果実

伽藍堂益太

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果実 17

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 帰宅して、光は千秋と共に夕食にした。
 とはいっても、千秋は食事ができるわけではない。ただ、一口二口、水を口に含んだだけだ。それで充分らしい。あまり水分の取り過ぎもよくないらしく、そこには気を配る必要がある。
「それにしても、すごいね、冬美さん。こんなにおいしくお菓子作れるんだもん」
 果実は食事をしないにも関わらず、料理ができるというのは光にとっては驚きだった。
「果実でも、きちんとレシピ通りに作れば、できるようになるそうです。だから、私も覚えます」
「そういえばさ、千秋さんの果肉がまだいっぱいあるんだけど……どうしたらいいかな?」
 まだ食べきれずに残った果肉が冷凍庫にはたくさんあった。
「そうですね……では、果肉を使った料理から覚えます。たくさん作って冷凍しておけば、私が製造機の中に入っている間、食事に困りません」
「それは名案だ! ありがと」
 そんなことを話しながらする食事は、楽しかった。前にこうしていた時は、具合が悪かったし、千秋を千秋と認識していなかったから、これほどの幸福感はなかった。
 ヒーターで温まった部屋の温度以上の暖かさを感じながら、二人の夜は更けていく。

 風呂に入ってさっぱりして、そろそろ寝ようかという時分、光は悩んでいた。それは、千秋を抱くか否か。
 感情で言えば、そんなもの抱きたいに決まっている。しかし、行為に及ぶということは、やはり果実の期限を縮めるものでもある。傷をつけて、衝撃を与えるのだから当然だ。
 光は決断した。少しでも一緒にいられる時間を伸ばそう、と。せっかく再会できた初日から、千秋が痛むような真似をすることはない。今夜はただ添い寝をするだけでいいや、とその気持ちを千秋に話そうとした時だった。
 携帯が震えた。二人の静かな夜には、机を揺らす振動がけたたましくて、光は弾かれるように立ち上がって、携帯を捕まえた。
 画面に表示される名前を見る。そこには、姫路舞衣という四文字が映し出されていた。そして、震え続ける。メッセージではなく電話だ。
「なんで……」
 今なんだよ。光は思わずつぶやいた。せっかくの千秋との時間なのに。
「どうしました?」
 部屋着のワンピースに着替え、くつろいでいた千秋が尋ねる。
「んー、電話」
 出るべきか。出ないべきか。
「出ないのですか?」
 そう千秋に問われると、出なければならない気がする。出なければ、そこにやましいものがあると思われてしまう。実際にやましいことはあったからこそ、出にくいのではあるが。光は仕方なく、画面をタップした。
「もしもし?」
 恐る恐る、電話を耳に近づける。こちらからの決別のメッセージを送って以来の連絡だ。何を言われるのか、分かったものじゃない。
「もしもし。ねぇ、今どこ?」
 唐突な質問だ。
「どこって、家だけど」
「良かった。私今、山手駅のところいるんだけど」
「え?」
 光の家の最寄り駅だ。この前、家に舞衣を上がらせた時もその駅を利用したことを覚えていたらしい。
 光は思わず時計を見た。時刻はもうすぐ日付を跨ごうとしている。こんな時間に駅前に何もないような駅で、一体何を。
「ねぇ、迎えに来て」
「え、何そんな急に」
「お願い」
「でも今、うちに人いるから」
 その一言で、舞衣が黙った。これで電話を切れる。安心して溜息をつこうとした時だった。
「光くんが迎えに来てくれないなら、今から家に行くから」
 その声は、有無を言わせないということを言葉で語る以上に語っていた。
「わ、分かった。とりあえず駅まで行くから!」
 最悪だ。光はうめき声を上げた。
「どうしたんですか?」
 なんと返答したらいいのだろう。舞衣は千秋と離れていた間の自分の悪行の権化とも言える存在だ。千秋には話したくない。いや、話して懺悔すべきなのだろうか。迷いが顔に出る。
「やましいことですか?」
 見破られている。隠すことは卑劣か。光は覚悟を決めた。
「……そうですね。やましいです。千秋さんの前に好きだった人がいて、千秋さんがいない間に何回か会って、キスされました。それ以上のこともされました。その人からの電話でした」
 しました、と言わずに、されました、と言ったところに、最後の足掻きが滲んだ。
 千秋が立ち上がる。そして、机の前に立つ光にそっと近づき。ビンタした。バシン、といい音が響く。千秋の挙動から殴られるんだろうな、と分かっていた光は、敢えてそれを受けた。躱すことは許されない気がした。
「これでいいんでしょうか? あまり気持ちのいいものではないですね」
 千秋は自分の手のひらを見つめてから、顔を上げ、光の目を見た。
「もう、やらせないでくださいね。すごく、嫌な気分です。あなたがしたことの意味が、今の私にはきちんと理解できていません。でも、すごく嫌な気分です。これから私の感情はもっと鮮明になっていくと思います。そうすれば、あなたがしたことの意味がきちんと理解できるようになりますし、今よりもずっと嫌な気分になると思います。
 それに私は転生していく限り、あなたがしたことを忘れずに、記憶を引き継いでいきます。もうこれ以上、嫌な記憶を増やしたくありません。もう二度と、しないでください」
「はい」
 自分がしてしまったことの重さを、光は千秋の言葉をもって初めて実感した。もう二度と、間違うことは許されない。
 問題はまだ残っている。舞衣は迎えに来なければ、ここに来ると言っていた。それをこのまま放置しておいていいのだろうか。電車がなくなってしまえば、今以上に厄介なことになりそうだ。なんとしても、終電前に片付けたい。
「今の電話で、その人が駅まで迎えに来なければ、ここに来るって言ってたんです。このままにしておけません。行ってきていいですか?」
「行かせたくないという気持ちは分かってもらえますか?」
「はい、もちろん」
 逆の状況だったら、きっと自分は発狂している。
「でも、行かないとまずいんですよね?」
「……そうですね」
 放置しておいたらここに来てしまう。そうすれば、逃げ場がなくなる。それだけは避けたかった。
「なら、私も行きます」
「千秋さんも?」
「まずいですか?」
 折衷案としては、それでいいのかもしれない。
「いえ、大丈夫です」
 千秋の姿を見たら、きっと諦めて帰ってくれるだろう。舞衣は自分に好意を持っているのだろうか。こんな要求をしてくるということは、まず間違いなく好意を持っているということだろう。
 千秋というものがありながら、不用意に舞衣に近づきすぎてしまった。非はこちらにある。あんな簡単なメッセージで済ませてしまおうとしたのも悪かった。これは自分の失策だ。きちんと尻拭いはしなければならない。
「行きましょう。ちゃんと説明して、帰ってもらいます」
「はい」
 光がコートを羽織ると、千秋も赤いコートを羽織った。靴を履いて、温もった部屋から、凍てつく屋外に出ると、思わず首をコートの襟に引っ込めてしまう。
 駅までのんびりしているのも嫌で、光はスタスタと歩いた。千秋も歩調を早めて、光の後をついてくる。昼間よりも気温はぐっと下がって、ちりちりと頬に冷気が突き刺さる。それに立ち向かい、光たちは駅に急いだ。

 改札の蛍光灯、向かいのコンビニの照明。両側から照らされた信号の前に、舞衣が立っていた。一歩一歩が重くなる。プレッシャーに押し戻されそうになる。別に怖い顔をしているわけでもないのに。
「こんばんは」
 光がお辞儀すると、千秋も真似をした。
「なんでそんなに他人行儀なの? あんなに仲良くしてたのに」
「なんでって」
 今この状況を見て、本気で言っているのだろうか。それとも、こちらを煽ってきているのだろうか。
「その人と付き合ってるの?」
「そうだよ。恋人」
「私のこと、好きだったんじゃないの?」
「昔はね」
「やっぱり、その人がいいの? 私のことあんなにしておいて、私じゃダメなんだ……」
「あんなにって」
「だってその人より私の方が――」
 舞衣が千秋をキッと睨みつけた。憎しみや怒りの篭った表情で。が、それは徐々に形を変える。疑念や疑問。つまり、疑いの眼差しに変わる。
「”それ”って、人?」
 舞衣が光を押しのけて、強引に千秋の腕を取った。
「ちょっと、何して」
 光が抗議するが、千秋はされるがままだ。振り払ったりしない。
「やっぱり、脈ない。ねぇ、光くん、”これ”果実じゃない。私のこと馬鹿にしてるの?」
「馬鹿になんてしてない。それに、これなんて言い方しないでくれ」
 光は自分の頭に血が上っていくのを感じた。自分の方が異常なのだと分かっていても、舞衣の発言を許すわけにはいかない。
「だっておかしいじゃん。物のこと恋人って言うなんて。バイクが恋人とかギターが恋人なら分かるよ? でもダッチワイフを恋人って言うなんて、気持ち悪いじゃん」
「ダッチワイフって。ふざけんなよ!」
 我慢の限界だった。思わず大きな声を出してしまう。
「なんで怒ってるの? ねぇ、冷静になって考えてよ。それが恋人なんてのは、おかしいんだよ? 私、果実使ったくらいで浮気なんて言うほどうるさい女じゃないから」
 舞衣の今の態度の方が当たり前で正常な反応なんだと光は自分に言い聞かせて、冷静になろうと努める。
「俺は本気なんだ。異常だって思うんなら、帰ればいいじゃないか。俺に固執する理由なんてないだろ?」
「でも、光くんにはこれから奥さんが必要になるでしょ? だってこれから会社を継ぐわけだし、絶対一人じゃ無理だよ。だから、私が専業主婦になって支えてあげるから。そうすれば、光くんは社長業に専念できるでしょ? 今回のことも商品の使用感の確認ってこととかでさ、水に流してあげるから、だからほら、とりあえずそんな物捨ててさ、光くんの家に行こう? ね?」
「いや、俺がいつ社長になるなんて話ししたよ?」
「話してたよ? いずれ社長になるって言ったのは光くんじゃない」
 飲んだ時にそんな軽口を言った気がしないでもないが、そんなこといちいち覚えていたのか。そんな軽口を本気にして、それで今ここにいるというのか。
「だから、今から夫婦になっておいた方が色々都合いいと思うよ? ね、それはもう、そこに捨てていけばいいから。ゴミ捨て場あるし」
 そう言って、舞衣はゴミ捨て場を指さした。怒りを通り越して、光は悲しくなった。価値観が決定的に違うのだ。話し合いになんてならない。
 そして、姫路舞衣という女の本質が見えた気がした。
「俺は、千秋さんを選ぶよ。姫路さんはそうやって、俺から何か貰えるから、とりあえずキープしておいてるんだよね。
 小学校の時はさ、つまんないもんだけど、消しゴムとか教科書とかさ、大学に入っても代返とかノートとかさ。姫路さんのこと好きだったから、昔はそれでも良かったんだけど、俺だって、与えられるものは、与えてくれる人に与えたいって思ったんだ。それは君じゃない」
「何言ってるの? 私と付き合えば、いっぱい色々してあげるよ?」
「違うんだよ、そうじゃないんだ。姫路さんとは、与え合おうって気になれない。だから、じゃあね。電車、まだ動いてるよ」
 連絡を取り合って、二人で飲みにも行って、そうやって舞衣との距離を縮めてしまったのは自分だ。今言ったこと、自分でもあんまりな言い方だと、光は自覚していた。
 しかし、今の舞衣に対して少しでも譲歩するような姿勢を見せてしまえば、きっとここですっぱり終わらせることはできなくなってしまいそうだ。
 光は千秋の手を取り、そして舞衣に背を向けた。はっきりと、決別の意志は伝えた。
「行こう、千秋さん」
 手を繋ぎ、歩き出す。
「はい」
 千秋には戸惑いが感じられたが、それを引っ張るようにして歩き出す。舞衣の方は振り返らない。決定的な決別なのだということを、分かって欲しかった。
「そんなもん……そんなもんんんんんんんんんんんんんんん」
 絶叫。そしてガツガツ鳴り響く足音。振り返った光。瞬間、舞衣が千秋の頭を鷲掴みにした。両手で、全体重を掛けて、千秋の頭を強く押さえつけた。
 光の視界がスローモーションになる。宙に浮く舞衣。後ろによろける千秋。そして、千秋の頭に迫る電柱。
 そして爆ぜた。グシャッという生々しい音。飛び散る液体が電柱にこびりつく。飛び散った液体は、舞衣を体を犯すように濡らした。
 頭がぐしゃぐしゃに崩れた千秋は、電柱によりかかり、ズルズルと地面に力なく倒れた。
「……あ」
 千秋が、死んだ。死んでしまった。だって、頭が。
 頭。頭の中には種が。種が壊れていれば、千秋は。千秋は転生することができなくなる。
「千秋さん!」
 光は呆然と立ち尽くす舞衣を押しのけて、千秋に駆け寄った。ぐったりとして、千秋は動かない。体を揺するのも恐ろしい。どうしようどうしよう。気が動転する。なんで千秋はこんな。なんでじゃない。
 舞衣がやったんだ。この目で見た。舞衣がやったのを見た。
「なにしてくれてんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 舞衣が千秋を殺した。舞衣が千秋を殺した。
「殺してやる……」
 光の耳に入ってきた声は、とても自分のものとは思えないような、地の底から這い上がってきた鬼のような、怨恨そのものが発したような、恐ろしい響きだった。
「な、なによ。ムカついたからちょっと壊しただけじゃない! ただの物なのに大げさな! 金? 金でも払えばいいわけ? ケチくさい男!」
 我慢の限界はとっくに超えていた。光は拳を握りしめ、歯を食いしばった。舞衣を、千秋と同じ姿にしてやる。報いを受けろ。ただそれだけが、光の頭の中でリピートされていた。
「殺してやる」
 舞衣の目を、はっきりと捉えて言い放った。静かな決意が、舞衣に伝わったのか、舞衣は後ずさりし、光から距離を取ろうとする。
 光はゆっくりと立ち上がった。今この場で、確実に殺す。感情に突き動かされて、光が一歩踏みだそうとした時だった。
 光の手首が掴まれた。
「え?」
 振り返ると、頭部をぐしゃぐしゃにされ、もう何も見ることも聞くこともできないはずの千秋が、光の手首を掴んでいた。その手はゆっくりと下がり、光の拳を包んだ。包まれた光の拳は、ゆっくりと解かれ、千秋の手と絡み合った。千秋が、光と手を繋いできた。
「千秋さん?」
 生きている。千秋がまだ生きている。ということは、種はまだ。
「あー、キモッ! 死ね! 死ね! お前みたいな気持ち悪いの、結婚してやらないから! ほんとキモイ! 一生ダッチワイフとヤってろよ!」
 舞衣が捨て台詞を吐いて、駅へと駆けて行った。しかし、光の眼中にもはや舞衣の姿はなかった。
 光に見えているのは千秋だけ。
「千秋さん、千秋さん」
 千秋に答えられるわけはない。それでも、光は呼びかけ続けた。徐々に千秋の手から力が抜けていく。それは、初めての最後の夜を思い出させた。
 千秋の手からは完全に力が抜けて、その肉体はただの抜け殻になっていた。
 慟哭の衝動が光の胸の深い部分から湧き上がりそうになる。しかしそれを、光は必死で押さえつける。
 今やらなければならないことは、泣くことじゃない。千秋の体から、無事に種を回収すること。辺りを見回す。見える範囲に、千秋の種は落ちていなかった。
 光はぐしゃぐしゃになった千秋の頭部に、赤いコートのフードをかぶせた。中身が転がっていかないように、しっかりと包み込む。
 そして、光は千秋の体を抱きかかえた。体重は人間とそう変わらない。つまり、肉体的に強いとは言えない光にとっては、相当に重かった。それを死に物狂いで運ぶ。
 街を行く人の、好奇の視線が注がれる。狂っている。多分、そう思われている。舞衣のような人間の方が当たり前の人間で、自分が異常なのだ。だから、その視線を甘んじて受けるしかない。それでも、体に込める力は、微塵も緩めなかった。
 死ぬ気で自宅まで辿り着いた時、光の腕は痙攣していた。それでも、休憩するという選択肢は頭に浮かばなかった。
 風呂場にまで千秋を運ぶと、服を脱がせることもなく、その崩れた頭部をまさぐった。千秋の種は八つ。揃え、揃え。頼むから、全部揃っててくれ。祈りながら、頭の中をこねくりまわす。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、そして、八つ。
「あった……」
 光はタイルの上に力なく転がった。
「よかった……あった……」
 光の目から、涙が溢れた。焦燥で抑えられていた感情が、安心したことで溢れだして、それに押し流される形で流れだした涙だった。
 だが、いつまでも泣いているわけにもいかない。一応、もう頭の中に種がないことを確認すると、光は着替えることもなく、原付に乗り、製造所に向かった。
 そして製造機に種を入れた。精液を入れなければならない。しかし、こんな精神状態では、なかなかうまくいかない。光は必死で陰茎をしごいて射精すると、千秋の種にかけ、そして指を切り、血を入れ、培養液を流すと、製造機を稼働させた。
 また四十日間、千秋と離れ離れでいなければならない。その時間を思うと、もう動き気力もなくなって、光はそのまま、製造機の前に寝転がった。ストーブがある。凍死することはないだろう。目を瞑り、現実から逃避した。
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