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壱、天上で女神は囀る―其の壱―
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受難の時は去り、人間でありながら『神の繭』という、神の素質を持って生まれてきた若菜は、性愛と慈愛の女神として生まれ変わった。
娑婆世界を混乱と恐怖に陥れた第六天魔王から、この銀河を統べる天帝となった朔。そして、八百万の陰陽師の神でありながら、朔の右腕として暗躍する安倍晴明。
若菜は彼らと婚姻し、ようやく二人の夫との新しい生活にも慣れてきた。
義弟である朔の生命力は強く、新しい宇宙には、新たな星が次々と生まれ煌々と輝いている。そんな様子を眺めていると、若菜は嬉しくなり、心が温かくなった。
生まれいく星たちは、まるで自分と朔の子供のようにも思えるし、そこに新たな生命が生まれれば、若菜は彼らが健やかに、幸せに暮らせるように、ささやかな慈愛の加護を送るのだ。
「若菜、あまり女神の力を使い過ぎぬようにな。均等が崩されるような事があれば、朔が力を補充するのだから」
「そうだ、義姉さん。またこないだみてぇに倒れられたら、心配する。なんつーかあんまり色んな星や、生命体に情をかけすぎるなよ。あいつらは、あいつなりに失敗と成功を繰り返して進化をするんだ。その積み重ねで文明が発展し、そこから神話が生まれ、また新たな神々が生まれる。あまり踏み込みすぎると自分の心がすり減るぞ、若菜」
稲穂の波打つ髪が腰まで伸び、蜜色の甘い瞳。桜色の唇に、童顔な彼女は、可愛らしく女神というにはまだ少し威厳が足りない。
それもそのはず、新しく人間から八百万の女神になったばかりなのだから。人間の時の癖は抜けないし、まだしっくりときていない。
華奢な体を纏う鮮やかな神御衣に、薄い羽衣を身に付けている。
若菜にとって本当は、陰陽師の時に愛用していた巫女服が、一番動きやすいのだが、服装や礼儀に至っては古来からの八百万の神のしきたりなどがあるらしい。
大人しく郷に入っては、郷に従えということで、天照大神の助言通り、若菜は神御衣を着る事にした。
「う、うん。ごめんなさい朔ちゃん、晴明様。なんだかわ、つい助けたくなったりするから、私ってば駄目だね。皆が幸せになって欲しいから……つい」
天帝が住まう白亜の故宮に備えられた秘密の庭は、どこを見渡しても赤、緑、青、紫といった星雲が広がる。幻想的な宇宙を見つめながら、三人でお茶を嗜むのが、彼らの楽しみでもあった。
若菜を真ん中にし、朔と晴明が彼女を挟むように座っている。若菜の腰を抱いていた義弟が、柔らかな髪に触れると、あまり普段は見せない優しい微笑みを浮かべた。そして、若菜の慈愛の心に寄り添うように、晴明が若菜の指を握った。
なんとなく、若菜は恥ずかしくなって二人の間で赤面すると、項垂れる。二人の夫は若菜に対して、過保護過ぎるほど溺愛していた。
「そろそろ、あいつらに会いに行くのか?」
「もうそんな時間か。若菜、あまり長居はせぬよう。我が君が心配する」
「おいおい、俺のせいにするなよな、晴明。お前だって、若菜が故宮を出て、長時間高天原で遊んでると、眉間にしわ寄せて死ぬほど心配する癖によ」
「二人共、ちょっと心配しすぎだよ。あのね、今日はね、佐久夜様の神域にお招きして頂いているから大丈夫だよ。皆で行こうかなって思ってるの」
もう、あの頃の数々の凌辱の受難が遠い昔のように思えるが、朔も晴明も未だに若菜を心配しているのだろう。とはいえ、木花之佐久夜毘売命は自分にとって、幼い頃からの縁があり、命の恩人でもある。今や姉のような存在だった。
「まぁ、あいつら全員で一緒に行くなら大丈夫か。佐久夜はほら、男嫌いの女好きだろ。特に若菜がお気に入りだしよ。『戯れ』に俺が参加出来ねぇのは、つまんねぇし」
確かに佐久夜は、今や女性にしか興味がない様子だ。朔が望むような『戯れ』は恐らく起こり得ないだろう。
「よもや、佐久夜樣もそこまで愚かではなかろう。ふふ。朔、そこまで心配しては疎ましいと思われるぞ」
「あ? 大体俺とお前の考えはほぼ同じだろーが」
「だ、大丈夫だってば。それじゃあ、高天原に行ってくるね」
軽い冗談を言い合う二人に、くすくす笑いながら若菜は立ち上がる。た二人は、交互に若菜を抱きしめた。少し自分と離れるだけでも、このような有り様なのだから、若菜は彼らをさらに愛しく思っていた。
どこか拗ねた様子の義弟は、天帝の職務のせいで、よほどの事がない限り、均等を護る監視者として世界を見る事は出来ても、自由に動けないからだろう。
若菜は、第六天魔王の魂と同化した朔に、幼い頃、自分の後を泣きながら追いかけて、転んだ義弟の面影が見えた気がした。彼女はつま先立ちになると、愛しそうに頭を撫でる。
「おいおい、ガキ扱いすんなって」
「この銀河を総べる偉大な天帝が拗ねるなんぞ、童子と言われても仕方あるまい。さぁ、気を付けるのだぞ」
「ふふ、二人共大好きだよ。行ってくるね」
今夜を楽しみにしている、と二人は妖艶に微笑むと、赤面する若菜を送り出した。
✤✤✤
天界では、朔の力によって生まれた、有翼の天界人が空を行き来している。
彼らは天帝の命により、東西南北の天国に住まう神々の下に伝達を届けたり、時には神々の元で剣を取ることもあれば、場合により、天国で使徒としての仕事を任される事もあるらしい。
天帝が変わる度に、新しい天界人が卵から生まれるのだが、彼らは大人の姿のまま生誕し、直ぐに言葉を話せるようになるという。まるであらかじめ、脳に記憶や知識が刻まれているのか、若菜を見ると、他の神々よりも彼女に深く頭を垂れるのだから不思議だ。
若菜はぼんやりと、飛び交う美しい天界人を見ながら、白い大理石の階段を降りた。
『若菜様……!』
『姫、首を長くしてお待ちしておりました』
朔の力によって天界の一画に、キョウに似た場所を造り出して貰った。
若菜自身生まれ育った土地は恋しいし、自分が陰陽師だった頃の式神、今や眷属となった彼らを、昔と変わらない環境で住まわせてあげたかったからだ。
満開の桜が咲く寝殿造へ若菜が一歩足を踏み入れると、稚児のようなおかっぱ頭の白子の美少年、白蛇の白露が走り寄ってきた。
以前は自分より身長が低かった彼も、若菜の力が増したせいか、彼女と同じくらいの背丈になっていた。それでも女の子のような甘い顔立ちは、以前と変わりがない。
「白露、また背が高くなったみたいだね」
『ええ。若菜様のお力のお陰です』
『姫、白露だけでなく私の力も強くなっております故。しかしまだ足りません。やはり……姫と交わらねば、私の真の力は解放できないのです。眷属たるもの心身ともに、愛し合うのが常で御座いましょう』
「う、うん。あ、あの、由衛」
白露を押し退けるようにして、白狐の由衛が若菜の華奢な両手を握ると、ぐっと顔を近付けてきた。面食らった白露だが、いつもの事で呆れたように苦笑する。
若菜が人間だった頃に、陰陽師見習いとして初めて彼女が式神として選んだのは、悪さばかりをする、野狐の由衛だった。
今や彼も神使となり、若菜の眷属となったが彼女に対する感情は主人以上で、隙あらば朔と晴明から奪い、夫婦になりたいと願っているようだった。由衛は、若菜の顎を掴み、腰を抱くとあわあわと慌てる若菜を無視して、そのまま口付けようとした。それを遮るようにして、後方から声を掛けられる。
『よぅ、嬢ちゃん。また由衛に振り回されてんのか。てめェも懲りないなァ。ご主人様に会う前にゃ、ちゃんとマスかいとけよ。そのうち本気で天帝様に消されるぞ、由衛』
『その前にあの晴明にやられちまうんじゃあないの。やっぱり若菜がここに戻ると男どもが、騒がしくなるねぇ。ふふ……さぁさ抱きしめさせておくれ』
「吉良、紅雀……!」
後ろから声をかけてきたのは、狗神で、眷属となった吉良だ。
彼の隣にいるのは、吉良の内縁の妻というべきか、恋仲の紅雀である。彼女は朔の式神だったが、ひょんな事から若菜の霊力を受け取り、半ば眷属のようになっている。
この二人は、若菜にとって、兄、姉、保護者と言っても過言ではない程だ。家族との縁が薄かった若菜は、この場にいる全員の事を家族や親友、かけがえのない者達として大切に思っていた。
良い所で邪魔された由衛は舌打ちすると、自分より小さな若菜をぎゅっと抱きしめたまま、二人を振り返る。
『はぁ……ほんま、俺とお姫さんとの時間をまいどまいど、邪魔せんといて欲しいわ。なんや、接吻くらい減らへんやろ。そもそも俺とお姫さんの間に割って入ってきたんが朔やぞ。晴明様だけならまだしも、あの若造が』
「あの、あの、喧嘩しないでっ……。今日は、佐久夜様もお待ちになっておられると思うから、仲良ししながら行こう?」
吉良と由衛の兄弟喧嘩のような戯れ合いは、いつもの事だが、収集がつかなくなりそうだったので、若菜は慌てて彼らの間に入った。
五人は、佐久夜に逢うよりも若菜と過ごす時が何よりも大事であったが、主人である彼女が、楽しそうにしている事こそ、彼らにとって何よりも幸せなのである。
若菜の側にいるだけで柔らかな慈愛の霊気に包まれる。そして四人は心が穏やかになり、満たされるような気持ちになった。
若菜の言葉に賛同するように、白露が頷く。
『ええ。僕たちも佐久夜様に直接お会いするのは始めてですし。失礼のないように致しましょう』
「うんっ、きっと佐久夜様も皆に逢えて喜んでくれると思うの」
若菜は、大きな白狐へと変化した由衛の背中に乗ると、白露と紅雀を背に乗せた大きな狗神となった吉良と共に、天界へ向かう。
分厚い雲の上へ降り立つと、鳥居の入口が見えた。
太陽の光が背後から高天原を照らしている。それはまるで朝焼けのようにも見え、なんとも神々しく美しい光景だった。
どこまでも広がる青々とした田園に、天上の華が咲き、空から花弁が舞い落ちては消えていく。その中で、神々の衣服を織る立派な斎服殿が見えた。
そして遠くからでも、威厳のある八百万の神々の長である、天照大神が住まう大きな高床式の宮殿が見えた。高天原にはそれぞれ八百万の神々が、司る力に属した領地に住まい、神殿を持っている。彼らは東の国の守護神で、人々に恩恵を与える仕事の他に、稲作や機織り、蚕の飼育などもしている。
『姫。佐久夜様以外に、親しくなられた神々はおられるのですか?』
「えと、月読命樣とか……宇迦之御魂大神樣とか、天鈿女命樣とか……。天照大神様もお話しして下さるよ」
『月読命様はともかく、お二人の女神様と仲良くなられたのは宜しいですね。姫はあまり高天原におられないので、神々が不思議に思われているのでしょう』
天照大神に関しては、仲良くと言うよりも長として、何かと心配されているように思う。
人間から、天之木花若菜姫《アマノコノハナワカナヒメ》として八百万の女神の一員となった若菜だが、ここでは新参者で末席だ。彼らにすれば年端の行かぬ小娘といった所か。
天帝の伴侶だということは伏せられているし、若菜は安倍晴明の伴侶となっているが、高天原に仮の住まいはあっても、ほぼ天界の本拠地で過ごしているのだから、彼らに不思議に思われても仕方がない。
さらに、かつて第六天魔王と通じていたという事もあり、神々の中には彼女をよく思わない者もいる。もちろん、若菜を八百万の神々の仲間として歓迎し、受け入れ、仲良くしてくれる者達もいた。おそらく今はまだ、彼らと打ち解けるのに時間が必要なだけだ。
「う、うん。不思議に思われてる……よね。でも、月読命様と仲が良いというと、皆凄く興味があるみたいで、私に話し掛けてくれるの」
『ブハッ! そいつぁおもしれぇ。月読命は夜の国に引っ込んで出てこない、引き籠もりの変態だもんな。なんせ嬢ちゃん以外、自分の兄貴さえも、屋敷に招かねぇんだから』
『吉良、ちょいとあんたは声が大きすぎるのよぅ。噂話が神様に聞こえちまうじゃあないの。さぁ、佐久夜様の神域が見えてきたよ』
紅雀が前方を指差すと、そこには美しい富士の山と、満開の桜が咲く神域が見えてきた。
そして、寝殿造の入口で佐久夜が、待ち侘びていたように若菜を見ると、柔らかく微笑んだ。
娑婆世界を混乱と恐怖に陥れた第六天魔王から、この銀河を統べる天帝となった朔。そして、八百万の陰陽師の神でありながら、朔の右腕として暗躍する安倍晴明。
若菜は彼らと婚姻し、ようやく二人の夫との新しい生活にも慣れてきた。
義弟である朔の生命力は強く、新しい宇宙には、新たな星が次々と生まれ煌々と輝いている。そんな様子を眺めていると、若菜は嬉しくなり、心が温かくなった。
生まれいく星たちは、まるで自分と朔の子供のようにも思えるし、そこに新たな生命が生まれれば、若菜は彼らが健やかに、幸せに暮らせるように、ささやかな慈愛の加護を送るのだ。
「若菜、あまり女神の力を使い過ぎぬようにな。均等が崩されるような事があれば、朔が力を補充するのだから」
「そうだ、義姉さん。またこないだみてぇに倒れられたら、心配する。なんつーかあんまり色んな星や、生命体に情をかけすぎるなよ。あいつらは、あいつなりに失敗と成功を繰り返して進化をするんだ。その積み重ねで文明が発展し、そこから神話が生まれ、また新たな神々が生まれる。あまり踏み込みすぎると自分の心がすり減るぞ、若菜」
稲穂の波打つ髪が腰まで伸び、蜜色の甘い瞳。桜色の唇に、童顔な彼女は、可愛らしく女神というにはまだ少し威厳が足りない。
それもそのはず、新しく人間から八百万の女神になったばかりなのだから。人間の時の癖は抜けないし、まだしっくりときていない。
華奢な体を纏う鮮やかな神御衣に、薄い羽衣を身に付けている。
若菜にとって本当は、陰陽師の時に愛用していた巫女服が、一番動きやすいのだが、服装や礼儀に至っては古来からの八百万の神のしきたりなどがあるらしい。
大人しく郷に入っては、郷に従えということで、天照大神の助言通り、若菜は神御衣を着る事にした。
「う、うん。ごめんなさい朔ちゃん、晴明様。なんだかわ、つい助けたくなったりするから、私ってば駄目だね。皆が幸せになって欲しいから……つい」
天帝が住まう白亜の故宮に備えられた秘密の庭は、どこを見渡しても赤、緑、青、紫といった星雲が広がる。幻想的な宇宙を見つめながら、三人でお茶を嗜むのが、彼らの楽しみでもあった。
若菜を真ん中にし、朔と晴明が彼女を挟むように座っている。若菜の腰を抱いていた義弟が、柔らかな髪に触れると、あまり普段は見せない優しい微笑みを浮かべた。そして、若菜の慈愛の心に寄り添うように、晴明が若菜の指を握った。
なんとなく、若菜は恥ずかしくなって二人の間で赤面すると、項垂れる。二人の夫は若菜に対して、過保護過ぎるほど溺愛していた。
「そろそろ、あいつらに会いに行くのか?」
「もうそんな時間か。若菜、あまり長居はせぬよう。我が君が心配する」
「おいおい、俺のせいにするなよな、晴明。お前だって、若菜が故宮を出て、長時間高天原で遊んでると、眉間にしわ寄せて死ぬほど心配する癖によ」
「二人共、ちょっと心配しすぎだよ。あのね、今日はね、佐久夜様の神域にお招きして頂いているから大丈夫だよ。皆で行こうかなって思ってるの」
もう、あの頃の数々の凌辱の受難が遠い昔のように思えるが、朔も晴明も未だに若菜を心配しているのだろう。とはいえ、木花之佐久夜毘売命は自分にとって、幼い頃からの縁があり、命の恩人でもある。今や姉のような存在だった。
「まぁ、あいつら全員で一緒に行くなら大丈夫か。佐久夜はほら、男嫌いの女好きだろ。特に若菜がお気に入りだしよ。『戯れ』に俺が参加出来ねぇのは、つまんねぇし」
確かに佐久夜は、今や女性にしか興味がない様子だ。朔が望むような『戯れ』は恐らく起こり得ないだろう。
「よもや、佐久夜樣もそこまで愚かではなかろう。ふふ。朔、そこまで心配しては疎ましいと思われるぞ」
「あ? 大体俺とお前の考えはほぼ同じだろーが」
「だ、大丈夫だってば。それじゃあ、高天原に行ってくるね」
軽い冗談を言い合う二人に、くすくす笑いながら若菜は立ち上がる。た二人は、交互に若菜を抱きしめた。少し自分と離れるだけでも、このような有り様なのだから、若菜は彼らをさらに愛しく思っていた。
どこか拗ねた様子の義弟は、天帝の職務のせいで、よほどの事がない限り、均等を護る監視者として世界を見る事は出来ても、自由に動けないからだろう。
若菜は、第六天魔王の魂と同化した朔に、幼い頃、自分の後を泣きながら追いかけて、転んだ義弟の面影が見えた気がした。彼女はつま先立ちになると、愛しそうに頭を撫でる。
「おいおい、ガキ扱いすんなって」
「この銀河を総べる偉大な天帝が拗ねるなんぞ、童子と言われても仕方あるまい。さぁ、気を付けるのだぞ」
「ふふ、二人共大好きだよ。行ってくるね」
今夜を楽しみにしている、と二人は妖艶に微笑むと、赤面する若菜を送り出した。
✤✤✤
天界では、朔の力によって生まれた、有翼の天界人が空を行き来している。
彼らは天帝の命により、東西南北の天国に住まう神々の下に伝達を届けたり、時には神々の元で剣を取ることもあれば、場合により、天国で使徒としての仕事を任される事もあるらしい。
天帝が変わる度に、新しい天界人が卵から生まれるのだが、彼らは大人の姿のまま生誕し、直ぐに言葉を話せるようになるという。まるであらかじめ、脳に記憶や知識が刻まれているのか、若菜を見ると、他の神々よりも彼女に深く頭を垂れるのだから不思議だ。
若菜はぼんやりと、飛び交う美しい天界人を見ながら、白い大理石の階段を降りた。
『若菜様……!』
『姫、首を長くしてお待ちしておりました』
朔の力によって天界の一画に、キョウに似た場所を造り出して貰った。
若菜自身生まれ育った土地は恋しいし、自分が陰陽師だった頃の式神、今や眷属となった彼らを、昔と変わらない環境で住まわせてあげたかったからだ。
満開の桜が咲く寝殿造へ若菜が一歩足を踏み入れると、稚児のようなおかっぱ頭の白子の美少年、白蛇の白露が走り寄ってきた。
以前は自分より身長が低かった彼も、若菜の力が増したせいか、彼女と同じくらいの背丈になっていた。それでも女の子のような甘い顔立ちは、以前と変わりがない。
「白露、また背が高くなったみたいだね」
『ええ。若菜様のお力のお陰です』
『姫、白露だけでなく私の力も強くなっております故。しかしまだ足りません。やはり……姫と交わらねば、私の真の力は解放できないのです。眷属たるもの心身ともに、愛し合うのが常で御座いましょう』
「う、うん。あ、あの、由衛」
白露を押し退けるようにして、白狐の由衛が若菜の華奢な両手を握ると、ぐっと顔を近付けてきた。面食らった白露だが、いつもの事で呆れたように苦笑する。
若菜が人間だった頃に、陰陽師見習いとして初めて彼女が式神として選んだのは、悪さばかりをする、野狐の由衛だった。
今や彼も神使となり、若菜の眷属となったが彼女に対する感情は主人以上で、隙あらば朔と晴明から奪い、夫婦になりたいと願っているようだった。由衛は、若菜の顎を掴み、腰を抱くとあわあわと慌てる若菜を無視して、そのまま口付けようとした。それを遮るようにして、後方から声を掛けられる。
『よぅ、嬢ちゃん。また由衛に振り回されてんのか。てめェも懲りないなァ。ご主人様に会う前にゃ、ちゃんとマスかいとけよ。そのうち本気で天帝様に消されるぞ、由衛』
『その前にあの晴明にやられちまうんじゃあないの。やっぱり若菜がここに戻ると男どもが、騒がしくなるねぇ。ふふ……さぁさ抱きしめさせておくれ』
「吉良、紅雀……!」
後ろから声をかけてきたのは、狗神で、眷属となった吉良だ。
彼の隣にいるのは、吉良の内縁の妻というべきか、恋仲の紅雀である。彼女は朔の式神だったが、ひょんな事から若菜の霊力を受け取り、半ば眷属のようになっている。
この二人は、若菜にとって、兄、姉、保護者と言っても過言ではない程だ。家族との縁が薄かった若菜は、この場にいる全員の事を家族や親友、かけがえのない者達として大切に思っていた。
良い所で邪魔された由衛は舌打ちすると、自分より小さな若菜をぎゅっと抱きしめたまま、二人を振り返る。
『はぁ……ほんま、俺とお姫さんとの時間をまいどまいど、邪魔せんといて欲しいわ。なんや、接吻くらい減らへんやろ。そもそも俺とお姫さんの間に割って入ってきたんが朔やぞ。晴明様だけならまだしも、あの若造が』
「あの、あの、喧嘩しないでっ……。今日は、佐久夜様もお待ちになっておられると思うから、仲良ししながら行こう?」
吉良と由衛の兄弟喧嘩のような戯れ合いは、いつもの事だが、収集がつかなくなりそうだったので、若菜は慌てて彼らの間に入った。
五人は、佐久夜に逢うよりも若菜と過ごす時が何よりも大事であったが、主人である彼女が、楽しそうにしている事こそ、彼らにとって何よりも幸せなのである。
若菜の側にいるだけで柔らかな慈愛の霊気に包まれる。そして四人は心が穏やかになり、満たされるような気持ちになった。
若菜の言葉に賛同するように、白露が頷く。
『ええ。僕たちも佐久夜様に直接お会いするのは始めてですし。失礼のないように致しましょう』
「うんっ、きっと佐久夜様も皆に逢えて喜んでくれると思うの」
若菜は、大きな白狐へと変化した由衛の背中に乗ると、白露と紅雀を背に乗せた大きな狗神となった吉良と共に、天界へ向かう。
分厚い雲の上へ降り立つと、鳥居の入口が見えた。
太陽の光が背後から高天原を照らしている。それはまるで朝焼けのようにも見え、なんとも神々しく美しい光景だった。
どこまでも広がる青々とした田園に、天上の華が咲き、空から花弁が舞い落ちては消えていく。その中で、神々の衣服を織る立派な斎服殿が見えた。
そして遠くからでも、威厳のある八百万の神々の長である、天照大神が住まう大きな高床式の宮殿が見えた。高天原にはそれぞれ八百万の神々が、司る力に属した領地に住まい、神殿を持っている。彼らは東の国の守護神で、人々に恩恵を与える仕事の他に、稲作や機織り、蚕の飼育などもしている。
『姫。佐久夜様以外に、親しくなられた神々はおられるのですか?』
「えと、月読命樣とか……宇迦之御魂大神樣とか、天鈿女命樣とか……。天照大神様もお話しして下さるよ」
『月読命様はともかく、お二人の女神様と仲良くなられたのは宜しいですね。姫はあまり高天原におられないので、神々が不思議に思われているのでしょう』
天照大神に関しては、仲良くと言うよりも長として、何かと心配されているように思う。
人間から、天之木花若菜姫《アマノコノハナワカナヒメ》として八百万の女神の一員となった若菜だが、ここでは新参者で末席だ。彼らにすれば年端の行かぬ小娘といった所か。
天帝の伴侶だということは伏せられているし、若菜は安倍晴明の伴侶となっているが、高天原に仮の住まいはあっても、ほぼ天界の本拠地で過ごしているのだから、彼らに不思議に思われても仕方がない。
さらに、かつて第六天魔王と通じていたという事もあり、神々の中には彼女をよく思わない者もいる。もちろん、若菜を八百万の神々の仲間として歓迎し、受け入れ、仲良くしてくれる者達もいた。おそらく今はまだ、彼らと打ち解けるのに時間が必要なだけだ。
「う、うん。不思議に思われてる……よね。でも、月読命様と仲が良いというと、皆凄く興味があるみたいで、私に話し掛けてくれるの」
『ブハッ! そいつぁおもしれぇ。月読命は夜の国に引っ込んで出てこない、引き籠もりの変態だもんな。なんせ嬢ちゃん以外、自分の兄貴さえも、屋敷に招かねぇんだから』
『吉良、ちょいとあんたは声が大きすぎるのよぅ。噂話が神様に聞こえちまうじゃあないの。さぁ、佐久夜様の神域が見えてきたよ』
紅雀が前方を指差すと、そこには美しい富士の山と、満開の桜が咲く神域が見えてきた。
そして、寝殿造の入口で佐久夜が、待ち侘びていたように若菜を見ると、柔らかく微笑んだ。
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