せっかく買いに来てやったのに客に指図する気か』と逆上し、最後まで着用を拒み続けた客もいる。僕もねばりにねばったのだがムキになりすぎて逆効果だったようだ、売春班に人権なんて認めてないその客は僕の目の前でコンドームを口の中につめこんだ。
 ガムみたいにくちゃくちゃ噛んだコンドームをペッと吐き捨て、黄色い歯を剥いて笑いながら言った言葉を忘れられない。

 『何で俺が売春班抱きに来るかわかるか?女とちがって避妊の手間省けるからだよ。売春班にはなから人権なんかねえんだ、お前ら男に組み敷かれて喘ぐしか能のないひよわな連中は俺の下で腰振ってりゃいんだよ、所詮女の代用品なんだから』 

 話が通じる客ばかりではない。話が通じない人間を相手に我を通すつもりならそれ相応の覚悟が要るが、どうにもならないことはある。行為を終えた直後に洗浄したから性病には感染してないと信じたいが、一週間に一度行われる検査の結果が出るまではわからない。
 「………」
 コンドームの箱を左ポケットに戻し、ふと右ポケットに目を転じる。先日五十嵐から渡されたメモは捨てるに忍びなくポケットに入れてある。実際、以前レイジから貰った便箋を引っ張り出して惠に手紙を書こうとしたがどうしても途中で挫折してしまう。
 惠に何を書いたらいいのかわからない。
 今現在僕がおかれた状態を知られたくない、僕が陥った境遇を知られたくない。当り障りのないことばかり書こうとして現実逃避の自己欺瞞に嫌気がさす。なにをやってるんだ僕は。僕から手紙が来ても恵は喜ばないのに、迷惑なだけなのに。
 ポケットに入ってるのは病院の住所を記したメモだけじゃない、書き損じの便箋も一緒に入ってる。どこに捨てたらいいのかわからなくて、なるべく人目に触れない所に捨てたくて決心がつかずに持ち歩いてる状態だ。ポケットに手を触れ、ふと違和感を感じる。ポケットに手を入れて探ってみたが何もない、中はからだ。

 笑いたくなった。 
 僕としたことがどこかで落としてしまったらしい。
 
 いや、どこで落としたか見当はつく。ついさっき、リョウに馬乗りになって拳を振るっていた廊下だ。はじかれるように立ち上がり現場に引き返そうとして、糸が切れたようなあっけなさでベッドに腰をおろす。

 メモがなんだ?手紙がなんだ?どうしたっていうんだ。
 なにもかもどうでもいい。

 掴んだと思ったそばから手をすり抜けてしまうのが希望の正体なら追いすがるのは虚しいだけだ。僕は幻影を見ていたんだ、希望の幻影を。パンドラの箱の底に残っているのは希望じゃない、希望を偽装した絶望だ。
 僕の手の中に残されたのは空虚な絶望、一掴みの闇だ。
 みっともなく足掻くのはやめた、疲れるだけだ。抵抗するのはやめた、殴られるだけだ。  
 抵抗する気力すら完全に失った今の僕にできるのは諦念して許容することだけだ、今の境遇を受け入れることだけだ。次の部署替えまで半年、はたして僕の体は、心は保つだろうか?わからない、自信はない。壊れるのは体が先か心が先か、それとも両方一緒に壊れるのだろうか。わからない。心にはもう亀裂が入ってる、ちょっとした衝撃で粉々に割れ砕けてしまいそうに危うく不安定な精神状態にあるのが自分でもわかる。体はどうだろう?今はまだ大丈夫でもこんな生活を続けていれば長くは保たない、じきに限界が来る。性病に感染したらどうなるんだろう、売春班から足を洗えるのだろうか。それとも、そんな状態でも客をとりつづけなければいけないのか。
 ほんの一瞬、脳裏をかすめた誘惑に苦笑したくなる。
 「……そうか。売春班から足を洗えるなら性病を伝染されてもいいかもしれないな」
 コンドームの箱を握り潰したい衝動に駆られ、指に力をこめる。握力にひしゃげたコンドームの箱を見下ろして急速に理性が戻る。箱を左ポケットに納め、腰を上げる。馬鹿なことをやってる暇はない、早く仕事場に戻らなければ。サムライと顔を合わせるのは避けたい―
 その時だ。
 錆びた軋り音をあげて扉が開き、鈍い響きを残してまた閉じる。暗闇に反響する震動、誰かが入ってくる気配。振り向かなくてもわかる。殆ど衣擦れの音をたてずに歩ける人間を僕はひとりしか知らない。
 遅かったか。もっと早く出ればよかった。
 「……帰っていたのか」
 「安心しろ、すぐ出ていくところだ」
 裸電球も点けない暗闇でサムライと対峙する。暗闇に慣れた目が対峙したサムライをとらえる。暗闇に沈んだ表情は相変わらず平淡で、どこか沈痛な面差しをしていた。サムライに背中を向けて鉄扉に歩きかけた瞬間、声が追ってくる。
 「つかぬことを聞くが」
 「なんだ」
 妙に堅苦しい聞き方をされ、律儀に答えてしまった事に苦い顔をした僕へと歩み寄り、毅然と顔を上げて述べる。
 「最近、明るい場所でお前の顔を見てない気がする。房はいつも暗闇で、お前は暗闇に独りきりだ」
 「それがなんだ?光合成してるわけじゃないんだ、明かりなんかなくても生きていけるだろう」
 突拍子もないことを言い出したサムライを心の中で嘲笑しながら、反射的に浮かび上がってきた辛辣な皮肉を口にする。
 「それにどうせ、ここは一条の光も射しこまない地獄の底なんだ。今まで僕を養育して知識を授けてくれた両親を殺害した挙句、最愛の妹を精神病院送りにしてしまう最低の人間に光を浴びる資格なんかないだろう。目の潰れたミミズみたいに地獄を這いずってるのがお似合いだ」
 口角が吊り上がり、醜い笑みが顔に浮かぶのが顔筋の収縮でわかる。サムライの目に今の僕はどう見えていることだろう。自虐的な台詞を吐いたことが俄かに恥ずかしくなり、視線の圧力に耐えられず顔を背ける。
 「こう見えて多忙な身なんだ。もう行くぞ」
 「待て」
 逃げるように立ち去りかけ、力強い声に背中を鞭打たれる。すぐ背後に迫ったサムライが固い声で告げてくる。
 「行くな」
 「止める気か?」
 声に嘲笑うような響きが宿るのを抑制できない。
 「じゃあ、力づくで止めてみせたらどうだ。君は刀を持っても持たなくても十分に強いんだから、毒舌を吐いて理屈をこねまわすしか能のない無力で非力な僕なんてあっというまに押さえ込めるだろう。大丈夫だ、押さえ込まれるのには慣れている。ああ、それとも……」
 危険な兆候だ。
 いつかと同じ、サムライを傷付けたいという残酷な衝動が沸いてきて理性の抑制が利かなくなっている。悪い冗談を口走ってる自覚はあるが止められない。何も知らないくせに、僕がどんな目にあってるかまるで知らないくせに無責任なことを言う。今目の前に立ってるこの男だって服を脱いだ僕を見たら愕然とするだろう、生理的嫌悪に圧倒されて目を背けてしまうだろう。本当の僕を知らないくせに無茶なことばかり言う、『行くな』と言われて行かずに済ませるものなら僕だってそうしたい。でもダメだ、不可能なんだ。

 もう後戻りはできない。

 暗闇の中、サムライと対峙した僕は何かに憑かれたように饒舌に続ける。
 「僕を独占したいか?僕に欲情してるのか?だから行かせたくないと強硬に主張して足止めしてるのか。それならそうと言えばいい、どうせ初めてじゃないんだ。同性を相手にするのにも多少は慣れたしお望みなら喘ぐ演技もしてみせる。仕事場に直接僕を買いに来る勇気がないならここで抱くか」
 「違う、」
 「違う?違うのか、なら紛らわしいことを言うな。僕は仕事に行くぞ」
 付き合いきれないと踵を返しかけた刹那、五指に手首を掴まれ引き戻される。節くれだった逞しい指……サムライの手だ。
 「行くなと言っている」
 「僕を行かせたくないなら相応の行動にでればいいじゃないか。発言に行動が伴わないなんてそれでも武士の端くれか」
 サムライの手を振り払おうとする、だが外れない。サムライの握力は強い、僕の手首を握って離さない。揉み合っているうちにはらりと袖口が落ち手首が露出する。鉄扉に設けられた格子窓から射した縞模様の光が暗闇を過ぎり、サムライに掴まれた手首を照らす。
 
 サムライが目を見開き、指から力が抜けてゆく。
 格子窓から射しこんだ光に照らされ、仄白く浮かび上がった手首には縄で縛られた痕。
 
 僕には言葉を失って立ち尽くすサムライを観察する余裕まであった。心は奇妙に冷静だった、彼にだけは見られたくなかったはずなのに今となってはどうでもよかった。もう全てが手遅れなのだ。
 サムライの手をふりほどき、緩慢な動作で手首をおろせば痕はすぐに隠れて見えなくなる。
 「引いたか?」
 サムライに聞く。無言。沈黙に逃げこんだサムライをひややかに一瞥し、ノブを捻る。
 「僕は不感症だから多少ひどくしてもかまわないんだそうだ」
 扉を閉ざす。
 後ろ手に扉を閉ざして廊下に立ち、格子窓に後頭部を押し付けて天井を仰ぐ。等間隔に蛍光灯が並んだ廊下に無力に立ち尽くすのにも飽き、中央棟目指して足早に歩き出す。
 もうどうでもいい。
 サムライに幻滅されようが、愛想を尽かされようがかまわない。
 僕と彼の道はここで分岐してこの先二度と交わることがないだろう。僕はもう以前の僕とは違ってしまった、体も心も汚れてしまった。
 僕はもうサムライの友人に相応しくない。彼の思い遣りは重荷でしかない。
 僕は鍵屋崎 直、IQ180の天才だ。親殺しの受刑者でブラックワーク二班の売春夫、家族は妹がひとりいる。いや、正確には過去形で『ひとりいた』と言うべきか。
 そして、友人がひとりいた。
 彼は僕が妹以外に認めた唯一の人間で、般若心境の読経と写経が趣味の変わった男で、剣の修行を欠かすことがない物好きな男で、とても未成年には見えない老け顔だが笑うと若く見えて、僕はその笑顔がまんざら嫌いでもなかったがとうとう本人に言う機会はなかった。
 彼は鍵屋崎 直の最初で最後の友人で、僕には勿体無いくらいいい奴で。
 たった今、別れを告げてきたところだ。 
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