少年プリズン

まさみ

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二百三十二話

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 背広の内側で手が動き、顔面蒼白のタジマが踵を返す。
 ズボンの前ははだけたまま、ベルトのバックルを耳障りに鳴らし、脱兎の如く逃げ出したタジマを見送り安田が手をおろす。ベルトをしないで廊下を疾走したせいで途中ズボンがずり落ち、足首に絡み、タジマが転倒する滑稽な一幕もあった。ズボンを両手で引き上げながら、一秒でもはやく安田の視線を振りきろうと、射程圏内を脱しようと恐怖に突き動かされたタジマの姿がやがて見えなくなる。
 廊下の奥からは、「覚えていやがれ」と捨て台詞だけが聞こえてきた。 
 「大丈夫か」
 僕を振り返り、安田が問う。その目を直視することができず、大股に廊下を引き返す。途中からは早足になり、次は駆け足になり、開け放した扉から中へとびこむ。 
 「鍵屋崎!?」
 五十嵐の声が追ってきたが無視する。転げるように床に膝をつき、ひりつくような焦燥にかられてあたりを見まわす。あった。床に上着が落ちていた。上着を手に持ち、一心不乱にベッドの片方へ駆け寄る。ベッドの傍らに屈みこみ、手にした上着で毛布とシーツを拭く。何度も何度も執拗に、神経質に。
 早く痕跡を消さなければ、汚れを拭わなければ。サムライが帰ってきたら一目でわかってしまう、ベッドに横たわればすぐに異変に気付く。タジマに無理矢理射精させられた痕跡がシーツに染み付いて、毛布に白濁が散って、サムライのベッドで僕が何をされたかすぐにわかってしまう。早く拭かなければ、消さなければ、なかったことにしなければ。そうだこんなことはなかったんだ、全部なかったことにするんだ。僕はサムライとの約束を破らなかった、今日ここでは何も起きなかった、僕は何もされてない、何も傷付いてない、何も……
 僕は、いつもどおりの僕だ。いつもどおりの鍵屋崎直だ。
 タジマに何もされなかったと思いこめば、僕はいつもどおりの鍵屋崎直でいられる。自分が思うとおりの、サムライが思うとおりの鍵屋崎直でいられる。ひたすら手を動かし上着で汚れを拭う。上着を毛布に擦り付け非常な集中力を発揮し、鼻梁にずり落ちた眼鏡越しに一滴たりとも見逃さず汚れをさがす。どれほど擦っても落ちなかった、乾いて毛布と一体化して拭うのは不可能だった。なら洗うしかない。サムライが帰って来るまでに毛布を洗い、汚れを落とし……
 物音に硬直。
 上着を鷲掴んだまま、はじかれたように顔を上げる。強張った表情で振り返れば、開け放たれたドアの向こうに安田がいた。五十嵐がいた。無言でふたり並んで、痛ましげな面持ちで、僕の奇行を凝視していた。
 何故そんな、哀れむような目をする?
 笑ってくれたほうがマシなのに、何故同情するふりをする?
 やめろ、僕を見るな、そんな目で見られるのは耐えられない。僕はそんな目で見らなければならない人間じゃない、今日ここでは何も起きなかった、僕の身には何も起きなかった。今日タジマは来なかった、僕はタジマに押し倒されなどしなかった。恵の絵は破かれなかった、サムライの毛布は……
 「やめろ」
 声がひび割れた。
 上着を握る手が白く強張る。わかっている。どんなに嘘で塗り固めても、何が現実で何がそうじゃないか本当はちゃんとわかっている。だがそれを認めたら僕は壊れてしまう、どうしようもなくなる。いやだ、安田と五十嵐の前で壊れるのはいやだ、第三者がいる前でみっともなく取り乱すのはいやだ。ただでさえこんなみっともないのに、ただでさえみじめなのに、上半身裸のこんな格好で上着を掴んで、床に座りこんで一心不乱にシーツを拭いて……
 これ以上みじめにするな。
 頼むから。
 「見るな」
 死んだほうがマシだ。
 「見るな……」
 死んだほうが。

 ―「見るな!!」―

 何かが切れた。
 振りかえりざま、安田めがけて上着を投げ付ける。僕が投げた上着は飛距離が足らず、安田の顔面に被さるはずがふわりと足元に落ちた。それだけ。
 なにからなにまで情けない。なにからなにまで救いがない。せめて上着で安田の視界を覆うことができたらいいのに、せめて五十嵐が見ないふりをしてくれたらいいのに、彼らは低脳で鈍感で無神経の三重苦だからそんなささやかな配慮もできない。
 こんな僕、僕だって見たくない。けど他にどうしようもない。
 僕が見たくない以上に、サムライに見せたくないのだ。 
 安田と五十嵐の視線に苛まれ、やりきれなくなって、立ち上がる。スニーカーの靴裏で墨汁を跳ね飛ばし、舞い散る便箋を踏み付け、大股に扉へ向かう。途中上着を拾い上げ、素早く袖を通す。わざと安田に肩をぶつけるように廊下に出ようとすれば、すれちがいざま腕を掴まれる。
 「まだ何か用か」
 僕の腕を掴んだ安田は何も言わない。
 「遠慮せず笑えばいいじゃないか。僕は滑稽だろう、みじめだろう。一体なにをしてるんだと声を大にして笑えばいい。あんな最低な男に組み伏せられ裸にさせられ、四つん這いで警棒に打ちのめされて……サムライの毛布を汚したのは僕だ。友人の毛布で粗相するなんて最低だろ。タジマならきっと笑うぞ、僕は犬にも劣る最低の……」
 自嘲の言葉が止まらない。あとからあとから洪水のようにあふれだす。俯き加減にそっぽをむき、安田の方は決して見ずに、ただ肘から伝わってくる手のぬくもりを感じる。なにをやってるんだ僕は。安田に言ってどうなることでもないのに、安田は関係ないのに。八つ当たりなんて大人げない、最低だ。
 ほら。タジマの言った通り、最低の人間じゃないか。
 サムライの友人にも恵の兄にもふさわしくない、最低の親殺しじゃないか。
 「……そこに立って、見ていたならわかるだろう。部屋の惨状を見れば何が起きたかすぐわかるだろう。僕は裸で、床は散らかり放題で、ベッドは乱れている。これ以上何を説明させたい、どんな詳細な説明を求める?僕に何て証言してほしいんだ、タジマを糾弾する証拠でも集めたいのか。なら体液を採取すればいい、精液でDNA鑑定をすれば……」 
 「泣け」
 耳を疑った。
 虚を憑かれたように安田を仰ぐ。
 「……なく?」
 何故泣く?何故安田が、それを命じる?
 僕の疑問をよそに、安田は淡々と続けた。
 「君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな」
 無理を言う男だ。苦笑したいが、上手く表情が作れない。表情の作り方に失敗し、泣いてるような笑ってるような表情を晒すのはごめんだ。だから僕は無表情のまま、安田から目を逸らす。
 「手を放せ」
 邪険に安田の手をふりほどき、廊下に出る。後ろは振り返られなかった。そうする必要もなかった。五十嵐が僕に声をかけようとして、安田に止められたのが気配でわかった。自分の靴音を他人のそれのように聞きながら、覚束ない足取りで廊下を歩く。一刻も早く安田と離れたくて、五十嵐と離れたくて、逃げるように立ち去る。 

 『君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな』

 脳裏で反響する安田の言葉。
 どこへ行ったらいいかわからない。房には帰れない。廊下に残ることもできない。僕は今どんな顔をしてるんだろう、安田に心配されるほど酷い顔をしてるのか、ロンより酷い顔をしてるのか?警棒を投げられた肩が疼き、なんだかぎこちない歩き方になった。痛む肩を片手で庇い歩き続け、ふと、渡り廊下を渡り終えたことに気付く。房には戻りたくない、先へ進むしかない。この先には医務室がある。今もロンが眠る医務室……
 廊下の前方に白いドアが見えた。医務室のドアだ。
 ノブを捻り、ノックもせず開ける。咎められるかと思ったが、医者は机に顔を伏せて居眠りしていた。侵入者にも気付かない医者など即刻クビにすべきだ。慎重に医者の背後を通過し、衝立の後ろに回りこむ。僕の他に人けはない。安田と五十嵐はいつまでたっても僕が来ないことを不審がり、房まで足を運んだものらしい。そして今なお室内の惨状に手をつけかね、廊下に立ち尽くしている。
 衝立のカーテンを引き、薄暗がりを覗きこむ。
 ベッドでロンが寝ていた。ロンの安眠に配慮し、そっとカーテンを閉める。何故ここに来たのかわからなかった。ロンの寝顔など見ても何の利益もないのにと自分の行動を怪しみつつ、枕元にたたずむ。
 衣擦れの音。
 ロンがゆっくりと目を開けた。間近で覗きこめば、顔の腫れはだいぶ引いていた。枕元に立つ僕を見咎めたロンが、寝ぼけた声で言う。
 「……鍵屋崎?」
 「レイジかと思ったか」
 語尾に疑問符がついていたからそう聞けば、ロンが黙りこむ。少しは期待していたらしい。そばの椅子に腰掛け、周囲の様子を窺う。タジマが医務室を訪ねた様子はない。無意識にここに来たのはタジマの言ったことが気になってたからかもしれない、とあとづけの動機を足す。タジマの気配がないのに安心して小さく息を吐けば、ベッドに横たわったロンが落ち着きなく身動ぎする。
 半端な時間に目覚めて眠れないらしい。
 「眠れないのか」
 「ああ」
 半端な時間に訪ねた僕のせいかもしれない、と少しは責任感を感じる。毛布にくるまったロンが、まだ痣の目立つ顔を正面の虚空にむける。
 「子守唄でも唄ってくれよ」
 ひどく唐突だった。
 「子守唄?」
 「お前に起こされたんだから責任とれよ。ええと、あれがいいな。いつもレイジが唄ってる……」
 ロンがかすかな声でメロディをなぞる。上手くもまずくもない鼻歌。
 「……これ。レイジは音痴だから全然メロディ違うけど、こっちがホントらしい。ビバリーに聞いた。レイジのヤツさ、機嫌いいとき絶対これ唄うんだ。ひとが寝てようが何してようがおかまいなしに。しょっちゅう唄ってっから変に耳についちまって、なんか、聞こえないと落ち着かなくて」
 言い訳がましい早口でロンが言い、気まずげに押し黙る。単純に怪我が疼いたのかもしれない。
 「……わかった」
 淡白に頷けば、信じられないものでも見たようにロンが目を見張る。
 「どういう風の吹き回しだ、熱でもあるんじゃないか?」
 「自分から言い出してその態度はなんだ。いくら僕でも怪我人の頼みを断ったりはしない、まあ本の読み聞かせを頼まれたなら君の顔面に本を伏せ窒息死寸前まで追いこんでもみるがたかが鼻歌だ、時間も手間もかからない」
 椅子に深く腰掛け、背凭れに背中を預け、静かに瞼をおろす。体重がかかり、椅子の脚が軋む音。カーテンの衝立に遮られた薄暗がりで、ロンはじっとベッドに横たわり、僕が唄うのを待っていた。
 ロン相手に緊張する必要もない。
 清潔な白い天井を見上げ、かすかに鼻歌を口ずさむ。ついさっき聞きかじったメロディーを即興でなぞったせいで微妙な違和感が付き纏ったが、ロンはひどく満足げな表情をし、「やっぱお前のほうが上手いわ」と持って回った称賛をした。レイジと比べられても嬉しくないのが本音だ。
 医務室はひどくしずかだった。僕の鼻歌以外にはなにも聞こえなかった。
 衝立に囲われた薄暗がりで、いつのまにかロンは目を閉じていた。まどろみをたゆたうロンのそばで、僕は椅子に腰掛け鼻歌を唄う。レイジの口癖だという英語の歌を、歌詞の発音だけは正確に流暢に……
 鼻歌が途切れた。
 「……鍵屋崎?」
 ロンがうっすらと目を開けた。急に鼻歌が途切れ、不審に思ったらしい。怪訝そうに僕を見上げるロンの横、ベッドに肘をつき両手を組み合わせる。五指を組んだ両手に額を預け、俯く。
 「なんでもない」
 本当に、なんでもない。
 声がかすれそうだ。続けるのが苦痛だ。肩が痛い、タジマに殴られた場所が痛い。心も体も限界だ。だが、ロンに言ってもどうしようもない。ロンの方がもっとボロボロだ。レイジは来ない。心細いに決まってる。
 深く息を吸い、再び口を開く。組んだ両手に額を預け、こちらを気遣わしげに窺うロンに表情を読まれぬよう俯き加減に鼻歌を再開する。レイジのそれのようにわざと音程を外そうかとちらりと脳裏をかすめたが、そこまでしてやる義務はない。
 だから僕は唄う、自分の声で。
 唄が心を癒したりはしないが、気を紛らわすことはできると信じて。 
 鼻歌を続ければ再びロンが目を閉じ、今度こそ寝入ってしまった。ロンが寝息をたてはじめても小さく小さく歌いつづけ、終わりまで歌ってから両手を強く強く額に押し当てる。
 最後の最後で、歌声が嗚咽になった。
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