少年プリズン

まさみ

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百四十話

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 今日はロンの声を聞いてない。

 普段は用がなくても通気口を介して話しかけてくるくせに今日は一言も声を発してない。どうしたことだろう。いや、彼が静かにしてるのは非常に都合がいい。彼が大人しくしてくれてれば読書がはかどる、待機中に読もうと借りてきた本を膝の上に広げてページをめくってみたが静か過ぎて気が散る、という予想外の事態に動揺する。
 まさか飢え死にしたわけじゃあるまい、レイジが食料をさしいれてるのだから。現に昨日だって僕に妙な気を遣って所望してもないのに缶詰をよこしてきたではないか、全く彼は頭が悪い、いや、頭が悪いというより間が抜けているのだろうか。缶きりもないのにどうやって缶詰を開けろというんだ?いくら僕が不可能を可能にする天才だからって握力は常人の域をでない、というか平均以下の体たらくなのだ。缶きりもなしに缶詰を開けられるような器用な芸当ができれば苦労しない。
 通気口を介してロンから渡された缶詰は処置に困った結果、仕事場の床に転がしてある。もともと僕は甘い物が好きじゃないし缶詰は口に合わない、鉄格子の隙間から転がしてロンに突き返そうにもそうするだけの体力も残ってない。今の僕には鉄格子に手をかけて缶詰を転がすのさえ骨が折れる重労働なのだ、これ以上余計な体力は使いたくない。はっきり言おう、ロンの行為はありがた迷惑だ。僕は先日言ったはずだ、僕達に同情なんかせずに自分の信念を貫けと。それなのにロンはまだ迷いを吹っ切れないでいるらしい、昨日、食料を携えたレイジが隣の房を訪ねてきたときに漏れ聞こえてきた会話から推測したがロンは現在進行形で僕達を見殺しにしてる事実にくだらない罪悪感を募らせてるらしい。

 これだから凡人は困る。自分の利益を最優先に考えるのは人間の基本方針じゃないか。

 自己保身は生存欲求の根幹を成す感情だ、自分の身を守る為に他人を犠牲にしたからといってつまらない罪悪感にさいなまれるのは愚の骨頂だ。人間は常に自分の利益を第一に考える生き物だ、自分の身の安全さえ保証されてない極限状況下で他人を構えるほどには器用になりきれないのが現実だ。ロンは特に不器用だから他人のことを気にしてるあいだに自分にまで危険が及んでしまう、彼はお節介で心配性で物好きで、イエローワークの強制労働中も同じ班の人間から度々いやがらせを受けてた僕を助けてくれた。自分には何の利益もないにも関わらず、何故友人でもない僕の為に労を惜しまずに介入することができるのか理解に苦しむ。

 でも、それがロンの性質なら仕方がない。

 断っておくが僕はロンに感謝してるわけでは全くない。事実ロンに礼を述べたことは一度もない、言う必要などないし本人にも強要されたことはない。ただ、ロンの仲裁で僕が救われた事実は認めなければらない。 
 他の連中が何を言おうが、毎日のように男に犯されてる鬱屈を立場の弱いロンにぶつけることで晴らしてる惰弱な連中がどんな理不尽な言いがかりをつけたとしてもロンが自責の念に苛まれる義務などないと僕は断言する。
 ロンに僕達全員を救い出すのは不可能だ。彼はそこまで強くもなければ万能でもない、ただの少年だ。僕より身長も低ければ頭も悪い、まだ十三歳の少年だ。そんな彼が僕達の痛みや苦しみまで全部背負う必要はない、抱えこむ義務はない。僕達の痛みは僕達一人一人が引き受けなければならない種類のものだ、他人に気安く責任転嫁できる類のものではない。ただ黙って僕達の悲鳴や嗚咽を聞いてることしかできなくてもロンが責任を感じることはない、その無力は罪じゃない、不可抗力なのだ。
 
 僕は自身の無力を容認できないが、ロンの無力は許容されて然るべきものだ。 

 ロンは凡人だからそれでいい、凡人は凡人らしく自分の無力に甘んじていればいい。何もかもを抱え込んで苦しんだりせず、痛みを共有できる人間が身近にいるならその人間を頼るべきだ。生き残る為に利用するべきなのだ。
 だが、僕はそれができない。僕は天才だから他人に頼ることは許されない、僕がもし他人に頼ってすがってしまったらこの頭脳は何の意味も成さなくなる、僕は誰もが認める天才としてこの世に生を受けたのに今現在僕を僕たらしめてる矜持を否定したら後に何が残るのだ?
 惠。
 いや……違う、惠はもういないんだ。僕にはもう誰もいないんだ。何を言ってるんだ、何をまだ期待してるんだ。いい加減未練を捨てろ、情けない。僕が恵のことを考えるたびに、辛い時に惠を呼ぶたびに惠が汚れてゆくのがわからないのか?僕はもう惠の名前を呼んではいけない、口に出してはおろか心の中でも呼んではいけないのだ。僕に名前を呼ばれたら惠が汚れる、汚してしまう。僕はこの口で何をした?この七日間何人の男の物を含まされてきた?いやだ、答えたくない、記憶を反芻したくない。
 『君に呼び捨てられたら恵が汚れる』
 いつだったか、僕はレイジにそう言った。あの言葉がそっくり今の自分に跳ね返ってくる。僕は惠が好きだ、今でもいちばん大事な人間であることに変わりない。惠、僕の生きる意味、最愛の妹、庇護の対象、守りたい存在。
 かけがえのない大事な人。東京プリズンで僕を生き延びさせる原動力。
 だからもう、名前を呼べない。呼んではいけない。何度もそう言い聞かせてきたのにシャワーに打たれて頭が朦朧としてるときや男に犯されてる最中に脳裏をかすめるのは惠の顔で、舌はかってに惠の名前を紡ごうとする。 
 僕は惠が好きだ。惠の名前が好きだ。
 惠。恵まれる。いつだったか惠は言った、自分の名前は両親に愛されてる証拠だと誇らしげな笑顔を湛えて。僕は惠を汚したくない、惠の思い出まで汚したくない。惠が大事にしてるものを汚したくない、そんなことしたら惠をますます哀しませてしまう、もうこれ以上惠を哀しませるのはいやなのに泣かせるのはいやなのに。
 自分の名前でさえ好きになれなかった僕が妹の名前には好感を抱いていたなんておかしな話だ。
 どのみち両親から貰った名前を捨てた僕に、こんなことを言う資格はないのに。
  
 物思いに耽りながら本のページをめくれば手首を取り巻いた鮮やかな鬱血痕が目にとまる。一日を経て青黒く変色した痛々しい痣に、今ではもう何の感慨も抱かない。もう見慣れてしまったのだ、痣には。どうせ東棟には寝に帰るだけでサムライに気付かれるおそれはない、サムライはあの日から、僕の手首を見たあの日から僕をよそよそしく避けてる節がある。
 それでいいんだ。
 それが賢い選択だ。
 彼はもう僕の友人じゃない、もともと契約を交わしたわけではない。形の無い物を解消するのに煩雑な手続きはいらない、本人の気持次第だ。彼がもう僕のことを友人だと思っていないのならここ数日間僕を避け続けてるのも頷ける、いや、僕からサムライを遠ざけるような真似をしておいて彼に非を負わせるのは間違っている。サムライは悪くない、原因があるとしたら僕だ、僕の心の問題なのだ。
 僕が悪いんだ、すべて。
 僕が両親を殺害したせいで惠は精神に変調をきたして精神病院に収容されて、サムライは不器用な好意を同情だと決め付けられ拒絶されたことで傷ついていた。今でも僕はわからない、同情と心配の違いが。サムライは僕に同情してやさしくしてくれたのか?僕に同情して食堂から食事を運んでくれたのか?
 でも、もし彼が上から人を見下すように同情していたのなら、何故ああも僕の酷い言葉に耐えてくれたんだ?
 ……馬鹿な、いまさらこんなことを考えてどうする。目の前の本に集中しろ、活字を頭に詰めこめ、無心にページをめくれ。サムライのことは忘れるんだ、もう友人ではなくなった男のことなど思考野から消去するんだ。僕にはもともと恵しかいなかった、今ではその惠もいなくなった、僕は最初からひとりで、羊水のぬくもりを知らずに試験管で育ったから、無意識の海を茫洋と漂ってる胎児の頃から孤独を運命付けられていたのだから、一時の気の迷いで友人かもしれないと錯覚した男がいまさらいなくなったからってだからどうした?全然ショックなんかじゃない、精神的打撃なんか受けてない。 
 僕は他人によりかかなければ歩けないほど弱い人間じゃない、プライドの背骨があれば人は独りでも生きていけるんだ。
 そういえば、写経するサムライの背は惚れ惚れするくらいにしゃんとのびていた。彼は本当に姿勢がよかった、幼少期から相当厳しく躾られてきたんだろう、決して背中を丸めることなく姿勢を崩すことなく、食堂の椅子に腰掛けるときも僕の隣を歩くときも端然と… 
 「……思い出してどうするんだ」
 全然読書に集中できない。おかしい、こんなの僕らしくない、異常事態だ。ロンの声は相変わらず聞こえてこない、通気口から聞こえてくるのは売春班の囚人の喘ぎ声ばかり。みっともない。そして僕も、男にのしかかられて貫かれてるときはおなじみっともない声で喘いでるんだ。死ぬ気で声を殺しても漏れてしまうのは防げない、いっそ喉を潰してしまいたい、声帯を切除してしまいたい。そうしたらもう声を聞かれずにすむ、こんなみじめな思いはせずにすむ。二度と惠の名前を呼ぶことはなくなる、惠を汚すことはなくなる。
 次に惠の名前を呼んでしまったらもう、危うい均衡でどうにか保たれていた僕の精神は崩壊してしまう。
 唐突に笑いの発作がこみあげてきて、片手で額を支え、俯く。
 「七日が限界か。意外と保たなかったな」

 その時だ、扉が開いたのは。

 「!」
 反射的に顔をあげる。乱暴に扉を閉じた客が大股にこちらにやってくる。前に見たことがある客だ、以前『また来てやるよ』と宣言して去っていった客だ。名前は知らない。知る必要もない。彼らがここに足を運ぶ目的はひとつだけだ、僕らを性欲解消の玩具としか認識してない彼らが自己紹介などするはずがない。
 「また来てやったぜ」
 見ればわかることを言うな。
 という言葉が喉まで出かけ、ぐっと飲み込む。コンドームを着用しない点を除けばこの客はそうタチが悪くない、無抵抗に徹していれば足腰立たないほど痛めつけられることもないだろう。そう楽観して表紙を閉じ、本をどける。客に背を向けて上着の裾に手をかけ、
 「脱ぐなよ。脱がすほうが好きなんだよ、俺は」
 「……」
 手を放す。売春夫に拒否権はない、従うしかないだろう。名前も知らない客の言うなりにベッドに仰臥すれば早速上に覆い被さってくる。首筋に痣がつかないよう首を振って抵抗するのはもうやめた、サムライに見られてもかまわない、彼は手首の痣を目撃したのだから既に僕がどういう扱いを受けてるかは察したはずだ。シャツの裾にもぐりこんだ手が蛇が這うように脇腹を揉みしだき、首筋に執拗なキスをされる。唇の感触が気持ち悪い。生温かく柔らかく湿っていて不快極まりない、吐き気がする。ズボンの裾にもぐりこんだ手が太腿の内側で淫猥にうごめく……
 そうだ、忘れていた。
 「眼鏡を外させてくれないか?」
 理性的な声音で申し出たつもりが、吐息が上擦ってしまった。僕の腰を抱え上げ、今まさにズボンをひきずりおろそうとしてた客が不快げに眉をひそめる。
 「これが済んだらな。今手えはなせねーんだよ」
 「手間はとらせない。すぐに済む」
 「客を優先しろ」
 「眼鏡を優先する」
 「―あんだと?」
 「万一眼鏡が壊れたらどうしてくれるんだ、君が弁償してくれるのか?ここは刑務所だ、眼鏡ひとつ修理に出すのも大変なんだ。へたしたら一生直らないかもしれない、僕は眼鏡なしで余生を過ごさなければならないかもしれない。冗談じゃない、眼鏡がなくなれば本が読めなくなる、刑務所での唯一の娯楽がなくなる。僕はまだ冷血の下巻を読んでないんだ、あと三回再読するまで眼鏡を壊されては困る」
 それにまだブラックジャックも全巻読破してない。
 僕の膝を抱えた客が険しい形相になるのを無視し、断固として主張する。
 「性欲に狂った低脳、たとえば君のような人間には理解できないだろうが僕にとって眼鏡は日常生活で欠かすことのできない必需品でもはや体の一部だ。そんな大事な眼鏡をこんなくだらないことで壊して失うのはお断りだ、二度と本が読めなくなるじゃないか。わかったか?わかったらさっさとその汚い手をどけてくれ、稚拙な前戯に感じてる演技をするのも疲れるんだ」
 後半は殆ど自棄になっていた、たぶんもう壊れ始めているのだろう。
 僕の上に跨った客の表情が不審から憤怒へと変貌し、険悪な形相に豹変。
 かん高く、乾いた音が鳴る。
 頬をぶたれて視界がぶれる。いや、視界がぶれたのは眼鏡が床にはじけ飛んだからだ。床に落下した眼鏡がかちゃんと音をたてる、壊れてないか心配だ、弦は曲がっていないだろうか? 
 「外してやったぜ」
 眼鏡よりも自分の身を心配すべきだと頭ではわかっているのに全力で現実逃避してるせいで実感が追いつかない、ああ、またこの感覚だ。擬似幽体離脱ともいえる感覚に全身が支配されて四肢が虚脱、熱をもって疼きだした頬の激痛も下肢から押し寄せた熱に飲まれてやがて気にならなくなる。もう殆ど痛みはない、この六日間でずいぶん慣れたのだ。いや、正確には「慣らされた」と言うべきか?朦朧と痺れてきた頭で漠然と考える、僕は不感症だから何をされても感じない、感じたりしない。痛くない辛くない苦しくない哀しくない。そうだ、それでいい、それが正しいんだ。やればできるじゃないか鍵屋崎 直、さすがは天才だ。男に犯されて喘ぐような醜態を晒すのは一度でたくさんだ、もし声をもらしてしまいそうなら奥歯を噛み締めろ、頭の中で円周率を唱えて気を逸らせ。
 3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971……
 「反応薄くてつまんねえ体だな」
 ぶっきらぼうな呟きに薄目を開ける。僕の腰を揺さぶりながら、白けたように客が言う。
 「不感症てどんなもんか試してみたかったけど本当になにされても感じねえんだな。耳朶噛んだらちょっとは反応よくなったけど七日も客とりつづけて慣れちまったのか?せっかく甘噛みしてやっても声もらさねえじゃん」
 「だ、れが、耳朶を噛めと頼んだ?」
 声が上擦りそうになり、懸命に自制する。反論するな、反論すれば殴られるぞと理性が警報を発してるが舌が止まらない。僕はこの七日間何をされても耐え続けてきたんだ、心を殺して自分を殺して何でも従順に受け入れてきた。
 七日も耐えたんだから、ひとつくらい逆らっても罰は当たらないだろう。
 「耳朶噛まれるの好きだろう、お前。やさしく噛まれるのが好きなんだよな?耳の穴に舌入れられるのも好きだろう、もうたまんねえって顔してたもんな」
 僕は勘違いしていた、彼は優しい客などではなかった。
 今にも達しそうに息を喘がせた客が好き勝手なことをうそぶくのを仰向けに眺めながら、口角が歪むのを自覚する。
 眼鏡をしてないせいで自分を犯してる客が見えないのが唯一の救いだ。いや、正確には客の瞳に映る自分の顔が見えないのが。
 今の僕はきっと、おそろしく醜い笑顔を浮かべているだろうから。
 「その程度で僕が満足するとでも思ったか」 
 腰の動きがぴたりと止まる。自慢の愛撫を「その程度」と酷評されたことにショックと憤りを隠しきれない客を冷ややかに見上げ、頭を働かせる。こういう時はなんて言えばいいんだろう、なんて言えばこの自信過剰な低脳を完膚なきまでに打ちのめすことができるだろう?ああ、そうだ。いい台詞があったな。
 売春班配属になって、初めてこの言葉の実用的な使い方を知った。感謝しなければ。
 ベッドに仰臥し、薄く笑みを浮かべ、僕の腰に跨って茫然自失した客を仰ぎ見る。
 「思い上がるなよ、早漏」
 「……そうか、まだ満足できねえか。でもな、それは俺が早漏だからじゃなくておまえが不感症だからだよ」
 殴られると諦観して目を閉じたが、予期していた衝撃はいつまでたっても訪れない。衣擦れの音に違和感を開けて薄目を開ければ歪んだ視界に映ったのは……
 針。
 注射針の先端。
 僕の眼球3センチの距離に注射針の先端が浮かんでいる。鋭く尖った注射針のむこう、ポケットに隠し持っていたのだろう注射器を握り締めた少年が醜い顔で笑っている。
 「なにをする気だ?」
 声が震えた。注射針から目を逸らせない……腰に跨がられたこの体勢では逸らすことなど不可能だ。見せつけるように注射器を翳し、絶体絶命の恐怖に歪む僕の顔をにやにや観察しながら少年がうそぶく。
 「気持ちよくなるクスリだよ」
 「覚醒剤か」
 無言で笑う少年、肯定の証。今注射器を手に持った少年の笑顔は一生忘れられそうにない、もう一生網膜に焼きついてはなれないだろう。醒めた悪夢の中を生きてるようだ、もがけばもがくほどに深みに堕してゆく。恐怖を煽るような緩慢さで注射器が近付いてきて理性が一瞬で蒸発、狂ったように手足を振り乱して暴れて少年の下から逃れようとする、いやだ、怖い、それだけはやめてくれと心が軋んで悲鳴をあげる。既に精神は崩壊を始めている、押しのけようと両腕を突っ張れば逆に右腕を掴まれて袖をはだけられる。
 右腕、僕の右腕。
 「安心しろ、絶対に気持ちよくさせてやるよ」
 「薬の力を借りてまで気持ちよくなりたくない、理性を手放してまで快楽に溺れたくない!頼むやめてくれ、それだけはやめてくれ、僕は僕でいたい、僕のままでいさせてくれ、鍵屋崎直でいたいんだ……惠を、妹のことをちゃんと覚えていたい、忘れたくない。それにサムライ、友人、いや、もう友人じゃないが、違う、何を言ってるんだ、」
 外気にさらされた右腕に注射器の先端が押し当てられる。針の切っ先を凝視していた少年が音をたてて生唾を嚥下し頭がますます混乱し自分でもなにを口走ってるかわからなくなる。
 「わかった、君の言うことを聞くから、喘ぐ演技をしろと言うならそうするから、どんなへたな愛撫にでも感じてるふりをするから、」
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、惠、惠助けてくれ、僕はもう駄目だ本当に駄目だ、
 「どんなに自己中心的で一方的な愛撫にもちゃんと反応するから、」
 サムライ、
 「もういいから黙ってろ!!」
 耳元で恫喝されて鼓膜が痺れ、むきだしの腕にひやりとした金属の感触。腕にあてがわれた注射針が皮膚の弾力で跳ね返され、ゆっくりゆっくりとポンプが押しこまれ―
 
 サムライを呼ぼうとした。プライドが恐怖に飲み込まれた虚無でサムライの名を呼ぼうと口を開けた、

 その瞬間だった、扉が蹴破られたのは。 
 室内に踊りこんだ残像が僕の上に覆い被さってた少年の後ろ襟を掴んで腕一本で後方に投げ、少年の手をすりぬけた注射器が床に落下する。何が起きたのか一瞬理解できなかった。ゆっくりと上体を起こし、床を手探りして眼鏡を拾い上げる。眼鏡をかけ、顔を上げ、目の前に広がる光景を確認して声を失う。
 目の前で対峙する二人の人間。
 片方は腰を抜かして床に座り込んだ少年、最前まで僕を押さえこんで覚醒剤を打とうとしていた客。
 そして、客の鼻先に小揺るぎもせず箸をつきつけていたのは。

 「サムライ……」
 なんで君がここにいるんだ、と詰問しかけて己の愚を呪う。まさか。でもそれしか考えられない。ここは売春班の仕事場で、ここに足を運ぶ人間の目的はひとつしかない。
 眼光鋭く箸を構えたサムライを魅入られたように凝視し、聞く。
 「僕を買いに来たのか?」
 振り向きもせず、サムライは簡潔に答える。
 「そうだ」
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