事故物件クリーナー

まさみ

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事故物件クリーナー

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荷ほどきもしてない殺風景なワンルーム、飴色のフローリングに寝転がって清潔な天井を見詰める。
「う~~ん、そろそろ働くかぁ」
大きく伸びをして起き上がる。
203号室に引っ越してきてまずやるのは、フローリングの四隅に塩を盛る事。
「やべ、塩切れてる……味の素でいいか?」
コンビニまでひとっ走りする手もあったが、今からでかけるのも面倒くさい。
「まあいっか、似たようなもんだし」
盛り塩を味の素で代用するのも非常識だが、フローリングの四隅の小皿に味の素の小山ができているのは尚更シュールだ。
手元のスマホが鳴る。不動産屋からだ。一面ガラス張りのドアを開け、ベランダに出てからボタンを押す。
「もしもし」
『今日入居ですよね、お変わりありませんか。本当は付き添いたかったんですけど」
「滅相もない、そこまでしてもらったらかえって悪いです。慣れてるんで大丈夫っすよ、10件目だし」
『10件ですか。プロですねえ』
「居心地いいと仕事忘れて長居しちゃうんですよね、はは」
『何もありませんでした?』
「ベランダのドア錠が勝手に回って開いたり深夜に誰かがピンポンダッシュしたり外付けの郵便受けをちゃがちゃやる位ですかね」
『怖いじゃないですか』
「ほっときゃ問題ありません、スルー力検定です。生の泥棒がピッキングしてる方が怖いっすよ盗るもんなんもねーのに。担当の不動産屋に聞いたら、業者を装った押し込み強盗があった部屋なんスよね。だからかーって納得しました。あ、ベランダの錠が勝手に回るのは別件で、押し込み強盗の次の入居者が取っ手にロープかけて自殺したんですって」
『怖いじゃないですか!!』
「洗濯物干してる時に閉め出されるのは参りました、おーいって必死に叩いてたら開けてくれたけど」
ドン引きする相手を和ませようとりゃさらなる沈黙。
『……ええと、不具合はござませんか。お風呂のお湯がでないとか靴箱の戸が閉まらないとか』
「なーんも」
『よかった。では後の事はよろしくお願い致します』
相手が早く電話を切りたがっているのがわかる。俺の事を変人から変態に格上げ、もとい格下げしたのか。
仕方ない、誤解されるのは慣れている。
電話を切って室内に戻り、異変に気付く。
フローリングの四隅に置いた味の素の小山が崩れてる。というか、減ってる。
「目の錯覚?」
一隅の小皿の前にしゃがみこみ、人さし指ですくってなめてみる。
「あっ」
そして気付く。
ただ減ってるだけじゃない、零れた味の素がフローリングに字を浮き彫っているじゃないか。
「初日から怪現象に遭遇なんて二重にツイてんじゃん」
スマホをカメラモードにし、味の素を塗して書かれた『よろしく』を一枚撮っておいた。

味の素の洗礼を終え、幽霊との奇妙な二人暮らしが始まった。
「ただいまー」
事故物件クリーナーの傍ら、俺はコンビニでバイトしている。
廃棄処分になった弁当をビニール袋に入れて持ち帰り、玄関で靴を脱ぐ。
もちろんワンルームには誰もいない。「ただいま」はただの反射、実家にいた頃の癖がぬけないのだ。
冷蔵庫をあさってよく冷えた缶ビールを取り出す。ローテーブルの前にどっかと胡坐をかき、レンジでチンしたコンビニ弁当を割箸でかっこむ。
入居から一週間、初日の味の素事件を除いて霊現象は起きてない。
幽霊、どっかいっちまったのかな……それならそれでかまわない、一人で贅沢に脚を伸ばせる。
愛用のノーパソを開き、好きな配信者のゲーム実況を見ていた時だ。
「ははっ、だっせー」
トークに笑っていると急に動画が切り替わり、都内の動物園で日干しされてるパンダの赤ちゃんが映し出される。
「えっ」
なんもいじってねーのに。
「ちょ、いいとこなのに」
慌ててマウスをクリック、元の動画を開く。実況が再開するも、またしてもパンダの赤ちゃん動画に切り替わる。なんだ一体、この部屋にゃ俺しかいないはず……
いや、いた。
「ちょっと!!俺が観てるんですけど!!?」
苛立ってマウスを連打、フルボリュームフルスクリーンで動画を表示。
勝った。
溜飲をさげてそっくり返れば次の瞬間画面が暗転、パソコンの電源が落ちちまった。
「……そんなに赤ちゃんパンダの五目並べ見てえのかよ、いや色合い的にオセロだけど!人のパソコンぶんどってもふもふに癒し求めんじゃねーよ厚かましい、挙句逆ギレで電源落とすとかさあ~~」
部屋のどこにいるかもわからない霊相手に盛大に嘆いて愚痴り、腹立ち紛れに缶ビールのプルトップを引く。
「やってらんね……ッぶ!?」
缶ビールの中身が直撃、顔がびしょ濡れになる。なんで?どうして?気圧の関係?
「犯人はお前か!!」

前言撤回、俺の同居人は結構アレだ。アレだった。
コンビニバイト終えて帰宅後、廃棄弁当の夕飯を済ませてから寝るまで動画をあさるのが密かな娯楽だったのに、今じゃ息抜きのひとときは幽霊に乗っ取られちまった。
「またあ、勝手にチャンネル替えるなって言ったろー」
仕方ない。
相手は霊だ。
この手の霊障は初体験な上地味にストレスが募り行くが、パソコンの奪い合いに疲れ、とうとうチャンネル決定権を譲り渡す。
「好きにしろ」
パソコンに背を向けて不貞寝すりゃ、軽快なナレーションに乗せてニュースの切り抜き動画が流れていく気配。

『赤ちゃんパンダのひなたぼっこ、大変可愛らしいですよね。休日ということもあってか親子連れが沢山来園していました。お父さんと手を繋いだ小さい女の子が、柵の向こうからパンダに手を振る様子が微笑ましかったです』

……パンダ、好きだったのかな。

事故物件クリーナーなんてグレーな副業やってんのは家賃が破格で済む上に報酬もおいしいからに尽きる。
ラップ音に不気味な人影に気だるさ、ちょっとした不便に耐えてただ住むだけでいい。
よって、前の住人の事はできるだけ詮索しないのが不文律だ。
知っちまったところで既に故人じゃどうしようもねえし、知れば知るほど変に感情移入しちまってやり辛くなるだけと経験則で痛感してる。
「本当にいいんですか?」と念押す不動産屋を振り払い、前入居者のプロフィールはおろか死因にすら不干渉を徹底してきたが、俺のパソコンをちゃっかり独占し、動物動画に見入る幽霊の正体には好奇心が働く。
案外カワイイもの好きの女の子だったりして……。
どんな事情か知らねえけど、そんな子が死んだら化けて出たくもなるか。

以来、動画の視聴中にチャンネルを替えられてもいちいち目くじら立てるのはやめにした。
幽霊はパソコンにアクセスできない。
同居人を通してしか動画サイトを観れない不便を思えば、可愛いわがままも許せてくる。
他にも変化があった。
「いけね」
バイトに遅刻しかけ慌てて家を飛び出し、アパート前の通りに出た所で電気の消し忘れに気付く。
明かりが灯る窓を見上げて舌打ち、既に間に合うかどうかギリギリだ。
電気代をとるかバイトをとるか、究極の二者択一を迫られ逡巡していたら、窓ガラスの向こうが暗くなる。
留守番中の幽霊が消してくれたのだ。
この手のフォローは何回もあった。
台所の戸棚をかきまわしてコーヒー瓶をさがしていたらそれとなく位置をずらして冷蔵庫の上に置きっぱと知らせ、燃えるゴミの日に寝過ごそうもんなら忙しいラップ音で急き立てる。


「名前がねーと呼びにくいな」
廃棄弁当を片付けたあと、虚空に向かって話題を振る。
「幽霊だからユウさん、ってのはどうかな。年下だったらユウちゃん?どっちでもいいけど。越してきて一か月、結構お世話になってるじゃん。電気を代わりに消してくれんのは勿論だけど、こないだ風呂の蛇口を閉め忘れた時も、ユウさんが教えてくれたから間一髪水道屋を呼ばずに済んだ」
先日の出来事だ。
風呂場で大きな物音がしたんで驚いて駆け込めば、プラスチックの台からシャンプーやボディソープの瓶が軒並み落下し、浴槽からは水があふれかけていた。
「あん時ゃサンキュー、ユウさん」
はにかみがちに礼を述べる。
ユウさんが俺が付けた名前を気に入ってくれたのか、ださいと不満がってるかはわからない。部屋には独り言が虚しく響くのみ。
ユウさんは喋れない、触れない、目に見えない。
でも確かにそこにいる。
冷蔵庫から缶ビールを二本とりだし、片方をローテーブルの向かい側に置く。
プルトップを引いて打ち合わせ、悪戯っぽくほくそ笑む。
「献杯。……酒飲める享年か知んねーけど、死後なら大目に見てくれ」

名前を付けたのがきっかけでますますユウさんに親近感が湧く。
一体どんな顔をしてるのか。髪の長さはどれ位か。生前は何を好み、何をして暮らしていたのか。
年齢もとい享年さえも知らない相手をさん付けで呼ぶのは、なんとなくそっちのほうがしっくりきたからだ。
ユウさんが引き起こす霊障からは現在の住人を追い出そうとする悪意を感じない。
どちらかというと存在に気付いてほしくて、人寂しさから構ってほしがっているように見える。


「ユウさんはさー、後から転がり込んだ居候うざくねーの」
床に延べた布団に寝転がり、戯れに聞いてみた。
「俺も一応男だし。男と一緒って色々と……嫌じゃね?ユウさんが気にしねーなら別にいいんだけどさ、俺も気にしねーし。色々フォローしてもらってめっちゃ助かる、たまーに自炊する時とか神ったタイミングで調味料スライドしてくれっからマジ感謝。ガスの元栓閉め忘れて出ちまった時なんか、電気をパッパッてやって知らせてくれたろ。モールス信号みてえで面白かった」
俺も独り暮らしが長い。
実家には数年帰ってねえし、バイト先でも突っこんだ付き合いはないときて、コミュニケーションに飢えてたのかもしれない。
その夜は特に冷え込んだ。
翌朝布団から這い出すと、凍えた空気が肌を刺して一気に目が冴える。
「さぶっ……あれ」
ふと横を見る。
屋内と屋外の温度差で白く曇ったベランダドアの嵌め込みガラスに、パンダの顔が描かれていた。
ユウさんの悪戯にほっこりして、デフォルメパンダの隣にひと回り小さい子パンダを描き足す。調子に乗って笹の葉もおまけ。
「上手いね。イラストで食ってた人?」
ユウさん作のパンダは俺とは比較にならない出来で、単純な線画でよく特徴を掴んでいた。
愛嬌ある丸顔とタレ目が微笑ましい。隅っこに『YU』と丸っこいサインが入る。
「あはは……やっぱむずいな、俺的にゃ頑張ったんだけど。パンダだか大福だかよくわかんねーや」
情けなく苦笑い、照れも相まってのひらでかき消しかけた時、子パンダをでかでか花丸が囲む。
「……花丸なんてもらうの小学校ぶり」
大袈裟に褒められて面映ゆい。
再びガラスの余白に点が生じ、ひとりでに線が伸びて輪郭をかたどる。
ユウさんが描いているのだ。
途中で力尽きたように線が途切れて歪み、少々輪郭が損なわれたものの、元々の画力の高さが十分補っている。
俺とユウさんは曇った窓ガラスに落書きをし、吐く息が白く溶ける朝のひとときを楽しんだ。

しゃべれない。
さわれない。
見えもしない。


それでもユウさんは、確かにいる。


「あーーー畜生、バイトで大失敗……」
ドジって落ち込んだ日は、玄関に座り込んだ俺の愚痴にじっと耳を傾けてくれた。
「やっべ忘れるとこだった、あんがとユウさん」
天気予報が雨なのを忘れてうっかりでかけそうになったら、玄関先で傘を倒して教えてくれた。
「水……水……」
高熱を出して寝込んだ時、ひんやりした手を額にのっけて癒してくれた。
「ただいま」と帰ってきたら部屋の中でコトンと音が鳴る。
それはローテーブルの上のコップが立てる音だったり、壁に何かが当たる音だったりしたが、「おかえりなさい」と翻訳されて聞こえた。

事故物件クリーナーは楽な仕事だ。
契約で決められた期間、部屋に居座ってるだけで報酬がもらえる。

契約満了の期限が迫り始めたある日、俺はユウさんの分の缶ビールをローテーブルに手向け、紙皿にツマミをあけて酒盛りしていた。
「越したくねえな……」
色んな部屋を転々としていたが、こんなに頻繁に霊現象がおこるのも、おこした相手に情が移っちまうのも初めてだ。
今じゃすっかり二人で動画を観るのが習慣になった。
ユウさんが大好きな動物の赤ちゃん動画、中でもパンダの画像は俺のブクマを侵略している。

俺の仕事は事故物件クリーナー、一か所に長居する訳にはいかない。
まだまだ俺を必要とする曰く付きの部屋が待っているのだ。
この部屋を出るのは即ちユウさんとの別れを意味する。

膝を抱えて落ち込んでいれば、ふいに腕が引き攣る感覚がし、俺の手は何故か自分を抱き締めていた。
「え…………」
俺の手が俺の手じゃないみたいな違和感。
まるで誰かに操られてるみたいな……
「ユウさん?」
困惑げに呼ぶ。
腕を掴む手とそこから伝わるぬくもりを別人のもののように感じる。
ユウさんに抱き締められるのは嫌じゃない。
照れと安らぎが綯い交ぜになったぬくもりに包まれ、思考を手放した俺はあっさり眠りに落ちた。

翌日、バイト先のコンビニにて。
「小林君、棚の雑誌新刊とさしかえてきて」
「了解っす」
ビニール紐で括られた雑誌を携えて窓に面した陳列棚へ赴く。
雑誌のバックナンバーを回収し最新号と差し替えながらも、頭の中は昨日のハグでいっぱいだった。

ユウさんは俺が好きなのか?
行かないでと伝えたかった?
あるいは慰めようとして?

上の空で手を動かしていたせいか、まとめて持ち上げた拍子に数冊なだれる。
「まずっ」
しゃがんで拾い上げるや、偶然開かれた週刊誌の見出しに引き付けられる。

見開きのページでは、『あの事件現場は今?』という特集が組まれていた。

俺が衝撃を受けたのは、そのページに掲載されていたのが今住んでるアパートの写真だったからだ。
雑誌にかぶりつき頭が真っ白になる。
記事の最後は『203号室には現在新しい住人が住んでいるらしい。彼、もしくは彼女は、自分の部屋で過去に起きた事件を知っているのだろうか』と余計なお世話で締めくくられていた。

悩みに悩んだ末、その雑誌を買って帰った。
帰り道を歩きながらスマホを操作し、203号室担当の不動産屋に電話をする。
「もしもし?お久しぶりです、小林です。あの、前の人のこと教えてくれませんか。できる範囲でいいんで」
スマホを切って深呼吸、203号室と書かれたドアの鍵を開ける。
「ただいま」
でかい声を真っ暗い部屋になげかけ、玄関で靴を脱いで廊下を抜ける。壁のスイッチを押して電気を点け、ビニール袋から出した雑誌を手早くめくる。

「ユウさん、男だったんだな」

ユウさんの本名は霧島優。
28歳のイラストレーターだ。

特集が組まれたページを開いて突き付け、やるせない口調で続ける。
「ごめん、読んじまった。『あの事件現場は今?』って記事……ここに書かれてんのユウさんだろ、交際中の彼氏に刺されたって」

ユウさんは男性だ。
そして彼は同性愛者だった。

雑誌には遺族のインタビューや事件に至る経緯も載り、ユウさんのプライベートが容赦なく暴かれていた。
本人の前で読み上げるのは控えたものの、俺の心には一字一句が克明に焼き付いてる。
「ユウさんは数年前に結婚した。相手は当時付き合ってた彼女で、二人には娘が産まれる。カミングアウトは奥さんの出産後だ」

何故ユウさんが結婚したかは謎だ。イラストレーターとしての出世、あるいは世間体を考えての偽装結婚か。恋愛感情とは別種の好意を、奥さんに持っていたからか。
娘を授かったことで、嘘を吐き通すのが恥ずかしくなったのかもしれない。

「奥さんは激怒して離婚、娘は母親に引き取られた。でもユウさん、娘さん愛してたんだよな。奥さんがインタビューで言ってたよ、あの人の事は許せないけどとても優しい、いい父親だったって……パンダが好きな娘さんの為にパンダのイラストを描いてあげて、離婚してからも定期的に会いに行って、事件があった一週間後に動物園に連れてく約束してたんだろ」

ユウさんが熱心に見ていたあの動画の動物園だ。赤ちゃんパンダがのんびり日なたぼっこしている光景が瞼の裏に浮かぶ。
妻子と別れたユウさんは単身者用アパートに引っ越し、在宅イラストレーターとして活動していた。慰謝料と養育費を滞りなく振り込むための節約だ。

「奥さんと離婚後、ユウさんにはゲイの恋人ができた。ユウさんの彼氏はすげえ嫉妬深くて、他の男や元奥さんとの関係を勝手に妄想しちゃあ暴れるようなヤツだった。ユウさんを刺した動機を聞かれて逮捕後こう言ったんだよな、俺より子供をとったアイツが悪いって……」

ユウさんはこの203号室でゲイの恋人に刺し殺された。
ユウさんが殺されたのは、月に一度の娘の面会日と重なるのを理由に、恋人とのデートをキャンセルしたからだ。
彼氏は「子供をダシに嫁とよりを戻そうとしている」とユウさんを逆恨みし、自分から心が離れたと思い込み、発作的に犯行に及んだらしい。
記事は遺族の証言まで引っ張り出し、ゲイカップルの痴情の縺れを面白おかしく書き立てていた。

ユウさんは一体どんな気持ちで、曇りガラスにパンダの絵を描いた?
一体どんな気持ちで、子どもと行くはずだった動物園の動画をくり返し見ていたんだ。

ユウさんにはさんざん世話になった。
しんどい時は黙って愚痴を聞いてくれた、高熱に茹だった額を冷やしてくれた、雨が降りそうな時は傘を倒して教えてくれた、ガスの元栓や電気の消し忘れをフォローしてくれた、物言わず寄り添ってドジでうっかりな俺をたくさんたくさん助けてくれた。

俺はもうすぐいなくなる。
ここを出て、新しい部屋に行く。

「……友達として聞くよ。できることある?」

電気を消す。目を瞑る。深呼吸する。
体と心を全方位に開き、目に見えず声もしない、けれど確かにこの空間にいるユウさんと同調する。
たとえるなら着られる感覚に近い。
ユウさんが俺に入り、切実な懇願が脳裏に直接響く。

『手を貸して』

電気が点く。
目を開ける。
全身に気だるさが広がり、自意識が脳の奥に後退して四肢が動く。
ユウさん=俺が机の抽斗ひきだしから色鉛筆を取り出す。
俺の手が色鉛筆を持ち、床に散らばったチラシを裏返して余白に円を描く。
手が凄まじい速度で動き、耳と身体の一部を黒鉛筆で塗り、子パンダを抱っこする親パンダの絵を描き上げる。
色鉛筆を斜めに傾げ立体的な影を付ける技法やリアルな質感の再現は、繊細な動作をこなす、柔軟な関節を備えたからこそ初めて成し得る奇跡だ。
メインを仕上げた後、手を繋いでパンダを眺める父と娘を描き入れる。
最後に『YU』と署名し、ローテーブルの表面に郵便番号と住所を綴っていく。
別れた奥さんと娘の住所だ。

(わかった)

身体の主導権が回復、握力が緩んだ拍子に色鉛筆が落下。
軽快に転がる色鉛筆を追ってベランダの扉へ着くなり電気が消え、外の常夜灯の反射で真っ黒い闇が映えるガラス面に、見知らぬ青年が立ち現れる。

ユウさんが後ろにたたずんでいる。

おぼろに映り込む人影に手を伸ばす。
俺と二重写しになり、顔からわずかにはみ出た輪郭に触れれば、指先が冷えたガラスの固さを吸い上げる。
「役に立った?」
潤んだ視界を瞬いて聞く。
俺とだぶったユウさんが透ける手をのばし、ガラスに特大の花丸を描く……まねをする。もう物に干渉する力も残ってないのだ。
「そっか……」
ユウさんがほんの少し笑顔を翳らせ、ドア越しに片手を振る。
瞼を拭ってこたえるとユウさんの姿はどんどん薄れていき、やがて完全に背景に溶け込んで消滅。

『楽しかったよ』

果たせなかった約束と叶わなかった夢が一枚の絵として昇華され、同時にユウさんの未練も浄化される。

事故物件クリーナーを始めたのは、まれにこんな出会いがあるからかもな。




203号室を去る日、アパート近くのポストに封書を投函した。
ゴーストイラストレーターが仕上げた最高傑作、子供もきっと気に入ってくれるはずだ。

最後にふと思い出す。
あの味の素、パンダの絵が入ってたっけな。
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