少年プリズン

まさみ

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百九十二話

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 遠く歓声が聞こえる。
 レイジと凱は現在試合中。無敵のブラックワーク覇者対三百人の大派閥のボスの対決ということで会場は異常な熱狂に沸いている。僕が人知れず会場を後にした時点で二桁の失神者が担架で運びだされたのだから、ゴングが鳴って本格的に火蓋が切って落とされた今はさらに収拾がつかなくなってるはずだ。
 熱狂の渦から離脱し、ボイラー室を見張ること数分。
 人けのない曲がり角に潜んでボイラー室を監視しているのは僕だけではない。蛍光灯の消えた薄暗がりにはは他に囚人が五名、その共通点は僕とおなじ元売春班の売春夫であるということ。 
 現在、ボイラー室にはロンが拘禁されている。
 僕を助け出しにきて自分が身代わりになっては本末転倒、まったく理解不能で無意味な行為だと断言せざるをえないが、僕が彼に助け出されたのは事実だ。ロンが助けにこなければ僕は無抵抗のままタジマに絞め殺され、今ごろは冷たい寝袋に入れられて処理班に回収されてたかもしれない。
 サムライに無事木刀を届けられたのもロンのおかげだ、ロンが体を張って僕を逃がしてくれたからだ。

 借りは返さなければいけない。

 他人でも友人でも関係ない、借りをそのままにしておくのは落ち着かない。しかし現状ではレイジを頼ることはできない、レイジに真実を話して助力を乞えばことは簡単に済むだろうがレイジの戦線離脱はすなわち試合放棄を意味し、僕ら四人の自滅に直結する。
 レイジに知られるまえに、レイジの戦いが終わるまでに決着をつけなければ。
 ロンの救出が最優先事項として、それには人員が不可欠だ。僕ひとりでは手に余ることが必然でてくる。
 他人に、それも知能で劣る凡人に頭を下げて助力を乞うのは屈辱だが、時には謙虚に態度で誠意を示すことも必要だと苦汁を飲んで決断した。 
 それもこれも全部サムライの影響だ。
 言葉ではなく態度で、理屈ではなく行動で誠意を示す方法はサムライに学んだ。
 「―まず聞く」
 軽く眼鏡の弦に触れ、物陰で輪になった五名の囚人を冷ややかに眺めれば、率直な眼差しと毅然と唇を引き結んだ真剣な表情で全員が注目する。
 彼らは彼らなりにロンの身を心配し、ロンを救出する手助けをしたいと思っているのだろう。
 売春班ではロンに酷いことを言ったが、一週間ものあいだ壁を挟んで生き地獄を共にした売春夫のあいだには強固な連帯感が芽生えていた。売春から一時的に足を洗い、他者を思いやる心の余裕を取り戻した彼らがロンにすまないと思い、ひとりは心細いから集団で謝罪の意思を表明しにきてもおかしくない。 
 「この中でスリまたは窃盗の前科がある者はいるか?」
 「「は?」」
 僕以外の全員の声が揃った。
 何故いきなりそんなことを、この場に何の関係がと質問の意図を推し量りかねた囚人が不審げに顔を見合わせる中、おずおずと進み出たのは軽薄に髪を脱色した優しげな顔だちの少年。柔和に整った顔に気弱げな表情を浮かべたその囚人は、凛々という名の恋人を持ち、男に犯される恐怖と嫌悪から鏡に突っ込んだ男。
 「名前は?」
 「ワンフー」
 間抜けな話だが、僕は今この瞬間に彼の名前を知った。売春班じゃ一週間もおなじ生き地獄を味わったというのに、僕は壁を挟んで男に犯されてる囚人の名前も知らなかった。
 ワンフーと名乗った囚人の顔には鏡の破片を抜いた痕が痛々しく残っていた。もう一生消えないだろう凄惨な傷痕に眉をひそめた僕の前に歩み出て、ワンフーが口を開く。
 「自慢じゃねえけど、スリならガキの頃からの唯一といえる特技だよ。十歳で親元とびだしてから地元のスリ集団に仲間入りして右手一本で食ってきたんだ。十五からはピンでやり始めて……俺が東京プリズンに送られたのも笑える話でさ。凛々の誕生日プレゼントに、まえから欲しがってた指輪どうしても贈ってやりたくて。でもそんな金ねえから、店のガラス割ってこっそり頂戴したんだよ」
 「語弊がある、どこがこっそりなんだ。第一盗品の指輪を贈られる女性の気持ちになってみろ」 
 僕の疑問と抗議を無視し、夢見る目つきでワンフーが続ける。
 「覆面かぶってたし店に人いない時間帯狙ったしうまくいったと思ってたんだけど、後日凛々が質屋に指輪流して盗品だってばれちまって……で、警察が出所辿ってあえなくお縄ってわけ」
 盗んだ指輪を誕生日プレゼントにする男もどうかと思うが、貰った指輪を質に入れる女性も感心しない。
 まあ本人が幸せならいいのだろう、部外者の僕が口だしする権利はないと自分を諌めて毒舌を控えたが何だか釈然としない。ともあれ個人的な感想は保留し、話の疑問点を突く。
 「窃盗だけなら軽犯罪だ、東京プリズンに送られるほどの罪には問われないはずだが」
 「スリの前科が二百二件あったんだよ」
 なるほど。塵も積もれば山になる、軽犯罪も嵩めば重罪になる。
 合点した僕に反省の色のない笑顔を向け、自信ありげにワンフーがうそぶく。
 「俺が捕まったのはたった一件の窃盗の失敗が原因で、警察で事情聴取されるまでスリの前科二百二件はバレてもなかったんだ。腕には自信があるぜ」
 「ならば証明してもらおう」
 輝かしい経歴でも誇るように自慢げに語るワンフーを眼鏡越しに見据え、顎をしゃくる。
 元売春夫五人を集め、頭の中で練っていた作戦を放す。神妙な表情で僕の一語一句に耳を傾けていた元売春夫が目を見開いて驚き、逡巡し躊躇し狼狽する。ボイラー室の前にいる五十嵐に聞かれぬよう、できるだけ声をひそめて意見交換する元売春夫らを威圧的な眼差しで黙らせる。
 僕の大胆な提案に動揺もあらわな元売春夫らを順繰りに見つめ、静かな声音で言う。
 「怖気づいたのなら逃げてもかまわない。その時はまた別の作戦を考える。この優秀な頭脳を持ってして単身ロンを救出する素晴らしい作戦を。しかし僕は体力面で不安が残る、人手があったほうが頼もしいのは事実。君たちが本当にロンに言ったことを後悔してすまないと思っているのなら、」
 そこで言葉を切る。
 言葉が十分に浸透するのを待ち、再開。
 「―すまないと思っているのなら、僕に協力してほしい」
 翻意する囚人がいても止める気はなかった。
 危険な賭けには違いない、無謀な試みには違いない。しかし現実にロンが危機に瀕してる今、危険な賭けだとわかっていても無謀な試みだと承知していても発案者の僕が迷うわけにはいかない。迷ったら最後なにも決断できなくなる。 
 少しばかり緊張しながら、そんな内心はおくびにもださず、表面上は平静を装い元売春夫らの反応を静観する。僕の予想に反し、だれも、誰一人として首を横に振りはしなかった。輪を抜けようとはしなかった。
 「やるよ」
 凛々という恋人がいる囚人が、きっぱり正面を向き。
 「東京プリズンの囚人を、いや、一児の父親を舐めるなよ。今ここで尻ごみしたら娑婆の娘に顔向けできねえぜ」
 メイファという娘がいる囚人が、はにかむように笑い。
 元売春夫ら五人が一致団結し、僕は安堵の息を漏らしていた。

 「準備はいいか」
 ひんやりと硬質なコンクリ壁に背中を預け、呼吸を抑え、無機物と同化。
 視線の先にはボイラー室がある。
 ボイラー室の前、不規則に蛍光灯が点滅する荒廃した廊下にはタジマに命じられて不承不承見張りの任に就かされている五十嵐がひとりだけ。周囲に通行人の姿がないのを確認し、ワンフー率いる元売春夫らを振り返る。ワンフーの隣には娘を溺愛する子煩悩な囚人がいて、ルーツァイだと自己紹介された。
 「いつでもいいぜ」
 「準備万端だ」
 ワンフーとルーツァイが若干緊張した面持ちで首肯する。
 視線の先ではむっつり黙りこんだ五十嵐が、ドア横の壁に凭れて腕を組んでいる。見るからに不機嫌そうな様子だ。長時間廊下に立たされる見張りの任に退屈しているのか、中で行われていることを知っていながら止められない罪悪感に苦しんでいるのか、近寄り難い仏頂面からは心の動きまで探れない。
 よし。  
 時機を見て、覚悟を決め、背後の待機組に顎をしゃくる。それが合図だった。打ち合わせ通り、ワンフーとルーツァイが廊下にとびだしてゆく。
 「五十嵐さん!」
 その声に五十嵐が振り向く。
 「五十嵐さん、いいとこで会った!大変だ、一大事なんだよ!」
 「早くきてくれよ、俺たちだけじゃ手におえねえよ!」
 「どうしたんだよ一体」
 長距離の廊下を全力疾走し、急を報せにきたとしか思えない迫真の演技で訴えられ、五十嵐が困惑する。
 「今は試合中だろ。おまえらレイジの試合観にきたんじゃねえのかよ」
 「それどころじゃねえよ!」
 「喧嘩だよ喧嘩!」
 「喧嘩?」
 「ほら、聞こえないのかよ、見えないのかよあっちで殴り合ってるのが」
 ワンフーが指さす方向を透かし見た五十嵐の表情が豹変する。ボイラー室が位置する通路から少し引っ込んだ脇道で今まさに殴り合いの喧嘩が行われていて、壁を殴り付ける音やら何かが倒れる音やらうるさく響いてくるのだ。
 それに混じるのは、互いをはげしく罵り合う声。
 「この野郎、絶対に許さねえ!殺してやる!」
 「やれるもんならやってみやがれこの腰抜けが、てめえが無駄にでかい図体してるせいで試合が見えなかったんだ、どう落とし前つける気だ!?」
 「なにが原因だよ一体……」
 五十嵐がげっそりと呟き、ワンフーとルーツァイがしてやったりと目配せする。
 「場所のとりあいさ」
 「会場が満員御礼で、前のやつが邪魔で試合が観れなくて、頭にきたガキがそいつ物陰に連れこんで喧嘩売ったんだよ」
 「俺たちが何言っても聞く耳もたねえんだ、五十嵐さん止めてくれよ!」
 ワンフーとルーツァイに血相かえて説得され、五十嵐が「しかたねえなあ」とぼやきながらも歩き出す。頼られたら断れないお人よしという点では五十嵐もロンの同類だ。先行するルーツァイにひきずられていた五十嵐の後ろでワンフーの手が素早く動く。
 錯覚ではない。肉眼ではとらえられない速さで五十嵐の腰から鍵束を抜き取ったワンフーが、絶妙のタイミングでこちらに鍵束を投げた。
 慌てて手を突き出せば、小さな放物線を描いた鍵束が狙い定めたが如くとびこんできた。
 鍵と鍵が擦れる耳障りな金属音は、反射的に指を閉じたせいで殆ど漏れなかった。鍵束を握り締め、音がもれるのを防ぎ、五十嵐が完全に曲がり角を通過して廊下の奥へと遠ざかるのを固唾を飲んで見送る。
 成功。
 こちらを向いたワンフーが親指を立てる。馬鹿なことをやってないで早く行け、とそっけなく手で追い立てれば憮然としたワンフーが小走りに五十嵐を追う。ルーツァイが大仰な身振り手振りで喚きたててくれたおかげで、五十嵐の注意がこちらに向き、序盤で作戦失敗の危機は回避できた。
 「上出来だ」
 ワンフーとルーツァイのコンビが五十嵐を連れ去ったのを確かめ、満足の笑みを浮かべる。
 第一段階は成功。五十嵐をボイラー室から連れ去り、鍵を入手。
 「きみの出番だぞ」
 五十嵐の誘導係が二名、嘘の喧嘩を演じる囮が二名。残る一名は僕の背後だ。囚人の手に鍵を渡し、指示する。
 「ボイラー室の鍵は右から五番目だ。間違うなよ」
 「なんでわかるんだよ?」
 不審感もあらわに眉をひそめた囚人の頭の悪さに辟易し、片方の耳をゆびさす。
 「僕の耳は脳に次いで性能がいい。ボイラー室に監禁されている間鍵穴に鍵がさしこまれる音に耳を澄ませて数えていた。五十嵐だって普段はボイラー室に立ち入りなどしないはずだ、どの鍵がボイラー室の鍵か一発でわかるはずもない。これは単純な推理だ。五十嵐は右手で鍵束を持っていた、手紙やメモを渡すときも常に右手から。つまり五十嵐は右利き。右利きの人間は無意識に右から物を選ぶ癖がある。複数のプレゼントの中から好きな物をひとつ選ぶなど選択者の好みに左右される場合にはこの法則はあてはまらないが、無個性な鍵の中から正解の一本を選ぶとなると話は別だ。途中で混乱しないためにも、どちらかの端から順に試すのが最も効率的な方法。五十嵐は右利きだから右から試してゆく可能性が高く、鍵穴に鍵がさしこまれる音は五回した。だから右から五本目の鍵がボイラー室の鍵だ。以上、何か質問は」
 僕はボイラー室に監禁されている間、何もせず無為に時を過ごしてたわけじゃない。 
 五十嵐がタジマの言いなりにボイラー室の鍵を開けたとき、食い入るようにドアを見つめて聴覚を研ぎ澄ませ、それが何本目の鍵かつきとめて脱出の布石にしようとしていた。
 あの時僕は追い詰められていた。ドアが開いた瞬間にタジマを突き飛ばし五十嵐を突き飛ばそうと半ば本気で考えたくらいなのだから、どんな小さなことやとるにたらないことからでも脱出の糸口を掴もうとこめかみが痛くなるような集中力を発揮していた。
 それが、勝機を掴むきっかけになった。
 「いいか、右から五本目だ。間違えるなよ」
 今いち頼りない少年に念を押して物陰から送り出す。今僕が淘淘と述べたのは心理学における右利きの法則、心理学的根拠に基づいてはいるが科学的根拠はどこにもなく、右から五本目が正解だという確証は持てない。ドアの前で立ち止まった少年が大きく深呼吸、緊張した手つきで鍵束をさぐり、僕に言われたとおり右から五本目の鍵を手にとる。 

 もし間違っていたらどうする?

 予期されるのは最悪の事態、外の異変に気付いた凱の仲間が一斉にとびだして少年を殴り倒し、物陰から僕を引きずり出す。かぶりを振って不安を払拭、少年の手元に目を凝らす。
 鍵穴に鍵がさしこまれ、涼やかな音が鳴る。
 開いた。
 僕の推理は的中した、あれが正解の鍵だったのだ。ボイラー室の中で息を殺し、耳を澄ましていた甲斐があった。何の抵抗もなく鍵穴に鍵が吸いこまれ、小気味よい金属音とともにドアが開く。僕の指示どおり、ドアの鍵が開くと同時に裏側に隠れた少年の姿は室内からは完全な死角となり、廊下にはだれもいないように見える。 
 話し声がぴたりと止んだ。
 ドアを閉めていても声が漏れ聞こえるほどに室内は盛り上がっていて、中の連中はドアの隙間から外気が吹きこんでくるまで、廊下の異状には全然気付かなかったらしい。
 「なんでドアが開いてんだ」
 「だれもいねえのに」
 「こええよあんちゃん、幽霊だよ」
 「リンチで殺された囚人の幽霊がモルグの地下通路うろついてるってか?まさか」
 廊下は無人であるにもかかわらず、現にドアは開いている。
 ボイラー室の中から歩み出てきた囚人は三名。さっきまでサムライと戦っていた囚人のぺアと、これは僕も知っているヤンだ。自分の出番を終え、休憩がてらボイラー室に引き上げていたものらしい。
 どこから手に入れたものやら、ウィスキーで酒盛りでもしてたのか。彼らが廊下に出た途端に強いアルコールの匂いが漂ってきて、おもわず顔をしかめる。
 好奇心から廊下にさまよいでた凱の子分三人が、ドアを開け放したまま周囲をきょろきょろ見回す。その背後、呼吸を止めてドアの裏側に隠れていた少年が早くしろと僕を手招く。
 人に命令されるのは不愉快きわまりない。言われなくてもわかっている。
 「あ!!」
 まずい、気付かれた。
 「早くしろ!!」
 「命令するな!」
 ドアの後ろの少年に急かされ、コンクリートの床を蹴り、物陰からとびだす。
 「親殺しだ!」
 「なんでここに、」
 「捕まえろ!」
 僕を発見したヤンが怒号を発し、互いによく似た顔だちの一目で兄弟とわかる囚人が回れ右してとびかかってくる。ボイラー室まで5メートル、3メートル、1メートル……必死に足を繰り出し、ヤンの手が肘を掴む直前にボイラー室にすべりこんで後ろ手にドアを閉め鍵をかける。間に合った。背中を預けたドアが震動、鈍い衝突音が連続。水浸しの床で足をすべらせ、勢いを殺せずドアに衝突した三人が何か喚いている。遠ざかる靴音を背中越しに確認、肩の力を抜く。彼が注意をひきつけてくれたおかげで間一髪ボイラー室にすべりこむことができた。ボイラー室を閉め出された三人のうち、二人は囮役を追いかけて走り去り、一人がドアを乱打する。
 「とっとと開けやがれ、親殺し!」
 ドアの前に居残ったヤンがこぶしでドアを殴り、断続的な震動が背中に響く。
 「半半助けにきたんなら無駄だぜ、中にゃまだロンチウとリャンとホウメイが残ってる!てめえが勝てる相手じゃねえよ!」
 「そんなことはわかっている」
 深呼吸してドアに凭れ掛かり、室内に残った三人を見回す。
 だれがロンチウでリャンでホウメイかは不明だが、僕を囲んだ三人ともが喧嘩慣れした物腰と凶暴な面構えの囚人だ。
 水蒸気の濃霧たゆたうボイラー室を見透かし、ロンの位置を確かめる。
 いた。壁際、さっきまで僕が繋がれていた場所にぐったりと手足をなげだして座りこんでいる。
 僕の声は聞こえてるはずなのに顔も上げないのはどうしてだ?六人がかりで徹底的に嬲られて、顔を上げることもできない状態なのか?近くでよく見なければどの程度の怪我か判断できないが、遠目にも服の何箇所かが裂けているのが視認できた。
 「こっち向けや」
 壁際のロンから手前に視線を転じれば、体格のいい囚人が仁王立ちしていた。
 「なに考えてんだ、おまえ。一回逃げ出したのにすぐまた戻ってきやがって」
 「お友達の半半助けにきたのかよ」
 「泣かせる友情だねえ」
 ドアから壁へと背中を移し、慎重に移動。壁面に取り付けられた配管を手摺代わりに、足元の水溜りにスニーカーを突っ込ませないよう注意し、一歩ずつ進む。ボイラー室の床には広範囲の水溜りができていた。漏水の副産物だ。水でぬれた床はとてもすべりやすくなっていたが、浸水してない乾いた個所を選んで足裏を下ろす。
 「友情?理解不能だな」
 口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
 僕がロンを助けにきたのは友情などではなくロンに借りを作るのが不愉快だからだ。それだけだ。
 僕は今、追い詰められているわけではない。絶体絶命の窮地に陥って後退を余儀なくされてるわけではく、敵から距離をとるふりで勝機を狙っているのだ。今まさに危機に瀕しているのは彼ら、僕を追い詰めたと慢心し、数の上でも力の面でも自分たちの優勢を信じて疑わない彼らの方だ。
 僕をどう料理しようか愉快な想像を膨らませた三人が、恐怖心を煽るように緩慢な足取りで接近。スニーカーがびしょ濡れになるのもかまわず水溜りを弾き、水の飛沫を跳ね散らかして大股に歩いてくる。
 「どうした、逃げるばっかりじゃねえか」
 「天才なら天才らしく天才的逆転劇を見せてくれよ」
 「俺たちをこんなに焦らしといて、口だけってこたあねえよな」
 壁面に背中を密着させ、壁に巡らされた配管に沿って移動するうちに目的地に到着。背後、ちょうど僕の頭の後ろにはブレーカーがある。ブレーカーの存在を後頭部に隠し、平静を装った不敵な眼差しで三人を牽制。僕の計略など知りもしない愚鈍な三人が水溜りを渡って間隔を狭めてくる。僕の足元に水溜りは及んでいない。僕はちょうど水溜りの淵に立っていて、スニーカーの先端に水は届いてない。
 壁際、手錠に繋がれてうなだれているロンを一瞥。
 ロンが座りこんだ床にも水溜りはない。ロンが捕らえられた場所は僕がいた場所とおなじで、僕はちょうどあの位置の配管を壊して水を噴出させたのだ。水圧と飛距離を計算にいれれば、ロンの足元には水がかからない。
 僕とロンは水溜りに足を突っ込んでない。
 対して、僕を追い詰めたつもりの三人は水溜りに足を浸して立っている。   
 「……まったく、浅はかだな」
 「あん?」
 ブレーカーを背に隠し、憐憫をこめた微笑を浮かべる。
 「浅はかだと言ったんだ。たまには僕の予想を覆す言動をしてみせたらどうだ、語彙が貧困な君たちには酷な要求かもしれないが君たちの言動・発想すべてが僕の予測の範囲でつまらない。どこかで聞いたような悪態を吐いてどこかで聞いたような挑発をしてどこかで聞いたような笑い方をする君たちには個性が皆無、観察対象にしても酷く物足りない。ケージの中のモルモットだってたまには可愛い芸を見せて観測者を楽しませてくれるのに、君たちときたら滑車を回すモルモットよりも無能で芸がないじゃないか」
 見せ付けるように腕を組み、ゆったりとブレーカーに凭れ掛かる。 
 「あんまり僕を失望させるな」
 「この野郎!!」
 頭に血が上った三人が水溜りを蹴散らし、水飛沫を蹴立てて肉薄。先頭の囚人が大きな動作で腕を振り上げ僕の顔面めがけ鉄拳を叩きこもうとしたが、腕の振り方で軌道を予測すれば避けるのはたやすい。
 イエローワークの強制労働中に足元に突き出されたシャベルを避けたり、食堂でわざと肘をぶつけてくる囚人をかわしてるうちに反射神経とともに動体視力が鍛えられたらしい。
 風圧が横顔を叩き、鉄拳が頬を掠める摩擦熱に毛穴が縮む。
 紙一重で拳をかわせば、僕の予想どおりの事態が発生。
 「うわっ、なんだこりゃ!?」
 「一気に暗くなったぞ、」
 「親殺しはどこだ、見えねえぞちくしょうが!」
 僕がかわした拳がブレーカーを直撃、拳がめり込んだ配電盤ははげしく火花を散らして小爆発。
 ブレーカーの一部が複雑に絡まり合ったコードを露出させて水溜りに没した瞬間、視界が眩むような凄まじい電撃の奔騰に水面が泡立ち、水溜りに立った三人が白目を剥いて痙攣。

 「「ぎゃああああああああああっ!!!」」   

 感電。水には電気を媒介する性質がある。水溜りの淵に立っていた僕とロンだけが感電の危機を免れた。 痙攣の発作が去った後に訪れたのは筋肉の硬直、そして弛緩。
 水溜りに膝をつき、気を失って上体を突っ伏した三人を見下ろして額の汗を拭う。ドアの外では「今の悲鳴なんだよ、どうかしたのかよロンチウ!?」とヤンが吼えている。
 薄らと水蒸気が立ち上る水面をまたぎ、泡を噴いて失神した三人の鼻孔に手を翳し、息があるのを確認してひとまず安堵する。正当防衛が認められるやむをえない状況とはいえ可能なかぎり人は殺したくない。鍵屋崎優と由香利、戸籍上の両親を殺した僕はもうこれ以上人を殺したくない。
 ロン。ロンはどうしている?
 確信犯的にブレーカーを落として敵を再起不能にし、当面の危機は脱した。五十嵐からスッた鍵で内側から施錠すれば廊下のヤンは中に入れない。異状に気付いた五十嵐かタジマが合鍵をとってこない限り……
 そうだ。ぐずぐずしてたらタジマが帰ってきてしまう。
 「ロン、生きているか?」
 水溜りを避け、壁際のロンのもとへ急ぐ。
 時間稼ぎには限界がある。五十嵐ももうすぐ戻ってくる。それまでにロンを正気に戻してボイラー室を後にしなければ……痛め付けられて気を失っているのだろうか?力なくうなだれたまま、声をかけても何の反応もないロンのそばに片膝ついて怪我の具合を確かめる。
 擦過傷とみみず腫れの他には外傷もなく、骨折などはしてないようだと安堵する。足元には鞭とウィスキーの空き瓶とが落ちていた。
 「気絶してる暇はないぞ。早く、」
 目を覚ませと叱咤しかけ、ロンが緩慢に顔を起こす。
 「?」
 どうも様子がおかしい。それにこの、むせかえるような酒の匂いは?酒の匂いを服に染み付かせたロンが熱っぽく潤んだ、その癖どこか焦点が合わない目で僕を見る。
 芒洋と虚ろな目はアルコールの残滓で半透明に濁っていた。 
 「ろ、」
 寝ぼけている場合か、しっかりしろ。
 苛立ち叫ぼうとした僕の顎にロンの手がかけられ、顔と顔が急接近し、唇と唇が―

 待て。
 なんだこの展開は。
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