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1巻
1-2
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松代を家の奥へと誘導しながらも、仁那の背中は、数歩後ろを歩く男の気配を感じようとして敏感になっている。ふと。
『行動するときは人の目を意識して。すると、またたく間に美しくなるよ』
そんな、番組のプロデューサーの言葉を思い出す。
垢抜けなかったタレントがしばらくすると、芋虫が蝶に変態するように綺麗になっていく現象について、そう教えてくれた。
当時の仁那にはわからなかったが、今ようやく理解した。
――わたしは猛烈に彼の視線を意識しまくっている。……残念なことに、緊張しすぎて、右手と右足が一緒に出ていたが。
息をするのもはばかられて、というより今までどうやって呼吸をしていたのかもわからない。
意識しすぎるあまり走り出そうかと考えたとき、『廊下は走るな』との張り紙が目についた。
誰だ、こんな標語を廊下の壁に貼ったのはっ! わたしだ!
セルフツッコミをしながら、仁那はギクシャク歩く。
ようやく目的地に着いたときには、八時間くらいぶっ通しで労働したような気分だった。
思いきり深呼吸しようと口を開けた瞬間、後ろで息を呑んだ気配がある。
「……これは、……見事ですね」
遅れて松代の感嘆の声が聞こえてきた。
亡き祖母自慢の桜達である。
七分咲きくらいの山桜の古木を中心に、まだ蕾のソメイヨシノや八重桜が美しく枝を拡げている。
中でも山桜は、道行く人が塀越しに写真や動画を撮るほど、近所では有名な樹だった。
青空を背に、薄く色づいた花びらが舞い落ちる。
木全体が花嫁のヴェールのようにかすみ、風に吹かれてはそよぐ。
花びら一枚一枚に太陽の光が当たって、ここぞとばかりに命を燃やしているように見えた。
「祖母が……先代の師範が、教室を開くにあたり『綺麗なものを見て心が洗われれば、書に入りやすいだろう』と、この部屋を使うことにしたそうです」
説明する声が、つい弾む。
教室は墨を混ぜ込んだ漆喰の壁と枯草色の琉球畳が敷かれただけの、二十畳ほどの部屋だ。
庭に目がいくように、あえて室内はシンプルにしている。静謐さと落ち着きがありながら、開放感もある。
松代が桜から目を離さないまま、呟く。
「迷い込んだ深山の中で桜を独り占めしているような錯覚を抱きますね」
「そう! そうなんです」
「茶を点てたり、和楽器をメインにした演奏会にもいいですね」
松代の言葉が仁那は意外だった。
服装のセンスがいいから、彼は美意識が高いんだろうなとは思った。しかし彫りの深い容貌から、趣味はと訊かれたら洋風な音楽やスポーツを並べそうだと想像していた。
彼の着眼点が、自分の考えていることと同じだったのが嬉しい。
祖母宅のよさを知ってもらうためにゆくゆくはミニ演奏会などを催したいと思っていた仁那は、一気にこの人物に好感を抱いた。
彼女はニコッと笑う。
「手前味噌になりますが、催し物映えする場所だと思っています」
そんな仁那を見て、松代がふ……と微笑んだ。
お互いに緊張がほぐれたところで、仁那はうっかり訊ねてしまう。
「あの、もしかしたら松代さん、高校は東第一高等学校ですか?」
そう質問した途端、松代の表情にかすかな警戒の色が浮かんだのを、彼女は見逃していた。
「……そうです」
――やっぱり、この人が『シロさん』だった。仁那は内心呟く。
舞い上がった彼女は『他人に踏み込みすぎない』という自分ルールを忘れた。
「和登から聞いてはおりませんが、松代さんは『文房四宝』から紹介されたのでしょうか?」
硯・墨・筆・紙。音でしかない記号を、文字として世界に留めておくための道具を『文房四宝』と呼ぶ。
仁那の兄、和登が継ぐ店の屋号でもあった。
「いえ」
「では和登個人からですね!」
彼女は弾んだ声を出す。
「クロは俺の親友です」
――そうでしょうとも!
知らないなどと言われたら、仁那はがっかりしてしまっただろう。
「お噂はかねがね、和登がお世話になっています」
仁那は頭をぺこりと下げながら、ワクワクしていた。
彼は兄のことを『クロ』と呼んでいるのか。
松代の『シロ』、袋田の『クロ』。それでいけば、自分も『クロ』だ。
嬉しくなる。自分も交ぜてほしい。
仁那ははしゃいで言葉を続けた。
「……あの、松代さんのことは『シロ』と呼んでいるのだと、和登から――」
「申し訳ないが。あなたが奴の恋人でない限り、初対面の方から愛称で呼ばれたくはありません」
ぴしゃりと言われて、ようやく男に親しげな様子がまったくないことに気がつく。
仁那はびくりとして、松代を見つめた。
男も彼女をじっと睨んだまま、一言も発しない。
しまった。初対面の相手に対して距離感を間違えた。
どうしよう、謝らなければ。しかし、なんと言えばいいのだろう。
必死に考えているうちに、仁那は無意識に松代から視線を外していたらしい。
「仁翔先生」
声をかけられて、初めて自分が視線を泳がせていたことに気がつく。
慌てて彼を見ると、仁那の動きに合わせて松代が表情筋を緩めた。はっきり、ビジネス用だとわかる笑みを向けられている。……逆鱗に触れたと思ったときよりも心が冷えた。
「すみません、奴と俺だけの特別なあだ名なんです」
柔らかい、それでも拒絶の言葉。痛い空気の中、なんとか仁那も持ち直す。
「……そうなんですね、申し訳ありませんでした。あの、和登は恋人ではないんです、わたしの――」
双子の兄なんです、と言う前に、松代がさりげなく言葉を挟んでくる。
「その代わりに、あなたには『武臣』と呼んでいただきたいな」
「え?」
仁那が訊き返すと、彼は悪戯っ子のように目を煌めかせた。
男の豹変ぶりに仁那が戸惑っているのを、松代は気にした様子もない。
持参したブリーフケースから、出力してきたらしい用紙を取り出す。
……プライベートなことは話したくないらしい。もしかしたら、和登が松代の情報を漏洩しなかったのは、この男性の気質を汲んだのかもしれない。
で、あれば。彼に合わせようと心に決める。
彼は兄の親友である前に、自分の生徒になるかもしれない人だ。いわば、取引先である。
仁那が仕事モードになったことを察したのか、松代は用紙の必要と思われる箇所を指しながら話しはじめる。
苛烈だった反応が嘘のように穏やかだ。
「こちらの教室のホームページを確認したら、大人向けカリキュラムには、ペン習字コースや記帳コースもありましたね」
「はい」
「どれも魅力的なのですが、急ぎなので、社用で使う揮毫だけを練習したいです」
普通に話してくれる彼に合わせ、ビジネスライクな声を出すよう、努力する。
「わかりました。練習したい題目がありましたら、持ってきてください。週に一回二時間。月四回で一万円のコースとなります」
紙のサイズが異なれば同じ文字でも、大きさの配分が違ってくる。
松代が言う通り、実際に使うサイズで早めに慣れたほうがいいだろう。
「お願いします」
松代が頭を下げる。用紙を見ながら彼はあらためて希望を述べた。
「それと、花押を」
……彼の家は政治家なのだろうか?
他に書道や花押が必要な職業を、仁那はすぐには思いつけない。
質問してみたいが大人には色々な事情があるし、また失敗して世界ごと閉ざすような態度をとられたくもない。我慢して、事務的な話を続ける。
「花押については、わたしのほうでデザインのアドバイスや書き順のレクチャー、完成したデザインの登録まで可能なんですけれど……別料金になります」
「ホームページで確認してあります。承知しています」
申し訳なさそうな彼女の言葉に、松代はしっかりとうなずいた。
「花押に用いるのは大体、名字や名前から一字です。あるいは好きな字を使えますので、授業に入る前に考えておいてください」
ほっとして、仁那は続けて説明する。
「次はお道具ですね。こちらが初心者用のセットになります」
仁那はストック棚から新品の道具セットを取り出し、正座した大人の膝がぶつからないくらいの高さの文机も設置する。
松代は、目の前に出された道具をじっと見つめていた。
なにか好みがあるか、と確認すると松代は首を横に振り、勢い込んで訊ねてくる。
「このセット、いくらですか?」
仁那が値段を告げると松代は目を瞠った。
「そんなに安いんですか?」
予想外に驚かれたので、仁那は笑ってしまう。
「これ、教材ですし」
「でも、クロの店で売ってるのはもっと高いです」
松代は、あまりの安さに信じられないようだ。店の商品を引き合いに出されて、仁那は納得する。
「シ……松代さんは、『文房四宝』にいらしたことがあるんですね」
なにげなく呟いたのだが、松代の目が再び剣呑になる。
これも地雷らしく、仁那は戸惑った。今のは普通の対応の範疇だったと思うのだが。
「あの……?」
「魅惑的な女性から他の男の話を聞くと、ヤキモチを焼いてしまうんですよ」
「まあ」
仁那は男の言動が儀礼的なものであるとわかっているので、曖昧な笑みを浮かべた。
松代という男は見た目より軽い人物かもしれない。
そう心に留めながら、平静を心がけて話す。
「あの店は初心者向けというよりは、深い趣味にしたい人とか、道を極めたい人向けです。どの世界でも、ハマれば際限はないですから」
「なるほど」
今度ばかりは松代も穏やかに同意してくれた。
「申し込みフォーマットには、習いたい理由として『仕事で使うため』と記入されていましたが、実際にはどれくらいの大きさの用紙に書かれるんですか?」
彼女の問いに、松代はしばらく考えたのちに、これくらいと両手を広げてみせた。
「……聯落で大丈夫そうですね」
仁那は紙を置いてある棚から、一番大きな紙を四分の三サイズにカットしたものを取り出し、松代に提示した。
「そう、こんな大きさです!」
松代が目を輝かせる。
続いて仁那は、別のストック棚から、一際大きな下敷きを取り出して広げた。
「初心者用セットの下敷きは、半紙用がデフォルトなので交換できません。申し訳ないですが、全紙用の下敷きと紙代は別料金になります」
松代はうなずいた。
「セットの筆は、兼毫で中鋒を選んであります」
これは中くらいのサイズの筆なので、松代が書きたいものによっては大筆を別途購入してもらう必要がある。
しかし、己の名前を書くときにも使えるので無駄にはならない。
「……ケンゴウ? チュウホウ?」
仁那の言葉を、松代がロボットのように繰り返す。
「筆の硬さと長さです。兼毫は兼毛とも言って、色々な動物の毛をミックスしてあります。硬くもなく柔らかくもない、中くらいです。長さも中くらい、というのが中鋒です」
松代は納得したようで、こくりとうなずいた。
その姿が初めて習う小学生達とあまりに同じなので、仁那は噴き出しそうになる。
いけない、今笑ったら松代は拗ねてしまうどころか、ここで学ぶことすらやめてしまうかもしれない。
――イヤダ。
この人が自分でない誰かから書を学ぶのも、彼がいなくなってしまうのも耐えられない。……瞬時にそこまで考えてしまった自分に驚きながら、彼女はなんとか澄まし顔と口調をキープする。
「では、見学記念に墨をすってみませんか?」
仁那が言うと、松代が固まった。また、NGワードでもあったのだろうか。
――シロさぁん、なんでもかんでも引っかかるのやめてください、進まないんですけど!
仁那は泣き言を言いたくなった。
けれど、男が自然解凍するまで待っているわけにもいかない。
「あの……?」
遠慮がちに声をかけると、彼は逡巡し、ようやく意を決したように言った。
「墨汁ではないんですね?」
「わたしの教室では、墨をするところから始めます」
凛とした答えを受けて、松代は諦めの表情になる。
「……わかりました」
少しばかり力を失った声だったので、意地悪した気分になってしまう。
仁那は気弱になって、主義を変えて松代以降は墨汁OKにしたほうがいいかもしれないと思いはじめた。
けれど松代が書くとき、いつも墨汁が用意されているとは限らない。
やはり、仁那のカリキュラムに早めに慣れてもらったほうがいい。
気を取り直して、松代が買うのと同じ初心者セットから筆と硯、筆置きに水差し、固形墨を取り出す。
彼が右利きか左利きか聞いて、文机に配置した。その間、松代は仁那の手元から目を離さない。
――じっと見ないでぇぇぇ!
またしても仁那は心の中で悲鳴をあげた。
松代から注がれている視線で手に穴が開くんじゃないかと思うし、体は熱くなっている。
作務衣の背中に汗染みができていたらどうしよう! と、今度は冷や汗が噴き出してくる。
暗色系は濡れると意外と目立つ。今度から授業用も白いのにしようかな、と考えるが、そもそも暗色系を着ている理由を思い出し、慌てて打ち消した。
松代に指示して、墨堂に水差しから五百円玉大の水を入れてもらっているあたりから、仁那は平常心を取り戻してきた。
緊張の面持ちで固形墨を持った松代に、穏やかに声をかける。
「円を描くように。一ヶ所だけすると硯がすり減るので、まんべんなく。墨を支える指にはあまり力を入れず、優しく」
男が彼女の指示通りに手を動かすと、みるみるうちに水が墨汁になっていく。
「……おお! 墨色になりますね」
先ほどとは打って変わって松代が興奮した声をあげた。
子供らと同じ反応に、仁那はますます落ち着いてくる。
「墨をするところ……墨堂に、こまかな凹凸……鋒鋩ってものがあるんですけど。そこの具合がいいと、いい色にすれるんです。……書家はそういう状態を『墨がおりる』と言います」
「小学校のときは、こんなに楽じゃなかった」
大の男が拗ねたような口ぶりだった。
こっそり見ると、ふくれっ面である。きゅううううん、と仁那の胸のあたりで音がした気がする。可愛い。よしよしと、頭を撫でたいくらいだ。
……同い年の男をつかまえて、こんな感想もどうかと思うが。
「それは」
仁那はくすりと笑ってしまう。
「硯よりは、すり手側の問題ですね」
「……というと?」
「墨の角度は垂直よりは少し寝かせて」
ごく自然に墨を持つ彼の手に自分の手を添えてしまってから、びくりとした。
が、慌てて引き剥がすのも変なので、このまま続ける。
「ええと」
仁那は話を戻しながら、声が震えていませんようにと祈る。
「海……墨池とも言いますけれど、そこに水をどばっと入れませんでした?」
硯の、一段深くなっているところを指す。
「入れました」
聞けば、自信たっぷりに返事がある。正解と信じて揺るがない、松代の表情。
おかしさをこらえて、仁那はさらに訊ねた。
「そこから水を墨で、墨堂――陸とも言うんですけど――に持ってきて、ゴリゴリとすり鉢とすりこ木のように擦りませんでした?」
「……しました」
あれ、間違ってた? と不安げになってきた松代に、仁那はダメ押ししてみた。
「さらには、なかなか色がつかないから焦れて、海の中で墨をこねくり回したりとか」
彼女が頭の中の風景を言葉にすると、松代は見事に肩を落とした。
きりりとした大人がしょげているのが可哀想で、つい、励ましてしまう。
「みんなするんですよ。もちろん、わたしもしました」
「先生も?」
「はい」
「それを聞いて、ほっとしました」
安心した、という笑みに見惚れそうになり、仁那は息を吸って気持ちを整える。
ちらりと時計を見ると、結構時間が経っていた。申し込むか否かを確認しておしまいにしよう、と考える。
「仁翔先生。お近づきのしるしに食事でもいかがでしょうか」
唐突に、松代が人を魅了する笑みを浮かべて誘ってきた。
「え?」
彼女はすぐには反応できない。
嬉しいが、どうして自分なんかを誘うのだろう。
……多分帰国したばかりで、日本にデートする相手がいないからだ、と思いつく。
要は仁那だから誘ったのではなく、誰でもいいのだ。
ひどい、サイテー。自分でイケメンなことをわかっているチャラ男!
落胆した自分を誤魔化すよう、松代を軽蔑してみたが。……むしろ彼がそういうタイプでなければ、自分が食事に誘われることはなかったのだ、と思い直す。
人生でたった一度の時間を楽しめばいい。
「今日と明日、仁翔先生はお休みだったと確認しています」
グラリとかしいだところに畳みかけられた。
「あの」
どうしてわたしの休みを知っているんですか。それは訊いても許される? ……まさか、彼はわたしのストーカー? いやん、嬉しい。
そう舞い上がりかけ、ホームページにばっちり載せてあるのを思い出した。ガッカリする。
「休日だったのを俺のために使ってくださってるんですよね。だったら俺がこのままあなたを借り切っても問題ありませんね?」
松代がよどみなく話し続けるので、仁那は異議を差し挟むことができない。
一歩下がれば、距離を詰められる。彼の虹彩がどんどん大きくなっていく。
松代が甘く、それでいて誠実な眼差しで仁那の瞳を覗き込んできた。
目の前の男は押しが強いが、初恋フィルターのせいで、素敵でカッコいい男性としか思えない。……我ながら、どれだけ男性に免疫がないのだろう。
しかし、美形男子は幼い頃から和登で、最近ではTVスタジオでも見慣れているではないか。
松代に意識を持っていかれないよう、仁那は必死に他のイケメンのことを考える。
……考えて、わかってしまった。タレントらは松代のようにぐいぐい踏み込んでこない。
なによりも袋田仁那、自分自身が松代を警戒していないのが一番まずい。
なぜ男嫌いの自分が、彼だけは心の中に招き入れてしまっているのか。
疑問と同時に解答が浮かぶ。松代だからだ。
他ならぬ仁那自身が、彼を兄と同じくらい近しい男性と認識しているからだ。
わかってしまえば、あとは危機感が募るだけ。
お願いだから近づかないで。
あなたに近づかれると、わたしはパニックのあまり暴走してしまうから!
仁那が必死に願うも、じわじわと彼の双眸が彼女の意識を占めていく。
だめだ、松代さんの瞳を覗き込みたくない。わたしを見る目つきに意味があるのかないのか、知りたくない……!
まぶたを閉じるとより危険な気もしたが、仁那はしっかりと目を瞑ってしまった。
耳も塞ごうかと考えたところで、松代が気になる言葉を告げた。
「書道を習うことには、俺のこれからの人生がかかってるんです」
……まぶたを薄く開けて、松代を見る。
仁那の感情の揺れなど気にしていないようで、彼女の手を握ってきそうな熱っぽさである。
――そんな大袈裟な。
芝居がかっているなぁと思わないでもない。
「いわば、書道教室選びが俺の命運を握ってると言っていい」
彼がなにを言っているのか、仁那は理解できない。
自分が、松代の作り物のように美しい唇の動きに見入っているのがわかる。
けれど目を逸らせない。……松代が、勝利を確信しているんだろうな、とも考える。
「ビジネスでは顧客に請負業者を見極める権利がある。仁翔先生にとって、俺がクライアントで間違いないですね?」
仁那は、男の魔力に屈しつつあった。
「はい……」
「決まり」
強引に立たせられ、肩を抱かれる。
男の手の熱さが、彼女を現実に引き戻した。
「あのっ、困ります、わたし……っ!」
「入会前ですし、賄賂などと思わず」
「一人の生徒さんを特別扱いできませんし、世間の目がありますので!」
本音は行きたい。
が、松代は通り過ぎる者で、仁那は留まる者だ。ご近所の方々が仁那を見る目は、好奇心半分と非難半分になるに違いない。
仁那の反論に、松代は優雅に肩を竦めた。
……他者が行えば胡乱な目で見ること確実なのに。
悔しいが、松代だとかっこいいと絶賛してしまう自分がいる。
この人、絶対自分の魅力をわかってる! サマになりすぎて、いっそ腹立たしい。
「オフの日に誰と出かけようが、仁翔先生の勝手だ。なのにあなたは頑なすぎる。そうやって、今まで色々なことを諦めてきたのかな」
独り言めいているが、仁那への問いかけである。
ぎくり。彼女は体を強張らせた。
この人はいったい何者なんだろう。
会って間もないというのに、どうしてわたしのことがわかるの?
仁那の警戒心が一気にMAXになる。
和登から自分のことを聞いていた?
だとしたら、共通の話題である兄についてあんなに拒絶した態度はとらないだろう。
……松代はあからさまに和登のことを語り合いたがらない。
そのくせ、仁那にはぐいぐいと攻め込んでくる。
ふと、怖いことを思いついた。
仁那が紫藤瑞葉だと知ったうえで自分に話を合わせているだけだとしたら?
ぞわぞわと鳥肌が立つ。
……以前、「仕事で使うので」との理由で、個人授業を申し込んできた成人男性がいた。
平日の昼下がりで油断もあったのだろう、教室へ案内しているときにガバリと後ろから抱きつかれた。そのときはたまたま和登が祖母宅の庭仕事を手伝ってくれていたので、ことなきを得た。
以来、成人男性の個人授業は行わないようにして、どうしてものときは和登に立ち会ってもらっている。
……なのに、『シロ』と同姓同名というだけで浮かれてしまい、和登に連絡もしないまま男を招き入れてしまった。
仁那は自分の馬鹿さ加減にようやく気づいた。
見ず知らずの男性と二人きりであることに恐怖心が湧いてくる。
「ねえ、仁翔先生」
いきなり耳元に唇を寄せられた。
びくん! この男は気配を殺しすぎる。怖くて顔を見ることができない。
「あなたのなりたいものはなに?」
松代が熱く、掠れた声を出す。
「人生の勝者だろう? ……俺もそうだよ」
男の声が、仁那の耳をなぶる。耳が歓ぶ。
背筋にざわっとしたものが走り、脳が侵されていく。
催眠術をかけられるときはこんな感覚だろうか。
『行動するときは人の目を意識して。すると、またたく間に美しくなるよ』
そんな、番組のプロデューサーの言葉を思い出す。
垢抜けなかったタレントがしばらくすると、芋虫が蝶に変態するように綺麗になっていく現象について、そう教えてくれた。
当時の仁那にはわからなかったが、今ようやく理解した。
――わたしは猛烈に彼の視線を意識しまくっている。……残念なことに、緊張しすぎて、右手と右足が一緒に出ていたが。
息をするのもはばかられて、というより今までどうやって呼吸をしていたのかもわからない。
意識しすぎるあまり走り出そうかと考えたとき、『廊下は走るな』との張り紙が目についた。
誰だ、こんな標語を廊下の壁に貼ったのはっ! わたしだ!
セルフツッコミをしながら、仁那はギクシャク歩く。
ようやく目的地に着いたときには、八時間くらいぶっ通しで労働したような気分だった。
思いきり深呼吸しようと口を開けた瞬間、後ろで息を呑んだ気配がある。
「……これは、……見事ですね」
遅れて松代の感嘆の声が聞こえてきた。
亡き祖母自慢の桜達である。
七分咲きくらいの山桜の古木を中心に、まだ蕾のソメイヨシノや八重桜が美しく枝を拡げている。
中でも山桜は、道行く人が塀越しに写真や動画を撮るほど、近所では有名な樹だった。
青空を背に、薄く色づいた花びらが舞い落ちる。
木全体が花嫁のヴェールのようにかすみ、風に吹かれてはそよぐ。
花びら一枚一枚に太陽の光が当たって、ここぞとばかりに命を燃やしているように見えた。
「祖母が……先代の師範が、教室を開くにあたり『綺麗なものを見て心が洗われれば、書に入りやすいだろう』と、この部屋を使うことにしたそうです」
説明する声が、つい弾む。
教室は墨を混ぜ込んだ漆喰の壁と枯草色の琉球畳が敷かれただけの、二十畳ほどの部屋だ。
庭に目がいくように、あえて室内はシンプルにしている。静謐さと落ち着きがありながら、開放感もある。
松代が桜から目を離さないまま、呟く。
「迷い込んだ深山の中で桜を独り占めしているような錯覚を抱きますね」
「そう! そうなんです」
「茶を点てたり、和楽器をメインにした演奏会にもいいですね」
松代の言葉が仁那は意外だった。
服装のセンスがいいから、彼は美意識が高いんだろうなとは思った。しかし彫りの深い容貌から、趣味はと訊かれたら洋風な音楽やスポーツを並べそうだと想像していた。
彼の着眼点が、自分の考えていることと同じだったのが嬉しい。
祖母宅のよさを知ってもらうためにゆくゆくはミニ演奏会などを催したいと思っていた仁那は、一気にこの人物に好感を抱いた。
彼女はニコッと笑う。
「手前味噌になりますが、催し物映えする場所だと思っています」
そんな仁那を見て、松代がふ……と微笑んだ。
お互いに緊張がほぐれたところで、仁那はうっかり訊ねてしまう。
「あの、もしかしたら松代さん、高校は東第一高等学校ですか?」
そう質問した途端、松代の表情にかすかな警戒の色が浮かんだのを、彼女は見逃していた。
「……そうです」
――やっぱり、この人が『シロさん』だった。仁那は内心呟く。
舞い上がった彼女は『他人に踏み込みすぎない』という自分ルールを忘れた。
「和登から聞いてはおりませんが、松代さんは『文房四宝』から紹介されたのでしょうか?」
硯・墨・筆・紙。音でしかない記号を、文字として世界に留めておくための道具を『文房四宝』と呼ぶ。
仁那の兄、和登が継ぐ店の屋号でもあった。
「いえ」
「では和登個人からですね!」
彼女は弾んだ声を出す。
「クロは俺の親友です」
――そうでしょうとも!
知らないなどと言われたら、仁那はがっかりしてしまっただろう。
「お噂はかねがね、和登がお世話になっています」
仁那は頭をぺこりと下げながら、ワクワクしていた。
彼は兄のことを『クロ』と呼んでいるのか。
松代の『シロ』、袋田の『クロ』。それでいけば、自分も『クロ』だ。
嬉しくなる。自分も交ぜてほしい。
仁那ははしゃいで言葉を続けた。
「……あの、松代さんのことは『シロ』と呼んでいるのだと、和登から――」
「申し訳ないが。あなたが奴の恋人でない限り、初対面の方から愛称で呼ばれたくはありません」
ぴしゃりと言われて、ようやく男に親しげな様子がまったくないことに気がつく。
仁那はびくりとして、松代を見つめた。
男も彼女をじっと睨んだまま、一言も発しない。
しまった。初対面の相手に対して距離感を間違えた。
どうしよう、謝らなければ。しかし、なんと言えばいいのだろう。
必死に考えているうちに、仁那は無意識に松代から視線を外していたらしい。
「仁翔先生」
声をかけられて、初めて自分が視線を泳がせていたことに気がつく。
慌てて彼を見ると、仁那の動きに合わせて松代が表情筋を緩めた。はっきり、ビジネス用だとわかる笑みを向けられている。……逆鱗に触れたと思ったときよりも心が冷えた。
「すみません、奴と俺だけの特別なあだ名なんです」
柔らかい、それでも拒絶の言葉。痛い空気の中、なんとか仁那も持ち直す。
「……そうなんですね、申し訳ありませんでした。あの、和登は恋人ではないんです、わたしの――」
双子の兄なんです、と言う前に、松代がさりげなく言葉を挟んでくる。
「その代わりに、あなたには『武臣』と呼んでいただきたいな」
「え?」
仁那が訊き返すと、彼は悪戯っ子のように目を煌めかせた。
男の豹変ぶりに仁那が戸惑っているのを、松代は気にした様子もない。
持参したブリーフケースから、出力してきたらしい用紙を取り出す。
……プライベートなことは話したくないらしい。もしかしたら、和登が松代の情報を漏洩しなかったのは、この男性の気質を汲んだのかもしれない。
で、あれば。彼に合わせようと心に決める。
彼は兄の親友である前に、自分の生徒になるかもしれない人だ。いわば、取引先である。
仁那が仕事モードになったことを察したのか、松代は用紙の必要と思われる箇所を指しながら話しはじめる。
苛烈だった反応が嘘のように穏やかだ。
「こちらの教室のホームページを確認したら、大人向けカリキュラムには、ペン習字コースや記帳コースもありましたね」
「はい」
「どれも魅力的なのですが、急ぎなので、社用で使う揮毫だけを練習したいです」
普通に話してくれる彼に合わせ、ビジネスライクな声を出すよう、努力する。
「わかりました。練習したい題目がありましたら、持ってきてください。週に一回二時間。月四回で一万円のコースとなります」
紙のサイズが異なれば同じ文字でも、大きさの配分が違ってくる。
松代が言う通り、実際に使うサイズで早めに慣れたほうがいいだろう。
「お願いします」
松代が頭を下げる。用紙を見ながら彼はあらためて希望を述べた。
「それと、花押を」
……彼の家は政治家なのだろうか?
他に書道や花押が必要な職業を、仁那はすぐには思いつけない。
質問してみたいが大人には色々な事情があるし、また失敗して世界ごと閉ざすような態度をとられたくもない。我慢して、事務的な話を続ける。
「花押については、わたしのほうでデザインのアドバイスや書き順のレクチャー、完成したデザインの登録まで可能なんですけれど……別料金になります」
「ホームページで確認してあります。承知しています」
申し訳なさそうな彼女の言葉に、松代はしっかりとうなずいた。
「花押に用いるのは大体、名字や名前から一字です。あるいは好きな字を使えますので、授業に入る前に考えておいてください」
ほっとして、仁那は続けて説明する。
「次はお道具ですね。こちらが初心者用のセットになります」
仁那はストック棚から新品の道具セットを取り出し、正座した大人の膝がぶつからないくらいの高さの文机も設置する。
松代は、目の前に出された道具をじっと見つめていた。
なにか好みがあるか、と確認すると松代は首を横に振り、勢い込んで訊ねてくる。
「このセット、いくらですか?」
仁那が値段を告げると松代は目を瞠った。
「そんなに安いんですか?」
予想外に驚かれたので、仁那は笑ってしまう。
「これ、教材ですし」
「でも、クロの店で売ってるのはもっと高いです」
松代は、あまりの安さに信じられないようだ。店の商品を引き合いに出されて、仁那は納得する。
「シ……松代さんは、『文房四宝』にいらしたことがあるんですね」
なにげなく呟いたのだが、松代の目が再び剣呑になる。
これも地雷らしく、仁那は戸惑った。今のは普通の対応の範疇だったと思うのだが。
「あの……?」
「魅惑的な女性から他の男の話を聞くと、ヤキモチを焼いてしまうんですよ」
「まあ」
仁那は男の言動が儀礼的なものであるとわかっているので、曖昧な笑みを浮かべた。
松代という男は見た目より軽い人物かもしれない。
そう心に留めながら、平静を心がけて話す。
「あの店は初心者向けというよりは、深い趣味にしたい人とか、道を極めたい人向けです。どの世界でも、ハマれば際限はないですから」
「なるほど」
今度ばかりは松代も穏やかに同意してくれた。
「申し込みフォーマットには、習いたい理由として『仕事で使うため』と記入されていましたが、実際にはどれくらいの大きさの用紙に書かれるんですか?」
彼女の問いに、松代はしばらく考えたのちに、これくらいと両手を広げてみせた。
「……聯落で大丈夫そうですね」
仁那は紙を置いてある棚から、一番大きな紙を四分の三サイズにカットしたものを取り出し、松代に提示した。
「そう、こんな大きさです!」
松代が目を輝かせる。
続いて仁那は、別のストック棚から、一際大きな下敷きを取り出して広げた。
「初心者用セットの下敷きは、半紙用がデフォルトなので交換できません。申し訳ないですが、全紙用の下敷きと紙代は別料金になります」
松代はうなずいた。
「セットの筆は、兼毫で中鋒を選んであります」
これは中くらいのサイズの筆なので、松代が書きたいものによっては大筆を別途購入してもらう必要がある。
しかし、己の名前を書くときにも使えるので無駄にはならない。
「……ケンゴウ? チュウホウ?」
仁那の言葉を、松代がロボットのように繰り返す。
「筆の硬さと長さです。兼毫は兼毛とも言って、色々な動物の毛をミックスしてあります。硬くもなく柔らかくもない、中くらいです。長さも中くらい、というのが中鋒です」
松代は納得したようで、こくりとうなずいた。
その姿が初めて習う小学生達とあまりに同じなので、仁那は噴き出しそうになる。
いけない、今笑ったら松代は拗ねてしまうどころか、ここで学ぶことすらやめてしまうかもしれない。
――イヤダ。
この人が自分でない誰かから書を学ぶのも、彼がいなくなってしまうのも耐えられない。……瞬時にそこまで考えてしまった自分に驚きながら、彼女はなんとか澄まし顔と口調をキープする。
「では、見学記念に墨をすってみませんか?」
仁那が言うと、松代が固まった。また、NGワードでもあったのだろうか。
――シロさぁん、なんでもかんでも引っかかるのやめてください、進まないんですけど!
仁那は泣き言を言いたくなった。
けれど、男が自然解凍するまで待っているわけにもいかない。
「あの……?」
遠慮がちに声をかけると、彼は逡巡し、ようやく意を決したように言った。
「墨汁ではないんですね?」
「わたしの教室では、墨をするところから始めます」
凛とした答えを受けて、松代は諦めの表情になる。
「……わかりました」
少しばかり力を失った声だったので、意地悪した気分になってしまう。
仁那は気弱になって、主義を変えて松代以降は墨汁OKにしたほうがいいかもしれないと思いはじめた。
けれど松代が書くとき、いつも墨汁が用意されているとは限らない。
やはり、仁那のカリキュラムに早めに慣れてもらったほうがいい。
気を取り直して、松代が買うのと同じ初心者セットから筆と硯、筆置きに水差し、固形墨を取り出す。
彼が右利きか左利きか聞いて、文机に配置した。その間、松代は仁那の手元から目を離さない。
――じっと見ないでぇぇぇ!
またしても仁那は心の中で悲鳴をあげた。
松代から注がれている視線で手に穴が開くんじゃないかと思うし、体は熱くなっている。
作務衣の背中に汗染みができていたらどうしよう! と、今度は冷や汗が噴き出してくる。
暗色系は濡れると意外と目立つ。今度から授業用も白いのにしようかな、と考えるが、そもそも暗色系を着ている理由を思い出し、慌てて打ち消した。
松代に指示して、墨堂に水差しから五百円玉大の水を入れてもらっているあたりから、仁那は平常心を取り戻してきた。
緊張の面持ちで固形墨を持った松代に、穏やかに声をかける。
「円を描くように。一ヶ所だけすると硯がすり減るので、まんべんなく。墨を支える指にはあまり力を入れず、優しく」
男が彼女の指示通りに手を動かすと、みるみるうちに水が墨汁になっていく。
「……おお! 墨色になりますね」
先ほどとは打って変わって松代が興奮した声をあげた。
子供らと同じ反応に、仁那はますます落ち着いてくる。
「墨をするところ……墨堂に、こまかな凹凸……鋒鋩ってものがあるんですけど。そこの具合がいいと、いい色にすれるんです。……書家はそういう状態を『墨がおりる』と言います」
「小学校のときは、こんなに楽じゃなかった」
大の男が拗ねたような口ぶりだった。
こっそり見ると、ふくれっ面である。きゅううううん、と仁那の胸のあたりで音がした気がする。可愛い。よしよしと、頭を撫でたいくらいだ。
……同い年の男をつかまえて、こんな感想もどうかと思うが。
「それは」
仁那はくすりと笑ってしまう。
「硯よりは、すり手側の問題ですね」
「……というと?」
「墨の角度は垂直よりは少し寝かせて」
ごく自然に墨を持つ彼の手に自分の手を添えてしまってから、びくりとした。
が、慌てて引き剥がすのも変なので、このまま続ける。
「ええと」
仁那は話を戻しながら、声が震えていませんようにと祈る。
「海……墨池とも言いますけれど、そこに水をどばっと入れませんでした?」
硯の、一段深くなっているところを指す。
「入れました」
聞けば、自信たっぷりに返事がある。正解と信じて揺るがない、松代の表情。
おかしさをこらえて、仁那はさらに訊ねた。
「そこから水を墨で、墨堂――陸とも言うんですけど――に持ってきて、ゴリゴリとすり鉢とすりこ木のように擦りませんでした?」
「……しました」
あれ、間違ってた? と不安げになってきた松代に、仁那はダメ押ししてみた。
「さらには、なかなか色がつかないから焦れて、海の中で墨をこねくり回したりとか」
彼女が頭の中の風景を言葉にすると、松代は見事に肩を落とした。
きりりとした大人がしょげているのが可哀想で、つい、励ましてしまう。
「みんなするんですよ。もちろん、わたしもしました」
「先生も?」
「はい」
「それを聞いて、ほっとしました」
安心した、という笑みに見惚れそうになり、仁那は息を吸って気持ちを整える。
ちらりと時計を見ると、結構時間が経っていた。申し込むか否かを確認しておしまいにしよう、と考える。
「仁翔先生。お近づきのしるしに食事でもいかがでしょうか」
唐突に、松代が人を魅了する笑みを浮かべて誘ってきた。
「え?」
彼女はすぐには反応できない。
嬉しいが、どうして自分なんかを誘うのだろう。
……多分帰国したばかりで、日本にデートする相手がいないからだ、と思いつく。
要は仁那だから誘ったのではなく、誰でもいいのだ。
ひどい、サイテー。自分でイケメンなことをわかっているチャラ男!
落胆した自分を誤魔化すよう、松代を軽蔑してみたが。……むしろ彼がそういうタイプでなければ、自分が食事に誘われることはなかったのだ、と思い直す。
人生でたった一度の時間を楽しめばいい。
「今日と明日、仁翔先生はお休みだったと確認しています」
グラリとかしいだところに畳みかけられた。
「あの」
どうしてわたしの休みを知っているんですか。それは訊いても許される? ……まさか、彼はわたしのストーカー? いやん、嬉しい。
そう舞い上がりかけ、ホームページにばっちり載せてあるのを思い出した。ガッカリする。
「休日だったのを俺のために使ってくださってるんですよね。だったら俺がこのままあなたを借り切っても問題ありませんね?」
松代がよどみなく話し続けるので、仁那は異議を差し挟むことができない。
一歩下がれば、距離を詰められる。彼の虹彩がどんどん大きくなっていく。
松代が甘く、それでいて誠実な眼差しで仁那の瞳を覗き込んできた。
目の前の男は押しが強いが、初恋フィルターのせいで、素敵でカッコいい男性としか思えない。……我ながら、どれだけ男性に免疫がないのだろう。
しかし、美形男子は幼い頃から和登で、最近ではTVスタジオでも見慣れているではないか。
松代に意識を持っていかれないよう、仁那は必死に他のイケメンのことを考える。
……考えて、わかってしまった。タレントらは松代のようにぐいぐい踏み込んでこない。
なによりも袋田仁那、自分自身が松代を警戒していないのが一番まずい。
なぜ男嫌いの自分が、彼だけは心の中に招き入れてしまっているのか。
疑問と同時に解答が浮かぶ。松代だからだ。
他ならぬ仁那自身が、彼を兄と同じくらい近しい男性と認識しているからだ。
わかってしまえば、あとは危機感が募るだけ。
お願いだから近づかないで。
あなたに近づかれると、わたしはパニックのあまり暴走してしまうから!
仁那が必死に願うも、じわじわと彼の双眸が彼女の意識を占めていく。
だめだ、松代さんの瞳を覗き込みたくない。わたしを見る目つきに意味があるのかないのか、知りたくない……!
まぶたを閉じるとより危険な気もしたが、仁那はしっかりと目を瞑ってしまった。
耳も塞ごうかと考えたところで、松代が気になる言葉を告げた。
「書道を習うことには、俺のこれからの人生がかかってるんです」
……まぶたを薄く開けて、松代を見る。
仁那の感情の揺れなど気にしていないようで、彼女の手を握ってきそうな熱っぽさである。
――そんな大袈裟な。
芝居がかっているなぁと思わないでもない。
「いわば、書道教室選びが俺の命運を握ってると言っていい」
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自分が、松代の作り物のように美しい唇の動きに見入っているのがわかる。
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「あなたのなりたいものはなに?」
松代が熱く、掠れた声を出す。
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