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第一部
おわかれ
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ぱちり。
アルテアはふと目が覚めた。
ぼんやりとした視界にはじめにうつったのは、
カーテンの隙間から見える、遠くて透明な空だった。
すっきりとした空とは対照的に、アルテアの頭はまだ冴えない。
意識の半分にまだ眠気がこびりついていた。
体と意識が上手く繋がっていないような感覚。
かつての世界では経験したことのないものだった。
あの頃の自分はもっとすんなりと目覚めることができたはずだった。
目を開けた瞬間には覚醒の中枢に至ることができた。
「……鈍っているな」
ベッドの中から遠い空を見上げて、そう結論付けた。
この世界に生まれてから穏やかな生活が続いているせいで
すっかり気が緩んでいる。
そう思った。
そして昨日の異端教徒との戦いを思い返してその気持ちはいっそう強くなる。
あの戦いで自分は死んでいたかもしれない。
もっと危機感を持たなければならない。
自分はまだまだ弱い。
こんなことでは教祖を倒すことなど到底できない。
焦燥に押されるようにベッドから身を起こし、
鏡の前に立って身だしなみを整える。
父譲りの赤い髪。今日の空のような蒼い瞳。
母の面影を感じる柔らかな目元。
前世とはまるで違う容姿。
以前の自分はどんな顔だったろうか。
ふとそんなことを思い、焦る。
ぎゅっと目をつむり、瞼の裏の暗闇にかつての自分を思い浮かべる。
深呼吸。
ゆっくりと目を開き、どこか他人を見る面持ちで
鏡の中の自分をじっと見つめる。
「……気を引き締めろ。アルテア・サンドロッド」
戒めるようにそう呟いて部屋を出る。
ぱたん。
誰もいない部屋にドアの閉まる音が響いた。
階下に降りて家族と挨拶を交わし食卓につき、朝食をとった。
食事が終わるとターニャが紅茶を差し入れた。
父。母。息子。一家団欒。
ターニャの淹れた紅茶を飲みながら雑談に花を咲かせる。
といってもアルテアが積極的に会話に交じることはない。
二人の会話を聞きつつ、話をふられたら相槌を打つ。
いつもそんな感じだった。
カップを持ち上げ紅茶をすする。
彼女の淹れる紅茶は相変わらず美味かった。
料理も美味いし、日々の暮らしだって悪くない。
穏やかな気候に美しい風景。
アルゼイドの手腕が良いのか、領内の人々も
活気良く楽しそうに日々を過ごしている。
一日の大半を汚染された空気の中で過ごし、腐った目をした大人たちに駒のように扱われて生きてきた前世とはまるで違う。
魔獣、異端教徒、盗賊、野党。
当然この世界にも様々な脅威が存在し、どこかで悲劇は起こっているだろう。それでも幸いといっていいのか、アルテアはそういった悲劇とは無縁の生活を送れているし自由意志もある。
穏やかな生活。
悪いことは何もない。
でも。
カップを置いて目を伏せる。
紅茶に自分の顔がうつりこみ、水面がゆらゆらと揺れていた。
「アルちゃん、どうしたの?」
不意にティアの声が耳に届いた。
「具合でも悪いのかしら?」
「……大丈夫か?」
全く喋らない様子を心配したようで、両親が二人そろって眉を曇らせていた。
昨日の事件のせいもあるのだろう、二人が本気で心配していることがアルテアにも伝わった。
二人の顔を見て、心の中が少し痛んだ。
「え、ああ……。考え事をしてただけだよ、ごめん」
何でもないように、いつも通りにそう答える。
心配はかけたくない。
なぜだかわからないが、そう思う。
──捨てろよ。
もう一人の自分が耳の奥でそう呟いた。
ちぐはぐだった。
自分自身がわからない。
「申し訳ありません。お口に合いませんでしたか?」
なおも悄然とするアルテアに、ターニャが横から声をかける。
いつも通りの変化に少ない表情だったが、やはり彼女も心配しているような、残念がっているような、そんな顔をしているように感じた。
「いや、美味いよ。美味すぎて驚いてた」
そう言って残った紅茶を一気に飲み干す。
「ほら、この通り」
ターニャに空になったカップを見せる。
「そう、ですか。なら良いのです」
納得した、というわけではないだろう。だがそれ以上、彼女が何も言うことはなかった。
「二人も。はやく飲まないとせっかくの紅茶が冷めるよ」
今度は両親の方に向き直って誤魔化すように言う。多少強引ではあるが話題を変えたかった。
二人ともそれを察したのか、にこりと笑顔をつくって紅茶を飲みなおす。
そして何事もなかったかのように再び雑談へと戻っていった。
朝食をすませ各々がお茶の間でくつろいでいると、コンコンコンと三度、玄関をノックする音が聞こえた。ターニャが扉を開けて客を迎える。
イーリスと、その隣に初めて見る男が並んでいた。これといった特徴のない平坦な男だった。
なんだか特徴がなさすぎて記憶にも残らないような、あまりの無個性に違和感を覚えるほどだ。
父と母も後ろからやってきて男と軽く挨拶を交わした。どうやら顔見知りのようだった。きっと行商の男なのだろう。
「私の供がずいぶんお世話になったようで、感謝いたします」
男は父と母と、アルテアとをしっかりと見てから頭を下げた。
「この子にも友達と呼べるものができて良かった。礼を述べるのが遅くなってしまって申し訳ありません」
呪いのせいで彼女が疎まれているというのは本当のようだ。とても嬉しそうに話す行商の様子をみてそれがわかった。
それだけに自分の家の者たちが臆した様子もなく彼女に接しているのが不思議だった。繊細な問題なのであえて口に出して聞くようなことはしないが。
「いえいえ。私の息子もずいぶんと仲良くしてもらって、こちらこそ感謝しておりますよ」
アルゼイドも息子に友達ができたと喜びの顔を見せる。大人たちがそうした会話をしたあとで、行商が促すようにイーリスの背中を少しだけ押した。
彼女はチラリと行商の男を見上げた後、少し頷いてアルテアたちに向き直った。
「……また、きてもいい?」
遠慮がちに聞く彼女に、アルテアよりも先に母が答える。
「イーちゃんは……もう可愛いうちの娘よ、いつでもいらっしゃい」
「おいおい、保護者の方の前で滅多なことは言うな……。まあそれはそれとして、遠慮しないでいいというのはその通りだ。いつでも来てもらって構わんよ」
ティアが少し芝居がかった口調で大げさに言って、アルゼイドが苦笑しながら同意した。
行商の男は気を悪くするでもなく
「ははは」と和やかな笑みを浮かべて見守っていた。いつのまにか音もなくあらわれていたターニャが一歩下がった位置で頷いているのが横目に見えた。
「またな」
自然と言葉が口をついた。
少女も「ん……」と小さく頷いた。
「それではそろそろ時間ですので……。ご厚意に重ね重ね感謝いたします」
「ありがとう、ございました」
男に続いてイーリスがぺこり、と可愛らしくお辞儀をして、二人は踵を返して去っていった。
「さみしいんじゃない?」
少女が去った先を名残惜しそうに見る息子を案じて、ティアが声をかけた。
「……また会えるさ」
力強く答えたつもりが思ったほど響かなかったアルテアの声は、びゅうと吹いた風に拾われてどこかに運ばれていった。
風の先で、ざあざあと木々の鳴く音がした。
アルテアはふと目が覚めた。
ぼんやりとした視界にはじめにうつったのは、
カーテンの隙間から見える、遠くて透明な空だった。
すっきりとした空とは対照的に、アルテアの頭はまだ冴えない。
意識の半分にまだ眠気がこびりついていた。
体と意識が上手く繋がっていないような感覚。
かつての世界では経験したことのないものだった。
あの頃の自分はもっとすんなりと目覚めることができたはずだった。
目を開けた瞬間には覚醒の中枢に至ることができた。
「……鈍っているな」
ベッドの中から遠い空を見上げて、そう結論付けた。
この世界に生まれてから穏やかな生活が続いているせいで
すっかり気が緩んでいる。
そう思った。
そして昨日の異端教徒との戦いを思い返してその気持ちはいっそう強くなる。
あの戦いで自分は死んでいたかもしれない。
もっと危機感を持たなければならない。
自分はまだまだ弱い。
こんなことでは教祖を倒すことなど到底できない。
焦燥に押されるようにベッドから身を起こし、
鏡の前に立って身だしなみを整える。
父譲りの赤い髪。今日の空のような蒼い瞳。
母の面影を感じる柔らかな目元。
前世とはまるで違う容姿。
以前の自分はどんな顔だったろうか。
ふとそんなことを思い、焦る。
ぎゅっと目をつむり、瞼の裏の暗闇にかつての自分を思い浮かべる。
深呼吸。
ゆっくりと目を開き、どこか他人を見る面持ちで
鏡の中の自分をじっと見つめる。
「……気を引き締めろ。アルテア・サンドロッド」
戒めるようにそう呟いて部屋を出る。
ぱたん。
誰もいない部屋にドアの閉まる音が響いた。
階下に降りて家族と挨拶を交わし食卓につき、朝食をとった。
食事が終わるとターニャが紅茶を差し入れた。
父。母。息子。一家団欒。
ターニャの淹れた紅茶を飲みながら雑談に花を咲かせる。
といってもアルテアが積極的に会話に交じることはない。
二人の会話を聞きつつ、話をふられたら相槌を打つ。
いつもそんな感じだった。
カップを持ち上げ紅茶をすする。
彼女の淹れる紅茶は相変わらず美味かった。
料理も美味いし、日々の暮らしだって悪くない。
穏やかな気候に美しい風景。
アルゼイドの手腕が良いのか、領内の人々も
活気良く楽しそうに日々を過ごしている。
一日の大半を汚染された空気の中で過ごし、腐った目をした大人たちに駒のように扱われて生きてきた前世とはまるで違う。
魔獣、異端教徒、盗賊、野党。
当然この世界にも様々な脅威が存在し、どこかで悲劇は起こっているだろう。それでも幸いといっていいのか、アルテアはそういった悲劇とは無縁の生活を送れているし自由意志もある。
穏やかな生活。
悪いことは何もない。
でも。
カップを置いて目を伏せる。
紅茶に自分の顔がうつりこみ、水面がゆらゆらと揺れていた。
「アルちゃん、どうしたの?」
不意にティアの声が耳に届いた。
「具合でも悪いのかしら?」
「……大丈夫か?」
全く喋らない様子を心配したようで、両親が二人そろって眉を曇らせていた。
昨日の事件のせいもあるのだろう、二人が本気で心配していることがアルテアにも伝わった。
二人の顔を見て、心の中が少し痛んだ。
「え、ああ……。考え事をしてただけだよ、ごめん」
何でもないように、いつも通りにそう答える。
心配はかけたくない。
なぜだかわからないが、そう思う。
──捨てろよ。
もう一人の自分が耳の奥でそう呟いた。
ちぐはぐだった。
自分自身がわからない。
「申し訳ありません。お口に合いませんでしたか?」
なおも悄然とするアルテアに、ターニャが横から声をかける。
いつも通りの変化に少ない表情だったが、やはり彼女も心配しているような、残念がっているような、そんな顔をしているように感じた。
「いや、美味いよ。美味すぎて驚いてた」
そう言って残った紅茶を一気に飲み干す。
「ほら、この通り」
ターニャに空になったカップを見せる。
「そう、ですか。なら良いのです」
納得した、というわけではないだろう。だがそれ以上、彼女が何も言うことはなかった。
「二人も。はやく飲まないとせっかくの紅茶が冷めるよ」
今度は両親の方に向き直って誤魔化すように言う。多少強引ではあるが話題を変えたかった。
二人ともそれを察したのか、にこりと笑顔をつくって紅茶を飲みなおす。
そして何事もなかったかのように再び雑談へと戻っていった。
朝食をすませ各々がお茶の間でくつろいでいると、コンコンコンと三度、玄関をノックする音が聞こえた。ターニャが扉を開けて客を迎える。
イーリスと、その隣に初めて見る男が並んでいた。これといった特徴のない平坦な男だった。
なんだか特徴がなさすぎて記憶にも残らないような、あまりの無個性に違和感を覚えるほどだ。
父と母も後ろからやってきて男と軽く挨拶を交わした。どうやら顔見知りのようだった。きっと行商の男なのだろう。
「私の供がずいぶんお世話になったようで、感謝いたします」
男は父と母と、アルテアとをしっかりと見てから頭を下げた。
「この子にも友達と呼べるものができて良かった。礼を述べるのが遅くなってしまって申し訳ありません」
呪いのせいで彼女が疎まれているというのは本当のようだ。とても嬉しそうに話す行商の様子をみてそれがわかった。
それだけに自分の家の者たちが臆した様子もなく彼女に接しているのが不思議だった。繊細な問題なのであえて口に出して聞くようなことはしないが。
「いえいえ。私の息子もずいぶんと仲良くしてもらって、こちらこそ感謝しておりますよ」
アルゼイドも息子に友達ができたと喜びの顔を見せる。大人たちがそうした会話をしたあとで、行商が促すようにイーリスの背中を少しだけ押した。
彼女はチラリと行商の男を見上げた後、少し頷いてアルテアたちに向き直った。
「……また、きてもいい?」
遠慮がちに聞く彼女に、アルテアよりも先に母が答える。
「イーちゃんは……もう可愛いうちの娘よ、いつでもいらっしゃい」
「おいおい、保護者の方の前で滅多なことは言うな……。まあそれはそれとして、遠慮しないでいいというのはその通りだ。いつでも来てもらって構わんよ」
ティアが少し芝居がかった口調で大げさに言って、アルゼイドが苦笑しながら同意した。
行商の男は気を悪くするでもなく
「ははは」と和やかな笑みを浮かべて見守っていた。いつのまにか音もなくあらわれていたターニャが一歩下がった位置で頷いているのが横目に見えた。
「またな」
自然と言葉が口をついた。
少女も「ん……」と小さく頷いた。
「それではそろそろ時間ですので……。ご厚意に重ね重ね感謝いたします」
「ありがとう、ございました」
男に続いてイーリスがぺこり、と可愛らしくお辞儀をして、二人は踵を返して去っていった。
「さみしいんじゃない?」
少女が去った先を名残惜しそうに見る息子を案じて、ティアが声をかけた。
「……また会えるさ」
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