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DragonFlySky
母の仕事中は外で遊ぶきまりだ。
母のところには知らない男のひとが大勢訪ねてくる。多い時は日に5、6人。そういう時はきまって車の後ろに隠れるのが人見知りなピジョンのならいだ。
「いいピジョン、ママの仕事中は入っちゃだめよ。約束ね」
「うん、ピジョいい子にしてる。スアロと表で遊んでるよ」
素直に返事をすれば優しい母は「いい子ね」と抱き締めて、スワローとかわりばんこに頬ずりしてくれる。
ピジョンは母のハグが大好きだ。ちょっとくすぐったいけどいい匂いがしてうっとりと幸せにまどろむ。でもスワローはいやがってる。ちっともじっとしてないし、母の腕の中で暴れて困らせる始末。
「どうしたのスワロー、じたばたしたら痛いわやめて」
「スアロしー、しーだよ。いい子にしてなきゃだめだよ」
口の前で人さし指を立て言い聞かせる兄にぶすくれて、激しく身もがいて母の腕から抜け出すや、我先に車の外へ走りだしていく。
「待ってよ、一人で走ったら転ぶよ」
咄嗟に追いかけようとしたら、母に優しく引き止められる。
「スワローのことお願いね、ピジョン」
「だいじょうぶだよ、ピジョお兄ちゃんだから」
まるでそれが万能の魔法の呪文であるかのように、自信満々に宣言する。母の顔に安堵と不安、一抹の罪悪感を織り交ぜた複雑な色が過ぎる。
「……そうよね、お兄ちゃんだものね」
「うん」
「あんまり遠くへ行かないで。車から離れちゃだめよ。ママが呼んだら帰ってきてね」
「わかってる」
「お客さんがきたら静かにしてるのよ」
「……ピジョもアイサツしたほうがいい?」
ピジョンが下唇を窄めて上目遣いに訊けば、息子の気後れを忖度した母が仕方なさそうに微笑む。
「無理しないで。静かに遊んでくれたら十分」
挨拶しなくていいと許しをもらい、ピジョンは安堵する。
お客さんには時々おっかない人もいる。
ピジョンがおずおず寄っていくと眦を吊り上げて怒鳴ったり酒瓶をふりまわして追い払われたり、できるだけ関わりたくないのが本音だ。
もちろん、ピジョンが引っ込み思案で大人の男の人が苦手なせいもある。どうしてかはわからないけど、車の扉の前に男の人が立ち塞がっているのを見ると逃げたくてたまらない。
それがデジャビュとよばれる現象であると、ピジョンはまだ知らない。
帰り際のお客さんに絡まれるたび母や弟が割って入ってくれるが、それでふたりに矛先が向くのは心優しいピジョンが最も望まない事態だ。
急に走り出したスワローがただただ心配で、転んでしまわないか気を揉んで慌てて追いかける。
「気を付けてね」と背中に被さる母の声に元気よく手を振り返す。
スワローはすばしっこい。かけっこじゃもう勝てない。
引き離されてはなるまいと頑張って、トレーラーハウスの後ろに回り込む。
「スアロ、迷子になるよ。ピジョの見えるとこにいて」
「ならない」
スワローはずっと不機嫌だ。
退屈そうなふくれ面で、地面をくりかえし蹴り付ける。
見上げた空は髙くまるく、乾いた青が広がっている。
砂塵を含んだ風が吹き抜けるインディアンサマーの蒼穹。
現在トレーラーハウスがとまっているのは、廃墟と化した街はずれのガソリンスタンドだ。
暴漢か強盗のしわざだろうか、割れ砕けたガラスの向こうの陳列棚は破砕して埃をかぶっている。商品はほぼ持ち去られ、荒廃した店内には野生動物の糞が転がる。
微細なガラス片が散らばる店内を覗き込み、次いで弟に向き直る。
「かくれんぼする?」
ぶんぶんと首を横に振り、意固地に拒否するスワロー。
何がそんなに気に入らないのか、憮然と口を尖らして虚空を睨んでいる。
「……かくれんぼ、飽きちゃったね」
意地っ張りな弟の気持ちを汲んで、とりなすように呟く。
ここにきて一週間ほどだろうか、兄弟ふたりでできる遊びには限りがある。
母は街にでかけるのを禁じてないが、行ってもどうせ馬鹿にされるだけだ。地元の子とは折り合いが悪い。本当は仲良くなりたいけど、石を投げられるのは怖いのだ。
弟のへそ曲がりが少しでも直るように、ピジョンはお気に入りの歌を唄いだす。母がよく唄ってくれるマザーグースの一編。
「男の子って何でできてる ぼろきれやカタツムリ 子犬の尻尾 そんなものでできてるよ 女の子って何でできてる 砂糖やスパイス すてきなことがら そんなものでできてるよ……」
繋いだ手を軽く振って一緒に唄おうと誘うもてんでのってこない。
弟が相手してくれないからピジョンもツマラない。だんだん声が萎んでいって、遂には消える。
「なんで男の子はぼろきれやカタツムリなんだろ? 女の子はすてきなものいっぱいなのに、ずるいよね」
弟の意見を乞うもだんまりを通されてややへこむ。
ピジョンは弟と手を繋いだまま、その場にちょこんとしゃがみこむ。
「じゃんけんする?」
「いい」
「腕相撲は」
「おまえが負ける」
「こ、今度はがんばる。ピジョはお兄ちゃんだから、やればできるんだよ」
「…………」
「うそじゃない、ほんとだよ。ほんとはすごいんだ」
「負けるとべそかくからいやだ、めんどくさい」
弟のすげない対応に既にピジョンは泣きべそだ。
塗料の禿げた車体にもたれ、タンブルウィードが吹き転がる赤茶けた大地と、広大な空を眺めて過ごす。
「あ」
ふとピジョンの頭上をトンボがよぎっていく。
節くれた胴体に銀を吹いたような青い模様が入り、葉脈が透けるセロハンさながらの二対の翅が美しい、アメリカンギンヤンマだ。
「ドラゴンフライだ」
真っ先に弟を突付いて教え、いそいそと腰を浮かせる。虫はあんまり得意じゃないが、トンボや蝶々はキレイだから好きだ。
ピジョンは子どもらしい好奇心を漲らせてとトンボを観察する。
体の前部は丸みを帯びて膨らみ、すらりとした胴体はメタリックなエメラルドグリーンとターコイズブルーが混ざる神秘的な色をしている。
「よーし」
トンボを捕まえるのに成功したら、スワローだってきっとお兄ちゃんかっこいいと思ってくれる。
ギンヤンマがおもむろに滑空、ピジョンの目と鼻の先の地面に着陸。
前のめりに気配を消してギンヤンマに近付いていく。
正面から向き合い、人さし指をゆっくり回す。
スワローは何してるんだと怪訝な顔。
今に見てろとむきになり、殆ど突っ伏すようにして人さし指で輪っかを描き続け、反対の手を注意深く伸ばしていく。
「やったあ!」
無邪気な歓声を上げ、翅を掴んでぶらさげたギンヤンマをどんなもんだと見せびらかす。
すっかり目を回してしまったのか、ギンヤンマは大人しい。
「すごいだろ、ピジョが捕まえたんだんだ。ピジョはなんでもできるんだよ」
ジジ、ジジと羽音の唸りをたてるギンヤンマを得意げに見下ろす。
宝石のような胴体に惚れ惚れし、呼び寄せた弟に観察を促す。
「キレイだろ」
「……………」
「さわりたい?」
弟に優越感をおぼえることなどめったにない。初めてトンボ採りに成功しピジョンは有頂天だ。
スワローはうんともすんとも言わず、大きな目を見開いてピジョンの手の中でもがくトンボを凝視する。
「コイツ噛む?」
「噛まないよ」
人さし指の先端で頭部を突付いてはまた引っ込め、半信半疑の上目遣いで兄に確認。
スワローが何も言わなくても、二人で一人のように育ってきたピジョンには彼がしたいことがよくわかる。
「そーっとね。やさしくね」
壊れ物を扱うような細心の手付きで、間違っても傷付けないように気を配り、弟のふっくらした手にトンボを託す。
スワローは最初戸惑っていたが、兄の笑顔に導かれるように手をだし、太陽の光を琥珀色に透かすトンボの翅を摘まむ。
瞬間、スワローの顔から緊張が消え失せ優越感と満足感に綻ぶ。
「かあさんに見せてくる」
「仕事中は入っちゃだめだよ」
人さし指の腹でトンボの頭部をなでなでしながら注意すれば、即座に機嫌をそこね、兄を振り切るように窓の下へとんでいく。
が、残念ながら背が届かない。
爪先立ってもらちがあかない。
「だめだよスアロ、ママと約束したろ。お仕事終わるまで外で遊んでよ」
一生懸命伸びをして窓を覗こうとするスワロー。
せめてトンボだけでも母に見せようと右手を掲げる弟の頑張りがいじらしく、その腋に手をさしこんでそっと引きはがす。
ピジョンはほんの少しだけスワローより背が高い。だからだろうか、スワローを引き離そうと爪先立った時、一瞬だけ車内が見えてしまった。
母は何か鼻歌をくちずさみながら、ブラジャーのホックをとめていた。翼の名残りの肩甲骨とくびれた腰、肉感的なヒップ。ドレッサーには化粧道具が転がっている。
「なんで入っちゃだめなの」
「お客さんが怒るからだよ。ママを困らせるのはやだろ」
むくれた弟をなだめ、手に手を添えてトンボを囲い込む。
「あとで見せてあげよ、きっと喜ぶ。すごいねってほめてくれる」
「……スアロが捕まえたんじゃない」
「ピジョたちで捕まえたんだ、スアロが離れたところでじっと見張っててくれたから逃がさないですんだんだ。ふたりのお手柄、仲良くはんぶんこ」
兄の言葉にしばらく考え込み、納得したのかしてないのか複雑な表情でこくんと頷く。
「いい子だね」
ピジョンはにっこりし、再び弟を連れて隅っこに移る。
荒野に敷かれた一本道からガソリンスタンドへ、陽炎に朧に揺れる人影が逸れてくる。
「お客さんだ」
ピジョンの一言でスワローの顔が強張る。点が実体になり、テンガロンハットを被った粗野な男の姿を形作る。
大股にのし歩いて敷地を突っ切り、トレーラーハウスにまっしぐらに近付く。
男が乱暴に扉を叩く。
「ようハニー、きょうも可愛がりにきたぜ」
「まあ嬉しい、いらっしゃい! 街から歩いてくるの大変だったでしょ、どうぞ入って。レモネードが冷えてるの」
「ンなもんいらねえ、どうせならビールで頼まァ」
「シャワーはするわよね」
「汗くさいのは嫌ェか?」
「男くさいのは嫌じゃないけどね」
下着姿にガウンを羽織った母が、扉を開けて男を迎え入れる。
二人が消えるのを車の影から見届け、弟の隣にもどったピジョンは膝を抱えて座る。
居心地悪そうに俯くピジョンの隣で、黙ってトンボをもてあそぶスワロー。
ほどなくシャワーの水音が響きだし、それにのって下手な鼻歌が流れる。
もうすぐ「アレ」がはじまる。ピジョンにはよくわからない、でも見ちゃいけない「アレ」が。
心臓の鼓動が高鳴って嫌な汗がふきだす。
車から離れたい。できない。聞きたくないのに動けない、逃げられない。
スワローの視線を痛いほど横に感じ、ますますキツく膝を抱き締める。
「あッ、あァっ、あッあぁっあ―――」
車が揺れる。
ベッドが軋む。
悲鳴と紙一重の息遣いが連続し、ケダモノじみた男の低い呻きが混ざる。
ピジョンはコレが怖い。
知らない男の人に母がいじめられてると思ったことも一度や二度じゃない。
「おらよコレが好きなんだろアバズレ、ぎゅうぎゅう食い付いてはなれねェぜ」
「そこおっ、いイっすご、はァっあはっアナタのおっきくて最高ね!」
ちがうのよピジョン、そうじゃないの。アレは痛くないの、気持ちいいことなの。だから心配しないで、かわいいお顔をあげて。ママはへっちゃらだから、笑ってちょうだいな小鳩ちゃん。
両手でぴったり耳を塞ぐ。笑ったり泣いたり叫んだり、窓の向こうの母は大忙しだ。大好きな母を横取りされた孤独感、追い出された疎外感。中で起こってるのはきっとろくでもないことだ、ピジョンが見ちゃいけないことだ。
知らない男のひとに母を奪われた悔しさがこみ上げ視界が潤む。
車はリズミカルに揺れ続け、ベッドはうるさく軋み続け、喘ぎ声ははしたなく高まっていく一方だ。
恐怖で喉が塞がる。耳を塞いでも聞こえてくる。いやだ怖いだれか助けて…………
スワローが唐突に立ち上がる。
「! ッ」
その手の中でトンボがずたずたに引きちぎられる。
胴体がブツリとちぎれ、繊細な葉脈が通った翅を粉々に握り潰され、ばらばらと地面に落ちていく。
なんてことをするんだ。かわいそうじゃないか。咄嗟に放とうとした叱責の言葉は、冷たい炎のような横顔に撥ね付けられる。
スワローの瞳に浮かぶのは純粋な怒り、凶暴な破壊衝動。
ラスティネイル 兄とおそろいの錆びた赤が爛々と冴え渡り、地獄の炉の色に染まる。
「やめてよ、なんでそんな」
せっかく捕まえたのに。
キレイなトンボだったのに。
寸断された死骸をなお執拗に踏み付ける弟をたしなめれば、癇癪を起こしてますます滅茶苦茶に荒れ狂い、何度も何度も踏み砕く。
「ママに見せるんじゃないの!?」
「もういらない」
トンボがかわいそうだ。
でも、スワローの方がもっとかわいそうだ。
その時、ピジョンは何故かそう思った。
どう考えてもトンボの方が可哀想なのに、それが正しいはずなのに、トンボをちぎって捨てくりかえし踏み付けるスワローのほうがずっとひとりぽっちで寂しく見えたのだ。ピジョンは手の置き場所を間違えた。
自分のことだけ考えていた。
自分より小さくか弱い弟がそばにいるのに自分のことで手一杯でコイツを守ってやるのを忘れていた。
コイツはギンヤンマを持っていたから、耳を塞いで逃げることさえできなかったのに。
「スワロー」
初めてちゃんと名前を呼んだ、訛らずに呼ぶことができた。
兄として何をすべきか、その答えがわかった。
トンボを蹴飛ばすスワローの背に忍び寄り、両の手でやさしく耳を塞ぐ。
「あっちいけよばか!」
スワローは一際激しく暴れるが、ぶたれてもひっかかれてもピジョンは泣かず離れず、唇を噛み締めて弟の耳を塞ぎ続ける。
「ごめんねスワロー」
「なんであやまるんだよおこれよばか!」
顔真っ赤で怒鳴り散らすスワローの後頭部に息を吹き込み、イエローゴールドの髪の毛をふわりと散らす、
「大丈夫、すぐ終わる。ピジョがいるから大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるようにくりかえし、駄々をこねる身体ごと抱きすくめる。
車はまだ揺れている。
弟のてのひらには銀に光る粉が付着していた。脆くもちぎれて死骸と化した、ギンヤンマの粉末だ。
どうか弟が地獄におちませんように。
悪いのは全部ピジョです。ピジョが捕まえたせいです。コイツはちっとも悪くないんです。
変わり果てたギンヤンマに狂おしく詫び、空の上の神様に必死に許しを乞うあいだに暴れ疲れて大人しくなり、ピジョンの腕の中で途方に暮れたようにうなだれて本当に小さな小さな、衣擦れにかき消えそうに小さな嗚咽を上げる。
「……ぅ、ぐ」
ピジョンの腕の中でぐったりと虚脱してずり落ちる。
「う゛ーッ、う゛ッ」
奥歯で磨り潰した嗚咽を泡立て、地べたでしゃくりあげるスワローの背に立ち尽くす。
「じゃあねダーリン」
「またなハニー、くれぐれも浮気すんなよ」
「娼婦に無理な相談ね」
「ハッ、ちげェねえ。次くる時ァもっといい思いさせてやっから楽しみにしてな」
「アナタとアナタの倅にせいぜい期待しとくわ」
前後して事を終えた客が退出、テンガロンハットをかぶり直して飄々と去っていく。最後までピジョンたちの存在には気付かなかったようだ。
スワローが両手を広げ、地面に散らばったトンボの亡骸をせっせとかき集める。
「…………どうするの」
「かあさんに見せにいく」
そんなの見せられても困る、とは言えなかった。
ピジョンも無言で屈み、弟を手伝ってトンボの切れ端を回収する。
あらかた集め終えて合わせたてのひらに戴けば、スワローの表情がほんの少し和らぐ。
「いらっしゃいふたりとも」
テンガロンハットを愛想よく見送った母が、接客用じゃない本当の笑顔で息子たちを呼ぶ。
殆ど同時に母の胸にとびこんだピジョンとスワローは、どちらが先に口火を切るか目配せし合い、根負けしたピジョンが訥々と吐露する。
「あのねあのね、ピジョたちトンボ捕まえたんだ。ピジョとスアロ、ふたりで捕まえたんだよ」
「あらそうなの、すごいわね。どこにいるのかしら、ママにも見せてくれる?」
ピジョンに目線で促され、ふてくされたスワローが渋々指をほどいていく。
「…………あげる」
息子のてのひらの上、ターコイズブルーとエメラルドグリーンが混ざり合ったトンボの死骸をのぞきこみ、一瞬だけ目をまんまるくした母が次の瞬間には満面の笑顔を咲かせる。
「ありがとう、とってもステキな贈り物ね」
「ピジョとスワロー、ドラゴンフライハンターなんだ。おもしろいんだよ、顔の前でくるくるするとぽとりとおちるの、催眠術みたい。まだまだたくさん捕まてあげるから楽しみにしててね」
居心地悪げな弟の分までピジョンが得意げに胸を張る。
スワローを抱き締めて礼を述べ、魂の宿った生き物を扱うように、その手から直接死骸を受け取る母。
殺しちゃいけないと叱るのは簡単だ。
命を奪うのは罪深い、必ずばちがあたると、子どもを怯えさせるのは実に簡単なことだ。
「ピジョン、スワロー。プレゼントはとっても嬉しいけど、次からは見せてくれるだけで十分よ。トンボさんはお空に帰してあげて」
「なんで?はなしたらもどってこないのに」
スワローの目に強い不満が表出する。
「ピジョンとスワローのことが好きなら必ずまた戻ってくるわ、そして何度でも宙返りを見せてくれるの。この子だって空を飛べないのはすっごく残念なはずよ」
「けど」
翅をもがれたトンボを愛おしそうに胸に抱き、インディアンサマーの青空から降り注ぐ光を浴びて、母が呟く。
「この子たちが飛ぶところあなたたちと見れたら、それが一番しあわせ」
母の言葉をよくよく噛み締め、難しすぎて首をひねり、されど一生懸命考え抜くスワローの手を不意にぬくもりが包む。
ピジョンだ。
謎かけに混乱する弟の手を握り、不安げに表情をうかがっている。
トンボを殺しちゃいけないということがスワローにはよくわからない。
あの時は目の前が真っ赤になって、勝手に体が動いていた。
ちぎり捨てるとスッとした。踏み付けると愉快だった。突如として自分が強く大きくなった気がして、無敵な気分が膨らんで―
「…………ごめん」
その勘違いは、ピジョンに耳を塞がれた途端ぱちんと弾けた。
トンボを殺すことが悪いというのはよくわからないが、兄と母に哀しい顔をさせてしまった原因は自分にある。
付け加えるなら、死んだトンボはツマらない。動いてた方がずっと面白い。
「ごめん」
何故かピジョンまで謝る。彼が一番トンボの末路に胸を痛めていたのだ。
親子3人輪になり、額を突き合わせてトンボが天国へ行けるように祈る。
誰が言い出すでもなく母の手にピジョンが手を重ね、その上にスワローが手を重ね、小さきものの魂が迷わずインディアンサマーの高みへ昇れるように祈り続ける。
この日のドラゴンフライスカイの記憶は小鳥たちの潜在意識に鮮烈に焼き付いて、番(つがい)が引き裂かれるまで消えなかった。
母のところには知らない男のひとが大勢訪ねてくる。多い時は日に5、6人。そういう時はきまって車の後ろに隠れるのが人見知りなピジョンのならいだ。
「いいピジョン、ママの仕事中は入っちゃだめよ。約束ね」
「うん、ピジョいい子にしてる。スアロと表で遊んでるよ」
素直に返事をすれば優しい母は「いい子ね」と抱き締めて、スワローとかわりばんこに頬ずりしてくれる。
ピジョンは母のハグが大好きだ。ちょっとくすぐったいけどいい匂いがしてうっとりと幸せにまどろむ。でもスワローはいやがってる。ちっともじっとしてないし、母の腕の中で暴れて困らせる始末。
「どうしたのスワロー、じたばたしたら痛いわやめて」
「スアロしー、しーだよ。いい子にしてなきゃだめだよ」
口の前で人さし指を立て言い聞かせる兄にぶすくれて、激しく身もがいて母の腕から抜け出すや、我先に車の外へ走りだしていく。
「待ってよ、一人で走ったら転ぶよ」
咄嗟に追いかけようとしたら、母に優しく引き止められる。
「スワローのことお願いね、ピジョン」
「だいじょうぶだよ、ピジョお兄ちゃんだから」
まるでそれが万能の魔法の呪文であるかのように、自信満々に宣言する。母の顔に安堵と不安、一抹の罪悪感を織り交ぜた複雑な色が過ぎる。
「……そうよね、お兄ちゃんだものね」
「うん」
「あんまり遠くへ行かないで。車から離れちゃだめよ。ママが呼んだら帰ってきてね」
「わかってる」
「お客さんがきたら静かにしてるのよ」
「……ピジョもアイサツしたほうがいい?」
ピジョンが下唇を窄めて上目遣いに訊けば、息子の気後れを忖度した母が仕方なさそうに微笑む。
「無理しないで。静かに遊んでくれたら十分」
挨拶しなくていいと許しをもらい、ピジョンは安堵する。
お客さんには時々おっかない人もいる。
ピジョンがおずおず寄っていくと眦を吊り上げて怒鳴ったり酒瓶をふりまわして追い払われたり、できるだけ関わりたくないのが本音だ。
もちろん、ピジョンが引っ込み思案で大人の男の人が苦手なせいもある。どうしてかはわからないけど、車の扉の前に男の人が立ち塞がっているのを見ると逃げたくてたまらない。
それがデジャビュとよばれる現象であると、ピジョンはまだ知らない。
帰り際のお客さんに絡まれるたび母や弟が割って入ってくれるが、それでふたりに矛先が向くのは心優しいピジョンが最も望まない事態だ。
急に走り出したスワローがただただ心配で、転んでしまわないか気を揉んで慌てて追いかける。
「気を付けてね」と背中に被さる母の声に元気よく手を振り返す。
スワローはすばしっこい。かけっこじゃもう勝てない。
引き離されてはなるまいと頑張って、トレーラーハウスの後ろに回り込む。
「スアロ、迷子になるよ。ピジョの見えるとこにいて」
「ならない」
スワローはずっと不機嫌だ。
退屈そうなふくれ面で、地面をくりかえし蹴り付ける。
見上げた空は髙くまるく、乾いた青が広がっている。
砂塵を含んだ風が吹き抜けるインディアンサマーの蒼穹。
現在トレーラーハウスがとまっているのは、廃墟と化した街はずれのガソリンスタンドだ。
暴漢か強盗のしわざだろうか、割れ砕けたガラスの向こうの陳列棚は破砕して埃をかぶっている。商品はほぼ持ち去られ、荒廃した店内には野生動物の糞が転がる。
微細なガラス片が散らばる店内を覗き込み、次いで弟に向き直る。
「かくれんぼする?」
ぶんぶんと首を横に振り、意固地に拒否するスワロー。
何がそんなに気に入らないのか、憮然と口を尖らして虚空を睨んでいる。
「……かくれんぼ、飽きちゃったね」
意地っ張りな弟の気持ちを汲んで、とりなすように呟く。
ここにきて一週間ほどだろうか、兄弟ふたりでできる遊びには限りがある。
母は街にでかけるのを禁じてないが、行ってもどうせ馬鹿にされるだけだ。地元の子とは折り合いが悪い。本当は仲良くなりたいけど、石を投げられるのは怖いのだ。
弟のへそ曲がりが少しでも直るように、ピジョンはお気に入りの歌を唄いだす。母がよく唄ってくれるマザーグースの一編。
「男の子って何でできてる ぼろきれやカタツムリ 子犬の尻尾 そんなものでできてるよ 女の子って何でできてる 砂糖やスパイス すてきなことがら そんなものでできてるよ……」
繋いだ手を軽く振って一緒に唄おうと誘うもてんでのってこない。
弟が相手してくれないからピジョンもツマラない。だんだん声が萎んでいって、遂には消える。
「なんで男の子はぼろきれやカタツムリなんだろ? 女の子はすてきなものいっぱいなのに、ずるいよね」
弟の意見を乞うもだんまりを通されてややへこむ。
ピジョンは弟と手を繋いだまま、その場にちょこんとしゃがみこむ。
「じゃんけんする?」
「いい」
「腕相撲は」
「おまえが負ける」
「こ、今度はがんばる。ピジョはお兄ちゃんだから、やればできるんだよ」
「…………」
「うそじゃない、ほんとだよ。ほんとはすごいんだ」
「負けるとべそかくからいやだ、めんどくさい」
弟のすげない対応に既にピジョンは泣きべそだ。
塗料の禿げた車体にもたれ、タンブルウィードが吹き転がる赤茶けた大地と、広大な空を眺めて過ごす。
「あ」
ふとピジョンの頭上をトンボがよぎっていく。
節くれた胴体に銀を吹いたような青い模様が入り、葉脈が透けるセロハンさながらの二対の翅が美しい、アメリカンギンヤンマだ。
「ドラゴンフライだ」
真っ先に弟を突付いて教え、いそいそと腰を浮かせる。虫はあんまり得意じゃないが、トンボや蝶々はキレイだから好きだ。
ピジョンは子どもらしい好奇心を漲らせてとトンボを観察する。
体の前部は丸みを帯びて膨らみ、すらりとした胴体はメタリックなエメラルドグリーンとターコイズブルーが混ざる神秘的な色をしている。
「よーし」
トンボを捕まえるのに成功したら、スワローだってきっとお兄ちゃんかっこいいと思ってくれる。
ギンヤンマがおもむろに滑空、ピジョンの目と鼻の先の地面に着陸。
前のめりに気配を消してギンヤンマに近付いていく。
正面から向き合い、人さし指をゆっくり回す。
スワローは何してるんだと怪訝な顔。
今に見てろとむきになり、殆ど突っ伏すようにして人さし指で輪っかを描き続け、反対の手を注意深く伸ばしていく。
「やったあ!」
無邪気な歓声を上げ、翅を掴んでぶらさげたギンヤンマをどんなもんだと見せびらかす。
すっかり目を回してしまったのか、ギンヤンマは大人しい。
「すごいだろ、ピジョが捕まえたんだんだ。ピジョはなんでもできるんだよ」
ジジ、ジジと羽音の唸りをたてるギンヤンマを得意げに見下ろす。
宝石のような胴体に惚れ惚れし、呼び寄せた弟に観察を促す。
「キレイだろ」
「……………」
「さわりたい?」
弟に優越感をおぼえることなどめったにない。初めてトンボ採りに成功しピジョンは有頂天だ。
スワローはうんともすんとも言わず、大きな目を見開いてピジョンの手の中でもがくトンボを凝視する。
「コイツ噛む?」
「噛まないよ」
人さし指の先端で頭部を突付いてはまた引っ込め、半信半疑の上目遣いで兄に確認。
スワローが何も言わなくても、二人で一人のように育ってきたピジョンには彼がしたいことがよくわかる。
「そーっとね。やさしくね」
壊れ物を扱うような細心の手付きで、間違っても傷付けないように気を配り、弟のふっくらした手にトンボを託す。
スワローは最初戸惑っていたが、兄の笑顔に導かれるように手をだし、太陽の光を琥珀色に透かすトンボの翅を摘まむ。
瞬間、スワローの顔から緊張が消え失せ優越感と満足感に綻ぶ。
「かあさんに見せてくる」
「仕事中は入っちゃだめだよ」
人さし指の腹でトンボの頭部をなでなでしながら注意すれば、即座に機嫌をそこね、兄を振り切るように窓の下へとんでいく。
が、残念ながら背が届かない。
爪先立ってもらちがあかない。
「だめだよスアロ、ママと約束したろ。お仕事終わるまで外で遊んでよ」
一生懸命伸びをして窓を覗こうとするスワロー。
せめてトンボだけでも母に見せようと右手を掲げる弟の頑張りがいじらしく、その腋に手をさしこんでそっと引きはがす。
ピジョンはほんの少しだけスワローより背が高い。だからだろうか、スワローを引き離そうと爪先立った時、一瞬だけ車内が見えてしまった。
母は何か鼻歌をくちずさみながら、ブラジャーのホックをとめていた。翼の名残りの肩甲骨とくびれた腰、肉感的なヒップ。ドレッサーには化粧道具が転がっている。
「なんで入っちゃだめなの」
「お客さんが怒るからだよ。ママを困らせるのはやだろ」
むくれた弟をなだめ、手に手を添えてトンボを囲い込む。
「あとで見せてあげよ、きっと喜ぶ。すごいねってほめてくれる」
「……スアロが捕まえたんじゃない」
「ピジョたちで捕まえたんだ、スアロが離れたところでじっと見張っててくれたから逃がさないですんだんだ。ふたりのお手柄、仲良くはんぶんこ」
兄の言葉にしばらく考え込み、納得したのかしてないのか複雑な表情でこくんと頷く。
「いい子だね」
ピジョンはにっこりし、再び弟を連れて隅っこに移る。
荒野に敷かれた一本道からガソリンスタンドへ、陽炎に朧に揺れる人影が逸れてくる。
「お客さんだ」
ピジョンの一言でスワローの顔が強張る。点が実体になり、テンガロンハットを被った粗野な男の姿を形作る。
大股にのし歩いて敷地を突っ切り、トレーラーハウスにまっしぐらに近付く。
男が乱暴に扉を叩く。
「ようハニー、きょうも可愛がりにきたぜ」
「まあ嬉しい、いらっしゃい! 街から歩いてくるの大変だったでしょ、どうぞ入って。レモネードが冷えてるの」
「ンなもんいらねえ、どうせならビールで頼まァ」
「シャワーはするわよね」
「汗くさいのは嫌ェか?」
「男くさいのは嫌じゃないけどね」
下着姿にガウンを羽織った母が、扉を開けて男を迎え入れる。
二人が消えるのを車の影から見届け、弟の隣にもどったピジョンは膝を抱えて座る。
居心地悪そうに俯くピジョンの隣で、黙ってトンボをもてあそぶスワロー。
ほどなくシャワーの水音が響きだし、それにのって下手な鼻歌が流れる。
もうすぐ「アレ」がはじまる。ピジョンにはよくわからない、でも見ちゃいけない「アレ」が。
心臓の鼓動が高鳴って嫌な汗がふきだす。
車から離れたい。できない。聞きたくないのに動けない、逃げられない。
スワローの視線を痛いほど横に感じ、ますますキツく膝を抱き締める。
「あッ、あァっ、あッあぁっあ―――」
車が揺れる。
ベッドが軋む。
悲鳴と紙一重の息遣いが連続し、ケダモノじみた男の低い呻きが混ざる。
ピジョンはコレが怖い。
知らない男の人に母がいじめられてると思ったことも一度や二度じゃない。
「おらよコレが好きなんだろアバズレ、ぎゅうぎゅう食い付いてはなれねェぜ」
「そこおっ、いイっすご、はァっあはっアナタのおっきくて最高ね!」
ちがうのよピジョン、そうじゃないの。アレは痛くないの、気持ちいいことなの。だから心配しないで、かわいいお顔をあげて。ママはへっちゃらだから、笑ってちょうだいな小鳩ちゃん。
両手でぴったり耳を塞ぐ。笑ったり泣いたり叫んだり、窓の向こうの母は大忙しだ。大好きな母を横取りされた孤独感、追い出された疎外感。中で起こってるのはきっとろくでもないことだ、ピジョンが見ちゃいけないことだ。
知らない男のひとに母を奪われた悔しさがこみ上げ視界が潤む。
車はリズミカルに揺れ続け、ベッドはうるさく軋み続け、喘ぎ声ははしたなく高まっていく一方だ。
恐怖で喉が塞がる。耳を塞いでも聞こえてくる。いやだ怖いだれか助けて…………
スワローが唐突に立ち上がる。
「! ッ」
その手の中でトンボがずたずたに引きちぎられる。
胴体がブツリとちぎれ、繊細な葉脈が通った翅を粉々に握り潰され、ばらばらと地面に落ちていく。
なんてことをするんだ。かわいそうじゃないか。咄嗟に放とうとした叱責の言葉は、冷たい炎のような横顔に撥ね付けられる。
スワローの瞳に浮かぶのは純粋な怒り、凶暴な破壊衝動。
ラスティネイル 兄とおそろいの錆びた赤が爛々と冴え渡り、地獄の炉の色に染まる。
「やめてよ、なんでそんな」
せっかく捕まえたのに。
キレイなトンボだったのに。
寸断された死骸をなお執拗に踏み付ける弟をたしなめれば、癇癪を起こしてますます滅茶苦茶に荒れ狂い、何度も何度も踏み砕く。
「ママに見せるんじゃないの!?」
「もういらない」
トンボがかわいそうだ。
でも、スワローの方がもっとかわいそうだ。
その時、ピジョンは何故かそう思った。
どう考えてもトンボの方が可哀想なのに、それが正しいはずなのに、トンボをちぎって捨てくりかえし踏み付けるスワローのほうがずっとひとりぽっちで寂しく見えたのだ。ピジョンは手の置き場所を間違えた。
自分のことだけ考えていた。
自分より小さくか弱い弟がそばにいるのに自分のことで手一杯でコイツを守ってやるのを忘れていた。
コイツはギンヤンマを持っていたから、耳を塞いで逃げることさえできなかったのに。
「スワロー」
初めてちゃんと名前を呼んだ、訛らずに呼ぶことができた。
兄として何をすべきか、その答えがわかった。
トンボを蹴飛ばすスワローの背に忍び寄り、両の手でやさしく耳を塞ぐ。
「あっちいけよばか!」
スワローは一際激しく暴れるが、ぶたれてもひっかかれてもピジョンは泣かず離れず、唇を噛み締めて弟の耳を塞ぎ続ける。
「ごめんねスワロー」
「なんであやまるんだよおこれよばか!」
顔真っ赤で怒鳴り散らすスワローの後頭部に息を吹き込み、イエローゴールドの髪の毛をふわりと散らす、
「大丈夫、すぐ終わる。ピジョがいるから大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるようにくりかえし、駄々をこねる身体ごと抱きすくめる。
車はまだ揺れている。
弟のてのひらには銀に光る粉が付着していた。脆くもちぎれて死骸と化した、ギンヤンマの粉末だ。
どうか弟が地獄におちませんように。
悪いのは全部ピジョです。ピジョが捕まえたせいです。コイツはちっとも悪くないんです。
変わり果てたギンヤンマに狂おしく詫び、空の上の神様に必死に許しを乞うあいだに暴れ疲れて大人しくなり、ピジョンの腕の中で途方に暮れたようにうなだれて本当に小さな小さな、衣擦れにかき消えそうに小さな嗚咽を上げる。
「……ぅ、ぐ」
ピジョンの腕の中でぐったりと虚脱してずり落ちる。
「う゛ーッ、う゛ッ」
奥歯で磨り潰した嗚咽を泡立て、地べたでしゃくりあげるスワローの背に立ち尽くす。
「じゃあねダーリン」
「またなハニー、くれぐれも浮気すんなよ」
「娼婦に無理な相談ね」
「ハッ、ちげェねえ。次くる時ァもっといい思いさせてやっから楽しみにしてな」
「アナタとアナタの倅にせいぜい期待しとくわ」
前後して事を終えた客が退出、テンガロンハットをかぶり直して飄々と去っていく。最後までピジョンたちの存在には気付かなかったようだ。
スワローが両手を広げ、地面に散らばったトンボの亡骸をせっせとかき集める。
「…………どうするの」
「かあさんに見せにいく」
そんなの見せられても困る、とは言えなかった。
ピジョンも無言で屈み、弟を手伝ってトンボの切れ端を回収する。
あらかた集め終えて合わせたてのひらに戴けば、スワローの表情がほんの少し和らぐ。
「いらっしゃいふたりとも」
テンガロンハットを愛想よく見送った母が、接客用じゃない本当の笑顔で息子たちを呼ぶ。
殆ど同時に母の胸にとびこんだピジョンとスワローは、どちらが先に口火を切るか目配せし合い、根負けしたピジョンが訥々と吐露する。
「あのねあのね、ピジョたちトンボ捕まえたんだ。ピジョとスアロ、ふたりで捕まえたんだよ」
「あらそうなの、すごいわね。どこにいるのかしら、ママにも見せてくれる?」
ピジョンに目線で促され、ふてくされたスワローが渋々指をほどいていく。
「…………あげる」
息子のてのひらの上、ターコイズブルーとエメラルドグリーンが混ざり合ったトンボの死骸をのぞきこみ、一瞬だけ目をまんまるくした母が次の瞬間には満面の笑顔を咲かせる。
「ありがとう、とってもステキな贈り物ね」
「ピジョとスワロー、ドラゴンフライハンターなんだ。おもしろいんだよ、顔の前でくるくるするとぽとりとおちるの、催眠術みたい。まだまだたくさん捕まてあげるから楽しみにしててね」
居心地悪げな弟の分までピジョンが得意げに胸を張る。
スワローを抱き締めて礼を述べ、魂の宿った生き物を扱うように、その手から直接死骸を受け取る母。
殺しちゃいけないと叱るのは簡単だ。
命を奪うのは罪深い、必ずばちがあたると、子どもを怯えさせるのは実に簡単なことだ。
「ピジョン、スワロー。プレゼントはとっても嬉しいけど、次からは見せてくれるだけで十分よ。トンボさんはお空に帰してあげて」
「なんで?はなしたらもどってこないのに」
スワローの目に強い不満が表出する。
「ピジョンとスワローのことが好きなら必ずまた戻ってくるわ、そして何度でも宙返りを見せてくれるの。この子だって空を飛べないのはすっごく残念なはずよ」
「けど」
翅をもがれたトンボを愛おしそうに胸に抱き、インディアンサマーの青空から降り注ぐ光を浴びて、母が呟く。
「この子たちが飛ぶところあなたたちと見れたら、それが一番しあわせ」
母の言葉をよくよく噛み締め、難しすぎて首をひねり、されど一生懸命考え抜くスワローの手を不意にぬくもりが包む。
ピジョンだ。
謎かけに混乱する弟の手を握り、不安げに表情をうかがっている。
トンボを殺しちゃいけないということがスワローにはよくわからない。
あの時は目の前が真っ赤になって、勝手に体が動いていた。
ちぎり捨てるとスッとした。踏み付けると愉快だった。突如として自分が強く大きくなった気がして、無敵な気分が膨らんで―
「…………ごめん」
その勘違いは、ピジョンに耳を塞がれた途端ぱちんと弾けた。
トンボを殺すことが悪いというのはよくわからないが、兄と母に哀しい顔をさせてしまった原因は自分にある。
付け加えるなら、死んだトンボはツマらない。動いてた方がずっと面白い。
「ごめん」
何故かピジョンまで謝る。彼が一番トンボの末路に胸を痛めていたのだ。
親子3人輪になり、額を突き合わせてトンボが天国へ行けるように祈る。
誰が言い出すでもなく母の手にピジョンが手を重ね、その上にスワローが手を重ね、小さきものの魂が迷わずインディアンサマーの高みへ昇れるように祈り続ける。
この日のドラゴンフライスカイの記憶は小鳥たちの潜在意識に鮮烈に焼き付いて、番(つがい)が引き裂かれるまで消えなかった。
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