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第1章「0(ゼロ)」
十九話「早瀬 透①」
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その少女を『倉庫』の四階に送り届けた早瀬は、近くに駐車された倶楽部会員用の送迎車を運転し、立ち入り禁止区域を離れ、宿泊施設区域に入って行った。
宿泊施設区域内の別棟に到着すると、早瀬は地下の駐車場に送迎車を停めた。
そのまま地下の管理室に行き、自分が運転してきた送迎車の鍵を返却する。
早瀬は地下からエレベーターを使って上昇した。降りた階は、主に従業員が利用する場所だった。
夜間勤務の従業員がちらほら座っている食堂の横を通り過ぎ、ロッカールームに入る。そして自分の名前が入ったロッカーを開け、制服を脱いで私服に着替える。
再びエレベーターで地下の駐車場に戻ると、早瀬は整然と並ぶ車の中から、一台の車の鍵を開けた。
それは、倶楽部会員を送迎するための見栄えの良い高級車とは違い、早瀬が安価で買った中古の車だった。
早瀬は肩にかけたショルダーバッグを助手席に置いて、車を走らせる。
制服を着用している時に比べると、私服の早瀬はまだ学生のようにも見える。
流行やお洒落にあまり興味が無い早瀬は、高校生の頃に母親が買ってきた服をずっと着続けている。
今着ているTシャツとジーンズも、母親が選んだ物だ。
自分にはよく判らないけれど、母親は割りとセンスが良いらしい。
家にある物は全部セール品だったり定価も安い物だが、身につけていると周りからは「それ良いね」と声をかけられることがあり、値段を言うと驚かれることもあった。
だがそれも学生時代の、自分と生活レベルに大差がない人達の間だけのことだ。
此処で勤務するようになってからは、ほとんどの時間は制服を着用しているし、休日に友人達と遊びに行くことも滅多に無くなった。
早瀬の父親は小学六年生の時に病気で亡くなった。
その時から母親が働いて、女手一つで自分と弟を育ててくれた。
早瀬自身もアルバイトしていたが、「大学に進学してほしい」との母親からの願いもあり、勉強優先で働ける時間も少なかった。
だが母親も、早瀬が高校二年生の時に病に倒れてしまった。
大学は奨学金を受けられ入学も叶い、何とか卒業もできたが、母親の病気は完治が難しく、ずっと入退院を繰り返している。
それでも以前は、自分の家庭の事情も理解してくれている友人達と飲んで、ただ下らない話をするだけでも楽しかった。
まだ加減も分からない頃は、記憶を無くすくらい飲んでしまうこともあった。そんな時も誰かが面倒を見てくれて、友人の部屋で翌日に目を覚ます。その程度のことだ。
だけど今はその友人達から飲みに誘われても、会うのを躊躇ってしまう。
何故なら今の自分はもう、あの時のように気楽に皆と酒を飲んで、無防備に酔っ払うことはできない。
もしも、うっかり口を滑らしてしまったらーー。
早瀬の心は沈んでいた。
それは『倉庫』の存在を知ってしまった日から、慢性的に続いているものだった。
* * *
早瀬が保養所で働くようになったのは、大学一年生の時だ。
大学の夏休み期間中でのアルバイトを探していたところ、この保養所の募集を見つけた。
内容は厨房の皿洗いや洗濯や清掃など、人手が足りなくなった部署を転々とまわって裏方の仕事を手伝う雑用係だ。
入りたての頃は失敗もあったが、基本的に真面目で仕事の覚えも早く人当たりも良い早瀬は、どの部署に行っても仕事ぶりが認められた。
それ以来、大学が長期休みの期間は保養所でアルバイトできるようになり、やがて裏方からフロント係など接客の仕事も割り当てられるようになった。
家族連れで宿泊する会員が夫婦水入らずでゴルフなどを楽しめるように、早瀬が子供達を預かってレジャー施設に連れて行き、遊び相手になることも少なくなかった。
早瀬には年の離れた弟がいて、小さい時から弟や弟の友達と一緒に遊んで面倒を見ていたので、子供と接するのは苦ではなかった。
だから早瀬に遊んでもらった子供達も、チェックアウトする頃までにはすっかり懐いていた。
大変な仕事ではあったが、早瀬はこの仕事に楽しさも感じてきていた。
ただ、この宿泊施設はあまりに広い。
駅と保養所間の行き帰りは従業員用の送迎バスが利用可能だし、近くに寮もあって泊まることもできる。
しかし倶楽部会員が宿泊する客室は一軒ずつ離れているので、例えば別棟から客室へ食事や頼まれた物を届ける場合や、周辺のレジャー施設に移動する場合も車は不可欠だ。
車の免許を取ることを上司から勧められたが、すぐに教習所に通えるほどの金銭的余裕も無かった。
だがある日、上司の方から「君だったら保養所から費用の全額負担が可能だ」と助言され、教習所に通い免許も取得することができた。
しかし早瀬も心苦しい気持ちもあり、「費用は、お給料から少しずつでもお返しします」と上司に申し出たが、「いつも真面目に働いてくれてるから、ボーナスだと思って安心して受け取りなさい」とサラッと受け流された。
車が運転できるようになったことで、任される仕事のレベルも高くなり、時給も上がって給料も増えたので早瀬も助かっていたし、この保養所で働けることに感謝もしていた。
就職活動の時期が近づくと、上司から「話がある」と呼び出された。
上司に連れて行かれた場所は、別棟のエレベーターを上がった最上階だった。
早瀬は、別棟の最上階に来たのは初めてだ。
保養所で働く従業員が着用する制服ではなく、自前のスーツを着た秘書のような女性に応接室へ案内される。
「どうぞこちらへお座りになってお待ち下さい」
女性がそう言って、立ち去る。
重厚感のある黒い革張りのソファーに上司が座る。
「ほら、早瀬君も座りなさい」
女性に言われたものの、明らかに場違いであろうと簡単に座ることもできずにいる早瀬を、上司が手招きして隣に座らせた。
ノックの音がして、先ほどとは別の女性が応接室に入ってきた。
上司と早瀬の前に、お茶と菓子皿を並べて会釈だけして立ち去る。
横を見ると、いつもの接客慣れしたスマートな仕草の上司とは違い、何だかぎこちない動きでお茶を、ズズズーッと飲んでいる。
自分を呼び出した相手を訪ねようと、早瀬が口を開いた。
「あの…」
「ああ、そうだ!」
上司が棒読みの台詞のような声を発し、早瀬の言葉を遮って立ち上がった。
「早瀬君、私はもう仕事に戻らないといけないんだ」
「え?」
一緒に立ち上がろうとする早瀬を、上司が制止する。
「ああ、君はいなきゃ駄目だから。座って待ってなさい」
「あの、でも…」
「すぐにいらっしゃるから」
上司は結局、呼び出した相手の名前も言わずにそそくさと応接室を立ち去った。
「あ…」
仕方なく早瀬は、ソファーに座り直した。
見渡せば作者は全く分からないが、壁には立派な額に入った絵画が飾られ、ショーケースには華やかな飾り香炉や絵皿が陳列されている。
緊張してきた早瀬は喉の乾きを感じ、お茶を飲んだ。
お茶菓子は薄紙に包まれた最中のようだったが、今それに手をつける気にはならなかった。
ーーその早瀬の様子を、応接室に設置された監視カメラを通し、モニターで眺めている二人の男がいた。
「良いんじゃない」
座っている一人の男が、あっさりとした口調で言う。
男の机には、早瀬の写真と資料が拡がっている。
「それでは、彼は『採用』ということで」
もう一人の男は、立ったまま答える。
座っている男が立ち上がり、二人は応接室に向かった。
(続)
宿泊施設区域内の別棟に到着すると、早瀬は地下の駐車場に送迎車を停めた。
そのまま地下の管理室に行き、自分が運転してきた送迎車の鍵を返却する。
早瀬は地下からエレベーターを使って上昇した。降りた階は、主に従業員が利用する場所だった。
夜間勤務の従業員がちらほら座っている食堂の横を通り過ぎ、ロッカールームに入る。そして自分の名前が入ったロッカーを開け、制服を脱いで私服に着替える。
再びエレベーターで地下の駐車場に戻ると、早瀬は整然と並ぶ車の中から、一台の車の鍵を開けた。
それは、倶楽部会員を送迎するための見栄えの良い高級車とは違い、早瀬が安価で買った中古の車だった。
早瀬は肩にかけたショルダーバッグを助手席に置いて、車を走らせる。
制服を着用している時に比べると、私服の早瀬はまだ学生のようにも見える。
流行やお洒落にあまり興味が無い早瀬は、高校生の頃に母親が買ってきた服をずっと着続けている。
今着ているTシャツとジーンズも、母親が選んだ物だ。
自分にはよく判らないけれど、母親は割りとセンスが良いらしい。
家にある物は全部セール品だったり定価も安い物だが、身につけていると周りからは「それ良いね」と声をかけられることがあり、値段を言うと驚かれることもあった。
だがそれも学生時代の、自分と生活レベルに大差がない人達の間だけのことだ。
此処で勤務するようになってからは、ほとんどの時間は制服を着用しているし、休日に友人達と遊びに行くことも滅多に無くなった。
早瀬の父親は小学六年生の時に病気で亡くなった。
その時から母親が働いて、女手一つで自分と弟を育ててくれた。
早瀬自身もアルバイトしていたが、「大学に進学してほしい」との母親からの願いもあり、勉強優先で働ける時間も少なかった。
だが母親も、早瀬が高校二年生の時に病に倒れてしまった。
大学は奨学金を受けられ入学も叶い、何とか卒業もできたが、母親の病気は完治が難しく、ずっと入退院を繰り返している。
それでも以前は、自分の家庭の事情も理解してくれている友人達と飲んで、ただ下らない話をするだけでも楽しかった。
まだ加減も分からない頃は、記憶を無くすくらい飲んでしまうこともあった。そんな時も誰かが面倒を見てくれて、友人の部屋で翌日に目を覚ます。その程度のことだ。
だけど今はその友人達から飲みに誘われても、会うのを躊躇ってしまう。
何故なら今の自分はもう、あの時のように気楽に皆と酒を飲んで、無防備に酔っ払うことはできない。
もしも、うっかり口を滑らしてしまったらーー。
早瀬の心は沈んでいた。
それは『倉庫』の存在を知ってしまった日から、慢性的に続いているものだった。
* * *
早瀬が保養所で働くようになったのは、大学一年生の時だ。
大学の夏休み期間中でのアルバイトを探していたところ、この保養所の募集を見つけた。
内容は厨房の皿洗いや洗濯や清掃など、人手が足りなくなった部署を転々とまわって裏方の仕事を手伝う雑用係だ。
入りたての頃は失敗もあったが、基本的に真面目で仕事の覚えも早く人当たりも良い早瀬は、どの部署に行っても仕事ぶりが認められた。
それ以来、大学が長期休みの期間は保養所でアルバイトできるようになり、やがて裏方からフロント係など接客の仕事も割り当てられるようになった。
家族連れで宿泊する会員が夫婦水入らずでゴルフなどを楽しめるように、早瀬が子供達を預かってレジャー施設に連れて行き、遊び相手になることも少なくなかった。
早瀬には年の離れた弟がいて、小さい時から弟や弟の友達と一緒に遊んで面倒を見ていたので、子供と接するのは苦ではなかった。
だから早瀬に遊んでもらった子供達も、チェックアウトする頃までにはすっかり懐いていた。
大変な仕事ではあったが、早瀬はこの仕事に楽しさも感じてきていた。
ただ、この宿泊施設はあまりに広い。
駅と保養所間の行き帰りは従業員用の送迎バスが利用可能だし、近くに寮もあって泊まることもできる。
しかし倶楽部会員が宿泊する客室は一軒ずつ離れているので、例えば別棟から客室へ食事や頼まれた物を届ける場合や、周辺のレジャー施設に移動する場合も車は不可欠だ。
車の免許を取ることを上司から勧められたが、すぐに教習所に通えるほどの金銭的余裕も無かった。
だがある日、上司の方から「君だったら保養所から費用の全額負担が可能だ」と助言され、教習所に通い免許も取得することができた。
しかし早瀬も心苦しい気持ちもあり、「費用は、お給料から少しずつでもお返しします」と上司に申し出たが、「いつも真面目に働いてくれてるから、ボーナスだと思って安心して受け取りなさい」とサラッと受け流された。
車が運転できるようになったことで、任される仕事のレベルも高くなり、時給も上がって給料も増えたので早瀬も助かっていたし、この保養所で働けることに感謝もしていた。
就職活動の時期が近づくと、上司から「話がある」と呼び出された。
上司に連れて行かれた場所は、別棟のエレベーターを上がった最上階だった。
早瀬は、別棟の最上階に来たのは初めてだ。
保養所で働く従業員が着用する制服ではなく、自前のスーツを着た秘書のような女性に応接室へ案内される。
「どうぞこちらへお座りになってお待ち下さい」
女性がそう言って、立ち去る。
重厚感のある黒い革張りのソファーに上司が座る。
「ほら、早瀬君も座りなさい」
女性に言われたものの、明らかに場違いであろうと簡単に座ることもできずにいる早瀬を、上司が手招きして隣に座らせた。
ノックの音がして、先ほどとは別の女性が応接室に入ってきた。
上司と早瀬の前に、お茶と菓子皿を並べて会釈だけして立ち去る。
横を見ると、いつもの接客慣れしたスマートな仕草の上司とは違い、何だかぎこちない動きでお茶を、ズズズーッと飲んでいる。
自分を呼び出した相手を訪ねようと、早瀬が口を開いた。
「あの…」
「ああ、そうだ!」
上司が棒読みの台詞のような声を発し、早瀬の言葉を遮って立ち上がった。
「早瀬君、私はもう仕事に戻らないといけないんだ」
「え?」
一緒に立ち上がろうとする早瀬を、上司が制止する。
「ああ、君はいなきゃ駄目だから。座って待ってなさい」
「あの、でも…」
「すぐにいらっしゃるから」
上司は結局、呼び出した相手の名前も言わずにそそくさと応接室を立ち去った。
「あ…」
仕方なく早瀬は、ソファーに座り直した。
見渡せば作者は全く分からないが、壁には立派な額に入った絵画が飾られ、ショーケースには華やかな飾り香炉や絵皿が陳列されている。
緊張してきた早瀬は喉の乾きを感じ、お茶を飲んだ。
お茶菓子は薄紙に包まれた最中のようだったが、今それに手をつける気にはならなかった。
ーーその早瀬の様子を、応接室に設置された監視カメラを通し、モニターで眺めている二人の男がいた。
「良いんじゃない」
座っている一人の男が、あっさりとした口調で言う。
男の机には、早瀬の写真と資料が拡がっている。
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