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第一章「わが家にアヤメちゃんがやってきた!」
第十一話「記録を増やしましょう」
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庭園から帰って来た櫻子とアヤメは表の玄関ではなく、使用人が出入りする土間の勝手口へと入って行った。
「櫻子お嬢様、お帰りなさいまし」
土間の台所で昼食のための下拵えをしている蕗が、笑顔で迎える。
「ただいま、蕗さん」
「只今、帰リマシタ」
アヤメが蕗に会釈する。
「はいはい、お帰りなさい。アヤメちゃん」
蕗も、アヤメに会釈を返した。
「ちょうど今、出来上がったところですよ」
「ありがとう、蕗さん」
蕗は湯気の立つ小鍋を、片手に持ち上げる。櫻子が中を覗くと、煮立てた小豆の甘い匂いがしてくる。
「わあ、美味しそう」
櫻子が「クンクン」と、匂いを嗅ぐ。
蕗は小鍋の中身を、黒漆の糸目椀に移してゆく。
「おっきな栗ね。白玉がちっちゃく見えるわ」
「そうですねぇ、お嬢様。でも鉉さんは、丸ごと入れた方がお好きかと思いましたので」
「うふふ。そうね、蕗さん」
櫻子は茶菓子を運ぶため、土間の棚に置かれた岡持ちの倹飩蓋を引き上げた。これは木製の岡持ちで、野点の道具などを入れて持ち運べる物だ。
倹飩蓋が外されて、岡持ちは片側の横一面だけが丸見えになる。中は縦横一枚ずつ、板で仕切りされている。
櫻子が、上段の左側に黒漆のスプーンとお絞りを、右側には胡瓜の古漬けと塩昆布が載った小皿を入れてゆく。
下段の右側は薄板で作った小さな箱が入っており、高さは無いが横幅は「ピッタリ」と収まっている。櫻子は、それを外す。
箱の上部中央には円の空洞があり、そこに蓋を閉じた漆塗りの湯呑みを入れると、「スッポリ」と底から半分程度が丁度良く填まった。これは箱を元のところに戻すと、湯呑みが固定される。
櫻子が糸目椀にも蓋を被せて、「スッ」と下段の左側に置く。そして最後に倹飩蓋を取って、岡持ちの溝に差し入れ、上から下へ押し閉めた。
竹の持ち手を握ると、櫻子は岡持ちを持ち上げる。
「さあ、アヤメちゃん。行きましょう」
「櫻、子姉様。アヤメガ、御運ビ致シマス」
「あ、いいの。これは、お庭に持っていく物だから。アヤメちゃんは、デコボコした道を歩くのはまだ慣れていないし、これを持って転んだりしたら危ないわ」
「御庭デスカ。アヤメハ先程、御庭ヲ歩行シタ際、合計四回モ、転ンデシマイマシタ。確カニ、アヤメガ御運ビシタ場合、転倒スル可能性ガ、大ナノデス。御役ニ立テズ、申シ訳アリマセヌ。グスン」
アヤメは、櫻子に頭を下げる。
「あっ、アヤメちゃん。謝る必要なんてないわ。これはね、鉉さんに持っていくためのお茶菓子なの。女学校がお休みの時は、お庭で作業している鉉さんのところに、いつも私が用意して持っていくのよ。アヤメちゃんは私と一緒に来てくれるだけで良いんだから、気にしないでね」
櫻子が首を横に傾けて、「ニッコリ」と微笑んだ。
「それに今度こそ、アヤメちゃんを鉉さんに紹介しなくっちゃ。鉉さんはね、ああ見えて甘い物に目がないのよお。さっ、アヤメちゃん。行きましょう」
「ハイ。櫻、子姉様」
櫻子は勝手口を出て、再び庭を歩いて行った。アヤメは並んで歩いていたが途中、二回転んだ。
暫く歩くと、鉉造の姿が見えてきた。
梅の木の剪定を終えて、その根元に鉉造は片膝を立てて座り、煙管を吸っていた。
「鉉さ~ん」
鉉造は櫻子に視線を向けた後、煙管の灰を竹筒の中に落として火を消した。
「く・り・ぜ・ん・ざ・い」
「おう、栗入りか」
櫻子が菓子名を告げると、鉉造は嗄れた声で答え、「ニヤッ」と笑った。
鉉造が岡持ちを受け取り、倹飩蓋を引き抜いて地面に置く。岡持ちの中から、お絞りを取って両手を拭い、倹飩蓋をお盆代わりにして、湯呑みの填まった箱を上に載せた。
櫻子は袂から風呂敷を出して、地面に広げている。
気候の良い季節ならば、庭園に咲く花を愛でながら優雅に抹茶を点てたりもするのだが、この時期は熱々の緑茶を用意してゆく。
鉉造は箱から湯呑みを抜いて、蓋を開ける。
櫻子の方は草履を脱いで、鉉造の向かいに敷いた風呂敷の上に座った。
「アヤメちゃんも、ここに座って」
「ドウゾ、御構イ無ク。アヤメハ此処デ、直立シテイマス」
「あら。鉉さんや私みたいに、地べたにお尻をついて座るのは難しいかしら?」
「イイエ、出来マス。シカシ、アヤメハ女中。御主人様方ノ、御前デ、充電以外、着座シテハ、イケナイノデス」
「ふ~ん、そうなの。でも今日はね、アヤメちゃんと一緒に座ろうと思って、いつもより大きな風呂敷を持ってきたのよ。ねぇ、鉉さん?アヤメちゃんが座っても構わないでしょ?」
「…まあ、座れや」
鉉造は緑茶を啜りながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ほら!鉉さんも『座ってちょうだい』って、言ってるわ。私も、アヤメちゃんが充電箱以外で座るところを見てみたいの。だからほら、座って座ってぇ」
櫻子が、風呂敷を「ポンポン」と叩いて、手招きする。
「御主人様方カラノ、御要望デ、御座イマス。アヤメハ、御言葉ニ甘エテ、着座サセテ頂キマス」
アヤメは片足ずつ草履を脱いで、敷いた風呂敷に足を載せる。そして「カクン」と曲げた両膝を突いて、正座した。
「うふふ。鉉さんは、アヤメちゃんが話したり動いたりするところを見るのは初めてでしょ?」
「ああ」
クリスマス・イヴの翌日から、鉉造は植木仕事で遠方の顧客のところまで出張して、留守にしていた。帰って来たのは昨夜のため、充電箱に座った姿のアヤメしか見ていない。
「アヤメちゃんの名前はね、お母様の好きな『菖蒲』のお花から付けたのよ。でも漢字だと堅苦しいし、最先端のお人形さんだから、片仮名の『アヤメ』ちゃんに決めたの。どぅお?ハイカラでしょ?」
「ふん。ハイカラなんぞ、どうでもいいわい」
そう言って鉉造は胡瓜の古漬けを指で摘まみ、口の中に放り込んだ。
「んもう。鉉さんったら、ノリが悪いんだからあ」
後ろに曲げた両腕を「パタパタ」と振りながら言った後、櫻子は口を尖らせた。
「アヤメハ、素敵ナ御名前ヲ、頂戴シテ、幸甚ノ、至リナノデス」
「そぅお?良かったあ」
櫻子は嬉しそうに微笑む。
鉉造が「パカッ」と糸目椀の蓋を開けると、湯気が立ち上る。
艶やかな白玉と、黄金色をした大振りの栗が「ゴロゴロ」と椀の中で重なり合い、その半分の面積を炊きたての粒餡が覆い隠している。
鉉造は黒漆のスプーンで、白玉と粒餡を一緒に掬って、櫻子に差し出した。
「パクッ」と、櫻子が食べる。
「んふっ、美味しいっ」
更に白玉と粒餡を掬い、今度はアヤメの前に差し出す。
「ほれ」
「アヤメハ人形故、飲食ハ、出来マセヌ。御気持チダケ、頂戴致シマス」
「そうかい」
鉉造は伸ばした手を戻し、それを食べた。
「あ、そうそう。鉉さんの名前を書いてきたのよ」
櫻子が着物の袂から折り畳んだ半紙を取り出し、アヤメに開いて見せた。
そこには予め櫻子が筆で書いておいた、鉉造の姓名があった。
「鉉さんはね、『椴部 鉉造』っていう名前なの。漢字は、こう書くのよ」
「デハ、御顔ト姓名ヲ、記録シマス。暫ク動カズニ、御願イ致シマス」
「ああ?記録だあ?」
鉉造は眉間に皺を寄せて、アヤメに顔を近づける。
「あっ、鉉さん。動いちゃ駄目っ!アヤメちゃんが今から、鉉さんの顔と名前を覚えるんだからっ」
「ぬう…」
アヤメは目蓋を大きく開いて、鉉造を「ジッ」と見つめる。
鉉造も眉間に皺を寄せたまま眼光鋭く、アヤメの瞳を見据える。
アヤメと鉉造が対峙している様子を眺めながら、「クスクス」と櫻子が笑っている。
暫くして、アヤメが目蓋を閉じた。
「記録、完了シマシタ。ドウゾ、御楽ニ」
アヤメの記録が終了すると、櫻子がお腹を抱えて笑った。
「あはははっ、可笑しいっ。アヤメちゃんと鉉さんが向かい合ってると、まるで睨めっこしているみたいだわっ」
「んん?何だ、今のが記録か?仕組みが、よく解らんのう」
アヤメの顔を訝しげに見ながら、湯呑みに手を伸ばす。
「そうね、不思議。でもこれで、ちゃあんと鉉さんのことも覚えてもらえたわ。ねっ、アヤメちゃん?」
「ハイ。アヤメハ、『鉉様』ノ、御顔ト姓名ヲ、確リト、覚エマシタ」
鉉造は啜っていた茶を「ぶっ」と吹き出し、「ゲホゲホ」と咳き込んだ。
「おいっ、何だっ!その、二枚目役者の呼び名みてえなのはっ」
「櫻、子姉様ガ、『鉉サン』ト、御呼ビニナラレタノデ、アヤメハ、『鉉様』ト、御呼ビスルノガ、宜シイカト」
「もっと普通に呼べっ、普通に。そんな風に呼ばれちゃあ、こそばゆうて叶わん」
「デハ、『椴部様』ト、『鉉造様』ノ、ドチラガ宜シイデショウカ?」
「櫻子と同じように呼びゃあいい」
「ハテ?」
アヤメは首を傾げる。
「其レデハ、『鉉様』ト、御呼ビスル事ニ」
「アヤメちゃん。鉉さんは、アヤメちゃんにも『鉉さん』ってね、『様』ではなく『さん』付けで呼んでほしいのよ」
「成ル程。シカシ、アヤメハ女中デ有リ、一介ノ人形ナノデス。御人様ニ対シテハ、必ズ、『様』、ヲ、使ウ様、義務付ケラレテオリマス」
「構わん。儂が呼べと言っとるんだ」
「真ニ、宜シイノデショウカ?」
「口説いっ!」
「承知シマシタ。デハ、御本人様カラノ、強イ強イ、御要望デ、御座イマス。大変、恐縮デスガ、例外トシテ、『鉉サン』、ト、御呼ビスル事ニ、致シマス」
アヤメはそう言って、鉉造にお辞儀した。
(続)
「櫻子お嬢様、お帰りなさいまし」
土間の台所で昼食のための下拵えをしている蕗が、笑顔で迎える。
「ただいま、蕗さん」
「只今、帰リマシタ」
アヤメが蕗に会釈する。
「はいはい、お帰りなさい。アヤメちゃん」
蕗も、アヤメに会釈を返した。
「ちょうど今、出来上がったところですよ」
「ありがとう、蕗さん」
蕗は湯気の立つ小鍋を、片手に持ち上げる。櫻子が中を覗くと、煮立てた小豆の甘い匂いがしてくる。
「わあ、美味しそう」
櫻子が「クンクン」と、匂いを嗅ぐ。
蕗は小鍋の中身を、黒漆の糸目椀に移してゆく。
「おっきな栗ね。白玉がちっちゃく見えるわ」
「そうですねぇ、お嬢様。でも鉉さんは、丸ごと入れた方がお好きかと思いましたので」
「うふふ。そうね、蕗さん」
櫻子は茶菓子を運ぶため、土間の棚に置かれた岡持ちの倹飩蓋を引き上げた。これは木製の岡持ちで、野点の道具などを入れて持ち運べる物だ。
倹飩蓋が外されて、岡持ちは片側の横一面だけが丸見えになる。中は縦横一枚ずつ、板で仕切りされている。
櫻子が、上段の左側に黒漆のスプーンとお絞りを、右側には胡瓜の古漬けと塩昆布が載った小皿を入れてゆく。
下段の右側は薄板で作った小さな箱が入っており、高さは無いが横幅は「ピッタリ」と収まっている。櫻子は、それを外す。
箱の上部中央には円の空洞があり、そこに蓋を閉じた漆塗りの湯呑みを入れると、「スッポリ」と底から半分程度が丁度良く填まった。これは箱を元のところに戻すと、湯呑みが固定される。
櫻子が糸目椀にも蓋を被せて、「スッ」と下段の左側に置く。そして最後に倹飩蓋を取って、岡持ちの溝に差し入れ、上から下へ押し閉めた。
竹の持ち手を握ると、櫻子は岡持ちを持ち上げる。
「さあ、アヤメちゃん。行きましょう」
「櫻、子姉様。アヤメガ、御運ビ致シマス」
「あ、いいの。これは、お庭に持っていく物だから。アヤメちゃんは、デコボコした道を歩くのはまだ慣れていないし、これを持って転んだりしたら危ないわ」
「御庭デスカ。アヤメハ先程、御庭ヲ歩行シタ際、合計四回モ、転ンデシマイマシタ。確カニ、アヤメガ御運ビシタ場合、転倒スル可能性ガ、大ナノデス。御役ニ立テズ、申シ訳アリマセヌ。グスン」
アヤメは、櫻子に頭を下げる。
「あっ、アヤメちゃん。謝る必要なんてないわ。これはね、鉉さんに持っていくためのお茶菓子なの。女学校がお休みの時は、お庭で作業している鉉さんのところに、いつも私が用意して持っていくのよ。アヤメちゃんは私と一緒に来てくれるだけで良いんだから、気にしないでね」
櫻子が首を横に傾けて、「ニッコリ」と微笑んだ。
「それに今度こそ、アヤメちゃんを鉉さんに紹介しなくっちゃ。鉉さんはね、ああ見えて甘い物に目がないのよお。さっ、アヤメちゃん。行きましょう」
「ハイ。櫻、子姉様」
櫻子は勝手口を出て、再び庭を歩いて行った。アヤメは並んで歩いていたが途中、二回転んだ。
暫く歩くと、鉉造の姿が見えてきた。
梅の木の剪定を終えて、その根元に鉉造は片膝を立てて座り、煙管を吸っていた。
「鉉さ~ん」
鉉造は櫻子に視線を向けた後、煙管の灰を竹筒の中に落として火を消した。
「く・り・ぜ・ん・ざ・い」
「おう、栗入りか」
櫻子が菓子名を告げると、鉉造は嗄れた声で答え、「ニヤッ」と笑った。
鉉造が岡持ちを受け取り、倹飩蓋を引き抜いて地面に置く。岡持ちの中から、お絞りを取って両手を拭い、倹飩蓋をお盆代わりにして、湯呑みの填まった箱を上に載せた。
櫻子は袂から風呂敷を出して、地面に広げている。
気候の良い季節ならば、庭園に咲く花を愛でながら優雅に抹茶を点てたりもするのだが、この時期は熱々の緑茶を用意してゆく。
鉉造は箱から湯呑みを抜いて、蓋を開ける。
櫻子の方は草履を脱いで、鉉造の向かいに敷いた風呂敷の上に座った。
「アヤメちゃんも、ここに座って」
「ドウゾ、御構イ無ク。アヤメハ此処デ、直立シテイマス」
「あら。鉉さんや私みたいに、地べたにお尻をついて座るのは難しいかしら?」
「イイエ、出来マス。シカシ、アヤメハ女中。御主人様方ノ、御前デ、充電以外、着座シテハ、イケナイノデス」
「ふ~ん、そうなの。でも今日はね、アヤメちゃんと一緒に座ろうと思って、いつもより大きな風呂敷を持ってきたのよ。ねぇ、鉉さん?アヤメちゃんが座っても構わないでしょ?」
「…まあ、座れや」
鉉造は緑茶を啜りながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ほら!鉉さんも『座ってちょうだい』って、言ってるわ。私も、アヤメちゃんが充電箱以外で座るところを見てみたいの。だからほら、座って座ってぇ」
櫻子が、風呂敷を「ポンポン」と叩いて、手招きする。
「御主人様方カラノ、御要望デ、御座イマス。アヤメハ、御言葉ニ甘エテ、着座サセテ頂キマス」
アヤメは片足ずつ草履を脱いで、敷いた風呂敷に足を載せる。そして「カクン」と曲げた両膝を突いて、正座した。
「うふふ。鉉さんは、アヤメちゃんが話したり動いたりするところを見るのは初めてでしょ?」
「ああ」
クリスマス・イヴの翌日から、鉉造は植木仕事で遠方の顧客のところまで出張して、留守にしていた。帰って来たのは昨夜のため、充電箱に座った姿のアヤメしか見ていない。
「アヤメちゃんの名前はね、お母様の好きな『菖蒲』のお花から付けたのよ。でも漢字だと堅苦しいし、最先端のお人形さんだから、片仮名の『アヤメ』ちゃんに決めたの。どぅお?ハイカラでしょ?」
「ふん。ハイカラなんぞ、どうでもいいわい」
そう言って鉉造は胡瓜の古漬けを指で摘まみ、口の中に放り込んだ。
「んもう。鉉さんったら、ノリが悪いんだからあ」
後ろに曲げた両腕を「パタパタ」と振りながら言った後、櫻子は口を尖らせた。
「アヤメハ、素敵ナ御名前ヲ、頂戴シテ、幸甚ノ、至リナノデス」
「そぅお?良かったあ」
櫻子は嬉しそうに微笑む。
鉉造が「パカッ」と糸目椀の蓋を開けると、湯気が立ち上る。
艶やかな白玉と、黄金色をした大振りの栗が「ゴロゴロ」と椀の中で重なり合い、その半分の面積を炊きたての粒餡が覆い隠している。
鉉造は黒漆のスプーンで、白玉と粒餡を一緒に掬って、櫻子に差し出した。
「パクッ」と、櫻子が食べる。
「んふっ、美味しいっ」
更に白玉と粒餡を掬い、今度はアヤメの前に差し出す。
「ほれ」
「アヤメハ人形故、飲食ハ、出来マセヌ。御気持チダケ、頂戴致シマス」
「そうかい」
鉉造は伸ばした手を戻し、それを食べた。
「あ、そうそう。鉉さんの名前を書いてきたのよ」
櫻子が着物の袂から折り畳んだ半紙を取り出し、アヤメに開いて見せた。
そこには予め櫻子が筆で書いておいた、鉉造の姓名があった。
「鉉さんはね、『椴部 鉉造』っていう名前なの。漢字は、こう書くのよ」
「デハ、御顔ト姓名ヲ、記録シマス。暫ク動カズニ、御願イ致シマス」
「ああ?記録だあ?」
鉉造は眉間に皺を寄せて、アヤメに顔を近づける。
「あっ、鉉さん。動いちゃ駄目っ!アヤメちゃんが今から、鉉さんの顔と名前を覚えるんだからっ」
「ぬう…」
アヤメは目蓋を大きく開いて、鉉造を「ジッ」と見つめる。
鉉造も眉間に皺を寄せたまま眼光鋭く、アヤメの瞳を見据える。
アヤメと鉉造が対峙している様子を眺めながら、「クスクス」と櫻子が笑っている。
暫くして、アヤメが目蓋を閉じた。
「記録、完了シマシタ。ドウゾ、御楽ニ」
アヤメの記録が終了すると、櫻子がお腹を抱えて笑った。
「あはははっ、可笑しいっ。アヤメちゃんと鉉さんが向かい合ってると、まるで睨めっこしているみたいだわっ」
「んん?何だ、今のが記録か?仕組みが、よく解らんのう」
アヤメの顔を訝しげに見ながら、湯呑みに手を伸ばす。
「そうね、不思議。でもこれで、ちゃあんと鉉さんのことも覚えてもらえたわ。ねっ、アヤメちゃん?」
「ハイ。アヤメハ、『鉉様』ノ、御顔ト姓名ヲ、確リト、覚エマシタ」
鉉造は啜っていた茶を「ぶっ」と吹き出し、「ゲホゲホ」と咳き込んだ。
「おいっ、何だっ!その、二枚目役者の呼び名みてえなのはっ」
「櫻、子姉様ガ、『鉉サン』ト、御呼ビニナラレタノデ、アヤメハ、『鉉様』ト、御呼ビスルノガ、宜シイカト」
「もっと普通に呼べっ、普通に。そんな風に呼ばれちゃあ、こそばゆうて叶わん」
「デハ、『椴部様』ト、『鉉造様』ノ、ドチラガ宜シイデショウカ?」
「櫻子と同じように呼びゃあいい」
「ハテ?」
アヤメは首を傾げる。
「其レデハ、『鉉様』ト、御呼ビスル事ニ」
「アヤメちゃん。鉉さんは、アヤメちゃんにも『鉉さん』ってね、『様』ではなく『さん』付けで呼んでほしいのよ」
「成ル程。シカシ、アヤメハ女中デ有リ、一介ノ人形ナノデス。御人様ニ対シテハ、必ズ、『様』、ヲ、使ウ様、義務付ケラレテオリマス」
「構わん。儂が呼べと言っとるんだ」
「真ニ、宜シイノデショウカ?」
「口説いっ!」
「承知シマシタ。デハ、御本人様カラノ、強イ強イ、御要望デ、御座イマス。大変、恐縮デスガ、例外トシテ、『鉉サン』、ト、御呼ビスル事ニ、致シマス」
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