タンブルウィード

まさみ

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二話

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皆で朝食をとったあと修道女たちはそれぞれ洗濯や掃除、孤児の世話を手分けしてこなす。
教会は神の家であり、神父は修道女たちの束ね役を兼ねるがここではむしろ何でも屋の扱いに近い。
「工具箱はどこでしょう神父様、孤児院の天井が破れていて」
「それなら物置に」
「畝を耕したら種芋を仕入れてこなきゃ……」
「誰か手伝って、手押し車が閊えて動かないわ。わたくしの細腕ではとてもとても」
「馬鹿おっしゃいなさいな、その逞しく日焼けした腕で押しても引いてもビクともしないですって?」
教会は賑やかな女所帯だ。修道女たちの年齢はバラバラで、下は十代後半から上は六十代まで幅広い。
親子ほど年の離れた女性が一堂に会して寝食を共にする以上、当然相性のあうあわないはあろうが、ピジョンの目には皆バイタリティに溢れて好ましい人柄に映る。
しばしば難題が持ち込まれるボトムの教会に住みこむとなれば、ある程度は世慣れして図太くしたたかな人間でなければやっていけない。
彼女たちには沈黙の美徳と清濁併せ呑む懐の深さが要求される。清貧と貞節は修道女が終生守らねばならない戒律だが、ピジョンが見た限りここの修道女たちは饒舌で、朝の礼拝時と食前・食後の祈りの時間を除いては沈黙の美徳に縛られていないようだ。
「神父様、物置の棚に工具箱が見当たりませんことよ。前に使った人が戻す場所を間違えたのではなくて?」
「おやそうですか、前に使った人というと……」
「シスター・ロザリーがこの前塀の破れ目にトタンを当ててたわよ」
「罪を着せるのはやめてちょうだいなシスター・アデリナ、あたしはちゃんと物置に返したわよ」
「勘違いじゃないの?あなたってそそっかしいところあるから」
「なんですって?」
「少々お待ちくださいシスター・モニカ、今すぐに」
てんてこ舞いの神父を見ていられず、ピジョンは手伝いを申し出る。
「俺がやりますよ」
シスター・モニカと交代し、畝に車輪が嵌まって立ち往生していた手押し車を押せば、車輪がゴトンと浮いて滑らかに進みだす。
「助かりましたわブラザー・ピジョン、やっぱり若い男の子がいてくれると頼もしい」
「お安い御用です」
シスター・モニカが下ぶくれの素朴な顔に感謝の笑みを浮かべる。
彼女は教会の菜園管理を任されており、日々畑を耕しているせいか日なたの土の匂いがする。
畑に植える苗や種の選別や畝作り、はては収穫に至るまで引き受ける彼女は修道女たちの中でも屈指の働き者だ。
中庭の菜園には色々や野菜や薬草が植わっている。時が満ちて頃合いと見れば収穫し、土が付いた野菜は厨房に回し、薬草は煎じ薬やドライフラワーとして店に卸し教会の収入に宛てている。孤児院の運営には何かと経費がかかる故に寄付に頼りきりではいられない。
腕まくりをして畑の手入れに精を出す修道女に立ち混ざっているのは、長袖で素肌を隠した女たち。絆創膏や包帯で手当てを受けた者もいれば、顔に惨たらしい青痣が残る者もいる。
彼女たちは修道女ではない。
この教会に匿われているDV被害者たちだ。
着のみ着のまま駆け込んできた彼女たちの多くが、何もせずおいてもらっているのは肩身が狭いと修道女たちの家事や畑仕事を手伝い、あるいは自立する為の職業訓練を受けている。
「すいませんピジョン君、今は手が離せないので」
「わかっています」
ピジョンは既に心得たものだ。
日があるうちは目も回る忙しさの神父は、なかなかピジョンに付きっきりでトレーニングを行えない。その間、ピジョンは1人で裏手の墓地に赴いて狙撃の特訓をする。薄暗くて不気味な場所だが、子どもたちからは死角になるし都合がいい。たとえボーリングのピンでも、人の形を模した的が撃ち砕かれる所はなるべくこどもたちに見せたくなかった。
「工具箱、工具箱……物置にないということは台所、はたまた半地下の食糧庫でしょうか?勝手に羽が生えて飛んでいくわけがありませんし」
スナイパーライフルをひっさげ早速墓地へ行こうとしたが、工具箱をさがして右往左往する神父をほっとけず、ピジョンはまた引き返してくる。
礼拝堂の扉を開けて中へ入れば、右側最後列の長椅子の下に、赤い工具箱がちょこんと置かれている。
「ありましたよ先生」
実は朝の礼拝の時に見かけてずっと気になっていたのだ。
工具箱を片手に掲げたピジョンを、ポーチででむかえた神父が驚く。
反射的に十字を切ってからひしと手を組み、天を仰いで叫ぶ。
「神よ、我々に工具箱をお返しくださったお慈悲に感謝します!忽然と姿を消した工具箱が手品の如く必要とする者のもとへ舞い戻る、これを奇跡と言祝がず何とすれば?それで、どこにありましたか?」
「一番後ろの信徒席の下です。こどもたちのイタズラかな」
実際こどもたちのだれかが内緒で工具箱を持ち出すのはよくあることだ。
好奇心旺盛なこどもたちにとって、長方形の工具箱は発明道具がいっぱい詰まった宝箱と同じなのだ。
ポーチに出たピジョンから工具箱を受け取った神父は何を思ったか、苦りきって呟く。
「ネジを緩めたり締めたり回す位なら可愛いものですが、カエルの尻にスパナを突っ込むのはいただけませんね」
「カエルの尻にですか?」
「前にあったんですよ。ハリ―君をご存知でしょうか、ネズミのミュータントの」
「彼がやらかしたんですか?」
「捕まえたカエルの尻にぶすりと」
「うへぇ」
あまり想像したくない。
「その節はこっぴどく叱りましたとも。私の教会では殺生を禁じているのでね」
「こどもって残酷なことをしますね……あ、弟も昔似たようなことしてましたよ」
「噂の弟くんが?」
ポーチで神父と立ち話をする。中庭ではシスター・モニカで汗を拭って腰を叩き、子どもたちが手ずから掘ったニンジンを振りまわして遊んでいる。シスター・モニカが「食べ物を粗末にしてはいけません」と叱る声が響く。
微笑ましい光景に頬を緩めながら、ピジョンは懐かしい思い出を辿る。
「捕まえたネズミやカエルの尻に爆竹詰めて、気に入らないヤツに投げ付けるんです。やたら態度がデカい母さんの客とか、俺たちを目のかたきにする町の子なんかに」
「なかなか過激ですね」
「点数も付けてましたよ。顔の上で破裂したら一番高くて10点、次は頭で次は肩、次は胸の真ん中って具合に。一緒にやらないかって誘われたけど毎回全力で断りました。アイツってば人の話全然聞かなくて、やめろって泣いて縋り付こうものなら逆に張り倒されてさんざんです」
ピジョンもただ指をくわえて弟の乱暴狼藉を眺めていたわけじゃない。
可哀想だからやめてくれと何度も泣いて頼んだが、ピジョンが嫌がれば嫌がる程スワローは悪ノリし、尻に爆竹を仕込んだカエルやネズミを人に投げ付けていた。
憤懣やるかたなく弟の理不尽をなじってから我に返り、大いに恐縮して詫びる。
「すいません、こんな話気分悪いですよね」
「そうですね、動物愛護の観点から言えばとても褒められたものではありませんが……こどもとはえてして残酷なもの、若気の至りは誰しもあるものです」
「弟は度が過ぎましたけど」
「ただしネズミを破裂させるのは頂けない、ペストの例に漏れずネズミは様々な菌を媒介します。人の上で爆発させたら最悪疫病をばらまきますよ」
「一応死人は出てないぽいです」
「ならば私は哀れなネズミとカエルの冥福を祈りましょうか」
「俺も祈ります」
「では一緒に。アーメン」
「アーメン」
同時に手を組み、ポーチで向き合ってうなだれる。そんな2人を指さし、ニンジンで小突き合っていたこどもたちが「まーた神父さまとピジョンがアーメンごっこしてるー」と甲高く囃す。
「はっ!」
ピジョンは慌てて手をほどく。
この教会に世話になってからというもの、なにかというと神父と示し合わせて祈りを捧げる癖が付いてしまった。
今のは合意のもとでだが、たまたまタイミング重なる偶然も多い。最近では祈りの現場を目撃した修道女らに「そっくりですわね」「似た者師弟だわ」とからかわれる始末だが、不思議と悪い心地はしない。
「食べ物で遊んじゃいけないって言ったでしょ!」
堪忍袋の緒が切れたシスター・モニカが子どもたちに拳骨を落とし、鼻息荒くニンジンをひったくる。
しおらしく涙ぐんで「ごめんなさい」と詫びるこどもたちを一瞥、神父はむしろ得意げに笑み崩れる。
「また見付かってしまいましたか。うちの子どもたちは目がよい」
「本当に。狙撃手として見習わないとな」
眉をひそめるでもなく物分かりよく微笑む神父に救われた思いがする。
どうもスワローの話になると待ったがきかず、とめどなく話してしまって恥じ入る。まだ弟離れできていない証拠だ。
中庭には牧歌的な時間が流れている。
おっかない修道女の指導のもと、掘り返したニンジンの大きさを競うこどもたち。手伝いの女たちも声をあげて笑い、少し離れた井戸端には物干し用のロープが張られ、そこへ夥しい洗濯物を掛けながら別の修道女が笑っている。
澄んだ青空の下ではためく大小さまざまな洗濯物、姦しく弾ける笑い声と同時に風が運ぶマグノリアの香りは爛漫と甘い。
ボトムどん底の箱庭を見守る神父の横顔は柔和に凪ぎ、娼婦の私生児として産まれ落ちたピジョンが人生において知り得ぬ父性を体現していた。
神父がピジョンに向き直り、穏やかな笑顔のままに口を開く。
「弟くんの話になると実に生き生きしますね、君は」
「アイツには心配かけられ通しでしたから」
どちらからともなく笑い合うふたりのもとへ、収穫を終えて泥だらけになった子どもたちがわっと駆け寄ってくる。
「先生見て見て、ニンジンとれたんだよ俺のがいちばんでっかいよね!」
「嘘吐けボクのほうが大きいよ!」
「葉っぱを入れたら俺の方が大きいから俺の勝ちだもんね!」
「ズルするなよナッシュ、葉っぱは料理の時切り落とすからノーカウントだ!」
「じゃーピジョンに決めてもらおうぜ」
「えっ俺?」
突如として審判に指名されたピジョンが戸惑って自らを指させば、男の子たちは大乗り気でずいずい迫ってくる。
「賛成、ピジョンは外の人だからコーヘーな立場で判定してくれるよね」
「私が不公平みたいな言い方はちょっと心外ですねえ」
眼鏡に手をやって嘆く神父に知らんぷりを決めこみ、大股にピジョンに詰め寄るや、坊主頭の男の子が彼の裾を引っ張って、もう1人のそばかすだらけの男の子が腕を引っ張り、手に手にもったニンジンを突き出して自分が上だと主張する。
「ズルいのはどっちだよ、葉っぱは勘定に入れないなんて誰が決めたのさ。食べられるんなら身に入れていいだろ、だから俺の勝ち!」
「屁理屈いうなよ、ニンジンの葉っぱなんか喜んで食べるのウサギとウサギのミュータントだけだ!」
「馬っ鹿だなーニンジンの葉っぱは炒めて食べるとすっげえ美味いんだぞ、シスター・エリザが言ってたから間違いないもん!バターで炒めてしなしなのソテーにすりゃあほっぺたが独り立ちしちまうくれーゼッピンさ!」
「ちょっと待って引っ張らないで、ライフルしょってるからバランスが……2人の言い分はよくわかった、ニンジンの葉っぱが美味しいのは認めるけど葉っぱを本体に含めるべきか否かはデリケートな問題だ。人にたとえるなら靴のヒール分を身長に含めるべきか、服を体重に含めるべきかとかそーゆー次元の議論なんだ。俺1人の意見じゃ決められない、皆を集めて決をとろうそうしようって笑って見てないで助けてください先生!」
スワローなら立小便の飛距離を走り幅跳びの結果に含めるかとか、もっと下品なたとえをいくらでも引用するだろうがピジョンではこの比喩が限界だ。別に負けて悔しくはない。
「失礼、ピジョン君の人気に嫉妬の大罪を犯してしまいまして……ぷぷっ」
神父がピジョンの肩を軽く叩き、俯き加減に笑いだす。
ピジョンは弱りきってしまうが、その実こどもたちに懐かれて悪い気はしないのか、たまらず吹き出す神父を見上げて相好を崩す。
「しょうがないな……」
父親と弟が同時にできたみたいで嬉しい。スワローは大きくなりすぎて、もうこんな風には懐いてくれないから……
軽快なシャッター音が響く。
「だれですか」
庭先の木陰から飛び出した人影が走り去る。
「待て!」
きょとんとするこどもたちを神父に預け、人影を追って走り出すピジョン。
「先生はそこにいてください、俺が見てきます」
「頼みましたよピジョン君」
神父は慎重に頷き、中腰でこどもたちを落ち着かせる。
雨漏りの修繕に上がった屋根から落ちる、何もないところでコケるなどたびたび運動音痴をネタにされる上、重く嵩張るカソックを纏った神父に比べたらピジョンの方がずっと早く不審者に追い付ける。
それら建前はぬきにしても、教会の精神的支柱である神父にはこどもたちのそばに付いていてほしかった。

一体何者だ?
不審者の正体は?

嫌な想像が脳裏を駆け巡り不安と焦燥が募りゆく。この教会はミュータントの孤児を集めており、故にイロモノ扱いされている。ボトムの住人の中には神父の稚児趣味を疑い、聞くに堪えない陰口を叩くものもいる。
木陰から神父と子供たちを盗撮した人物が、その手のゴシップ誌の記者だったら?
「ミュータントの稚児を囲い込んだ変態神父」と事実を歪めた記事を掲載し、面白おかしく叩く気だったら……
「っ…………!」
力の込めすぎで奥歯が軋む。
そんな不埒な魂胆なら絶対に許せない、ただで帰す訳にはいかない。何が何でもフィルムを取り上げなければ……
どんな手を使っても。
ストラップを掛けて背負ったスナイパーライフルを一瞥、再び前を向く。今はまだその時じゃないと逸る心を抑えこみ、前を行く背中をただひたすら追いかける。相手は存外素早くなかなか差が縮まらない。
足止めに一発地面を撃とうか。

もし手元が狂ったら?
構わない、やれ。

「誰か知らないけど逃げるな、話を聞きたいだけだ!」
本能がけしかける。理性がブレーキをかける。引鉄を引きさえすれば事が済むのに何を躊躇うと耳元で悪魔が囁く。
相手は無断でシャッターを切った、先に一線をこえたのはあっちの方だ、じゃあいいじゃないか―……

俺には免罪符が与えられている。
とうの昔に争い事から引退した師と子供たち、か弱い修道女や虐げられた女たち、すべての小さきひとびとを周囲の悪意から守りぬく。
誰かを守らんとする正義感はどこまでも引鉄を軽くする。
途轍もなく。途方もなく。

今しもライフルを構えて引鉄を引きたくなるのをぐっとこらえ、全身で風を切って地面を蹴る。不審者は教会の裏手に回り、塀をよじのぼって外へ脱し、ピジョンも舌打ちして続く。よじのぼるにはライフルが邪魔だ。塀のてっぺんを跨いで飛び下りれば、不審者の姿はとっくに消えていた。
「げほごほっ!」
ゴミや空き瓶が転がる道路には排気ガスが漂い、黄色い車がみるみる遠ざかっていく。
「畜生……」
下品な悪態が口を突く。
スラムで車を見かけるのは珍しい。ということはやっぱり記者か。ろくでもない噂を真に受け、面白半分に孤児院を盗撮にきたのか。
もっと早く気付けていれば防げたのに、お喋りに夢中で見落としていた。自分の間抜けさを呪っても手遅れだ。
激しい自己嫌悪とやり場のない憤りに苛まれたピジョンは、アスファルトの地面をめちゃくちゃに蹴り付ける。
いや、まだ遅くない。
脳裏にある選択肢が浮かび、反射的に片膝立てスナイパーライフルを構える。スコープのレティクルに遠ざかる車をしっかり捉え、右後方のタイヤに狙い定める。

一発でパンクさせる。
俺なら確実にやれる。

ピンクゴールドの前髪の奥、セピアがかった赤い瞳が不吉で苛烈なシグナルレッドに染まりゆく。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

たとえ死神だとしても罪には報いヴィクテムを払わせなければ。

引鉄にかけた指にゆっくり圧をかけ沈めていくと、心はひどく冷めきっているのに水面下でニトログリセリンが燻るような、異様な興奮で指先がちりちりする。

もし手元が狂ったら?
否。
「手元が狂わなかったら」……ピジョンが放った弾丸が正確にタイヤを撃ち抜いたら、車がド派手にスリップして横転したら、さらには脇の塀に激突したら
車の運転手は悪くて即死か良くて瀕死、爆発と炎上に相次ぐ悲鳴と断末魔。

『いいのかよピジョン?』

「いいわけないよ」
何故かスワローの声が聞こえ、ピジョンは胸に凝る葛藤を絞りきるように長く長い溜息を吐く。
おかげで正気に戻った。
ライフルの引鉄から力なく指をおろし、何事もなかったように背負って立ち上がり、とぼとぼ引き返していく。
先生になんて言ったらいいんだ。もう少しの所で逃がしたって?馬鹿な。あんな啖呵切っといてこのざまか、見損なったぞピジョン。
自己嫌悪と情けなさで一杯になりながら塀を回り込んだピジョンは、孤児院に面した塀の一箇所に、大量の吸い殻が落ちているのに気付く。
銘柄は確か蛇頭……タンブルウィードが切れていた時にスワローが買って噎せていたヤツだ。
吸い殻の小山の向こうには非常に場違いな男がいた。
ショッキングピンクに染めたベリーショートの髪、頬骨の高い精悍な風貌に箔を付けるサングラス、悪趣味な柄シャツ。
下は艶めかしくギラ付くパイソンのレザーパンツに二連のウォレットチェーンを繋げている。極め付けにパイソンのゴツいブーツをはいており、一見して堅気ではない。
なにより異彩を放っていたのは薄緑がかった肌色と右半身を覆ううろこだ。おそらくは蛇か、それに類する爬虫類系ミュータントの血筋。
仏頂面の蛇男は行儀悪く股を広げてしゃがみこみ、いかにもまずそうに煙草を噛み潰している。
正直避けて通りたいタイプだが、まかせてくださいと請け負ったくせにまんまと記者を逃がす不始末で破れかぶれになったピジョンは、思いきって男に注意する。
「教会周辺は禁煙です、ポイ捨てはやめてください。火事になったらどうするんですか」
「あァ゛ん?」
のっけからこれか、がらが悪い。ドスの利いた濁声で凄まれ一瞬腰が引けるが、続く質問に困惑。
「お前さん、ここの関係者?」
「そんなところですけど……」
素性の知れない人物に自己紹介する気になれず言葉を濁せば、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろ不躾に視線で舐めまわされる。
間違いない、このがらの悪さは……
「取り立てですね?」
「あん?」
「なら裏に回ってください、正面はちょっと……子供たちや女のひともいるんで」
あたり憚る声と目付きで促せば、何故か男は呆れた顔をする。
「神父見習いにしちゃおもしれーヤツだなお前」
神父見習いではないのだが、借金の取り立て人に身分を明かすのは気が引ける。
あえて勘違いを否定せず、真摯な表情で初対面の男に食い下がる。
「吸い殻が小山になる位張りこんで、蛇のように執念深く先生が出てくるの待ち伏せてたんですよね。借金の回収ならあてが外れて悪いですけど、この教会にまとまったお金なんかありませんよ。寄付と自給自足でカツカツなんです、ほら、背伸びしてよーく見てください塀の向こうの教会のトンガリ屋根、タイルが何枚か落ちてるでしょ?いくら修繕しても雨漏りが直らないんですよ、板を打ち付けたそばから別の場所が漏るくり返しで」
教会の内証が火の車なのはピジョンも聞き知る所だ、ほうぼうから借金しててもおかしくない。
おまけに神父はお人好しで、ヤバい筋に手を出して法外な利息を吹っ掛けられているのではと邪推が働く。
「待て待て先っぽから先走んな、早漏ちゃんは嫌われるぜ。俺様ちゃんは神父サマと尻と尻を合わせた知り合い、即ちお友達なの。わかる?」
「本当に先生の友人なら表でグダ付いてる意味が不明です、さっさと中に入ればいいじゃないですか」
「言うねェ、こちとら語るも唾して聞くも涙の儚ェ事情があるのさ」
人を見た目で判断しちゃいけないがこの男はどうもきな臭い。言動はおちゃらけているが、緩く見せかけて隙のない身ごなしに剣呑さが漂っている。
そもそもの大前提として、教会の前で煙草を吹かして捨てる罰あたりに好感など持ち得ない。大見栄切って記者を逃がした手前、名誉挽回したい下心も動いた。

役立たずなんかじゃないぞ俺は。
先生の一番弟子として、きっぱりすっぱり取り立てを追い返すんだ。

上から下までピジョンを眺めまわしてどう判断したか、男が二ィ、と耳まで裂けるような笑みを刻む。
「俺様ちゃんにお引き取り願いてェなら何すりゃいいかわかるな?」
もちろんだ。
ピジョンは要領悪くモッズコートのポケットを探り、ありったけの紙幣と小銭を掴みだす。
「全財産です。少ないですけど今日はこれで見逃してください、先生には俺からあとでちゃんと言っとくんで」
皺くちゃの紙幣を丁寧に伸ばして重ね、小銭を落とさぬように注意して、あぜんとする男の手に握らす。
「日を改めて出直してください。お願いします」
真剣に頼み込むピジョンに対し、男はニッコリ微笑んで二股に分かれた舌先を踊らす。
「やーだね」
衝撃が鳩尾に炸裂する。
「ぐふっ!?」
腹を蹴り飛ばされたと理解するより早く地面に叩き付けられていた。
凶悪に尖ったパイソンのブーツの先端で鳩尾を抉られ、激しく咳き込むピジョンの上に紙幣と小銭がばら撒かれる。
「這い蹲って拾え」
硬貨がアスファルトを叩く、音の洪水が耳障りだ。脳天に衝撃が襲い、固い靴底で容赦なく踏み付けられる。
男は体重をかけてピジョンの頭を踏みにじり、圧力に抗って悔しげに目を上げたピジョンの鼻先に、たった今まで喫っていた煙草を弾き捨てる。
「拾えって言ったんだけど。金を粗末にしちゃいけねェよ、コイツがありゃきょう一日生き延びられるヤツが大勢いんだ」
男の声はあくまで軽く、口調はいっそ朗らかといっていいが、蛇の鱗を一枚一枚剥いでいくような残忍さがあった。
「ぐ……、」
どうにか顎だけ持ち上げて、言われた通り地面に散らばった金をかき集める。
情けない。恥ずかしい。悔しい。頭が真っ赤に燃える。
肘と膝の四点でみっともなく這いずって紙幣を掴み、掴んだそばから転がりだす硬貨を追いかければ、男がピジョンの手から紙幣を一枚ひったくり、面白くもおかしくもなさそうな顔でしげしげ見詰める。
「全部あげます。帰ってください」
地面にひれふして掠れた声を絞り出す。ピジョンの勘は的中した、やっぱり危険な男だ、こんなヤツを中にいれちゃだめだ、みんなに何するかわからない。
鳩尾が引き攣って苦い胃液が逆流する。涎を垂れ流して咳き込むピジョンの前で、男が突如としてライターの蓋を開け、紙幣の角に点火する。
「俺様ちゃんに貢ぎたいってゆー殊勝な心構えなら貰ってやんなァ吝かじゃねェがシケったカネはいただけねェな、せいぜい炙って乾かさねーと」
驚愕に目を剥くピジョンの前で、あっというまに紙幣が燃えていく。燃え尽きていく。
「おーおーよく燃える。知ってっか?炙ったカネって美味いんだぜ」
男が骨ばった手でピジョンの顎を掴み、力ずくでこじ開ける。
反対の手には半ばまで炎に蝕まれた紙幣があり、それをピジョンの顔へ近付ける。前髪に炎が燃え移りそうで怖い。睫毛が焦げて縮む。
「食えよ」
耳を疑った。
「んーん゛ー――――!!」
声にならない声で呻くピジョンの顎を掴み上げ、半ば以上燃え尽きた紙幣を口にたらす。喉に突っこまれたら無事じゃすまない、粘膜が焼け爛れる。
「踊り食いだ。喉ちんこもまっかっかだぜ」
身もがいてかぶりを振りまくるピジョンの口すれすれに紙幣をヒラ付かせ、サングラスの男が嘯く。
「言うに事欠いてカネがねえときたか、笑わせるぜ。テメェもアイツそっくりの大ぼら吹きだな、ジジイにケツ貸してたんまりふんだくってんだろ?」
瞬間、ピジョンの中で何かが切れた。
手の甲に鈍い衝撃が走る。
「ッ゛、」
ピジョンの手は男が拾えと命じた小銭を握り締めていた。結果的にそれが重しとなり、アッパーカットの威力を底上げした。
見事な不意打ちが決まり、顎先を揺らされて身を引いた男の手から炎上する紙幣が舞い落ちる。
「先生を侮辱するな」
灰に帰りかけた紙幣を靴底で踏み付け、苦い唾を吐いて立ち上がったピジョンは、純粋な怒りに赤く赤く染まる眸で男を睨む。
ジジィとは恐らくキマイライーターの事。
この男はキマイライーターが教会に多額の寄付をしている事実を知った上で、二人の関係を揶揄したのだ。
恩人ふたりを侮辱されてなお泣き寝入りをきめこむほど、ピジョンはお人好しではない。
男は束の間ぽかんとしていたが、やがて片手で顔を覆い、肩をヒク付かせ始める。
次の瞬間、けたたましく笑い始める。
「はッ…………ははははははははははは!あーーーーーーっおっかし何年ぶりだちくしょー、すっかり油断してたわ!聖職者見習いだってのにえらく威勢がいいじゃん、はねっかえりもアイツ譲りかよ!何その反応、ひょっとしてお前もデキてんの?ケツ貸した?それとも貸された?年食ってもおさかんじゃん、逆に安心したわ!テメェ1人身綺麗になろうったってド腐れた根っこはまんまだ、なーんも変わっちゃねえよ、あのド淫乱のスキモノが一竿で足りるわけねーもんな、今さらキリストさんに操立てたって非処女非童貞が皮かむりの童貞に生まれ変わるような奇跡のバーゲンセールは無理だわな!」
どこか狂気染みた、躁に振り切れた笑い方。
サングラスの奥の目を極限までひん剥き、口から細かい唾を飛ばし、錯乱したように哄笑する男に凄まじい嫌悪と怒りが膨れ上がる。

コイツは何だ、頭がおかしいんじゃないか。ガラガラヘビのような耳汚い笑い声―……

「汚い口を閉じろ。それ以上先生を馬鹿にしたらただじゃおかない」
「ヤろうっての?」
深呼吸で笑い納めた男が皮肉っぽく片頬歪め、蛇柄のレザーパンツの後ろから二挺拳銃を抜く。
柄に蛇が絡み付く意匠が彫られたオーダーメイドだ。
ピジョンもスナイパーライフルを手に取り、レティクルの中心に男の顔を捉える。
「お前を逝かせたらどんな顔すっかな、アイツ」
二股の舌で唇をなめる男の囁きは、蛇の毒牙の先から滴るような、捕食者の愉悦にくるまれた悪意と殺意がうっそりたゆたっていた。
さながら瘴気のごとく。
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