少年プリズン

まさみ

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二百三十三話

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 砂漠の夜は寒い。
 防寒具としてはあまり役立たない薄手の毛布でもないよりはマシだ。囚人の中には同房の人間から力づくで毛布を奪い取り二枚重ねにして暖をとる者もいる。毛布をはだけて風邪をひけば自分の不摂生だと看守に責められる、当然強制労働は休めない。風邪をこじらせ肺炎を併発した患者が医務室に運び込まれる頃には大抵手遅れで、医務室の医療設備ではどうすることもできず数時間後には処理班が呼ばれ、死体が運びだされる。
 砂漠で夜を越すのは命がけだ。
 不潔な染み汚れが目立つ毛布でも贅沢は言えない、砂漠で夜を越して朝を迎えるためには欠かすことのできない必需品だ。シーツが体温でぬくもるまでのあいだ、肩から下の体面積を覆うだけの生地しかない毛布に膝を折り曲げた胎児の姿勢でもぐりこみ、うとうととまどろむ。夢とは睡眠の初期段階たるレム睡眠の時に見るものだと脳波の研究で判明したが、僕が夢を見るのは他の囚人が寝静まり物音ひとつしない深夜だ。
 東京プリズンに来てから僕はずっと不眠症気味だ。たまには熟睡したい。
 叶わない望みだと半ばあきらめている。僕が安眠を望むこと自体間違っている、両親を刺殺し恵を精神病院送りにした僕が良心の呵責なく安息の眠りなど手に入れていいはずがない。
 だが、今晩は別の意味で眠れない。理由は単純、毛布がないからだ。
 僕の毛布は今、ベッドのパイプにかけて乾かしてある。今日鉄扉を開けたら、サムライが留守中の房にタジマがいた。僕が普段使ってる片側のベッドに腰掛け、おそろしく卑猥な笑みを浮かべていた。タジマは僕を手招きして自慰を始め、すぐに射精し、毛布に白濁が付着した。毛布の汚れは洗っても洗ってもなかなか落ちず、何回も何回も揉み洗いして、水にうたれた手がかじかみ感覚を失う頃に漸く目立たなくなった。
 ベッドも使えない。僕が普段使ってるベッドには毛布からシーツに至るまで白濁の染みが付着して、ほんの数時間前にはベルトを緩めズボンの前を寛げ股間を露出したタジマが腰掛けていて、とてもじゃないが身を横たえる気がしない。
 サムライが強制労働を終えて帰って来るまでに、半日かけて房を片付けた。ベッドの位置を元に戻し、床に膝をついて墨汁を拭き、半紙を束にして便箋をかき集めた。
 全部自分ひとりでやった、他人の手は借りなかった。 
 今日あったことをサムライに知られてはならない、絶対に。
 サムライが知ったら僕を軽蔑する。
 『なにをしてるんだ』  
 房に帰ったサムライの、第一声がそれだった。その時僕はサムライに背中を向け、洗面台に手を突っ込み毛布を洗っていた。タジマの精液が付着した毛布など手を触れるのもおぞましいがそのままにしておくわけにもいかない、僕の毛布はこれ一枚きりでこれから先ずっと使わなければいけないのだから、今日中に汚れを洗い落とし乾かしておかなければ。
 『毛布に汚れが目立ってきたから洗ってるだけだ、他に理由はない』
 『ベッドの位置が変わってないか』 
 『気分転換に模様替えをした』
 苦しい言い訳だと思ったが、サムライはそれ以上詮索しなかった。毛布を洗いながら、とうとう僕は顔を上げサムライの目を見ることができなかった。洗面台の鏡越しに見たサムライは怪訝そうに眉をひそめ、若干位置の動いたベッドを見比べていた。サムライは目敏い。普通なら気付きもしないささいな変化でも即座に見破ってしまう、遠からずここで起きたことに勘付いてしまうかもしれない。そうしたらサムライは僕を軽蔑するだろうか、僕に失望するだろうか?僕はサムライとの約束を破りタジマに抱かれようとした、自分から進んでタジマを受け入れようとした。ロンを盾に脅されたからとはいえ、サムライとの約束を放棄し、信頼を裏切った事実に変わりない。
 サムライのベッドでタジマに押し倒され、手首を縛られた記憶が脳裏によみがえる。
 サムライの毛布も洗いたかったが、そんなことをすれば不審に思われる。シーツも取り替えたかったが、そんなことをすれば必ず「なんのつもりだ」と追及される。追及されても答えられない、答えられるわけがない。砂漠で夜を越すためには毛布は必要不可欠で、絶対手放せない防寒具で、理由も明かさず他人の毛布を洗うなど許されない行為だ。毛布がなくて凍えるのは僕だけでいい、サムライは何も知らないのだから何も知らないままにさせておけ。サムライの毛布とシーツは拭いた、それこそ何回も何回も執拗に汚れを拭き取り証拠隠滅をはかった。このままサムライが気付かずにいてくれればそれでいい、ここでは何も起きなかった、僕の身には何も起きなかった。

 そして、消灯時間が訪れた。 
  
 鉄扉越しに硬質な靴音が去り、静寂が深みを増す。消灯時間を過ぎたら囚人は床に就く決まりだ。日課の写経と読経を終えたサムライはベッドに戻り、僕もまたベッドに戻る。ベッドへ戻るサムライを後ろめたく目で追う。靴を脱ぎ毛布をめくり、ベッドに膝を乗せたサムライの後ろ姿に息をのむ。 
 『感謝しろ。特別にサムライのベッドで犯してやる』
 『サムライのベッドでサムライの匂い嗅ぎながらサムライの顔思い浮かべてイケるんだ。どうだ、興奮してきたか』
 ……なにを考えてるんだ僕はとかぶりを振る。毛布に手をかけたサムライがベッドに両膝をのせる。あのベッドで昼間タジマに押し倒された、服を脱がされ裸にされ、上着で手首を縛られ四つん這いにされタジマの手で射精させられた。
 毛布とシーツには汚れがこびりついてる。 
 僕の出した、体液の残滓がこびりついている。
 サムライは何も知らずベッドに身を横たえようとしている、僕とタジマが淫らな行為に及んだベッドで眠ろうとしている。昼間の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。声を噛み殺したシーツには唾液が染みて、毛布には白濁が散って、乾いて目立たなくなったとはいえ完全に痕跡を消しきるのは不可能で……
 「待て」
 毛布に潜ろうとしたサムライを、たまらず制止する。呼びとめずにはいられなかった。毛布に手をかけうろんげに振り向いたサムライと、この日初めて目が合う。ずっとサムライと目が合うのを避け続けてきたせいで、心臓が強い鼓動を打った。声をかけたものの、どう言葉を続けていいやらわからない。情けない、豊富な語彙をもつ天才の癖に言葉に詰まるなんて。忸怩たる表情で俯いた僕を見つめ、おもむろにサムライが提案する。
 「お前がこちらで寝ろ」
 「え?」
 「砂漠の夜は寒い。毛布がなくては眠れないだろう」
 「確かに僕の毛布は洗ったばかりで乾いてない、今日は毛布が使えない。しかし君のベッドに移るのは抵抗が……それに、君はどうする?僕がそちらのベッドを使うならどこで寝る」
 「床で寝る」
 とんでもないことを言いだす。が、サムライは頑固だ。一度言い出したことは撤回せず、僕がサムライのベッドに移ろうが移らなかろうが床で寝るつもりだろう。どうサムライを翻意させたものか頭を悩ますが、やがてため息をつき腰を上げる。心の奥底で安堵したのも否定できない、サムライが今晩ベッドを使わないなら見慣れない染み汚れに気付かれるおそれもない。
 サムライに知られるのが時間の問題でも、気休めにはなる。  
 サムライと入れ替わりに靴を脱ぎ、ベッドに横たわる。慎重に毛布に潜りこめばかすかな墨の匂いが鼻腔を突く。サムライの匂いだ。以前の僕なら他人のベッドに移るなど考えられないと拒絶したはずだが、今日は抵抗する意志さえ失せていた。体が消耗して心が磨耗して、口を開くのも億劫だった。大人しく毛布を羽織りベッドに身を横たえた僕の背後でサムライが頭上に手を翳し、あかりを消す。
 暗闇。 
 背後で衣擦れの音。サムライは本気で床で寝る気らしい。僕とベッドを交換するという選択肢もあったのに、あえて床で胡座をかき腕を組み睡魔の訪れを待つ。自分は武士なのだからこのくらい何ともないと代弁するかのごとくかたくなな態度だ。裸電球が消えた暗闇では異常に聴覚が敏感になる。サムライの息遣いやほんのささやかな衣擦れの音がひどく気になり、平常心をかき乱す。サムライがすぐそばにいるという安心感にもまして僕を不安にさせるのは、サムライに背中をむけているせいで彼の顔が見えない矛盾。
 サムライがすぐそばにいるのに、いないようで。
 「サムライ、いるか」
 さりげなく声をかける。
 「ああ」
 「寒くないか」
 「ああ」
 「嘘をつくな。砂漠の夜は冷えると自分で言ったくせに」 
 「俺は平気だ。ここに来て長いし修行を積んでる」
 なんの修行だ。
 「……虚勢を張るな。本当は寒いんだろう」
 「断じて寒くはない」
 「毛布が要るんじゃないか。毛布なしで夜を越すのは自殺行為だ、風邪をこじらせて肺炎を併発したら東京プリズンじゃ助かる見込みがないぞ。明日も強制労働があるんだから自重したらどうだ」
 「武士に二言はない。すでに寝床は明け渡した、今さら……」
 サムライがくしゃみをした。ばつ悪げに黙りこんだサムライを振り向く。いくらサムライでも毛布なしで砂漠の夜を越すのはつらい。人体には限界がある、人間には限界がある。一度こうと決めたら譲らない頑固なサムライにため息をつき、ゆっくりと上体を起こす。暗闇に目が慣れるのを待ち、こちらに背中を向けたサムライに提案する。
 「……一緒に寝ないか」
 腕組みをほどき、サムライが振り向く。無表情なサムライには珍しく、眉を上げ目を見開いた驚愕の表情だ。
 「風邪を伝染されるのはぞっとしない。生憎僕の毛布は乾いてない、今使えるのは君の毛布一枚きりだ。ならば効率を重視してもっとも賢い選択をした必然の結果、僕と君が毛布を共有し同じベッドに寝るのが誰もが納得する合理的結論というものじゃないか」
 サムライにベッドを譲られ安心したのは事実だが、それで風邪をひかれては困る。僕を守って怪我をするのも僕にベッドを譲って風邪をひくのも、たとえ本人がそれでよくても僕がよくない。それに裸電球を消せば暗闇に紛れて毛布のしみ汚れがわからなくなる。
 「……いいのか?」
 「質問の意図が不明だ。君のベッドだ、遠慮する必要がない。僕が邪魔だというならすみやかに自分のベッドに戻るが」
 「いや、そのままでいい」
 サムライも頑固だが、僕も頑固だ。サムライが首肯するまでは意地でも寝ないと意思表示してベッドに身を起こせば、諦念に至ったサムライが嘆息し、靴を脱ぎベッドに上がりこむ。サムライが膝に体重をかけたいせでぎしりとスプリングが軋む。
 一緒に寝ないかと提案してみたが、これはこれで落ち着かない。サムライの息遣いを耳朶に感じ、五感が冴える。毛布をめくり、隣に横たわるサムライによそよそしく背をむける。今度は近すぎて眠れない。一枚の毛布にくるまったせいで、サムライの存在を必要以上に意識してしまう。
 余計なことを考えるな、早く寝ろ。
 雑念を追い散らし睡魔に身を委ねようと固く目を閉じる。壁の方をむき、肩まで毛布をかけた僕の背後で衣擦れの音。サムライが居心地悪げに身動ぎする気配、予想だにしない展開に戸惑ってるらしい。シーツに顔を埋め、寝たふりをする。何故か心臓の動悸が速まり頭が覚醒し、瞼を下ろして視覚を遮断したぶん他の感覚が先鋭化する。かすかな墨の匂いが鼻腔を突き、衣擦れの音がひどく耳障りで、肌をこするシーツの質感が落ち着かなくて……
 首の後ろにひやりとした感触。
 「!」
 驚き、声をあげそうになった。肩越しに振りかえれば、サムライが僕の首の後ろに指をあてがい、小揺るぎもしない瞳で虚空の闇を透かしていた。
 「これはなんだ」
 歯型だ。先日レイジにつけられた歯型がまだ癒えてなかったのだ。首の後ろは敏感な部分だ。その敏感な部分に、無骨な指がふれる。サムライの指は男らしく節くれ立っていた。劣情の火照りを感じさせない、歯型の窪みをただなでさするだけの刷毛のような指遣い。乾いた指で首の後ろをさすられ、むず痒いようなくすぐったいような緩い快感が芽生える。皮膚の表面がひどく過敏になっている。指で感じるなんていやらしいやつだな、とタジマなら嘲笑するだろうと想像し、固く目を閉じてその想像を追い出す。
 「このまえレイジにつけられた歯型だ」
 ふざけて僕の首を噛んだレイジはあの時も笑っていた、豹とじゃれてる気分でぞっとしなかった。それを聞いたサムライが不機嫌になる。
 「やはり斬っておくべきだった」
 「斬るほどのことではない」
 「斬るほどのことだ」
 「何故怒るんだ。理解できない」
 「お前が体を粗末にしたからだ」
 なら、今日起きたことが発覚すれば激怒するだろう。他の男には体をさらわせないと約束したにもかかわらず、タジマに体を開こうとしたのだから。
 他でもない、サムライが日常寝起きするベッドで。
 重苦しい沈黙が落ちる。夜が深まり、闇の濃さが増す。サムライは寝たのだろうか?隣は物静かで衣擦れの音さえしない。寝返りも打たないのか、と不審に思う。どれくらい時間が経過した頃だろう。サムライに背中を向け、壁と向き合い、眠くもないのに眠ったふりを続ける。
 「寝たのか?」
 サムライは起きていた。僕とおなじで、なかなか眠れない体質らしい。寝たのか、と控えめに質問したサムライに返事しようと口を開いた瞬間、肩に激痛が走り体を二つに折る。
 「痛っ、」
 僕の無反応をいぶかしみ、本当に眠ってるのか疑問を抱いたサムライが、真偽を確かめようと肩に手をかけたのだ。悲痛な苦鳴を漏らして身を捩れば、当惑したサムライが突拍子もない行動にでる。はじかれたように跳ね起き、片手をのばし、僕の上着の背中をめくりあげる。上着をめくられた背中が肌寒い外気に晒され、肌が粟立つ。
 抗議する暇もない早業だった。いや、肩の激痛に身をよじりシーツを掻く僕は歯茎が軋むほど顎に力をいれ苦鳴を噛み殺すのが精一杯で、サムライに上着を鷲掴まれ裸の背中を凝視されても抵抗できなかった。
 「……これはなんだ」
 肩越しに振り返れば、サムライが愕然とした表情で呟いた。外気に晒された肩甲骨の右側にひどい痣ができていた。できてから数時間も経過してないあざやかな青痣、警棒を投げつけられたあとだ。
 「だれにつけられた?」
 声音は静かな怒りの波動を孕んでいた。サムライの視線と肌寒い外気とに背中を晒したまま、肩口の痣を庇う手段とてなく、生唾を嚥下する。
 闇を貫く猛禽の双眸に怒りの燐光を宿し、表情は厳しく引き締め、痣を凝視する。肩に視線の熱を感じ、肌が疼く。言い逃れはできない、サムライの追及をはぐらかすのは困難だ。サムライの手を振り解こうと暴れてみたところでサムライは決してあきらめず、肩の痣の理由を納得いくまで問い詰めるだろう。
 諦念のため息をつき、なげやりに呟く。
 「言いたくない」
 今日のことは話したくない、なかったことにしてしまいたい。上半身裸で廊下に逃げ出し、怒り狂ったタジマに警棒を投げつけられたなんて話せるわけがない。痣ができた理由を話せば必然その前後の経緯も明かさねばならない。サムライの留守中にサムライのベッドでタジマに犯されかけたなんて言えるわけがない。サムライは今も何も知らず、僕とタジマが肌を重ねたベッドに身を横たえているのだ。
 「言え」
 「どうでもいいじゃないか」
 「どうでもいいことがあるか」
 「僕は眠いんだ、話は明日にしてくれ。さあ早く上着をはなしてくれ、風邪をひいてしまう」
 「納得いく答えを得るまで放さない」
 「しつこい男だな」
 さすがに辟易し、邪険に肩を揺すりサムライの手を振り落としにかかる。サムライは動じない。裸電球が消えた闇に上体を起こし、僕の上着を掴み、体温の失せた目でじっと痣を観察している。上着の隙間から忍びこんだ骨まで染みるような冷気が肌を粟立たせ、背中を固く強張らせる。サムライの顔が見れない、目を直視できない。ひたすらシーツに顔を埋め無視と無関心を決めこみ、サムライが上着を手放してくれるよう祈る。頼むからこれ以上追及するな、関心を持つな、そっとしておいてくれ―……
 「直、こちらを向け。寝たふりをするな」
 無視する。背中にひやりとした感触。業を煮やしたサムライが上着の隙間から手を忍ばせ、肩甲骨に触れた。肩の痣を包むように五指を広げ、物憂げに畳みかける。
 「俺の顔を見ろ」
 「………」
 サムライの顔など見たくない。見れば決心が鈍り、心が惑う。毛布にくるまり壁を向き、頑固に背中を向け続ければ僕の注意を引こうと上着の内側で手が動く。ぎこちなく不器用な、真摯にいたわる手つきで痣を撫でるサムライ。骨張った指で肩甲骨を包まれ、やさしく痣を慰撫され、体が芯から溶ける。僕の体温が伝染したのか、サムライの指が徐徐にぬくもりをおび、くりかえし痣をなでさする動作が心地よいものへと変化する。ずっと昔、まだここに来る前、風邪をひいた僕の手を恵が握ってくれた。体が弱っている時は人肌のぬくもりも不快じゃない、逆に不安を和らげる効果もあるのだとその時初めて知った。
 恵が教えてくれたのだ。
 恵。僕の妹。大事な家族、かけがえのない存在、唯一の存在意義。恵名義で手紙が来た時は舞い上がって勘違いした、恵が僕を許してくれたんじゃないかと馬鹿な想像をして自分に都合よい解釈に酔い痴れさえした。恵名義で手紙が来たのは僕を喜ばせようという担当医の配慮で、結局はそれが裏目にでて、僕の期待はひどく裏切られた。
 でも、今なら言える。素直に肯定できる。それでも恵から手紙が届いて、恵の近況を知ることができて嬉しかったと。現在の恵について知ることができて安心した、恵が順調に回復してるとを知り周囲の人間に優しくされてると知り安心した。たとえ恵がそうは思っていなくても、恵は今でも僕の大事な家族で大事な妹だ。僕が一方的に思いこんでいるだけだとしても恵を大切だと思う気持ちは本物で、まぎれもなく鍵屋崎直という人間の一部だ。
 恵から届いた手紙を粗末にするんじゃなかった。無造作にベッドの下なんかに投げこんでおくんじゃなかった。絶対見つからない場所に隠しておくべきだったのに、タジマの手に届かない場所に厳重に保管しておくべきだったのに……今さら悔やんでも遅い。すべては僕の不注意が招いた事態だ、原因はすべて僕にある。手紙には恵の絵も同封されていたのに、恵が一生懸命描いた大事な絵も同封されていたのに、その絵は僕の目の前でタジマに握りつぶされ口に放りこまれ咀嚼されてしまった。今ごろはタジマの胃の中で消化されてるかもしれない。
 恵の絵。
 あれは、恵の夢だったのに。恵がこうあって欲しいと幼心に望んだ家族の肖像だったのに。
 「………直?」
 何故タジマから取り返せなかった、奪い返せなかった?僕は恵の兄で恵を傷付けるすべての者から妹を守ると誓ったのに、何があっても絶対守り抜くと誓ったのに、恵の絵すら奪い返せなかった。自分の力では何もできなかった。外では僕が守る側だった、庇護する側だった。誰かを庇護することで強くなれた気がした、恵に頼られることが純粋に嬉しくて居心地良くて、恵の為なら何でもできると嘘偽りなく思った。
 東京プリズンでは、僕は何の力もない。ただの無力な人間で、妹の絵さえ取り返せなくて、友人に守ってもらうばかり負担をかけてばかりの足手まといで、
 「どうした」
 今日だって何もできなかった、自分の足ではタジマから逃げきることもできなかった。安田と五十嵐が現れなければあのまま引きずり戻され犯されてたはずだ。今こうして身を横たえるサムライのベッドで、
 「直」
 結局僕は何もできない。天才のくせに誰も守れない、妹ひとり満足に守り通せず自分の身すら守り抜けず誰かが助けに来るのを待つしかない。無駄に高い知能指数が何の役に立つ、誰の役に立つ?自分の役にさえ立たないじゃないか。優秀な精子と卵子を試験管でかけあわせ遺伝子をいじくり最高の頭脳を手に入れてもここでは何の意味もない。僕は無意味な存在だ。もし僕が強ければ、たとえばサムライやレイジのように強ければ誰にも頼らずタジマから身を守れたはずだ。傷ひとつつけず恵の絵を奪い返せたはずだ。

 何故僕は無力なんだ?
 こんなにも無力なままなんだ?

 無力で非力でみっともなくて、すべてが終わってからみじめに足掻くしかないのが僕の現状なのか?ロンがひとりで戦ってるときもリング脇に突っ立っているだけで何もできなかった、参戦表明しても僕では戦力にならないどころか足手まといなのが実状だ。僕がサムライの足を引っ張っている、サムライに迷惑をかけている。ずっとサムライと対等になりたかった、恵に誇れる兄でいたくてサムライに頼られる友人になりたくて必死に足掻いていた。 
 でも、限界だ。
 恵許してくれ、限界なんだ。
 今の僕になにができる?なにもできない、なにひとつできない、それが明確な答えで残酷な現実。足掻いても足掻いても蹴落とされるだけ、サムライの隣に並ぶことはできない、恵のところへ帰ることもできない。
 僕の居場所はどこにある?僕はどこへ行けばいい?
 父さんと母さんが、鍵屋崎優と由香利が今の僕を見たら失望する。こんな無力で無能な人間に教育した覚えはないと幻滅する、僕に殺されたことを無念に思うだろう。
 天才ならどうにもならなかったこともどうにかできたはずなのに、と。
 「………っ、」
 胸が苦しいのは何故だ、喉が詰まるのは何故だ?砂でも噛んでるみたいに喉の奥がざらつくのは?タジマに殴られた肩が痛くて寝返りも打てない。手首にはまだ、上着で縛られた違和感が残っている。タジマに愛撫された場所にはまだ痣が残っている。鬱血した手形に唇で強く吸われた痕、淫らな行為の痕跡。
 サムライに体を見せたくない。僕は約束を破った、タジマと寝ようとした。最低の裏切り者だ。タジマにさわられて快感に流されて、プライドはどこへやった?
 これなら不感症のほうがマシだ……
 『泣け』 
 唐突に、安田の言葉が甦る。
 『君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな』
 僕の肘を掴み、沈痛な面差しで安田は命じた。僕に人前で泣けと強要した。冗談じゃない、そんなプライドのない真似はできない絶対に。それに僕は泣き方を知らない、物心ついてから今まで泣いたことなど片手で足りるくらいで、人前で涙を見せたのは売春班最後の夜だけだ。廊下をさまよい医務室へ行き、ロンに頼まれて鼻歌を口ずさむ最中、胸が絞め付けられるように痛み、最後の歌詞が嗚咽になった。ロンがぐっすり眠っていたから泣けた。唇を噛み嗚咽を殺したから、とうとう最後までロンは気付かなかったはずだ。
 それでいい。
 それでいいんだ。
 なのに何故、胸が苦しいんだ。苦しくて苦しくて哀しみに溺れそうで、息もできない有り様なんだ?隣にはサムライがいる、サムライがいるのに嗚咽をこぼせるわけがない。泣く必要もない。意味もない。
 僕がすることは全部無駄で無意味だ。
 恵を守るために両親を刺殺したことも、リュウホウを救いたくて救えなかったことも売春班での日々も、タジマに抵抗したことさえ無駄で無意味だった。
 僕は無意味だ。
 僕の存在は無意味だ。鍵屋崎直は無意味な人間だ。だから鍵屋崎直なんて固有名詞は必要ない、便宜上の呼び名はただの「親殺し」で十分だ。僕には名前なんかもったいない、そんな上等なものは要らない。
 タジマは僕を「親殺し」と蔑む。他の囚人は僕を「親殺し」と罵る。
 人に呼ばれない名前に意味はない……
  
 「直」

 その時だ。
 背後からサムライに抱きしめられたのは。
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