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光が失われる時①
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光の神バルドルを溺愛するフリッグは、不吉な夢を見た彼の身を案じて、世界中のあらゆるものが、彼を傷付けないように魔術で誓いを立てさせた。
バルドルはその賢さと優しい性格、そして光り輝く美貌から神々に愛され慕われていたので、彼の体が不死身になったことを祝って宴が開かれる事になった。
聞けば蜂蜜酒を飲みながら、不死身になったバルドルを讃えるというものだという。
天界の神々を信仰する人々が住む人間界の海底に、エーギルの館と呼ばれる場所があった。
海の主にして霜の巨人と呼ばれるエーギルは、酒好きで神々を集めてはたびたび宴を開いている。
巨人族でありながらアスガルドの神々と敵対する事も無く、友好関係を築く彼は特別な存在であり、ヴィズルとも古い付き合いの友だという。
黄金に光り輝く館に、ヴィズルと共に王妃であるエマもバルドルを祝福すべく訪れていた。
神の子は人と違い成長が早いのか、一週間ほどでお腹は大きくなり、新しい命が宿った腹部を擦りながら、階段を上るエマの背中を支えるようにしてヴィズルは歩く。その背後に影のように付き従うのは、今や完全にエマの護衛となった双子の執事のフギンとムニンだ。
「大丈夫か、エマ。気分が悪くなるようならば直ぐに王宮に戻るぞ」
「大丈夫よ、ヴィズル。この子の成長の速さには驚かされるけれど……気分は悪くないわ。宴で蜂蜜酒が飲めないのが悔やまれるけれどね」
配偶神らしく、美しく華やかなドレスを身に纏ったエマは悪戯っぽく微笑んだ。その愛らしい表情にヴィズルは思わず彼女の額に口付ける。
ローズブラウンの髪に飾られた世界樹を模した髪飾りは誰よりもよく似合っていた。
「――――この俺とした事が悪い冗談をいう気にもなれんとはな。我が妻よ……お前はあらゆる世界のどんな者よりも美しく、愛しい」
「恥ずかしいわ……ヴィズルったら、ここはベッドの中じゃないのよ? 私も愛しているわ」
エマは頬を染めながら、そう答えると神々の揃ったエーギルの館の入り口を開けた。天界の王である数多の異名を持つ主神が入ってくると神々は、いっせいに頭を下げる。
フリッグが王宮を追われた事は、神々の間でも噂になっていたが、もとより夫婦仲の悪さは周知の事実だったので、いまさら驚かれるようなこともなかった。
もっぱら神々の関心は、宮殿に招いた異界の歌姫が新しい女神の一員となったことだ。
エマは元は人間といえど大変美しく美の女神に劣る事も無い。またその美しい魂の輝きは体から滲み出ていて眩しい位だった。新しい王妃の誕生を祝福し神々は拍手を送る。ただ一人、来賓席に座り蜂蜜酒を飲んで素知らぬ顔をするフリッグを除いては。
「おお、新しい女神の誕生か。名は聞いていたが異界の人の子とはめずらしい。今日の宴会は主役が二人だな! これはめでたい! さぁ、神々の王にして万物の父である、わが友オーディンよ。共にこちらに来られると良い」
「久しいな、エーギルよ。変わらず元気そうで何よりだ。バルドル、調子はどうだ? 変わったことは無いか」
「父上、ごきげんよう。あの不吉な夢はまだ見ますが、母上のお陰で不安は日に日に解消されています。友人達が石や槍を投げても私の体は傷つかず痛みもない。それが競技にもなるほどですよ! エマ……久しぶりだな。変わらず美しい。我々の一員となり、父上の伴侶になった事を心から歓迎するよ」
館の中央で醸造酒の入ったジョッキ片手に白髪の髭を地面まで垂らせた大柄の男がヴィズルをもてなす。豪快に話しかけてきた彼がこの館の主で海の神エーギルだ。
バルドルもすでに一杯飲んでいるのか、上機嫌でエマの手の甲に口付ける。
母親から父親を奪った女と罵られることも無く、爽やかに挨拶をする光の神は、嫉妬や憎悪という言葉を知らないかのようだった。
「お招きありがとうございます、エーギル様。バルドルもお元気そうね……きっともう、心配はないわ。貴女のお母様は強い魔術を使えるというし、もう安心よ」
「ありがとう、エマ。君は父上の子供を宿しているようだね。私の異母兄弟に当たる子だ。幸あらんことを」
エマは館の主に挨拶し、バルドルを気遣って声をかけた。たとえ不死身の体になったとはいえ、自分が死ぬ夢など、悪夢そのもので気持ちの良いものではないだろう。
光の神は怯えた様子も見せず、ただエマに宿った異母兄弟の魂を祝福した。
隻眼の神と共にエーギルに誘われるようにして来賓席へと向かう。
長いテーブルの中央にこの館の主と妻が座り、両脇にヴィズルとバルドル。その隣にはそれぞれの配偶神が座って、光の神側の末席に息子を見守るようにフリッグが座る。
それを取り囲むかのように円になった神々は、床に座り食事や酒を楽しんでいた。
「エマ様、お体に優しいものを支給係に頼みましたのでお待ち下さい」
「お酒では無いですが……果実の飲み物を用意させました。オレが味見をしましたが、美味しいですよ。なんなりとお申しつけ下さい」
フギンとムニンが満面の笑みでエマを気遣った。ヴィズルが戦場に向かう時は、常に彼等が側にいて世話を焼いてくれるので、ずいぶんとエマは助かっている。
「ありがとう、フギン、ムニン。美味しいわ……宮殿でも飲めるようにレシピを教えて貰おうかしら」
「ご自分でお作りになられんるのですか? かしこまりました、エマ様。僕たちが秘伝のレシピをこっそり支給係の人魚にたずねてみますね」
フギンとムニンはそう言ってウィンクをした。メイドに色仕掛でもするつもりなのだろうかと笑いながら腹を擦ると、神々の会話に耳を傾ける。
広間には、海の妖精たちが陽気な音楽を奏でていた。
「バルドルは、天界の中で最も美しい神と言われるが、不死身となれば本当に非の打ち所が無くなってしまうな!」
そう言って、エーギルがバルドルを讃えるように彼の肩を叩くと、それまで黙っていたフリッグが妖艶に微笑んで言う。
「もちろん、妾の愛し子が最も優れているという事は、この宴に招かれた神々の誰もが知るところ。いずれあらゆる困難を乗り越えて、この世界を導く神々の王となるでしょう。どこの馬の骨かもわからぬ者が生んだ子供に任せるより、ずっと良い世界になる」
そう言って、肉を切ったフリッグが上品に口に含んだ。一瞬場の空気が凍りつき、ほとんどワインしか口に含まないヴィズルがワイングラスを置いた。
エマはその鋭く突き刺すような言葉に思わず息を飲んだが、挑発に乗る事はせず押し黙る。このめでたい宴の席で、彼女に感情的に反論すれば、この館の主であるエーギルとバルドルの顔に泥を塗る事になる。
それをたしなめる事ができるのは、神々の王であるヴィズルか最愛の息子だけだ。
「俺の妻を侮辱するのは辞めて頂こうか、フリッグ。息子の前で恥ずかしい態度はやめろ」
「――――はたしてどちらが恥ずかしいのやら」
「母上、もうやめましょう。少しばかり醸造酒を飲みすぎたせいですね。そうだ、せっかくこれだけ大きな宴会場だ、私に物を投げて傷つかぬ遊びをしようではないか。どんな重いものでも、鋭いものでも、私の血は流れないぞ、勇者はいるかい!?」
バルドルは、険悪なムードを変えるように立ち上がって神々に向かって言うと、歓声があがった。
もちろん、神々はバルドルを傷付けようとしているのではなく、不死身になった彼を喜び讃えるための儀式で戯れにすぎない。
魔術で最愛の息子を守っているという自負もあってか、フリッグは機嫌を直すように椅子にもたれ掛かって拍手をする。
怒りを抑えるように深呼吸して、椅子にもたれた隻眼の戦神の指先をエマは優しく握った。
「いいのよ、ヴィズル。今日の主役はバルドルですもの。彼女の言葉も水に流しましょう」
「腹立たしいが……エマ、お前の言うとおりだな」
エマに顔を寄せてそう言うと、最愛の妻の腹を優しく擦り、彼女と指を絡めながら愛息子の様子を見た。
海の妖精達が奏でる軽やかな音に合わせて、中央に立った光の神に向かい、初めは軽く小石を投げ、次に鋭い槍、弓が射られるがおどけた様子でそれを受けては、鋼の体で受け流していた。
神々はバルドルが苦痛を感じず傷付かない事を喜び、安堵していた。
また、その様子がまるで喜劇を見ているかのような振る舞いで、神々や霜の巨人のエーギルが大笑いをしている。
この不思議な戯れを、拍手をしながら大人しく見ていたエマだったが、熱狂する神々の間であの陰鬱とした道化師の青白い美貌が見えた気がして息を飲んだ。
フリッグと褥を共にしたと言う彼が、宴に呼ばれる事は無きにしもあらずだったが、意味深な言葉を残して去った事を思うとその可能性は低いように思う。
あの日の淫らな屈辱を思い出して羞恥に頬を染め、そして青ざめると、恐怖で心臓が激しく脈打つのを感じた。
幻覚を疑い瞬きをするとロキの姿は消えていていた。
(幻覚かしら……? 疲れているのね)
気持ちを落ち着ける為に、瞼を強く閉じたエマが再び目を開けると、あたりは暗闇に包まれていて、眼前に漆黒のローブを身に纏った狡知の神が立っていた。
この暗闇の世界には自分とロキしかいない。まるで悪夢の世界にエマは驚愕し体を硬直させた。
「エマ嬢、お久しぶりですね。人間だった時の貴女も麗しい歌姫でしたが、女神になった貴女は一段と輝いているようだ。んふふ、神の妻になり子を宿して自信に満ちた貴女は、天界の中で最も美しい」
「ど、どうして貴方がここにいるの?」
「言ったでしょう? 義姉上にも少しばかりこらしめる為の悪戯をしないとね」
ロキの濁った翡翠の瞳からは、本心は読み取ることはできない。フリッグに陥れられたエマを不憫に思うと言っていたのも、たんなる戯言だと思っていた。
それにもう、今やヴィズルの伴侶として幸せな日々を送っているエマにとって、前妻をこらしめてやろうという気持ちが芽生える事もなかった。
テーブルに手を置いていたエマの指先に、冷たい指が絡まると、ロキは顔を近付けて言う。
「貴方の体内に宿った子供は、本当に義兄上の子供ですか? 私との死の宮殿での熱い夜を、もうお忘れで?」
ロキは悲鳴をあげようとしたエマの口を片手で優しく塞ぐと、耳元で毒蛇のように低く甘く囁いた。
「この世界の全てがバルドルを傷付け無いと誓いましたが、ヤドリギだけはあまりにも幼く誓いを立てる事ができなかったのですよ。私に感謝して欲しいですね、エマ。これでも私は貴女を愛しいと思っているのですから」
その瞬間手を離され、エマが悲鳴をあげようとした瞬間、つんざくようなフリッグの悲鳴が上がりエマは我に返った。
バルドルはその賢さと優しい性格、そして光り輝く美貌から神々に愛され慕われていたので、彼の体が不死身になったことを祝って宴が開かれる事になった。
聞けば蜂蜜酒を飲みながら、不死身になったバルドルを讃えるというものだという。
天界の神々を信仰する人々が住む人間界の海底に、エーギルの館と呼ばれる場所があった。
海の主にして霜の巨人と呼ばれるエーギルは、酒好きで神々を集めてはたびたび宴を開いている。
巨人族でありながらアスガルドの神々と敵対する事も無く、友好関係を築く彼は特別な存在であり、ヴィズルとも古い付き合いの友だという。
黄金に光り輝く館に、ヴィズルと共に王妃であるエマもバルドルを祝福すべく訪れていた。
神の子は人と違い成長が早いのか、一週間ほどでお腹は大きくなり、新しい命が宿った腹部を擦りながら、階段を上るエマの背中を支えるようにしてヴィズルは歩く。その背後に影のように付き従うのは、今や完全にエマの護衛となった双子の執事のフギンとムニンだ。
「大丈夫か、エマ。気分が悪くなるようならば直ぐに王宮に戻るぞ」
「大丈夫よ、ヴィズル。この子の成長の速さには驚かされるけれど……気分は悪くないわ。宴で蜂蜜酒が飲めないのが悔やまれるけれどね」
配偶神らしく、美しく華やかなドレスを身に纏ったエマは悪戯っぽく微笑んだ。その愛らしい表情にヴィズルは思わず彼女の額に口付ける。
ローズブラウンの髪に飾られた世界樹を模した髪飾りは誰よりもよく似合っていた。
「――――この俺とした事が悪い冗談をいう気にもなれんとはな。我が妻よ……お前はあらゆる世界のどんな者よりも美しく、愛しい」
「恥ずかしいわ……ヴィズルったら、ここはベッドの中じゃないのよ? 私も愛しているわ」
エマは頬を染めながら、そう答えると神々の揃ったエーギルの館の入り口を開けた。天界の王である数多の異名を持つ主神が入ってくると神々は、いっせいに頭を下げる。
フリッグが王宮を追われた事は、神々の間でも噂になっていたが、もとより夫婦仲の悪さは周知の事実だったので、いまさら驚かれるようなこともなかった。
もっぱら神々の関心は、宮殿に招いた異界の歌姫が新しい女神の一員となったことだ。
エマは元は人間といえど大変美しく美の女神に劣る事も無い。またその美しい魂の輝きは体から滲み出ていて眩しい位だった。新しい王妃の誕生を祝福し神々は拍手を送る。ただ一人、来賓席に座り蜂蜜酒を飲んで素知らぬ顔をするフリッグを除いては。
「おお、新しい女神の誕生か。名は聞いていたが異界の人の子とはめずらしい。今日の宴会は主役が二人だな! これはめでたい! さぁ、神々の王にして万物の父である、わが友オーディンよ。共にこちらに来られると良い」
「久しいな、エーギルよ。変わらず元気そうで何よりだ。バルドル、調子はどうだ? 変わったことは無いか」
「父上、ごきげんよう。あの不吉な夢はまだ見ますが、母上のお陰で不安は日に日に解消されています。友人達が石や槍を投げても私の体は傷つかず痛みもない。それが競技にもなるほどですよ! エマ……久しぶりだな。変わらず美しい。我々の一員となり、父上の伴侶になった事を心から歓迎するよ」
館の中央で醸造酒の入ったジョッキ片手に白髪の髭を地面まで垂らせた大柄の男がヴィズルをもてなす。豪快に話しかけてきた彼がこの館の主で海の神エーギルだ。
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母親から父親を奪った女と罵られることも無く、爽やかに挨拶をする光の神は、嫉妬や憎悪という言葉を知らないかのようだった。
「お招きありがとうございます、エーギル様。バルドルもお元気そうね……きっともう、心配はないわ。貴女のお母様は強い魔術を使えるというし、もう安心よ」
「ありがとう、エマ。君は父上の子供を宿しているようだね。私の異母兄弟に当たる子だ。幸あらんことを」
エマは館の主に挨拶し、バルドルを気遣って声をかけた。たとえ不死身の体になったとはいえ、自分が死ぬ夢など、悪夢そのもので気持ちの良いものではないだろう。
光の神は怯えた様子も見せず、ただエマに宿った異母兄弟の魂を祝福した。
隻眼の神と共にエーギルに誘われるようにして来賓席へと向かう。
長いテーブルの中央にこの館の主と妻が座り、両脇にヴィズルとバルドル。その隣にはそれぞれの配偶神が座って、光の神側の末席に息子を見守るようにフリッグが座る。
それを取り囲むかのように円になった神々は、床に座り食事や酒を楽しんでいた。
「エマ様、お体に優しいものを支給係に頼みましたのでお待ち下さい」
「お酒では無いですが……果実の飲み物を用意させました。オレが味見をしましたが、美味しいですよ。なんなりとお申しつけ下さい」
フギンとムニンが満面の笑みでエマを気遣った。ヴィズルが戦場に向かう時は、常に彼等が側にいて世話を焼いてくれるので、ずいぶんとエマは助かっている。
「ありがとう、フギン、ムニン。美味しいわ……宮殿でも飲めるようにレシピを教えて貰おうかしら」
「ご自分でお作りになられんるのですか? かしこまりました、エマ様。僕たちが秘伝のレシピをこっそり支給係の人魚にたずねてみますね」
フギンとムニンはそう言ってウィンクをした。メイドに色仕掛でもするつもりなのだろうかと笑いながら腹を擦ると、神々の会話に耳を傾ける。
広間には、海の妖精たちが陽気な音楽を奏でていた。
「バルドルは、天界の中で最も美しい神と言われるが、不死身となれば本当に非の打ち所が無くなってしまうな!」
そう言って、エーギルがバルドルを讃えるように彼の肩を叩くと、それまで黙っていたフリッグが妖艶に微笑んで言う。
「もちろん、妾の愛し子が最も優れているという事は、この宴に招かれた神々の誰もが知るところ。いずれあらゆる困難を乗り越えて、この世界を導く神々の王となるでしょう。どこの馬の骨かもわからぬ者が生んだ子供に任せるより、ずっと良い世界になる」
そう言って、肉を切ったフリッグが上品に口に含んだ。一瞬場の空気が凍りつき、ほとんどワインしか口に含まないヴィズルがワイングラスを置いた。
エマはその鋭く突き刺すような言葉に思わず息を飲んだが、挑発に乗る事はせず押し黙る。このめでたい宴の席で、彼女に感情的に反論すれば、この館の主であるエーギルとバルドルの顔に泥を塗る事になる。
それをたしなめる事ができるのは、神々の王であるヴィズルか最愛の息子だけだ。
「俺の妻を侮辱するのは辞めて頂こうか、フリッグ。息子の前で恥ずかしい態度はやめろ」
「――――はたしてどちらが恥ずかしいのやら」
「母上、もうやめましょう。少しばかり醸造酒を飲みすぎたせいですね。そうだ、せっかくこれだけ大きな宴会場だ、私に物を投げて傷つかぬ遊びをしようではないか。どんな重いものでも、鋭いものでも、私の血は流れないぞ、勇者はいるかい!?」
バルドルは、険悪なムードを変えるように立ち上がって神々に向かって言うと、歓声があがった。
もちろん、神々はバルドルを傷付けようとしているのではなく、不死身になった彼を喜び讃えるための儀式で戯れにすぎない。
魔術で最愛の息子を守っているという自負もあってか、フリッグは機嫌を直すように椅子にもたれ掛かって拍手をする。
怒りを抑えるように深呼吸して、椅子にもたれた隻眼の戦神の指先をエマは優しく握った。
「いいのよ、ヴィズル。今日の主役はバルドルですもの。彼女の言葉も水に流しましょう」
「腹立たしいが……エマ、お前の言うとおりだな」
エマに顔を寄せてそう言うと、最愛の妻の腹を優しく擦り、彼女と指を絡めながら愛息子の様子を見た。
海の妖精達が奏でる軽やかな音に合わせて、中央に立った光の神に向かい、初めは軽く小石を投げ、次に鋭い槍、弓が射られるがおどけた様子でそれを受けては、鋼の体で受け流していた。
神々はバルドルが苦痛を感じず傷付かない事を喜び、安堵していた。
また、その様子がまるで喜劇を見ているかのような振る舞いで、神々や霜の巨人のエーギルが大笑いをしている。
この不思議な戯れを、拍手をしながら大人しく見ていたエマだったが、熱狂する神々の間であの陰鬱とした道化師の青白い美貌が見えた気がして息を飲んだ。
フリッグと褥を共にしたと言う彼が、宴に呼ばれる事は無きにしもあらずだったが、意味深な言葉を残して去った事を思うとその可能性は低いように思う。
あの日の淫らな屈辱を思い出して羞恥に頬を染め、そして青ざめると、恐怖で心臓が激しく脈打つのを感じた。
幻覚を疑い瞬きをするとロキの姿は消えていていた。
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気持ちを落ち着ける為に、瞼を強く閉じたエマが再び目を開けると、あたりは暗闇に包まれていて、眼前に漆黒のローブを身に纏った狡知の神が立っていた。
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「エマ嬢、お久しぶりですね。人間だった時の貴女も麗しい歌姫でしたが、女神になった貴女は一段と輝いているようだ。んふふ、神の妻になり子を宿して自信に満ちた貴女は、天界の中で最も美しい」
「ど、どうして貴方がここにいるの?」
「言ったでしょう? 義姉上にも少しばかりこらしめる為の悪戯をしないとね」
ロキの濁った翡翠の瞳からは、本心は読み取ることはできない。フリッグに陥れられたエマを不憫に思うと言っていたのも、たんなる戯言だと思っていた。
それにもう、今やヴィズルの伴侶として幸せな日々を送っているエマにとって、前妻をこらしめてやろうという気持ちが芽生える事もなかった。
テーブルに手を置いていたエマの指先に、冷たい指が絡まると、ロキは顔を近付けて言う。
「貴方の体内に宿った子供は、本当に義兄上の子供ですか? 私との死の宮殿での熱い夜を、もうお忘れで?」
ロキは悲鳴をあげようとしたエマの口を片手で優しく塞ぐと、耳元で毒蛇のように低く甘く囁いた。
「この世界の全てがバルドルを傷付け無いと誓いましたが、ヤドリギだけはあまりにも幼く誓いを立てる事ができなかったのですよ。私に感謝して欲しいですね、エマ。これでも私は貴女を愛しいと思っているのですから」
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