少年プリズン

まさみ

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二百三十一話

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 「ははっ、冗談でしょ安田さん」
 タジマは笑いながら両手を挙げた。降参のポーズ。
 前方、背広に片手をさしいれた安田は微動だにしない。知的な印象を加味する銀縁眼鏡の奥では怜悧な双眸が鋭い眼光を放つ。凄味を帯びた双眸でタジマを威圧する安田の隣では、放心状態から覚めた五十嵐が廊下に手をついた僕へと視線を移し、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
 「大丈夫か?」
 僕の傍らに屈みこみ、気遣わしげに声をかけ助け起こす。次いで厳しい顔でタジマを睨む。廊下の真ん中で三つ巴の睨み合いを続ける看守二人と副所長。廊下にたゆたう空気が帯電したように緊迫感が高まり、沈黙の密度がいや増す。僕はまだ悪夢でも見てるように現実感が希薄で、背中におかれた五十嵐の手を振り払う気力もなかった。僕を背に庇った五十嵐が、開け放たれた扉から房の中を覗きこみ血相を変える。
 ベッドの位置が移動し、床一面には墨汁が広がり、便箋が散乱した惨状。もはや隠蔽しようもない乱闘の形跡。瞬時に何が起きたか察した五十嵐が、我を忘れてタジマに掴みかかる。
 「お前っ、なんてことを……!!」
 五十嵐は真剣に怒っていた。憤怒の形相でタジマの胸ぐらを掴み、至近距離で顔を突き合わせる。だがタジマは動じない。ふざけて両手を挙げたまま、同僚の暴挙を小馬鹿にするような笑みを広げる。
 「あ?なにマジになってんだよ五十嵐、ほんの冗談だよ。ほら、売春班営業停止になってから仕事なくなった売春夫が昼間やることなくて退屈してるって聞いて、謹慎中の俺様が遊び相手になってやろうって」
 「だれがそんな勝手な真似を許可した」
 五十嵐とは対照的に安田の口調は静かだった。なにかとてつもなく物騒な物を内に抱え込んだ平板な声。 背広の内側に手を入れた姿勢はそのままに、安田がタジマと向き合う。
 「副所長の私の許可なく所内を出歩くことは職務規定に反する。君は今無期限で謹慎処分中の身だ、規定違反をすれば免職も視野に……」
 「いいんですかね、俺にそんな口聞いて」
 両手をおろしたタジマがいつになく挑発的に安田を睨む。不審げに眉をひそめた安田を卑屈な上目遣いで探り、タジマが発言する。
 「俺の兄貴が警察庁上層部の人間だって副所長も当然ご存知ですよね?いいんですか、上司に不当な扱いをされたと兄貴に泣いて訴えても。副所長こそ東京プリズンにいられなくなりますよ」
 タジマに兄がいたなんて知らなかった。それも警察庁上層部の人間だなんて。
 それで一部始終納得がいった、タジマが東京少年刑務所をやめさせられることなく主任看守の地位に居座り続けられるわけが。いくら主任看守でも賄賂と引き換えにボイラー室の鍵を無許可で貸し出したりリンチの行きすぎで囚人を嬲り殺したのが明るみにでればクビになる。しかしタジマには警察庁上層部の人間を身内に持つという強力な後ろ盾があった。タジマが東京プリズンでどんなことをしても公の場で裁かれることがなく今日まで過ごしてこれたのは、警察庁の兄が圧力をかけ、事実を揉み消していたからだ。
 だからタジマは今もこうして好き放題に振る舞っていられる。リンチで何十何百人という囚人を殺しても、何十何百人という囚人を自分の欲望を満たすためだけにレイプしても何ひとつ咎められることなく大手を振って出歩いてられるのだ。
 「いいこと教えてやるよ、親殺し。東京プリズンの看守はクズ揃いなんだ」
 何ひとつ反省することなく、何ひとつ後悔することなく、現在の生活に満足しきったタジマがうそぶく。
 「なにか不始末をやらかして中央から左遷されたヤツらの吹き溜まり、それがここ東京プリズンだ。囚人から賄賂を受け取った、囚人に手えだした、刑務所の金を横領した、リンチで囚人殺した……罪科はいろいろだが、表にだせねえ失敗や犯罪やらかして体面悪さに左遷されたヤツらが最後に行きつく場所なんだ。ここの看守が最低なのにはちゃあんと理由があったんだ、東京プリズンに左遷されるまえから筋金入りのワルばっかじゃてめえの運が悪いって諦めるしかねえよな!」
 同僚と副所長の眼前で東京プリズンの内実を暴露したタジマが、何か吹っ切れたように腹を抱えて爆笑する。謹慎処分を下されたことがきっかけで安田に対する不平不満が爆発したのだろう。警察庁の兄が味方についてるから大丈夫だと奢り高ぶり、狂った哄笑をあげるタジマから五十嵐があとじさる。
 「お前もそうだ、五十嵐」
 嗜虐心に火がついた目が爛々と輝き、今度は逆に五十嵐の胸ぐらを掴む。
 「五年前のテロで娘死でから酒に溺れて自暴自棄になって、同僚とはでに喧嘩して重傷負わせて、それでこーんな砂漠くんだりに流されてきたんだろ?お気の毒さまだなおい!で、アル中は治ったのか?」
 「この野郎……」
 ぎりっ、と音が鳴るほどに奥歯を食いしめ、タジマの胸ぐらを掴む手に力をこめる。
 「ははっ、アル中って夫婦で伝染するんだなあ。夫が酒と縁切ったと思ったら今度はフィリピ―ナの嫁さんが」
 「黙れ。殺すぞ」
 「おお、怖い怖い。お前がここに来たばっかで荒れてたころ思い出すなあ」
 凄んだ五十嵐の額に頭突きを見舞い、跳ね飛ばす。
 額と額が衝突する鈍い音が鳴り、五十嵐の顔面が仰け反る。
 「けどよ五十嵐、一度冷静になってお前が今胸ぐら掴んでる人間の面よーっく拝んでみろや。いいのかよそんな口きいて、あのことばらしてもいいのか」
 額を腫らした五十嵐が、それでも胸ぐらを強情に掴んだまま、凄まじい殺意をこめた目つきでタジマを睨み据える。
 「あのことばらされたらお前もうここにいられねえぞ、東京プリズンじゃ生きてけねえぞ。看守クビになったら酒に溺れたフィリピ―ナ抱えてどうやって生活費稼ぐんだ、警備員でもして地道に働くか?ははっ、馬鹿言えよ。おまえみたいにくたびれた中年雇う物好きがいるもんか、三十半ばすぎてからの再就職は厳しいぜ」
 芋虫めいた指に脅しの力をこめ、五十嵐の胸ぐらを締め上げ、低い声でタジマが囁く。
 「黙って俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ。看守クビになったら困るだろ、五十嵐。俺の機嫌とりしてりゃこの先ずっと美味しい思いができるんだ、東京プリズンでやりてえ放題できるんだ。なんならそこの親殺しを」
 僕へと顎をしゃくったタジマが、軟体動物めいた舌でねっとり唇を舐め、淫猥にほくそえむ。素肌を透かして内臓まで犯す視線に、心臓が強い鼓動を打つ。鳥肌立った二の腕を抱いて距離をとれば、同僚へと向き直ったタジマが親愛の笑顔を見せる。
 後ろ暗い秘密を共有する、共犯者の間に芽生えた連帯感。
 「ふたりで犯してたのしんでもい、」
 ―「タジマあああああああああ!!!」―
 タジマの提案は五十嵐の絶叫でさえぎられた。
 激怒した五十嵐が大きく腕を振りかぶる。タジマを殴り飛ばそうと前傾姿勢をとった五十嵐の腕を、背後から誰かが掴む。
 安田だ。
 顔色ひとつ変えず安田がそこにいた。いつのまにか背後へと接近し、背広から手を抜き、冷静にタジマと五十嵐とを見比べる。
 「……離してください副所長」
 五十嵐が、喉から声をしぼりだす。
 「こいつだけは許せねえ、こんな最低なヤツが同僚だと思うと自分の仕事に誇りが持てなくなる。頼むから腕をはなして一発殴らせてくれ。殴ったあとは、どうぞ好きなようにクビにしてくれ。こいつさえぶん殴ることができりゃ未練はねえ」
 五十嵐のこぶしは震えていた。俯き加減に立ち尽くした五十嵐の表情は読めないが、その声はくぐもっていた。怒りに体温が上昇し今にも心臓が蒸発しそうで、破裂寸前の殺意を制御するのに必死で、五十嵐の声は水分を失い乾いていた。
 「落ち着きたまえ五十嵐看守、感情的になったところで何も解決しない」
 「そうだ、落ち着けよ五十嵐。俺ぶん殴ったあとのことよォく考えてみろや。本当にクビになっていいのかよ、カミさんの酒代は誰が稼ぐんだよ?見知らぬ人間ばかりの異国の地でただでさえ寂しい思いしてる日本語もろくにしゃべれねえホステス上がりのフィリピ―ナを誰が養ってくんだよ」
 「………っ、」
 安田に窘められ、タジマに嘲弄され、五十嵐が屈辱に歯噛みする。やり場のない怒り、憂慮、葛藤。矛盾した思いに引き裂かれた五十嵐が長い長い逡巡の末、深く深く息を吐き、安田に促されてこぶしを下ろす。
 無念が淀んだ表情の同僚に、タジマが皮肉げに笑う。
 「腰抜けが」
 五十嵐の怒りが再沸騰する。忍耐の限界が訪れた五十嵐が再びタジマへと殴りかかるより早く、細身の影がスッと横を通りすぎる。三つ揃いのスーツを完璧に着こなした聡明な風貌の男が靴音高く響かせタジマに接近、腰に手をあて哄笑をあげるタジマの正面に立ち……
 
 安田がタジマを殴った。
 手加減せず、おもいきり。

 タジマの体が吹っ飛び、大股開きで床に転げた。完璧なストレートだった。しなやかかつ俊敏、目にもとまらぬ迅速な行動でタジマの顔面に渾身の一撃を見舞った安田がネクタイの位置を正し、何事もなかったように顔を上げる。
 呆然とした。
 インテリめいて聡明な風貌の安田がこんな暴力的手段にでるなんて、目を疑った。
 「但馬看守。君には反吐が出る」
 相変わらず平板な声で安田が告げる。無様にひっくり返ったタジマを傲慢に見下し、命令することに慣れた者特有の尊大に落ち着き払った物腰で述べる。
 「……君の処罰を軽減したのは所長の意向で、私は本意ではなかった。囚人から賄賂を受け取りボイラー室の鍵を無許可で勝ち出し、看守の信用を貶めた君がなぜ謹慎処分で済んだのか?勿論君の身内に警察庁の人間がいるからだ」
 安田の双眸は冷え冷えとしていた。取るに足らないつまらないものを見下す軽蔑の眼差し。眉間に刻まれたのは嫌悪の皺。
 「そして勿論、これは私の独断だ。所長の意向ではない。副所長の私が、いや、安田 順というひとりの男が君の人間性と下劣な振る舞いに自制心が振り切れた結果だ。文句があるなら直接言え、いつでも相手になろう。だが……」
 一呼吸おき、呆然と立ち尽くした僕を一瞥する。その目を過ぎったのは複雑な色。僕を気遣うような哀れむような、人間らしい感情の波紋。安田らしくもない表情だ。タジマへと視線を移した安田が表情を厳粛に改め、冷徹な副所長と潔癖な人間の中間、理性と感情のはざまを揺れ動く素顔を覗かせる。
 紛れもなく、安田は怒っていた。眉間に寄った皺も、苦渋の色を隠しきれず無表情を装うのに失敗した顔も、忌々しげに引き歪んだ唇も、すべてが安田の心情を代弁していた。
 ひどく人間らしい、等身大の表情。鏡の中に僕が見た、苦悩する人間の顔。
 「金輪際鍵屋崎には手を出すな。命令だ。もし次があれば君を射殺する、速やかに抹殺する」
 安田の声はひどく冷えていた。
 「正義の味方気取りかよ、若造が……」  
 安田の威圧に生唾を飲み下し、漸くタジマが言い返す。虚勢と媚とが入り混じった半笑いが、ただでさえ醜い顔をさらに醜くさせる。人間の醜い部分だけをかき集めたような見ているだけで吐き気を催す笑顔。
 タジマの笑顔に不快感をおぼえたのは安田も同様らしく、スッと、さりげない動作で背広の内側に手をもぐらせた。拳銃をとりだす真似に過剰反応したタジマが「ひっ」と悲鳴を発し、頭を抱え込む。
 「どうやら誤解しているようだな、但馬看守」
 廊下に突っ伏した但馬を冷然と見下ろし、初めて安田が笑みらしきものを浮かべた。
 「君を撃つときがあるとすれば、その理由はただひとつ。社会悪を断罪する正義感ではない、使命感でもない、また副所長の義務感でもない」
 安田、タジマ、五十嵐、僕。
 この四人以外は誰もいない廊下には、ひどく重苦しい沈黙が落ちていた。命乞いするように足元にひれ伏したタジマを見下し、背広に手をもぐらせた安田が口を開く。
 「私が引き金に指をかける理由はただひとつ……私自身が君に対して怒りを感じたときだ。理性では制御できないはげしい怒り。殺意の域に昇華した憎悪。ただそれだけが人が人を殺す動機となる」
 淡々と言ったタジマが、もうタジマには興味が失せたようにそっけなく付け足す。
 「私は今それを実行したい気分だ。今は理性で殺意をおさえこんでいるが、これ以上は保ちそうにない。射殺されるのがいやなら即刻この場から立ち去れ、私の視界から消えろ」
 タジマはただ震えていた。いつ背広から銃が抜き取られるか、いつ銃口を額に照準されるが、そればかりが気がかりで安田の言葉もろくに耳に届いてないようだ。
 そして安田は言った。 
 有言実行の重さで、淡々と。
 「君が賢明なら、私に引き金を引かせるな」 
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