少年プリズン

まさみ

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三百三十六話

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 僕一人の力で犬をどかすのは無理だ。諦念して目を閉じた脳裏にサムライの顔が浮かぶ。今朝別れてきた時のままの仏頂面……犬と交わった僕をサムライは軽蔑するだろうか……
 その時だ。

 「すぐるに手をだすな!!」
 十ヶ月ぶりに、本名を呼ばれた。

 あんまり久しぶりだったから自分でも本名を忘れかけていて、呼ばれた瞬間に夢から覚めた心地がした。犬に跨られた僕の視界に飛び込んできたのは、安田の姿。看守の拘束をふりほどき、背広の裾を翻し、自分の身もかえりみずに駆けて来る姿―……
 衝撃。何が起こったのかわからなかった。体が後ろへふっと飛ばされたのだと気付いた時には、もう格闘が始まっていた。安田が体当たりで犬にぶつかり僕の上から突き落とし、そのまま一人と一匹がめまぐるしく縺れ合う。
 交尾を中断されて凶暴化した犬は鋭い犬歯を剥いて喉を狙う、何度となく喉めがけて襲い来る口腔をすれすれで避けながら叫ぶ。
 「囚人を守るのが副所長の義務だ、こんなふざけたお遊戯私は認めん、断固拒否する!たとえあなたが所長の地位にあろうが物には限度がある、これ以上鍵屋崎に危害を加えるというなら」
 「どうするというんだね」
 「私が相手になる!!」
 仕立ての良い背広を砂まみれにし、オールバックをぐちゃぐちゃに乱し、眼鏡のレンズに犬を映した安田が戦線布告。飼い犬と部下とが傷だらけで死闘を演じるさまを見下ろし、所長が哄笑をあげる。
 「面白いではないか安田くん、ならば相手になってもらおう、ハルの性欲処理係に君を任命しよう!」
 安田の顔が絶望に歪んだ瞬間を見逃さず、ハルが襲いかかる。安田が殺される。跳ね起きた僕は、尻ポケットに手を突っ込み、レイジに渡しそびれていた黄金の玉を掴む。
 「安田から離れろ!!」
 全力の投擲。勢い良く腕を振りかぶり、犬の鼻面にひと掴みの玉を投げ付ける。鼻面に玉の直撃を食らった犬がきゃひんと一声鳴いて安田から離れる。
 砂の上に無数の玉が散らばり、陽光を弾く。
 静流と別れたあとは放心状態でレイジの房に寄るのを忘れていて、それから何となく返しそびれていたのが役に立った。
 犬と入れ違いに安田に駆け寄り助け起こし、背広の砂を払ってやる。
 「自己犠牲精神に酔うのは結構だが実力が伴わねば無謀だ、僕を救出したところであなたが危機に陥ったらプラスマイナスゼロで事態が進展しないだろう、そんなこともわからないのか手のかかる大人だな!」
 「うっ……」
 安田が小さくうめいて起き上がろうとして、僕の肩越しに何かを目撃した目が見開かれる。背後に忍び寄る獣の気配。くそ、しつこい!安田を抱き起こしたまま振り向いた僕は……
 「ぎゃあああああああああああああっああああああああっ!!?」
 言葉を、失う。
 さっきまで死に物狂いで安田を襲っていた犬が、手近な囚人に標的を転じて、その股間に食いついたのだ。思いきり。怒りに我を忘れて無差別攻撃に走ったものらしい。犬を股間にぶらさげたまま悶絶する囚人には見覚えがある。売春班に僕を訪ねた最初の客、毎日のようにいやがらせをしてくる少年だ。
 ズボンの股間に真っ赤な染みが広がっていく。
 凶暴に唸りながらズボンの股間に食いついた犬はまだ離れない、我に返った看守たちが「こら、離れろ!」「離れろよバカ犬!」と罵っても言うことを聞かない。僕と安田は互いに寄りかかって無残な光景を見つめていた。看守に押さえ込まれたロンの顔は恐怖に引き攣っていた。
 「やめたまえ、その囚人から離れろ!」
 副所長の矜持を取り戻した安田が力づくで犬を引き剥がそうと腰を上げる。だが、安田の到着を待たずに看守数人がかりで犬は引き離された。
 いまだ興奮冷め遣らず唸り続ける犬の口腔から、赤い涎がぼたぼた零れる。
 この世のものならぬ絶叫が轟き渡る。
 「睾丸、食いちぎりやがった……!!」
 囚人が数人、手で口を押さえて蹲る。
 血の匂いに酔って嘔吐する者がいる。
 片方の睾丸を食いちぎられた少年は、口から白濁の泡を噴き、白目を剥き、ショック症状の痙攣を起こしていた。
 早く処置せねば命に関わる。
 「安田、ジープを運転しろ!定時にならねばバスはこない、いま怪我人を運べるのはあなたが乗って来たジープだけだ!後部座席に彼を収容して車をだすんだ、はやく!」
 この場で医学の知識を持っているのは僕だけだ。深呼吸で気を落ちつかせ、囚人と看守の狂乱の中を歩いて怪我人の傍らに膝をつき、応急処置をする。ちょうど服が裂けていたのが役だった。即席の包帯を作って血の流れを塞き止めつつ安田を促せば、嫌味ったらしい口調で但馬が割ってはいる。
 「まさか『あれ』を車に乗せるのかね。座席が血で汚れてしまうではないか。しかも後部座席とは……運転手の君はともかく、私とハルはどこへ座ればいい?」
 飼い犬が囚人の睾丸を食いちぎったというのに、罪悪感などひとかけらなど感じてない晴れやかな顔だった。いや、そればかりか……愉悦に酔ってさえいた。最初に狙いを付けた獲物とは違うが、飼い犬が見事家畜を仕留めるところを見て機嫌をよくしたらしい。
 今にも所長に殴りかかりそうに安田のこぶしがわななく。眼鏡越しの目で憎悪が爆ぜる。
 「……責任はとります」
 「たのしみだね」
 苦汁を呑んで決断した安田に所長が薄く笑みを浮かべる。それきり所長のほうは見ずジープに飛び乗り、看守に的確な指示をだして少年を後部座席に横たえる。 
 「間に合ってくれよ」
 切迫した横顔で安田が言い、ハンドルを握る。低いエンジン音とともに盛大に砂煙が舞い上がり視界を覆う。怪我人の血で手を汚した僕は、呆然とその場に立ち竦み、彼方に去っていくジープを見送る。
 「やれやれ、彼が帰ってくるまで我々は待ちぼうけか」
 怪我人を乗せたジープを見送り、犬の頭を撫でながら所長がつぶやく。
 返り血にまみれたドーベルマンが飼い主を仰いで吠える。
 何度も。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。
 「よーしよし、ハルはお利口さんだあ。群れの中から無能な家畜を見つけ出し去勢までしてくれるとは、お前ほどよく出来た犬は世界中さがしても他にいない。忠犬ハルとはお前のことだ。さっきは鞭でぶって悪かったな、痛かったろう?」
 但馬がハルを舐める。犬の頭を抱え込み、鞭打たれて血が滲んだ傷痕に何の抵抗もなく舌をつける。
 「なんて素晴らしい犬だ、世界最高の犬だ、私が心を許したただ一匹の友であり伴侶であり奴隷であり息子であり弟の身代わりだ。そうさ、だから弟の名をとってハルと名付けたんだ。お前はあの愚弟とは比較にならない利口な犬だが虐げられて許しを乞う時の目つきは瓜二つだ!!ああ、お前らときたらなんて愛らしい生き物なんだ!!」
 狂った哄笑が響き渡る中、嫌悪の表情でロンが吐き捨てる。
 「犬に弟の名前つけるなんざ正気じゃねえ。完璧イカレてやがる」
 「同感だ」
 血で汚れた手を見つめ、僕は深く頷いた。
[newpage]
 犬の金玉食いちぎり事件別名ワンコがチンコ食っちゃった事件は波紋を呼んだ。
 事件が起きたのは今日の昼で、僕はずっと砂漠と隔離されたビニールハウスにいたから気付かなかったけど流血の惨事の現場は大騒ぎだったらしい。
 そういえば、ホースで水撒きしてるときに遠くから喧騒が聞こえてきた。
 声が無駄にでかい囚人がうるさいのはいつものことで、どうせまた乱闘でも勃発したんだろうって気にもとめなかったけど、思い返してみれば様子がおかしかった。
 甲高い悲鳴、野太い罵声、破れ鐘の怒声……
 それらが混沌と渦巻いて事件現場の恐慌を伝えてきた。異常事態が発生してるってピンときた。でも素知らぬふりで水撒きを続けた。
 砂漠で乱闘が起きるのは珍しいことじゃない。
 物好きな野次馬なら目の色変えてとびつくだろうけど、ビニールハウスでラクな仕事に就いてる僕はよっぽどのことじゃないと食指が動かない。
 外は暑い。砂漠は暑い。空調設備が万全に整ったビニールハウスを出て炎天下の砂漠を駆けてくなんて馬鹿らしい。愚の骨頂だ。だから僕は快適なビニールハウスでいちごに水やりを続けた。
 事件のあらましを知ったのは帰りのバスでだ。
 ワンコがチンコ食っちゃった惨劇をばっちり目撃した囚人の顔は恐怖に青ざめていた。無意識に股間を押さえる奴もいた。内股になりがちに事件の詳細を伝える囚人の囁き声で、バスの中は蜂の巣つついた騒ぎだった。
 そして、夕食。
 食堂はワンコがチンコ食っちゃった事件でもちきりだった。
 レイジがトップになってからというもの抗争や紛争が絶えなくて殺伐とした空気が充満したけど、それはそれこれはこれ。実際、日々激化する抗争とは関わりなしにのんびり過ごしてる囚人も多い。レイジのトップ就任を認めず暴動起こした好戦的グループと接点さえなければ、今まで通りにぬる―い日常を送ることができる。
 東京プリズンにも日和見主義の平和主義者は大勢いて、自分の身を危険にさらすのに積極的でない連中は、退屈を紛らわす娯楽として他の誰かの身に起きた悲惨な事件を求めてやまないのだ。早い話、デンジャラスはお呼びじゃないがスリルは欲しい連中ね。
 そんな連中にとって、ワンコがチンコ食っちゃった事件は格好の餌だった。
 本日食堂で祭られたのは、キンタマ喪失という男にとって最大の悲劇に見舞われたイエローワークの名無しくん。平均5・6人のグループごとにテーブルに散らばった連中は、箸や食器を片手に「しっかしやることえげつねーなー、新所長殿は。さすが史上最低最悪の鬼看守タジマの兄貴」「獣姦ショウなんて普通思いつかねーだろ。どんな頭してんだか」「囚人狩りスタート」「金玉食い千切られた奴カワイソー」と、さも恐ろしげに話している。
 もっとも、怖がってるのはうわべだけ。タジマの兄を名乗る新所長就任からこっち退屈ふっとばす事件が次々起きて腹の中では喜んでるのが現状だ。
 「あーあ、こんなことなら僕も行けばよかったよ。チンコがワンコ食っちゃったとこ生で見たかった」
 「逆っスリョウさん、ワンコがチンコ食っちゃったっス!チンコがワンコ食っちゃったってキラーコンドームっスか、それ」
 あきれ顔のビバリーのツッコミを無視、上唇に箸を乗っけてバランスをとる。箸を落とさないよう上唇と鼻の間に挟めば自然顔の部品が真ん中に寄る。
 へんてこ顔で不満を訴える僕を見上げ、ビバリーが嘆く。
 「だいたいリョウさんも他の人たちも不謹慎っスよ。金玉食い千切られるなんて男にとって最大の悲劇、想像しただけで金玉竦みます。ま、かたっぽだけだってのがせめてもの救いっスねえ。かたっぽ残ってれば生殖可能でしょうし子孫だって残せます」
 「いっそ両方とも食われちゃえばよかったのに。そしたらコンドーム要らず」
 「リョウさん」
 「ムスコが無事なら息子残せるってね」
 おっかない目で睨まれおどけて首を竦める。カタいんだからビバリーってば。冗談通じない。他のテーブルを見まわせば、話に熱中するあまり食事を疎かにした囚人が下品に唾飛ばして「犬予防に鉄のパンツ穿くってのはどうだ?」「ばあか、どうやって脱ぐんだよ」「どうやって小便するんだよ」と真剣に論争してる。くだらない。上唇の箸をとり、おかずをつつく。
 今日は洋食。まずいマッシュポテトとコンソメスープと温野菜のサラダとベーコン二切れの貧相な食卓だ。
 行儀悪く頬杖つき、茹でたブロッコリーを箸で転がしながらため息を連発。
 「リョウさんこの頃元気ないっスねえ。どうかしたんスか」
 ビバリーが心配げに声をかけてくる。いつものほほんとしてる癖に妙なところで鋭いんだからと舌打ち、ブロッコリーにぐさりと箸を刺す。
 「んー。秘密のダンジョンの入り口捜しが難航しててねえ」 
 穴の開いたブロッコリーを箸で転がしながら、ここ数日間の悪戦苦闘をうんざり思い返す。
 医務室でホセと会って胡散臭い地図を渡されたのが三日前。南の隠者の依頼は、地図に印を付けた場所のどこかに地下への入り口があるはずだからそれを見つけて来いってちんぷんかんぷんな内容。

 『地下への入り口?なにそれ、東京プリズンの地下にダンジョンが広がってるっての?ドラゴンとかゾンビとかうろついて古代の宝が眠ってるとかRPGぽい展開になるわけ、これから』
 『鋭い。君の言うこともあながち間違いではありません』
 ホセは謎めいた微笑を深めるだけで、それ以上僕に説明するつもりも疑問を解消する手助けをするつもりもないようだ。イケズな隠者だよと心の中で愚痴りつつ、ホセから借りた地図を四つ折りにし、ポケットにしまう。
 『イエローワークの囚人なら毎日砂漠に出かけても不自然ではない。徒歩で砂漠に向かえば半日かかりますが、イエローワークの送迎バスを利用すれば時間が短縮できる。リョウくん、君はイエローワークの人間です。仕事にいそしむフリで砂漠をうろついててもなんら不自然ではなく、そこらじゅうに掘られた穴をひとつひとつ検分して地下への入り口を捜すのも可能なはず』
 『へんなの。それじゃまるで、君が言う地下への入り口を見つける為に僕らに穴掘らせてるように聞こえるじゃん』
 口にしてから、それが真実じゃないかという疑惑が頭を掠めた。イエローワーク名物、水が湧くまでひたすら穴を掘り続ける不毛な肉体労働。地下水脈に当たって井戸が湧き出す可能性が小数点以下の確率でも、白熱の太陽の下、鍬やシャベルを手に汗水たらして穴掘りを続ける囚人たち……
 しかし、別の目的があるとしたら?
 イエローワークの穴掘りには別の隠された意味、真の目的があるのだとしたら?
 第一、畑を耕すには井戸が必要だからと囚人を動員するのはおかしい。労力と実益が釣り合わない。井戸を掘るならもっと他のやり方があるはずだ。
 外から地質学者を招いて水脈の場所を予測して、ブルドーザーとかショベルカーとか大がかりな重機を用いて一挙に掘り返した方がはるかに効率が良く成果も上がる。時代遅れの肉体労働にこそ価値があるって?まさか。ぶっ倒れるまで囚人こきつかっても肝心の水脈掘り当てなきゃ意味がない。
 『そうです。それこそまさに東京プリズンの秘密の一端、無意味な穴掘りには意味があるのです』 
 『この地図はなに?イエローワークの砂漠の地図だってのはわかったけど、この印は?教えてよホセ、東京プリズンの地下には一体なにがあるの』
 『君はただ吾輩の命令を忠実に遂行すればいいんです。報酬は弾みます』
 話が噛み合わない。質問に答える気はさらさらないようだ。医務室のベッドに腰掛けたホセは、手を組み合わせて祈りのポーズをとり、黒縁メガネの奥の目を冷酷に光らす。
 『あまり深入りすると命の保証はできませんので、あしからず』

 「とんでもない依頼ひきうけちゃったなあ。ああもー!」
 カーテンで仕切られた薄暗がり、組んだ手の上に顎を乗せ、威圧的な声音で僕を脅迫した隠者を思い出せば二の腕がぞわりと粟立つ。
 報酬に目がくらんで二つ返事で引き受けたのが運の尽き。
 ここ三日間というもの看守のご機嫌とってビニールハウス抜け出しては、地図のしるしを頼りにあっちへ行ったりこっちへ行ったり砂漠をさまよってみたけど一向に成果がない。クレーターみたいに地面にボコボコ開いてる穴を片っ端からを覗きこんでとび下りて仔細に調べてみたけど異状は見られない。
 クレーターは数限りなく砂漠に散らばってる。ひとりで捜すのは体力気力の限界。本当に正解なんてあるのか、ひょっとしてホセに騙されてるんじゃないかと日が経つにつれ懐疑的になってくる。 
 「がんばってくださいリョウさん。商売は信用第一、約束したんなら守らないと」 
 「じゃあビバリー手伝ってよぉ~~~あとでフェラしてあげるからあ」
 「まっぴらごめんっス」
 そっこー拒否られた。使えない相棒に舌を出し、ズボンから地図をとりだし、ひっくりかえす。上下逆にして角度を変えてためつすがめつしても新しい発見はない。食べかけのトレイをどけてテーブルに寝そべった僕を「お行儀悪いっスリョウさん、ママにお尻ぺんぺんされちゃいますよ」とビバリーがたしなめるのに「ママはそんなことしないもん」と生返事……
 「あれっ」
 「?どうしたのビバリー」
 ビバリーが脳天から声を発して、僕の手の中の地図を奪い取る。
 そして、真面目くさった顔つきで調べ始める。
 「この地図、見覚えあります」
 「マジ!?」
 おもわず叫んじゃった。ビバリーは僕の声も届かないのか、恐るべき集中力を発揮して念入りに地図を調べている。期待と興奮を込めてビバリーを見守る僕の耳に、調子っ外れの声がとびこんできたのは次の瞬間だった。
 「ところでロン、重要な話なんだけど……帰りのバスで痴漢被害に遭わなかったか?」
 振り向かなくてもわかる。声の主はレイジだ。けど、一応振り向いてみたのは好奇心に負けたからだ。手すりから身を乗り出し、人でごったがえした一階に視線を飛ばす。僕とビバリーの指定席は二階の手摺側で、前にも説明したけどここからは一階の混雑がよく見渡せる。
 東棟の王様もとい東京プリズンの王様と愉快な仲間たちは、中央やや左寄りのテーブルの一角を占めていた。レイジの隣には仏頂面のロンが座ってて、箸を動かす手を止めずに吐き捨てる。
 「レイジ、殺していいか」
 「いやだ。だってマジ心配したんだぜ、房に帰ってきたらズタズタのボロボロで擦り傷だらけで狂犬と格闘してきたみてえな有り様で、何があったんだって目を疑ったよ。あんな破廉恥なカッコで帰りのバスに揺られてたのかと思うと、ロンの色気にあてられたケダモノどもがおいた働かなかったか心配で心配で!」
 「ケツ揉もうとしたヤツはおもいきり手え抓ってやったよ。余計な心配すんな、うぜえ」
 「あ、そ?じゃあそいつ殺しにいかなくていいか。最低ロンのケツさわるだけなら許せてもケツの穴に指突っ込んだヤツは本の角でガツンと」
 「飯食ってるときに汚ねえこと言うな、食欲なくなんだろ!替えの囚人服貸してくれたことは感謝してっけどお前の無神経には毎度ホント腹立つよ、こちとらただでさえ犬が金玉食いちぎるとこ見せられて胃袋縮んでんのに!!」
 キレたロンが箸を投げ捨てレイジに掴みかかる、毎度おなじみの痴話喧嘩の光景だ。へらへら笑いながらロンをあしらうレイジの胸では黄金の十字架が輝いてる。三日前、所長に引き千切られてあちこちに散らばった玉が綺麗に繋げられていた。口先だけでなく手先も器用な王様にあきれるやら感心するやら。
 騒々しくじゃれあうロンとレイジの向かいにはサムライと鍵屋崎がいたが、対照的にこちらの空気は暗く沈んでいる。お互い一言も言葉を交わさず目も合わせない陰鬱な雰囲気。
 「また喧嘩したのかなあ、親殺しとサムライ」
 怠惰な猫みたいに背中を伸ばし、手摺によりかかる。そういえば、ワンコがチンコ食っちゃった事件のインパクトが強くて忘れ去られてるけど、鍵屋崎とロンも犬に襲われてやばいとこまでイッたらしい。つくづく受難が似合う二人だと失笑する。
 倦怠期の夫婦みたいに気まずく食事をとる二人を観察してるうちに、ふと気付く。
 「ビバリー見て。三角関係の予兆」
 ビバリーの脇腹をつつき、顎をしゃくる。僕の視線を辿ったビバリーが「ありゃ」と目を丸くする。王様と愉快な仲間たちが居るテーブルから少し離れた場所にひっそり立った囚人が、じっとサムライを見つめているのだ。確かシズルとかいったヘンな名前の囚人で、東棟じゃ最近ちょっとした有名人になってる。新参者のシズルがサムライに言い寄って古女房の鍵屋崎がむくれてるってのが大半の囚人の見解だ。
 「うひ、どろどろ泥沼愛憎劇だ。正妻VS愛人の熾烈な戦い。旦那の心を射止めるのはどっち?」
 「不謹慎っスよリョウさん。それにシズルさんって、なんでもサムライさんのイトコだって話じゃないすか。他に知り合いのない刑務所でイトコと再会したらそりゃ頼りにするのが人情ってもんっしょ」
 「わかってないなあビバリーは。あれがただのイトコに向ける視線?ただのイトコを見る目つき?」
 勘が鋭いヤツが見れば一発でわかる。シズルはサムライに異常な執着を見せている。現に今だってトレイ抱えたまま、周囲の喧騒にも惑わされず通路の真ん中に立ち尽くし、ジッとサムライを見つめ続けてるじゃないか。
 シズルの目の奥に混沌と渦巻く得体の知れない感情。
 静かなる狂気にも似て抑圧された愛憎。
 「僕の推理聞きたい?あいつはきっとサムライを追いかけてきたんだ。サムライに会いたくて東京プリズンに来たんだよ、それしか考えられない。手強いライバル登場で鍵屋崎も相当参ってるんじゃないかな。相手はサムライ目当てに刑務所に押しかけてきた筋金入りのストーカーだもん。今度ばかりは親殺しも勝ち目ないんじゃないかなあ」
 我知らず笑みが零れる。愉快で愉快でたまらない。親殺しと侍の関係に亀裂が入ったのはあきらかで、その亀裂をこれからますます広げていくのがシズルの存在だと直感する。
 シズル、要注意人物だね。
 不意に、僕の視線の先でシズルが背中を翻す。通路の真ん中を歩いてカウンターにトレイを返却、掃き溜めに吹く涼風のごとき颯爽たる足取りで食堂を後にする。知らず、残りのご飯をかっこんで僕も立ち上がる。
 「どこ行くんスかリョウさん!?」
 「ストーカーのストーキング。トレイ返しといてね、ビバリー」
 不審顔のビバリーににやりと笑みかけ、トレイを放り出して階段を駆け下りる。半ば強引にトレイ返却を任されたビバリーが抗議の声をあげるが、気にしちゃいけない。事件の匂いや騒動の予感にずば抜けて敏感なアンテナが静流を追っかけろと電波な命令を発したのだ。
 トラブル感知アンテナに催促され、慌しく階段を駆け下りる。途中段を踏み外しそうになって肝を冷やしたけど、何とか無事階下に到着。安堵の息を吐くのもそこそこに人ごみに紛れて静流に急接近、付かず離れず絶妙の距離で尾行を開始する。
 自慢じゃないが、経験上尾行には慣れてる。メシのタネの情報収集はお手の物。抜き足差し足忍び足、周囲に目を配りながら慎重に通路を歩く。食堂を出た静流はどんどん人けのない方向へ向かってく。房に帰るのかな?シズルの房はずいぶん人けのない寂しい場所にあるんだなと、蛍光灯の電池が切れた通路を見まわしてどうでもいいことを考える。
 シズルが角を曲がる。
 「!」
 角から顔を覗かせた僕は、危うく声をあげそうになる。壁に穿たれた鉄扉を背に、看守がひとり突っ立ってる。待ち伏せ。親密な、かつそこはかとなく淫靡な空気で密談する看守と静流を眺めるうちに胸が騒ぎだす。何を話してるのか、二人とも声をひそめてるせいでよくわからないけど、切れ切れに聞こえてくる断片を繋ぎ合わせれば―……「レッドワーク」「配属」「ありがとう」「助かった」「接近できた」「おかげで」「彼と」……心臓の鼓動が速鳴り、興奮で喉が乾く。看守の頬をひたりと手で包み、艶やかに微笑むシズル。まんざらでもなさそうに笑う看守。何、コレ。この、異質な空気。
 清楚な少女めいた容姿の白皙の美少年が、スッと虚空に手をさしのべ、看守の頬を包む。
 妖艶に赤い唇がほころび、魔性の微笑みが浮かぶ。
 癖のない黒髪の隙間から漆黒に濡れ輝く目を覗かせ、囁く。
 「お礼に、あげるよ」
 我慢できず看守の手がシズルに伸びて上着の裾から潜り込む。看守の腕の中で体を貪られながらシズルはくつくつと笑っていた。愉快で愉快でたまらないといった邪気のない笑い声がいっそ不気味だ。看守の腕にされるがままに身を委ねつつ、後ろ手でノブを探り、扉を開ける。
 房の暗闇に吸い込まれたシズルの上着がはだけ、白くなめらかな下腹の素肌があらわになる。
 そして、そこには。
 指で圧された手形と、仄赤い痣と。
 赤裸々な情事の痕跡が、無数に散らばって。
 
 鉄扉が閉ざされたあとにもまだ、シズルの笑いの余韻がたゆたっているかのようだった。
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