記憶をなくした子守歌

胡花宝 愛芽

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第1章「0(ゼロ)」

一話「少女①」

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 少女は幼いころから独りぼっちだった。

 まだ赤ん坊だった少女は、月が満ちた夜から少しずつ朝陽が差し込み、薄いピンクとブルーが、ぼんやりと混じり合っていく空へと変化していく森の中、犬の散歩者に見つけられた。

 いつもの散歩では聞き分けの良い大型犬が、何かの匂いに惹きつけられたのか、リードを持つ主人を引っ張り、その匂いの元となる場所へと連れて行こうとする。
 強い力に引きずられ、早足で段々と近づいてゆく散歩者の視線の先に、やがて大きな籠のようなものが見えてきた。
 息の切れた散歩者は犬のリードを持つ手を緩めてしまい、その隙に犬は主人から離れ、フサフサした茶色い尻尾を「ブンブン」と振りながら、籠へと駆け寄って行った。
 その籠は、カプセルのような形状で銀色の淡い輝きを放っており、上部についた蓋のようなものが「パッカリ」と、空に向かって開いていた。
 犬はその籠に身を乗り出し、蓋の下に頭を入れて「クンクン」と嗅ぎながら、何か中に在る“モノ”を舐めているようだった。

「また変な粗大ゴミが不法投棄されて…」

 犬が覆い被さっているため、散歩者には中がよく見えない。が、舐めている“モノ”に毒があると不味いと思い、なかなか籠から離れずにいる犬を抱え上げ、なんとか引き剥がす。
   立ち上がると主人の身長と大差無い犬の背中を撫で、落ち着かせながら散歩者は籠の中を覗いた。

「……なんだ、人形か…」

 少しずつ陽の光は森の中に射し込んできていたが、木々の影に阻まれて「ハッキリ」とは、まだ見えない。
 頭と体は白い布のようなものにくるまれ、瞼を閉じた顔だけ見えるその“モノ”は、等身大の赤ん坊の人形だと散歩者は判断した。
 何故なら別荘地のこんな森の中に、まさか生きた赤ん坊が置き去りにされているわけがあるまい、という常識的且つ良識的観念。

 その時、木々の隙間から一筋の明るい光が、人形の顔を照らした。

「ひっ!?」

 すると散歩者は驚きの声をあげ、ヨロヨロと後退る。犬を抱えている重みと、フラついた自分の両足がもつれ、尻餅をつく。
 一瞬、主人の腕から解放された犬が再び、籠へ向かおうとするところを慌てて止める。

「だ、駄目だっ!!…待てっ、待てっっ!!」

 散歩者は四つん這いになり、犬を自分の体重で必死に押さえながら、ジャージの上着ポケットから携帯を取り出す。しかし森の中、電波が届かない。

「…け、警察、…警察」

 しっかりとリードを掴んで立ち上がり、別荘に戻ろうと籠から背中を向ける。
 だが犬は「ワンッワンッ」と吠え始め、いくら両手で力を込めてリードを引っ張っても、籠の方へ行きたがる。そのため綱引き状態になり、なかなか進めない。
 仕方なく散歩者は犬を置いて一旦、自分だけ別荘に戻ることにした。いつもの散歩コースからも少し外れてしまったし、犬がいれば警察を案内する時の目印にもなって探しやすいと考えたからだ。
 犬を繋ぐための、ちょうど良い高さの木の枝を見つけ、その枝にリードを引っ掛ける。だが縛ろうとした瞬間、犬が引っ張ったために枝の根元まで掛けたリードの輪は、「ズルズル」と滑って外れてしまう。散歩者がリードを掴もうとするが間に合わず、またもや犬は籠に駆け寄って身を乗り出している。

「…あぁ、まったくもう…」

 だんだん散歩者も疲弊してきたが、籠まで歩いて行き、両足を踏ん張る。そして犬を抱え上げ、なんとか籠から引き剥がした。が、

「うわぁっ!!」

 散歩者は叫んで、腰を抜かした。しかし、すぐに起き上がると犬を押し退け、今度は自分が籠に身を乗り出し、蓋の中に頭を入れる。
 今まで瞼をピッタリと閉じて、ピクリとも動かず、呼吸する息づかいさえ感じさせなかった籠の中の赤ん坊。その赤ん坊の瞼が、開いている。

「…い、生きてるのか?」

 散歩者は赤ん坊の顔の上に右手を翳して、左右に振りながら反応を確認する。
 だが赤ん坊の瞳は一点を見つめたまま、表情も動かない。
 恐る恐る、赤ん坊の頬に触れてみる。初冬の森の空気に晒されていた頬は冷たく、体温を感じない。
 散歩者は覚悟を決め、身体を裹んでいる布の中に手を入れた。体からは僅かに体温を感じる。赤ん坊の手を探り当てると、その小さな手は弱々しく、散歩者の親指を握った。
 
「何で、こんなところに…」

 初老の散歩者は涙ぐみ、憤りと哀しみ混じりの声を漏らした。

『早く別荘に戻らなければ…。しかし、これは警察より先に救急車を呼ぶべきか?だが生きていると確認した以上、もう森の中に置いては行けない』

 考えを巡らせる散歩者。

『どれくらい前から放置されているのか検討もつかないが、体も動かず表情も無く声を発しないのも、すでに寒さで弱ってきているからではないのか?ならば、一刻も早く温めなくては…』

 カプセル型の籠を、両腕で抱えようと試みる。しかし予想以上の重量があるようで、ビクともしない。

『こうなったら、中身の赤ん坊だけを抱いて帰るしかない。だが、このをどうするか…?』

 犬に目を遣ると、命令もされていないのに行儀良くお座りして、すっかり大人しくなっていた。
 散歩者は、裹まれた布ごと赤ん坊を慎重に抱きかかえる。散歩者には孫もいたため、赤ん坊を抱くのは慣れていた。
 赤ん坊の身元が判別できる物などが無いか、籠の中を覗いて視線を動かす。けれど、赤ん坊に着せられた産着と裹まれた布以外、他に何も見当たらない。

『こんなところに赤ん坊を置き去りにするぐらいじゃ、余計な物は置かないか…』

 散歩者は、抱いた赤ん坊に憐れみの表情を向ける。

「今すぐ帰って、あっためてやるからな」

 散歩者は足元に気をつけながら、急いで別荘へ向かった。リードを持つ余裕は無かったが帰り道、ずっと犬は大人しく、付かず離れずの距離で主人の前を歩いた。
 まるで赤ん坊を気遣うように、何度も何度も、後ろを振り返りながらーー。
 

 別荘に戻ると、すぐに散歩者は救急と警察に連絡した。出迎えた妻も驚いたが、事情を聞くと赤ん坊を受け取り、暖炉そばのソファーに座った。それから赤ん坊を温めるように抱きしめ、体を優しく擦り続けた。
 暖炉の炎で室内は暖かい。徐々に体も温まってきたのか、赤ん坊の瞼が半分ほど開いては閉じ、眠そうに「パチパチ」と瞬きを繰り返している。
 散歩者が赤ん坊を抱いていた時は気が動転していたし、まだ空も明るくなかったため気づかなかったが、妻は気づいた。澄んだ淡い青色の瞳に。

「まぁ…綺麗な瞳ねぇ。こんなに可愛らしい顔なのに、可哀想に…」


 程なくして救急車が到着し、赤ん坊は病院に運ばれ、暫く入院することとなった。
 赤ん坊は老夫婦が心配していたほど、衰弱はしていなかった。与えられたミルクを充分に飲み、体の回復も早かった。

 ーーが、他の赤ん坊とは少し違っていた。

 病院に運ばれて何日か経っていたが、その赤ん坊の声を聞いた者が一人もいなかった。
 例え声を発することができなくても、赤ん坊なら泣いたり笑ったり豊かに表情を動かすだろう。けれども、その赤ん坊は泣くことも笑うこともなかった。

 ずっと、無表情だった。

 検査をした結果、目と耳の機能には問題が無いようだった。脳や喉も異常は確認できず、表情が無いことや声を発しない原因は不明だった。
 それを聞いた老夫婦は赤ん坊を不憫に思い、別荘に滞在する間の予定を返上して毎日、病院へ通い赤ん坊に会いに行った。
 警察には赤ん坊を発見した経緯を説明し、カプセル型の籠が置いてある場所へと案内した。

 ーーはずだったが、それは忽然と消えていた。籠があったであろう一帯も探したが、見つけることはできなかった。

 赤ん坊が身に着けていたものに、身元の手掛かりは無かった。
 赤ん坊の名前も、誕生日さえも判らなかった。

 暫くして赤ん坊は、施設へ引き取られることになった。
 赤ん坊が施設に移送される日、老夫婦は涙ながらに見送った。

「この赤ん坊が幸せになれるように、希望のある明るい未来が待っているように」と、祈りながらーーー。



 ーーーだが、その赤ん坊を受け入れた施設に、まともな愛情を与える大人は一人もいなかった。




(続)
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