果実

伽藍堂益太

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果実 12

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 仕事には徐々に慣れていった。毎日の果実製造所通いも苦にならない。購入した原付も納車されて通勤も楽になり、無職だった頃には想像もできないくらい、毎日新しい刺激を受けていた。
 千秋が帰ってきたらどうしよう。一緒に何をしよう。そんなことを考えているうちに、一月も下旬になっていた。あと二十日ほどで千秋と再び会うことができる。
「東くん、ちょっといいかい?」
「はい、なんですか?」
 光は作業の手を止めた。
「仕事には慣れてきたかい?」
「うーん、慣れるなんて俺から言うのはおこがましいですけど、生活は落ち着いてきました」
 謙遜しておく。
「そっか。それならどうだろう。資格試験の勉強を始めないか?」
「資格、ですか?」
 簿記なんかであれば、光も一応持っている。そういう類のものだろうか。
「そう、果実取扱責任者の資格なんだけど、どうかな? 今後この業界で働いていくなら持っていた方がいいし、いずれは必要になると思うよ」
「それなら、早く取るにこしたことありませんよね……ところで、難易度ってどうなんですか?」
 弁護士みたいに難しいと言われてしまうと、心が折れかねない。千秋がいる以上、それはありえないのだが。
「講習を受けるのと、筆記の試験だから、そこまで難関資格ではないよ。テキスト読んで過去問をやればまず落ちることはないと思う」
「それなら、是非」
「じゃ、明日にでもテキスト買っておいで。経費にしてあげるから。講習は時が来たら申し込もう。千秋がいない時の方が、勉強は捗るだろう?」
「はい、間違いなく」
 光が頭を掻くと、次郎も笑った。それから、どこのテキストがオススメなのかなど、二人でネットで見ていると、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ、あ、二宮さん」
「や」
 先日果実を買っていった二宮だ。果実を購入してからというもの、仕事帰りに毎日のように店に顔を出していた。
「僕のブログチェックしてくれた?」
「いやぁ、資格の勉強始めたんでちょっと時間がなくて」
 嘘をついた。次郎は笑いを堪えているようだ。口を押さえて震えている。
「でもさ、息抜きは必要なんじゃない? だからさ、ほらほら、これ見てよ」
 二宮はポケットに手をつっこみ、携帯を取り出し、タップした。何を見せられるのか、はじめから分かっている。何せ、店に来る度にこうして光に写真を見せるのだから。
 写真は、果実のヌードだ。二宮に売った果実が、あられもない格好で携帯の画面に大写しになる。
 ただ裸の写真を見せられるのであればまだ良かったのだが、果実の股に開けた切れ目から、二宮の精液が溢れている写真を見せられた時には鳥肌が立った。
 ひとしきり自分の果実を自慢して、満足すると彼はやっと店から出ていった。
 悪い人ではないし、話自体は面白いと感じることもあるのだが、如何せん話の内容が内容な上に、しかも毎日のように来られるのでは、さすがの光も辟易していた。この程度のストレス、営業の時に比べたら大したストレスではないのだが。
 ただ、光は二宮の態度に、好感を持たないでもなかった。何せ二宮は、自分の果実を溺愛している。人にその裸体を晒させるのはどうかと思うが、それでも、あの果実が大好きなのだということは伝わってきていた。
 そこだけは、自分と同じなのかもしれない。そう考えれば、二宮の話を聞いているのも、それほど苦に感じなくなる。
「そろそろ帰るよ。桃香が待ってるから。じゃね」
 果実には桃香という名をつけたらしい。二宮はにこやかに帰っていった。これからまた、果実と行為に及ぶのだろう。他人のそれを想像するのは、やはり気持ちがいいものではないので想像したくはないのだが、買っていくお客さんが家でどうしているのか、無意識に想像しては、それを振り払おうと頭を振る。
 そうして、今日の勤務時間は残り少なくなっていった。

 土曜日、店は既に開店している。今日は閉店までのシフトのため、十四時に出勤すればいい。午前中いっぱいゆっくり寝ることができる。
 求職していた頃よりも、生活リズムは崩れていた。正さないといけないとは思いながら、一度崩れたものを元に戻すのは至難の業だった。
 昨日は閉店してから製造所に千秋に会いにいったため、一時過ぎまで千秋の製造機の前で過ごしていた。ほんの数日前まで赤ちゃんだった千秋が、今は小学校に入学するぐらいの年にまで成長していたのを見て、光の胸は穏やかな光で満ちた。
 このまま順調にいけば、ちょうどバレンタインデーあたりで千秋に再会することができる。そう思うと、思わず原付のアクセルを多めに開いてしまった。
 原付を店の脇に止めて、光は正面の扉から店に入った。わざわざ裏口から入ることもないと、次郎に言われている。
「おはようございます」
「おはよう」
 着替えることもなく、荷物をバックヤードに置いて、そのまま店内に出る。
「東くん、ちょっといいかな?」
「なんでしょう?」
「これ見て、これ」
 次郎が広げたのは新聞の折込チラシだった。衣料品の大型チェーンのものだ。
「週末セールでさ、すごい安くなってるんだよね。果実用の衣装も減ってきたし、そろそろ買いに行こうと思ってたんだよ。でもさ、君の方が若いし、私が探すよりいいだろ? 資格の本買ってきていいからさ、後で行ってきてくれないかな?」
 それも業務のうちだ。断る理由がない。雑用なら、新入りの自分がやるべきだ。
「はい。えっと、すぐの方がいいですか?」
「いや、夕方になってからでいいよ。雉島くんが製造所から帰ってきてからで」
「分かりました」
 それからしばらく接客をして、雉島が帰ってくるのを待った。土日祝日は平日に比べて客入りが多いため、時間はあっという間に過ぎていく。
 そして、雉島が帰ってきたのと入れ替わりに、光は電車に乗って買い物に出かけた。目的地は、ここから一番近いターミナル駅だ。
 電車で十分足らず、むしろ電車に乗っている時間よりも、改札から駅ビルに入っている目的の店までの方が時間がかかりそうだ。それくらい、週末のターミナル駅は混雑している。まず空いていそうな本屋で資格のテキストを仕入れて、それから目的の店に向かった。
 男女それぞれだけでなく、子供服も扱っている店だ。客層は幅広い。それに加えて、そもそも価格が抑えられている上に、今日は週末セール。店内は外から見てもはっきり分かるくらいにごった返していた。
 これはレジに並ぶだけでもかなり時間がかかりそうだな。そう思いながらも、光はなるべくディスカウントされている商品を選んだ。
 こうして籠に女性物をバシバシ詰め込んでいるのを見て、人はどう思うんだろうか。これも仕事なのだから、堂々としていればいいのだと分かってはいても、挙動不審になってしまう。挙動不審にならないようにならないように努力することがまた、挙動不審に拍車をかけていた。
 何せ、女性物の下着まで籠に入れなければならないのだから。
 あらかた選び終わって、光はレジの列に並んだ。週末の度にセールをやって、それでこれだけの客数になるのだから、店員さんはさぞや大変だろうと、自分の店ではありえない光景を見て、小走りで忙しそうに仕事する店員たちに心の中でエールを送る。
 重い籠を床に置いて手首を回していると、後ろに人が並んだ。前の人が一歩進む。それに続かなければと籠を持ち直そうとして、後ろにぶつからないようにとチラッと振り返った時だった。
「あれ? 光くん?」
 名前を呼ばれたことに驚き、籠から手を離して振り返ると、そこには知った顔の女性がいた。
 黒く長い髪は、かつてよりも艶を増していて、顔は前よりも目鼻立ちがくっきりとしているような気がする。化粧の違いだろうか。男なら誰もが首を縦に振るような、女性としての可愛らしさに重点を置いた服の趣味は、以前と変わっていなかった。
 金縛りにかかったように、言葉が出なくなる。蘇る記憶は、ろくなものではなくて、光は思わずコートの胸の辺りをギュッと掴んだ。
「ま……姫路さん?」
 かろうじて声を出す。舞衣と名前を呼びそうになって、それを喉元で押しとどめる。わざわざかつてよりも距離を感じさせる呼び方を選んだ。
「久しぶり! 偶然だね。元気してた? いつ以来だろ? 卒業して以来だもんね」
 まさか、こんなところで会うことになるとは思わなかった。自分にトラウマを植えつけた張本人。
 もし、道ですれ違っていたのなら、その目に捉えられることのないよう、気配を消して隠れていた。絶対にそうしていた。
 しかし今は、大荷物を抱えてレジに並んでいる。それも仕事でだ。周りの目もある。不意打ちで逃げ出すタイミングも失った。
「あれ? 女性物ばっか?」
 舞衣は光の籠を覗いてそう言った。人にトラウマを植え付けておいて、よくもまぁ厚顔無恥な。何もなかったみたいに、当たり前の顔をして話しかけてくる。
 いや、ただ、あの日の出来事は、この目の前の女、舞衣にはなんでもないことだったのかもしれない。記憶すらしていない、ほんの些細な日常の一コマで、意識することもなく流れていった、その程度のものだったのかもしれない。
 多分、そうなんだ。いつまでも引きずっている自分の方が悪いんじゃないかと、そんな風にさえ思ってしまった。
「もしかして、彼女の買い物?」
 籠を覗きこんだ姿勢から、光のことを上目遣いに見つめる。かつてと、大学で同じゼミで勉強していた頃と、いや、もっとそれ以前、舞衣が転校して離れ離れるなる前、小学生の時、光が初めての恋をした時と、同じように、光のことを見つめる。
「いやいや、違う。彼女じゃなくて、仕事で」
「今日仕事だったんだぁ。何の仕事なの?」
「……小売で」
 果実屋、ということは言いづらかった別にやましいことはない。社会的にも認知されているし、違法でもない。でも、舞衣はきっと、心の中で馬鹿にする。
「ふーん。でもラッキー。レジ長そうだったから、光くんがいればおしゃべりできるもんね」
 小首を傾げて、ニコッとされた。否応なしに、心臓が跳ねてしまう。どちらかと言えば、喜びの方で。多分、舞衣の外見は自分のストライクど真ん中と言っていいくらいに、タイプなのだ。
「そだ、SNSのフレンドになろうよ。やってるでしょ?」
 そう言って、舞衣は自分の携帯の画面を見せた。
「え、あぁ、うん」
 勢いに押されて、光は思わずポケットから携帯を取り出した。そのまま、あれよあれよという間にフレンド登録されていく。
 それから三十分も、舞衣の話に付き合った。時折自分に触れる舞衣の手が小さくて、光は高鳴る胸を自覚せざるをえない。
「あ、レジ次だね。それじゃ、今夜連絡するから!」
 手を振られ、光はレジに向かった。どうせ社交辞令だろ、と思いながら、光も作り笑顔で手を振った。やっとこの長蛇の列と、いらぬ緊張から解放される。光はレジを終えると、そそくさと店に逃げ帰った。

 それから夕食の休憩を経て、店を閉めて、光は原付のキーを回した。まっすぐ家には帰らない。これから、千秋に会いに行く。
 製造所まではそれほど遠くないが、考え事をするには、充分な時間がある。やはり、舞衣からの連絡はなかった。もう二十三時を回っている。今夜連絡するといって、ここまで連絡がなかったのだから、連絡は来ないのだろう。やっぱり社交辞令だったんだ。光は安堵の溜息をついた。
 考え事も一段落して、光は原付を止めた。夜の製造所は極寒と言っていいくらいに寒くて、それ以上に誰もいない大きな建物というのは恐怖を感じさせる。それでもここに足を踏み入れるのは、千秋が待っているから。千秋に意識はまだない。でも、千秋は待ってくれているような気がする。
 入口で電気をつけて、光は一直線に千秋の元に向かう。小走りで向かう。コートの襟を合わせて、寒さに耐える。
 光は深夜にここに来るが、次郎は朝、ここに顔を出しているらしい。相手が次郎とはいえど、千秋と二人きりでいたかったから、ここでバッティングしないのは好都合だった。
 製造所の一番奥。五台の製造機が他とは離れて置かれている。光はその前に立つと、まず電気ストーブの電源を入れた。次郎が用意してくれたものだ。
 朝のここも、きっと冷凍庫の中のように極寒なのだろう。出てきた温風で手を温めて、光は一番右端の製造機の小窓を開けた。
 中で千秋が胎児のように丸まって浮かんでいる。昨日よりも、少し大きくなったような気がする。一年生から、二年生になったみたいだ。思わず頬が緩む。
 こうして、愛する人の成長を見守ることなんていうシチュエーション、そうそうない。人間同士の普通の恋愛では体験できないことを体験できている。そう思うと、なんだか得をした気分だった。
「あのね、今日から資格の勉強を始めたんだ。お店でこれから必要になるだろうって。資格手当で給料上がったりしないかな」
 などと、こうして千秋に話しかけるのが日課になっている。
 パイプ椅子を引っ張ってきて、ストーブの前に置いて座った。しばらく千秋との時間を楽しむ。すると、携帯が震えた。こんな時間に誰だ。そう思って携帯を見ると、表示された名前に、光の脈拍が倍速になった。
「舞衣……」
 表示された名前を音読する。震える指で、画面をタップした。受信したSNSのメッセージを表示する。
『今日は久しぶりー。まさかあんなところで会えるとは思ってなかったよー。運命かな(笑)』
 文章のノリも変わらない。あの頃は、こうして毎日毎晩、メールのやりとりをしていた。その時と、まったく変わらない。
 返信しなければならないだろうか。いや、しないと言うのは失礼が過ぎる気がする。光はちらりと、千秋の方を見た。これは別に、浮気じゃないからねと言い訳して、舞衣に返信する。
『俺もまさか、あんなところで会うとは思ってなかったよ! 今日は休みだったの?』
 運命のくだりには触れない。運命なんてものがあるなら、舞衣はあの時、クリスマス・イブの待ち合わせに来たはずだから。
『うん、普通に土日休みだからね。光くんは土日も仕事なの?』
 そういえば、舞衣は地銀だか信金だかに内定を貰っていた気がする。
『仕事だよ。小売だからね。土日は書き入れ時だし』
 メッセージのやり取りは続いてしまう。それからしばらく、キャッチボールは途切れなかった。もう日付は回っている。
『それじゃさ、今度ご飯行こうよ!』
 どうせ社交辞令だろう。さすがの自分でも、こんなものに惑わされるほど馬鹿じゃないぞ、と光はほくそ笑みながら返信した。
『いいよ!』
 難色を示して雰囲気を悪くする必要はない。こちらから時間を指定をしなければ、流れるに決まっている。
『じゃ、来週の今日にしない?』
 光は表示された文面を二度見した。まさか、向こうから日付を指定してくるとは思わなかった。別に、予定はない。シフトは朝に回してもらえばどうにでもなる。行けないことは、ない。
 千秋の方を見た。別に食事に行くだけだし、構わないか。やましいことはない。ただ、昔の同級生と、食事をするだけなんだから。
『大丈夫』
『じゃ、また時間とか連絡するね!』
 そしてやっと、メッセージのやり取りが終わった。疲労感に包まれて、パイプ椅子の背もたれに深く寄りかかる。
「帰るか」
 いつもよりも早い時間だったが、今日はもう、家に帰ることにした。なんとなく、製造機の中にいる千秋に合わせる顔がない気がして、光は製造機の小窓を閉め、製造所を後にした。
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