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1巻
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「勝者とはなにか。仕事での成功もそうだけど、俺はなにより、愛する人を手に入れることだと思っている。当然、身も心もだ」
言葉にかすかに滲むうさんくささが、低くセクシーな響きに甘くコーティングされて、脳内に押し入ってくる。
……なぜか。この男と睦み合っている自分を想像してしまう。
朧月夜の教室で。仁那は桜を愛で、彼女自身は男に可愛がられている姿を。
彼女が息を呑んだのを、松代は見逃さない。
「あなたも、男を手に入れられる女性になりたいんじゃないのか?」
松代がたらたらと毒を垂れ流してくるのに、仁那は必死に抗う。
「やめてください」
幸せを諦めて閉ざした扉を、こじ開けないで。
「俺が唆しているんじゃない、君が欲しているんだ」
「っ、だからっ。わたし好みの声で至近距離でささやくの、やめてくださいってば!」
「仁翔先生、バカなの? そんなことを言われたら、男が引くわけないでしょう」
松代からふ、と艶やかな笑みを向けられ、仁那の意識が飛びそうになる。
しっかりしろ。今のは冷笑で、わたしはバカにされているんだと、仁那は自分を叱る。
なのにうっとりしてしまうなんて。
いくらイケメン好きだからって、我ながらチョロすぎだ。
「色魔退散! 体に鎧、心に剣山!」
内心で必死に唱えていたら、松代がくくく……とおかしそうに肩を震わせた。口に出ていたらしい。
真っ赤になりながら仁那はなおも戦いを挑む。
「そうだ、松代さん。実はあなた、結婚詐欺師ですね?」
聞いた途端、松代はこらえきれなかったようで、ぶはと噴き出した。
自分では核心を突いたと思ったのだが、トンデモ発想だったのだろうか?
「なんでそんな発想になるのかな」
笑いすぎて涙を拭う姿が、またかっこいい。
「だって」
冴えない女が一軒家で一人で仕事していて、小金持ちとでも思われたんだろう。
「ねえ。仁翔先生って、ユニークって言われるでしょう」
男の言葉に仁那はムッとした。
「おあいにくさま、この家の所有者は母ですので! わたしを口説いても一円も入ってきませんからっ」
……我ながら、言っていて悲しくなる。
「ハズレ。あなたを口説きたい男ではあるけれど、結婚詐欺師ではないですよ。この家の資産価値はそこそこだと思うが、俺は金には困っていない」
「……だったら。なんで松代さんはここにいるんですか」
書を習いに来たとか言うくせに、人を口説くような男の言動に仁那はすっかり困惑していた。
「たくさんの書道教師の中から、あなたを見つけた」
突然、がし、と肩を掴まれた。
松代の顔からは仮面が剥がれ、必死さが溢れている。
ドキドキしている自分の鼓動を感じながら、仁那は目をしばたたかせた。
彼女が松代の出方を窺っていると、男は辛そうに声を絞り出す。
「……俺は字が下手で、他人はもとより自分でも読めない。特殊学級も検討されたことがある」
仁那の沸騰しそうだった頭が一気に冷えた。
……挫折など知らないような男が、知り合って間もない人間に劣等感を曝け出すのは、どれだけ勇気がいることなのだろう。
仁那の心が同情に傾く。
「色々な書道教室の評判をチェックした。生徒や親からの評価を読んで、あなたに習うことを決めた。俺はこれから生涯を懸けた仕事に就くつもりでいる。だが、書道ができなければ、俺には資格が与えられない」
どんな仕事なのだろうと再び思ったが。
松代の必死な表情に、彼が『目指しているなにか』のために仁那が必要である、と思い詰めているらしいことはわかった。
――道が交わらないはずの自分達は、彼が望んだから出会えた。
ああ、もうっ! 仁那は自分が堕ちたことを知った。渋々了承する。
「………………松代さんの入門を許可します」
ほっとしたらしく、男はニッと笑った。
その様はまるでスコールが去った後の晴天のようで、いささか唐突すぎる。
「もしかして、わたしのことハメました?」
じとぉ~と男を睨みつけるが、しれっとのたまう。
「人生を賭けた大博打の相棒にあなたを選んだのも本当。親交を深めるために、仁翔先生と食事をしたいのも本当」
ダメ押しとばかりに、にこっと微笑みかけられる。すると、仁那の心臓は簡単に高鳴ってしまう。
「いや、それとこれとは」
自分は書を教えることを了承しただけで!
「早い時間に送り届けますから、大丈夫ですよ」
仁那の態度が軟化したことを察知した後は、強引だった。
「ちょっと、松代さん?」
男はタブレットを取り出し、操作しはじめる。やがて、話すことにしたのか、マイク付きのイヤホンを耳に差し込んだ。
漏れ聞こえる内容から、あちこちに連絡してなにかを予約しているらしい。
仁那は手元のそれを奪おうと飛びかかったが、あっさり躱された。
そればかりか、身動きできないよう羽交い締めにされる。
ま・つ・し・ろさん!
身振り手振り口パクで抵抗したら、彼は失礼と電話相手に断って仁那に向き直った。
「大人しくしてないと、おしおきするぞ」
男は言い捨てると、通話を再開する。
「なっ……!」
漫画の中の、俺様主人公のような台詞だ。
仁那がときめいている間に、男は手配を済ませたらしい。
ブリーフケースにタブレットをしまうと、松代が仁那の顔を覗き込んでくる。
「かなり強引にお願いしたので、行かないとなると相応のキャンセル料が発生するようです」
困ったような微笑みを浮かべて報告される。
そんなの勝手に、あなたが払うがいいよ! ……と、突っぱねることはできなかった。
キラースマイルに殺られた自覚がある。
「実は昨日帰国したばかりで、久しぶりの母国で浮かれてるんです。日本語に飢えている男に、おつき合いいただけませんか」
母性本能まで刺激してくるとは!
世間体を気にしていた天秤は、彼とのデートに傾こうとしている。
もちろん、特別な食事だと仁那が思い込みたいだけだ。実際はパワーディナーであるとわかっている。
「でも……」
「この通り」
手を合わせて拝んできた。大きな背を少しかがめて、上目遣いをしてくる。
「ずるい、あざとい、卑怯。姑息で腹黒!」
負けを自覚した仁那だが、白旗をあげるのは業腹だったので、あらんかぎりの悪口を並べ立てる。
かっこよくてイケメンで、和登の親友かもしれなくて。有能そうなサラリーマンで、得体が知れない男。
……高校生くらいの松代さんも、こんなだったのかなと、想像してみる。憧れている同級生からこんな風に甘えられたら、当時の仁那なら真っ赤になりつつも承諾しただろう。
そして、次から次に色々な顔を見せてくれる男に、今の仁那も魅入られてしまった。
……柔らかい心の裡に迎え入れてしまえば、傷つくのは自分なのに。
しかし彼女は彼を突き放せない。
彼女の悪態を完璧にスルーした松代は、わざとらしく腕時計を見た。
「十五分後にタクシーを呼びました。あと、十四分三十秒……。あ、仁翔先生、支度は三十分では足りないですか? 女性は時間かかりますからね」
支度できないだろ、という目が自分を挑発しているのはわかっている。けれど。
「大丈夫です!」
気がついたら大声で請け負っていた。
*** 松代サイド ***
仁翔を待っている間、松代は後悔していた。
「もう恋愛はこりごりだったのに。まさか、クロのストーカー相手に色仕掛けするなんて。なにをやってるんだ、俺は……!」
彼女と相対している間、仁翔に対する敵愾心に燃えていたが。
頭を冷やして考えると、自分こそが仁翔から犯罪行為で訴えかねられない。
「バカだ、俺は」
忌々しげに呟いてぐしゃりと髪をかき乱す。しかし、いまさら降りることはできない。賽は投げられたのだ。
――松代にとって袋田和登という男は、大切にしていた元恋人の時任婉子よりも、さらに特別な存在だ。親友は、暗闇だった松代の人生を明るくしてくれた、いわば恩人でもある。
それなのに高校時代、松代は和登が好きだった時任を奪ってしまった。
親友と恋人が両片想い同士だなんて、告白した頃は想像もしておらず。……知った頃には松代は時任を愛しすぎていて、申し訳ないと思いつつも彼女を手放すことができなかった。
――今度は、クロを幸せにする。たとえ誰かを陥れても、そのために自分を不幸にしても。
その決意が変わらないまま帰国してみると、親友には気になる女性ができたようだった。
「しばらく特定の相手はいなかったみたいなのにな」
親友の意中の相手は、おそらくTVで人気の『紫藤瑞葉』というタレント書道家だ。
彼女のことを口にした途端に激変した親友の顔を思い出して、くすりと笑う。
「あいつがあんなに慌てふためくって、今までなかった」
表情を引き締める。
「よりによって、俺が選んだ教室の師範がクロのストーカーだったとは!」
狭い業界のようだから、親友と仁翔が互いに知り合いでも不思議はない。
けれど、和登の口から今まで仁翔などという女性の名前は聞いたことがない。
逆に、嬉しそうに親友のことを話す仁翔の様子から、相当和登に入れ込んでいるのが察せられた。
そのくせ、こちらをちらちらと盗み見ている。意中の男以外にも色目を使う仁翔に吐き気がした。
松代は仁翔に『親友に手を出したらただではおかない』と警告しようと思った。
だが、気が変わった。仁翔への色仕掛けを思いついたのである。
彼女は男慣れしていない。優しくしてやればすぐに自分へと乗り換えるだろう。
「あんな女を抱いて愛をささやくなんて、おぞましいが」
しかし親友のためなら、なんでもできる。松代は昏い目で呟いた。
「仁翔先生、あんたに和登はもったいないよ」
俺 ガ 忘 レ サ セ テ ヤ ル
第二章 堕ちた瞬間
松代によって無理やりディナーを共にすることが決まり、ひとまず仁那は二階で作務衣から私服に着替えていた。
「シロさん……いや、松代さん、か。なんだか不思議な人……」
掴みどころがないというか、笑顔は素敵なのに、目が笑っていないというか?
仁那もそれなりに人間関係で揉まれてきたので、相手が敵意を持っているかどうかはわかるつもりだ。
松代はおそらく、仁那に好意は持っていない。
彼から、肌がヒリヒリするような視線を感じるときがある。
「初対面だもんね、気を許してはくれてないよね……でも松代さん。あなた、自分からわたしの教室に飛び込んできたんだからね?」
仁那がイケメンにヘロヘロなのが丸わかりだからといって、松代が横柄にしていい理由にはならない。それに師弟間でも礼節はあってもいいと思う。
「お互い、社会人なんだから。もう少し好悪の情とか、ディスってる態度をオブラートに包んでほしいな。いくら初恋の人でも、苛つくし傷つくんですけど?」
彼女は、自分が発言にまったくそぐわない表情をしていることには気づいていない。
プロデューサーにやかましく言われて日に焼けないよう気をつけている肌は、桜色に染まっている。
瞳はキラキラしていて、普段の彼女とはまったく違う。
私服に着替え終わってから気づく。
「……どうしよう、わたしの格好。松代さんと釣り合わない」
一応、仁那も定期的にTV局に赴くので、プロデューサーと打ち合わせしても恥ずかしくはない装いではある。
ただ昨日、祖母宅に『出勤』したときから同じ服を着ている。今日で二日目だ。
洗濯はしたが、さすがにアイロンはかけていないので、ややくたびれ感がある。
対する松代の装いは、仕立ての良さそうなジャケットにVネックのセーター、長い脚をさらに強調するようなボトム、手入れされた上質な靴。
カジュアルラインであったが高級そうに見えた。
「いや、服というよりは。なんというか、オーラの差がね……」
男性相手に変な表現であるが、彼は大輪の華。
それに引き換え自分は、道端の名もない小さな花。
……釣り合わない人と歩くときに投げられる侮蔑の視線には覚えがある。
和登と一緒に出かけると、すれ違う女性から『身のほど知らず!』と無言の圧をよくかけられた。
今日もそうなるだろう。
「やっぱり断ろうかな」
仁那は、憂鬱になった。
しかし長年憧れた人との食事なのだ。この機会を逃したら次はないだろう。
一回くらいは松代と出歩いてみたいと、腹を決めた。
仁那はぺちん、と両手で頬を叩いて気合いを入れる。
「こんなときこそ、セルフブランディングが大事!」
見た目はともかく、堂々と振る舞え。背筋をまっすぐに伸ばして、自分は優雅だと思い込む。
『人は顔を見た後、所作を見る。いくら私がブランド服を見繕っても、紫藤先生自身が気構えをしていないと、いい女だと思われない』
TV局のスタイリストに散々注意された。
仁那は優雅な立ち居振る舞いを教わってから、和登につき合ってもらって何度も練習した。
そのおかげで、兄との外出がだいぶ楽になった。
今日は間違いなく人生の大一番。今できなくて、どうする。
「それと!」
拳を握って決意する。
「今度からおしゃれ着、おばあちゃんちに置いておこっと!」
……『今度』はないかもしれないと思いながら、階段を下りて――息を呑む。
玄関でこちらを見つめる松代はやっぱりハンサムだった。
ただ立っているだけなのに、計算されたポーズに見える。
穏やかな笑みを浮かべる松代に、ドキドキと胸が高鳴ってしまう。
頬も赤らんでいるだろう。体温も絶対に二、三度は上昇している。
戸締りと火の元を確認していると、松代が呼んだタクシーが到着した。
す、と男が手を差し伸べてくる。
意図がわからずまごついていると、松代に促された。
「仁翔先生。新しい教え子にあなたをエスコートさせていただけませんか?」
……しっかりしろ、わたし。
男性の手など握り慣れているでしょ(ただし十二歳以下に限る)!
気合いを入れて一歩踏み出したのと、手を握られたのが同時だった。
心臓の音がバレませんように! と祈りながらタクシーに乗り込む。
車中で仁那は、自分の手をずっと握っている松代の手から目を離せない。
大きな手だ。節くれ立った長い指。
車の中で逃げようがないのに、彼女の手を解放してくれない。
松代のもう片方の手は拳を握り込んでいる。太ももが張り詰めているのは足に力を入れている証拠だ。
……なぜ、この男が緊張する必要があるのだろう? 仁那は不思議に思う。
彼女に向けられた松代の瞳は、いつも紫藤瑞葉が向けられる欲まみれの目ではなく、崇高な任務を課せられているかのようだ。
他の男がこんな思い詰めた目をしていたら間違いなく和登に連絡するか、警察に通報しただろう。
ついてきてしまったのは、松代が時折辛そうな目をしたからだ。
どんな理由からかはわからないが、彼が楽になるならと考えたのも、食事を了承した理由の一つ。
「仁翔先生、降りますよ」
声をかけられて我に返る。
なんと、松代と見つめ合っている。どうやら自分はずっと彼を観察していたらしい。
言い訳を考えているうちに男が車を降りた。
慌てて後をついて降りて、呆然とする。
「こ、ここ……」
ホテル・エスターク。
いつもどこかしらの女性誌で必ず特集が組まれている、セレブ御用達の星つきホテルだった。
仁那も憧れていて、月に一回でもパーラーでケーキセットを食べられたらいいなと思っている。
「ニワトリの真似ですか?」
気圧されていると、とぼけた声をかけられた。
早速からかいのネタに使われてしまったらしい。
む、として見れば、にっこりと笑いかけてくる。
さりげなく腰に手を添えられた。赤くなってあわあわと焦っていると、耳元でささやかれる。
「大丈夫。とって喰うのは俺達ですから」
びくりと跳ねてしまった体をなだめながらエントランスに向かう。
……もしかして彼は自分の緊張をほぐしてくれたのかなと気づいたのは、ベルパーソンが二人を出迎えてくれたときだった。
女性スタッフが近づいてくる。
が、仁那は豪奢な内装に気をとられていて、気づかない。
いきなり至近距離で「高坂様」と呼びかけられ、飛び上がってしまった。
咄嗟に周りを見回すと、松代は笑いをこらえている。
「何度も呼んだんですよ?」
「仕方ないでしょう、高坂って呼ばれたことないんだから!」
逆ギレ気味に反論すれば、不思議そうに訊かれた。
「名字ではなく、仁翔先生と呼ばれることが多いんですか」
――立ち入れない線を引かれた。シロさんにとって、自分は書道教師でしかない。
一抹の寂しさを感じながら、なぜか一人で行くように言われ、とりあえずスタッフについていく。
「え?」
到着したのはエステサロンだった。
服装のコーディネートやメイクの予約も入っているという。
仁那は青くなる。
ホテル自体も超一流なら、当然出店しているテナントも有名な店ばかりだろう。
いったいいくらかかるのか。
財布と通帳の中身を頭の中で確認し、無理という結論に達した。
「高坂様?」
「あの、キャンセルします」
自分の服ではドレスコード違反かもしれないが、このまま食事させてもらえないかとエステティシャンに申し出る。
彼女は仁那の申し出に、あり得ないというように目を見開いた。
おそらくそう簡単には予約が取れない女性憧れの超高級サロン。
なので『もったいない!』という意味なのだろう。
自分だって受けたい。でも、こんな高価なプレゼントは受け取れない。
「ごめんなさい。でも、こんな高級なエステ、受けさせていただくわけにはいかないんです」
仁那は正直に頭を下げる。
「……松代様から前金で全額頂いておりますし、当日のキャンセルは百パーセントの違約金が発生いたします」
なだめるように微笑みかけられた。
施術を受けるにせよキャンセルするにせよ、どちらにしても彼に負担がかかる。……強引に連れ出されたのだし、このサービスを仁那は了承していない。松代がキャンセル料を払うのは当然だ。
しかし時間を空けてくれ、準備をしてくれていたスタッフに申し訳ない。
「だったら施術は受けさせていただきます。でも、わたしがお支払いします」
「一度頂いた代金をキャンセルするにはお連れ様にお越しいただいて、カードをお預かりしなければマイナス計上ができません」
確固たる意志を示そうと宣言するが、やんわりと『当事者同士で話をしろ』と言われてしまった。
……仕方ない。松代に直接現金を返すしかないのだろう。金額を確認するため、エステティシャンに受けるコースの値段を聞いたが、教えてくれない。
「まことに申し訳ないのですが、松代様より『プレゼントなので、野暮な質問はしないでほしい』とのメッセージを言付かっております」
対仁那用の想定問答集でも作っているのか、ことごとく論破されてしまう。
「あんにゃろおおぅ……」
仁那はスタッフに聞かれないよう口の中でののしった。
押しの強さを優雅さや洗練さで包んで、意のままに他人を扱うのが優れた人物の証しであるならば、松代は間違いなく一流だ。
……後でホテルのホームページを見て見当をつけるしかないらしい。
だが、果たして松代が受け取ってくれるのだろうか。なんだかんだ誤魔化されそうだ。
ため息をつきたいのを我慢して、仁那は担当者に頭を下げた。
「わかりました。よろしくお願いします」
エステティシャンは生温い笑みを貼りつけて、仁那を施術室へ導いた。
……渋々だったとはいえ、プロによる手技は素晴らしく気持ちよく、日頃の疲れが綺麗さっぱり取れた。
大人しくメイクされ、着替えの段になって仁那は呻き声をあげる。
「あの人は……!」
とろりとした生地に、美しいシルエットのワンピースは間違いなくブランドものだろう。靴にアクセサリー、高級そうなランジェリーまで。
――松代さんは、女性と食事に行くたびにこんなことをしてるの?
嫉妬交じりの疑念がむくむくと湧いてくる。
連れ出すテクニックもエスコートも、女性に払わせまいとする強引さも。全て経験から成り立っているのだと思うと、感嘆してしまう。と同時に、胸がチリチリと焦げてくる。
彼が慈しみ、愛おしんできた女性の存在が無性に腹立たしい。
「愛されてらっしゃいますのね」
微笑むエステティシャンにそう言われたが、皮肉にしか感じられない。
仁那は自嘲しつつ、泣きそうな顔で呟いた。
「こんな高いもの……わたしには似合わないですよね」
すると真面目な顔になったエステティシャンに諭される。
「ご自分に自信がおありで、ハイブランドを身に着ける方もいらっしゃいます。反対に、身に着けたことで自信が生まれる方もいらっしゃいます。松代様は高坂様にお似合いになる服を選ばれていますわ」
背中を押してもらって、仁那はようやく服に袖を通した。
「お連れ様、お見えになりました」
仁那の前を歩くスタッフが声をかけると、ロビーで座って待っていた松代が振り返り、なぜか目を瞠った。
それから微笑みを浮かべて立ち上がり、つかつかと仁那のもとに近づいてくる。
「仁翔先生、綺麗です」
そう言いながら差し出されたブーケの、メインの花の色が仁那の服に合わせてある。
「……そう、みたいですね」
受け取った仁那は力なく答えた。
松代は仁那へ伸ばそうとしていた手を止めて、彼女を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「ここまでしてもらえば、誰だって綺麗になれます。……なんで、こんなことをしていただいてるのかわかりません」
仁那は訝しげに松代を見つめた。
言葉にかすかに滲むうさんくささが、低くセクシーな響きに甘くコーティングされて、脳内に押し入ってくる。
……なぜか。この男と睦み合っている自分を想像してしまう。
朧月夜の教室で。仁那は桜を愛で、彼女自身は男に可愛がられている姿を。
彼女が息を呑んだのを、松代は見逃さない。
「あなたも、男を手に入れられる女性になりたいんじゃないのか?」
松代がたらたらと毒を垂れ流してくるのに、仁那は必死に抗う。
「やめてください」
幸せを諦めて閉ざした扉を、こじ開けないで。
「俺が唆しているんじゃない、君が欲しているんだ」
「っ、だからっ。わたし好みの声で至近距離でささやくの、やめてくださいってば!」
「仁翔先生、バカなの? そんなことを言われたら、男が引くわけないでしょう」
松代からふ、と艶やかな笑みを向けられ、仁那の意識が飛びそうになる。
しっかりしろ。今のは冷笑で、わたしはバカにされているんだと、仁那は自分を叱る。
なのにうっとりしてしまうなんて。
いくらイケメン好きだからって、我ながらチョロすぎだ。
「色魔退散! 体に鎧、心に剣山!」
内心で必死に唱えていたら、松代がくくく……とおかしそうに肩を震わせた。口に出ていたらしい。
真っ赤になりながら仁那はなおも戦いを挑む。
「そうだ、松代さん。実はあなた、結婚詐欺師ですね?」
聞いた途端、松代はこらえきれなかったようで、ぶはと噴き出した。
自分では核心を突いたと思ったのだが、トンデモ発想だったのだろうか?
「なんでそんな発想になるのかな」
笑いすぎて涙を拭う姿が、またかっこいい。
「だって」
冴えない女が一軒家で一人で仕事していて、小金持ちとでも思われたんだろう。
「ねえ。仁翔先生って、ユニークって言われるでしょう」
男の言葉に仁那はムッとした。
「おあいにくさま、この家の所有者は母ですので! わたしを口説いても一円も入ってきませんからっ」
……我ながら、言っていて悲しくなる。
「ハズレ。あなたを口説きたい男ではあるけれど、結婚詐欺師ではないですよ。この家の資産価値はそこそこだと思うが、俺は金には困っていない」
「……だったら。なんで松代さんはここにいるんですか」
書を習いに来たとか言うくせに、人を口説くような男の言動に仁那はすっかり困惑していた。
「たくさんの書道教師の中から、あなたを見つけた」
突然、がし、と肩を掴まれた。
松代の顔からは仮面が剥がれ、必死さが溢れている。
ドキドキしている自分の鼓動を感じながら、仁那は目をしばたたかせた。
彼女が松代の出方を窺っていると、男は辛そうに声を絞り出す。
「……俺は字が下手で、他人はもとより自分でも読めない。特殊学級も検討されたことがある」
仁那の沸騰しそうだった頭が一気に冷えた。
……挫折など知らないような男が、知り合って間もない人間に劣等感を曝け出すのは、どれだけ勇気がいることなのだろう。
仁那の心が同情に傾く。
「色々な書道教室の評判をチェックした。生徒や親からの評価を読んで、あなたに習うことを決めた。俺はこれから生涯を懸けた仕事に就くつもりでいる。だが、書道ができなければ、俺には資格が与えられない」
どんな仕事なのだろうと再び思ったが。
松代の必死な表情に、彼が『目指しているなにか』のために仁那が必要である、と思い詰めているらしいことはわかった。
――道が交わらないはずの自分達は、彼が望んだから出会えた。
ああ、もうっ! 仁那は自分が堕ちたことを知った。渋々了承する。
「………………松代さんの入門を許可します」
ほっとしたらしく、男はニッと笑った。
その様はまるでスコールが去った後の晴天のようで、いささか唐突すぎる。
「もしかして、わたしのことハメました?」
じとぉ~と男を睨みつけるが、しれっとのたまう。
「人生を賭けた大博打の相棒にあなたを選んだのも本当。親交を深めるために、仁翔先生と食事をしたいのも本当」
ダメ押しとばかりに、にこっと微笑みかけられる。すると、仁那の心臓は簡単に高鳴ってしまう。
「いや、それとこれとは」
自分は書を教えることを了承しただけで!
「早い時間に送り届けますから、大丈夫ですよ」
仁那の態度が軟化したことを察知した後は、強引だった。
「ちょっと、松代さん?」
男はタブレットを取り出し、操作しはじめる。やがて、話すことにしたのか、マイク付きのイヤホンを耳に差し込んだ。
漏れ聞こえる内容から、あちこちに連絡してなにかを予約しているらしい。
仁那は手元のそれを奪おうと飛びかかったが、あっさり躱された。
そればかりか、身動きできないよう羽交い締めにされる。
ま・つ・し・ろさん!
身振り手振り口パクで抵抗したら、彼は失礼と電話相手に断って仁那に向き直った。
「大人しくしてないと、おしおきするぞ」
男は言い捨てると、通話を再開する。
「なっ……!」
漫画の中の、俺様主人公のような台詞だ。
仁那がときめいている間に、男は手配を済ませたらしい。
ブリーフケースにタブレットをしまうと、松代が仁那の顔を覗き込んでくる。
「かなり強引にお願いしたので、行かないとなると相応のキャンセル料が発生するようです」
困ったような微笑みを浮かべて報告される。
そんなの勝手に、あなたが払うがいいよ! ……と、突っぱねることはできなかった。
キラースマイルに殺られた自覚がある。
「実は昨日帰国したばかりで、久しぶりの母国で浮かれてるんです。日本語に飢えている男に、おつき合いいただけませんか」
母性本能まで刺激してくるとは!
世間体を気にしていた天秤は、彼とのデートに傾こうとしている。
もちろん、特別な食事だと仁那が思い込みたいだけだ。実際はパワーディナーであるとわかっている。
「でも……」
「この通り」
手を合わせて拝んできた。大きな背を少しかがめて、上目遣いをしてくる。
「ずるい、あざとい、卑怯。姑息で腹黒!」
負けを自覚した仁那だが、白旗をあげるのは業腹だったので、あらんかぎりの悪口を並べ立てる。
かっこよくてイケメンで、和登の親友かもしれなくて。有能そうなサラリーマンで、得体が知れない男。
……高校生くらいの松代さんも、こんなだったのかなと、想像してみる。憧れている同級生からこんな風に甘えられたら、当時の仁那なら真っ赤になりつつも承諾しただろう。
そして、次から次に色々な顔を見せてくれる男に、今の仁那も魅入られてしまった。
……柔らかい心の裡に迎え入れてしまえば、傷つくのは自分なのに。
しかし彼女は彼を突き放せない。
彼女の悪態を完璧にスルーした松代は、わざとらしく腕時計を見た。
「十五分後にタクシーを呼びました。あと、十四分三十秒……。あ、仁翔先生、支度は三十分では足りないですか? 女性は時間かかりますからね」
支度できないだろ、という目が自分を挑発しているのはわかっている。けれど。
「大丈夫です!」
気がついたら大声で請け負っていた。
*** 松代サイド ***
仁翔を待っている間、松代は後悔していた。
「もう恋愛はこりごりだったのに。まさか、クロのストーカー相手に色仕掛けするなんて。なにをやってるんだ、俺は……!」
彼女と相対している間、仁翔に対する敵愾心に燃えていたが。
頭を冷やして考えると、自分こそが仁翔から犯罪行為で訴えかねられない。
「バカだ、俺は」
忌々しげに呟いてぐしゃりと髪をかき乱す。しかし、いまさら降りることはできない。賽は投げられたのだ。
――松代にとって袋田和登という男は、大切にしていた元恋人の時任婉子よりも、さらに特別な存在だ。親友は、暗闇だった松代の人生を明るくしてくれた、いわば恩人でもある。
それなのに高校時代、松代は和登が好きだった時任を奪ってしまった。
親友と恋人が両片想い同士だなんて、告白した頃は想像もしておらず。……知った頃には松代は時任を愛しすぎていて、申し訳ないと思いつつも彼女を手放すことができなかった。
――今度は、クロを幸せにする。たとえ誰かを陥れても、そのために自分を不幸にしても。
その決意が変わらないまま帰国してみると、親友には気になる女性ができたようだった。
「しばらく特定の相手はいなかったみたいなのにな」
親友の意中の相手は、おそらくTVで人気の『紫藤瑞葉』というタレント書道家だ。
彼女のことを口にした途端に激変した親友の顔を思い出して、くすりと笑う。
「あいつがあんなに慌てふためくって、今までなかった」
表情を引き締める。
「よりによって、俺が選んだ教室の師範がクロのストーカーだったとは!」
狭い業界のようだから、親友と仁翔が互いに知り合いでも不思議はない。
けれど、和登の口から今まで仁翔などという女性の名前は聞いたことがない。
逆に、嬉しそうに親友のことを話す仁翔の様子から、相当和登に入れ込んでいるのが察せられた。
そのくせ、こちらをちらちらと盗み見ている。意中の男以外にも色目を使う仁翔に吐き気がした。
松代は仁翔に『親友に手を出したらただではおかない』と警告しようと思った。
だが、気が変わった。仁翔への色仕掛けを思いついたのである。
彼女は男慣れしていない。優しくしてやればすぐに自分へと乗り換えるだろう。
「あんな女を抱いて愛をささやくなんて、おぞましいが」
しかし親友のためなら、なんでもできる。松代は昏い目で呟いた。
「仁翔先生、あんたに和登はもったいないよ」
俺 ガ 忘 レ サ セ テ ヤ ル
第二章 堕ちた瞬間
松代によって無理やりディナーを共にすることが決まり、ひとまず仁那は二階で作務衣から私服に着替えていた。
「シロさん……いや、松代さん、か。なんだか不思議な人……」
掴みどころがないというか、笑顔は素敵なのに、目が笑っていないというか?
仁那もそれなりに人間関係で揉まれてきたので、相手が敵意を持っているかどうかはわかるつもりだ。
松代はおそらく、仁那に好意は持っていない。
彼から、肌がヒリヒリするような視線を感じるときがある。
「初対面だもんね、気を許してはくれてないよね……でも松代さん。あなた、自分からわたしの教室に飛び込んできたんだからね?」
仁那がイケメンにヘロヘロなのが丸わかりだからといって、松代が横柄にしていい理由にはならない。それに師弟間でも礼節はあってもいいと思う。
「お互い、社会人なんだから。もう少し好悪の情とか、ディスってる態度をオブラートに包んでほしいな。いくら初恋の人でも、苛つくし傷つくんですけど?」
彼女は、自分が発言にまったくそぐわない表情をしていることには気づいていない。
プロデューサーにやかましく言われて日に焼けないよう気をつけている肌は、桜色に染まっている。
瞳はキラキラしていて、普段の彼女とはまったく違う。
私服に着替え終わってから気づく。
「……どうしよう、わたしの格好。松代さんと釣り合わない」
一応、仁那も定期的にTV局に赴くので、プロデューサーと打ち合わせしても恥ずかしくはない装いではある。
ただ昨日、祖母宅に『出勤』したときから同じ服を着ている。今日で二日目だ。
洗濯はしたが、さすがにアイロンはかけていないので、ややくたびれ感がある。
対する松代の装いは、仕立ての良さそうなジャケットにVネックのセーター、長い脚をさらに強調するようなボトム、手入れされた上質な靴。
カジュアルラインであったが高級そうに見えた。
「いや、服というよりは。なんというか、オーラの差がね……」
男性相手に変な表現であるが、彼は大輪の華。
それに引き換え自分は、道端の名もない小さな花。
……釣り合わない人と歩くときに投げられる侮蔑の視線には覚えがある。
和登と一緒に出かけると、すれ違う女性から『身のほど知らず!』と無言の圧をよくかけられた。
今日もそうなるだろう。
「やっぱり断ろうかな」
仁那は、憂鬱になった。
しかし長年憧れた人との食事なのだ。この機会を逃したら次はないだろう。
一回くらいは松代と出歩いてみたいと、腹を決めた。
仁那はぺちん、と両手で頬を叩いて気合いを入れる。
「こんなときこそ、セルフブランディングが大事!」
見た目はともかく、堂々と振る舞え。背筋をまっすぐに伸ばして、自分は優雅だと思い込む。
『人は顔を見た後、所作を見る。いくら私がブランド服を見繕っても、紫藤先生自身が気構えをしていないと、いい女だと思われない』
TV局のスタイリストに散々注意された。
仁那は優雅な立ち居振る舞いを教わってから、和登につき合ってもらって何度も練習した。
そのおかげで、兄との外出がだいぶ楽になった。
今日は間違いなく人生の大一番。今できなくて、どうする。
「それと!」
拳を握って決意する。
「今度からおしゃれ着、おばあちゃんちに置いておこっと!」
……『今度』はないかもしれないと思いながら、階段を下りて――息を呑む。
玄関でこちらを見つめる松代はやっぱりハンサムだった。
ただ立っているだけなのに、計算されたポーズに見える。
穏やかな笑みを浮かべる松代に、ドキドキと胸が高鳴ってしまう。
頬も赤らんでいるだろう。体温も絶対に二、三度は上昇している。
戸締りと火の元を確認していると、松代が呼んだタクシーが到着した。
す、と男が手を差し伸べてくる。
意図がわからずまごついていると、松代に促された。
「仁翔先生。新しい教え子にあなたをエスコートさせていただけませんか?」
……しっかりしろ、わたし。
男性の手など握り慣れているでしょ(ただし十二歳以下に限る)!
気合いを入れて一歩踏み出したのと、手を握られたのが同時だった。
心臓の音がバレませんように! と祈りながらタクシーに乗り込む。
車中で仁那は、自分の手をずっと握っている松代の手から目を離せない。
大きな手だ。節くれ立った長い指。
車の中で逃げようがないのに、彼女の手を解放してくれない。
松代のもう片方の手は拳を握り込んでいる。太ももが張り詰めているのは足に力を入れている証拠だ。
……なぜ、この男が緊張する必要があるのだろう? 仁那は不思議に思う。
彼女に向けられた松代の瞳は、いつも紫藤瑞葉が向けられる欲まみれの目ではなく、崇高な任務を課せられているかのようだ。
他の男がこんな思い詰めた目をしていたら間違いなく和登に連絡するか、警察に通報しただろう。
ついてきてしまったのは、松代が時折辛そうな目をしたからだ。
どんな理由からかはわからないが、彼が楽になるならと考えたのも、食事を了承した理由の一つ。
「仁翔先生、降りますよ」
声をかけられて我に返る。
なんと、松代と見つめ合っている。どうやら自分はずっと彼を観察していたらしい。
言い訳を考えているうちに男が車を降りた。
慌てて後をついて降りて、呆然とする。
「こ、ここ……」
ホテル・エスターク。
いつもどこかしらの女性誌で必ず特集が組まれている、セレブ御用達の星つきホテルだった。
仁那も憧れていて、月に一回でもパーラーでケーキセットを食べられたらいいなと思っている。
「ニワトリの真似ですか?」
気圧されていると、とぼけた声をかけられた。
早速からかいのネタに使われてしまったらしい。
む、として見れば、にっこりと笑いかけてくる。
さりげなく腰に手を添えられた。赤くなってあわあわと焦っていると、耳元でささやかれる。
「大丈夫。とって喰うのは俺達ですから」
びくりと跳ねてしまった体をなだめながらエントランスに向かう。
……もしかして彼は自分の緊張をほぐしてくれたのかなと気づいたのは、ベルパーソンが二人を出迎えてくれたときだった。
女性スタッフが近づいてくる。
が、仁那は豪奢な内装に気をとられていて、気づかない。
いきなり至近距離で「高坂様」と呼びかけられ、飛び上がってしまった。
咄嗟に周りを見回すと、松代は笑いをこらえている。
「何度も呼んだんですよ?」
「仕方ないでしょう、高坂って呼ばれたことないんだから!」
逆ギレ気味に反論すれば、不思議そうに訊かれた。
「名字ではなく、仁翔先生と呼ばれることが多いんですか」
――立ち入れない線を引かれた。シロさんにとって、自分は書道教師でしかない。
一抹の寂しさを感じながら、なぜか一人で行くように言われ、とりあえずスタッフについていく。
「え?」
到着したのはエステサロンだった。
服装のコーディネートやメイクの予約も入っているという。
仁那は青くなる。
ホテル自体も超一流なら、当然出店しているテナントも有名な店ばかりだろう。
いったいいくらかかるのか。
財布と通帳の中身を頭の中で確認し、無理という結論に達した。
「高坂様?」
「あの、キャンセルします」
自分の服ではドレスコード違反かもしれないが、このまま食事させてもらえないかとエステティシャンに申し出る。
彼女は仁那の申し出に、あり得ないというように目を見開いた。
おそらくそう簡単には予約が取れない女性憧れの超高級サロン。
なので『もったいない!』という意味なのだろう。
自分だって受けたい。でも、こんな高価なプレゼントは受け取れない。
「ごめんなさい。でも、こんな高級なエステ、受けさせていただくわけにはいかないんです」
仁那は正直に頭を下げる。
「……松代様から前金で全額頂いておりますし、当日のキャンセルは百パーセントの違約金が発生いたします」
なだめるように微笑みかけられた。
施術を受けるにせよキャンセルするにせよ、どちらにしても彼に負担がかかる。……強引に連れ出されたのだし、このサービスを仁那は了承していない。松代がキャンセル料を払うのは当然だ。
しかし時間を空けてくれ、準備をしてくれていたスタッフに申し訳ない。
「だったら施術は受けさせていただきます。でも、わたしがお支払いします」
「一度頂いた代金をキャンセルするにはお連れ様にお越しいただいて、カードをお預かりしなければマイナス計上ができません」
確固たる意志を示そうと宣言するが、やんわりと『当事者同士で話をしろ』と言われてしまった。
……仕方ない。松代に直接現金を返すしかないのだろう。金額を確認するため、エステティシャンに受けるコースの値段を聞いたが、教えてくれない。
「まことに申し訳ないのですが、松代様より『プレゼントなので、野暮な質問はしないでほしい』とのメッセージを言付かっております」
対仁那用の想定問答集でも作っているのか、ことごとく論破されてしまう。
「あんにゃろおおぅ……」
仁那はスタッフに聞かれないよう口の中でののしった。
押しの強さを優雅さや洗練さで包んで、意のままに他人を扱うのが優れた人物の証しであるならば、松代は間違いなく一流だ。
……後でホテルのホームページを見て見当をつけるしかないらしい。
だが、果たして松代が受け取ってくれるのだろうか。なんだかんだ誤魔化されそうだ。
ため息をつきたいのを我慢して、仁那は担当者に頭を下げた。
「わかりました。よろしくお願いします」
エステティシャンは生温い笑みを貼りつけて、仁那を施術室へ導いた。
……渋々だったとはいえ、プロによる手技は素晴らしく気持ちよく、日頃の疲れが綺麗さっぱり取れた。
大人しくメイクされ、着替えの段になって仁那は呻き声をあげる。
「あの人は……!」
とろりとした生地に、美しいシルエットのワンピースは間違いなくブランドものだろう。靴にアクセサリー、高級そうなランジェリーまで。
――松代さんは、女性と食事に行くたびにこんなことをしてるの?
嫉妬交じりの疑念がむくむくと湧いてくる。
連れ出すテクニックもエスコートも、女性に払わせまいとする強引さも。全て経験から成り立っているのだと思うと、感嘆してしまう。と同時に、胸がチリチリと焦げてくる。
彼が慈しみ、愛おしんできた女性の存在が無性に腹立たしい。
「愛されてらっしゃいますのね」
微笑むエステティシャンにそう言われたが、皮肉にしか感じられない。
仁那は自嘲しつつ、泣きそうな顔で呟いた。
「こんな高いもの……わたしには似合わないですよね」
すると真面目な顔になったエステティシャンに諭される。
「ご自分に自信がおありで、ハイブランドを身に着ける方もいらっしゃいます。反対に、身に着けたことで自信が生まれる方もいらっしゃいます。松代様は高坂様にお似合いになる服を選ばれていますわ」
背中を押してもらって、仁那はようやく服に袖を通した。
「お連れ様、お見えになりました」
仁那の前を歩くスタッフが声をかけると、ロビーで座って待っていた松代が振り返り、なぜか目を瞠った。
それから微笑みを浮かべて立ち上がり、つかつかと仁那のもとに近づいてくる。
「仁翔先生、綺麗です」
そう言いながら差し出されたブーケの、メインの花の色が仁那の服に合わせてある。
「……そう、みたいですね」
受け取った仁那は力なく答えた。
松代は仁那へ伸ばそうとしていた手を止めて、彼女を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「ここまでしてもらえば、誰だって綺麗になれます。……なんで、こんなことをしていただいてるのかわかりません」
仁那は訝しげに松代を見つめた。
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