愛、螺旋

埴輪庭

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愛、螺旋

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 ──2023年4月8日

 ◆

 朝だ。

 僕は佳絵を起こさない様にそっと起き上がった。

 だが朝といっても朝じゃない。

 午前三時や午前四時といった時間帯を、僕は朝とは認めたくない。

 ちなみに今は午前四時である。

 元々忙しい職場だったが、ここ最近はとにかく酷い。

 これで金払いが悪いとあれば退職を考えるのだが、給料は良いため踏ん切りがつかない。

 では社内では人権を認められないというようなブラックか、と言われればそれも違う。

 仕事を強要されるわけではないのだ。

 ドカンと高給を提示され、昇給も気前が良い。

 ただし、働かなければどんどん評価を下げられ、重要な仕事を割り振られなくなるし、簡単に首を切られる。

 僕は結婚したばかりだし、色々と金が要り様になってくる筈だった。

 佳絵は無理をしないで欲しいと心配してくれるが、人間には無理をすべきシーンとすべきではないシーンがあると僕は思う。

 賃貸ではなく持ち家を、そして子供をと考えていくと、今は無理をすべきシーンなのだ。

 僕はふらつく足でベッドを出てリビングへと向かう。

 テーブルの上には、佳絵が昨晩作ったと見られる朝食が用意されていた。

 それからの記憶は定かじゃない。

 気付けば職場で仕事をしていたからだ。

 幾らなんでも無理しすぎたな、という思いはあるけれど、後1、2年もしたらもう一人くらい家族が欲しいねという話をしていた事もあり、今は気張り時だと我慢していた。

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 家族は増えるどころか、減ってしまった。

 仕事中、佳絵が事故に遭ったと警察から連絡が来たからだ。

 買い物の帰りに車に轢かれたらしい。

 俗に言う〇〇〇〇ミサイルというやつだった。

 運転手は男性で、70歳を過ぎていたという。

 ブレーキとアクセルを踏み間違えたのだそうな。

 遺体検分の際、僕は妻の事が良く分からなかった。

 遺体はそれほど激しく損壊していたのだ。

 くだんの車に弾き飛ばされるのみならず、他の車にも轢かれてグチャグチャになって。

 人生のかなり長い期間を一緒に過ごしてきたはずなのに、それでもよくわからない程に佳絵の体は壊れていた。

 "それ" を見た時、僕は視界の端で白い何かがパチパチと瞬き、視野が狭窄していく気がした。

 意識が遠のくともまた違う感覚だ。

 脳の中の、千切れてはいけない神経がちぎれていくような。

 そして何秒か経ち僕の意識がはっきりした時、警察官は何かとても哀れなモノを見るような目で僕を見ていた。

 僕は "生まれた瞬間から余命が3日だと宣言されている、難病持ちの赤ちゃんを見る目みたいだな" と馬鹿な事を考えていたのを覚えている。

 結句、目視での確認が出来ないという事でDNA鑑定がなされてその肉の塊が彼女だと確定した。

 確定してしまった。

 ◇◆◇

 中野 京平の人生が狂い始めた切っ掛けは、彼が小学校5年の時の家庭崩壊だろう。

 夫婦の3組の1組が離婚するといわれている世の中だ、家庭崩壊くらいは珍しい事ではない。

 だが中野の場合は少しばかり毛色が違う形での家庭崩壊だった。

 ひょんな事から新興宗教にハマり込んでしまった母親が決して手をつけてはいけない金に手をつけてしまったのだ。

 当然父親は激昂する。

 それは彼が経営する工場の運転資金だったからだ。

 父親は母親の頬を叩いた。

 母親は狂した。

 いや、この事が起こる前にとっくに狂っていたのかもしれない。

 上神様だとか浄財がどうとか叫びながら、父親の腹を包丁で突き刺した。

 そして父親の生暖かい血を全身で受け止めながら、ふと母親が黙り込み……絶叫をあげながら自分の首を描き切った。

 そう、中野少年の家庭は崩壊したのだ。

 ただし、離婚などという理由ではなく、父母の死という形で。

 中野はそれから某県の児童養護施設へ入れられた。

 そこは県内でもかなり大きな施設だった。

 児童は幼小中までの教育が受けられる。

 高校はさすがに施設から通う形になるが。

 そして法的な理由により、養護施設には高校卒業までしか居られない。

 大学は奨学金を使うなりしなければならない。

 そこで中野は後の妻となる佳絵と知り合った。

 ◇◆◇

「きょちゃん」

「京ちゃん京ちゃん」

「京ちゃん、算数教えて?」

「京平くん、あのう……彼女とかいるの?」

「ねえ京平はどこの高校を受験するの? ……そっか、じゃあ私もそこにしようかな」

「京平、卒業したらどうするの? 就職?」

「ねえ、私も卒業したら園を出ないといけないんだけど……1人は寂しいし……よかったらシェアとかしない?」

 魂と魂が惹かれ合う、と言う事があるのかもしれない。

 佳絵の両親もまた自殺をしており、そういった境遇が中野との共振を高めたのだろう。

 必ずしも人当たりが良いとはいえず、それどころか狷介ともいえる中野に佳絵は怒涛の構って攻撃を仕掛けた。

 中野も佳絵の事情を聞いたからか、あっというまに陥落し、二人は無二の友人同士となる。

 ◇◆◇

 中野と佳絵は互いに親なしと言う境遇もあり加速度的に親しくなっていった。

 そして、施設を退所しなければいけない頃には互いには口に出さずとも、この相手と将来を共にするのだろうな、といううっすらとした予感を抱いていた。

 その予感は的中し、中野と佳絵は同じ屋根の下で暮らし始めて、四ヶ月で男と女の関係になった。

 まあ体自体は重ねようとしてきたのだが、お互い初めてという事もあり、何度も失敗して……成功したのが四ヶ月目ということである。

 二人とも子供はどうとか結婚はどうとか、将来の事は余り考えていなかった。

 ただお互いが居ればいい、そんなふわっとした依存味のある愛情の繭に包まれ共同生活を重ねていった。

 生活に関しては問題はなかった。佳絵は事務職、中野は忙しいがそれなりに給料が高いとあるIT系の会社に就職が出来たからだ。

 二人とも大学への進学は諦めて、高卒での就職を選んだ形となる。

 特に中野に関しては少なくともこの時点では僥倖だった。くだんの会社はいわゆるハングリーでタフな人材とやらを求めており、そういう意味で中野は打ってつけの人材と言える。

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「佳絵を愛しています。僕と結婚してください」

 余りにも不器用で飾りもなにもない、だがそれだけに真情が込められたプロポーズの言葉を佳絵は泣き笑いの表情で受け入れた。

 中野にとっては幸せの絶頂とはまさにあの瞬間と言えた。

 だがそんな幸せはあっというまに……木っ端微塵に砕けてきえた。

 佳絵の葬儀は何がなんだか分からない内に終わった。

 互いに家族がいない、しかしお互いがいればそれで良い、という様な生活を送ってきたゆえに友人などもいない。

 葬儀は酷く寂しいものになってしまったが、中野にとってはそんな事はどうでもよかった。

 肝心なのはこれからの人生は佳絵なしの人生を送らねばならないという事だった。

 そして、中野はそんな人生はまっぴら御免であった。

 ◇◆◇

 部屋の一室で中野は輪をつくってぶら下げたロープをみやった。

 ロープはロフトの手すり部分へつなげてある。

 手で引くが特に問題はなさそうだ。

 ロープも新品で強度に問題はない。

 中野は輪に首を通し、足場を蹴りだして首を吊ろうとした。

 だが尻から床へ落ちてしまう。

 ロープが千切れたのだ。

 買ったばかりなのに何故? と中野は首をかしげる。

 余った部分で再度首を吊ろうとするが、やはり千切れる。

 不良品だったのだろうか、と手で引っ張ってみるがびくともしない。

 ちなみに自殺に使おうとしたロープが新品にも関わらず引き千切れたわけなのだが、中野の身に起きた奇怪な出来事はそれだけに留まらない。

 スリップして突っ込んできた車が急に軌道を変え横転したり、階段から転げ落ちても無傷でどこも痛めていなかったり、飛び降りて死のうとしたときは3回中3回とも屋上への扉が厳重に施錠されていたり。

 マンションのベランダから飛び降りようとすれば今度は窓の立てつけが酷く悪くなり、開かなくなってしまうのだ。

 叩き割ろうとしても一瞬の内に強化ガラスか何かに変化してしまったのか割れやしない。

 中野はまるで何かに護られているように不運を遠ざけつづけていた。

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 ある日、ため息をついたふと中野が何気なく部屋の片隅をみると、文机の上に一冊の聖書が置いてあった。

 中野のものではない。

 佳絵のものだ。

 中野と佳絵が暮らしていた児童養護施設はキリスト教系の流れを組む。

 日曜日は施設内の教会で礼拝などに参加していた。

 中野の家庭は新興宗教が原因で崩壊してしまったので、宗教というものにはどうしても厳しい視線を向けざるを得ないが、佳絵はそんな中野とは逆に敬虔なキリスト教徒であった。

 中野も好意を抱く佳絵が信仰するものを腐す気にはなれず、なんとなく礼拝だのなんだのに参加したりしていた。

 聖書を見た中野の脳裏に、かつて佳絵が言っていた言葉がリフレインする。

 良い事をすれば天国へいけるんだよ、と。

「天国……天国か。佳絵も天国にいるのかな。天国。天国はどうやっていける? 少なくとも自殺ではいけなさそうだし、そもそも死ねないんじゃなぁ」

 中野は自殺を諦めた。

 なぜか? 

 それでは佳絵に逢えないからに決まっている。

 ◇◆◇

 とはいえ。

 ──良い事といってもなあ

 中野は悩むが、ある種の脅迫観念の様に"良い事をしなければ"という思いが湧いてきて落ち着かない。

 そも、良い事をすれば天国にいける、天国に行けば亡き妻と逢えるなど、これはもう何の根拠もないただの妄想なのだ。

 中野も理屈ではそれが分かっているのだが、脳の奥の奥の更に奥で、中野に善行を促す声が聴こえている。

『会いたくないのか、逢いたくないのか、私にあいに来てくれないのか』

 はっきりとそんな声が聞こえたわけではないが、しかし中野はその声に突き動かされる様に自分なりの善行を重ねていった。

 まあ善行といっても些細なものだ。

 出勤中、ポイ捨てされている缶が目につけばそれを拾ってダストボックスへ捨てたり、その程度の事である。

 だがすぐにもっと "効率の良い" 善行に気付く。

 それは仕事で頭を抱え込んでいる同僚に、積極的に手を貸す事だった。

 これだけ忙しい職場ではボランティアなどは出来ないし、目についたゴミを捨てるというのでは善行としては物足りない様に思える。

 会社を辞めるというのは周囲へ迷惑が掛かりそうなので却下だった。

 しかし辛そうにしている同僚に手を貸すというのは良い考えであるように中野には思える。

 仕事の負担を申し出れば、相手があからさまに喜んでくれるというのもポイントが高かった。

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 だがそんな日々を送るうちに、中野の顔色は日に日に悪くなっていった。

 理由は一つしかない。

 過労だ。

 ある日、癖毛の同僚が心配そうに中野に声をかけた。

 中野の同期の気の良い青年だが、ここ最近はスピリチュアルな趣味にハマっている。

「中野さん、大丈夫ですか? 最近、顔色がすごく悪いような……。無理してない?」

 中野はその声掛けに一瞬戸惑いを見せる。

 しかしすぐに笑顔を取り戻し、「大丈夫ですよ。ちょっと忙しいだけですから」と答えた。

 ──忙しいって言ったって全部中野さんが抱え込んでいるんだけどねぇ

 同僚はそんな事を言いたそうな目で中野を見る。

 中野も同僚の言いたい事は分かったが、だからといって今の状況を帰るつもりなどはさらさら無かった。

 何故かと言えば、中野はいわゆる "お得感" を覚えていたからだ。

 良い事をしながら弱っていく事が出来る……これは中野の中で大層お得な事だった。

 中野の本心としては、これ以上佳絵の居ない寒々しい世界で生きて居たくない。さっさと退散ジサツしてしまいたい。しかしそれだと佳絵のいる場所へ行けない可能性があるし、そもそも自殺自体が困難だ。

 なぜか失敗してしまう。

 だったらと、中野はげっそりとしながら笑顔で同僚たちの仕事を引き受け、毎晩毎晩遅くまで残業をしていた。

 辛い、疲れた、しんどい、眠い、体が痛い、目が痛い、体が痛い、そういった諸々を感じるたびに、中野は佳絵との距離が近づいている様に感じるのだ。

 ◇◆◇

 ある朝……と言っても午前四時だが、自宅の洗面所で顔を洗っていた所、なにやら鼻の部分からどろりと垂れてくるものがある。

 触ってみれば血だった。

 鼻血だ。

 血の赤を認識すると同時に足に力が入らなくなり、中野自身にも判然としないが涙まで出てきた。

「し、し、仕事が、よ、佳絵に」

 中野はろれつの回らない舌で呟き、そしてその場にゆっくりと倒れる。

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 中野の意識はどこか暗い場所を彷徨っていた。

 寒くて暗い、ただそこに居るだけで心から気力が喪われていく様な、そんな寂しい場所だった。

 そんな場所で、中野は自分の意識がぷちりぷちりと細切れになっていくのを感じていた。

 例えるなら白い煙が夜の闇へ溶け、消えていく様な。

 そのまま時間を置けば、中野の意識はこの暗闇の中へ消えていってしまった事だろう。

 だがおぼつかない意識の中、中野は「それでいい」と思った。

 全てに於いて限界だったのだ。

 愛する佳絵は死んだ。

 すぐに後を追うのはいい。

 だが、自分が死んだとして佳絵と再会が出来るのだろうか? 

 そもそも死んだ後、天国や地獄なんてものがあるのだろうか? 

 意識に連続性は? 

 もしかしたら人間は死んでしまうとそこで何もかもが終わりなのかもしれない。

 だとすると、"良い事" を頑張って天国へ行って佳絵と再会なんてそもそも出来ないという事になる。

 そして中野の理性は、"死んでしまえば何もかもが終わり" という考えのほうが現実的だと気付いていた。

 ──厭だな

 厭だった。嫌であった。冗談じゃなかった。そんな現実を生きるくらいならすぐに死んでしまった方がマシだった。

 だが死ねない。

 首を吊ろうとしても死ねないし、飛び降りも上手くいかない。

 それならこの暗黒に呑み込まれてしまおうと考えたが……

 そうはならなかった。

 中野は不意に、暗闇の中で自身の手を知覚する。

 そして、誰かが自分の手を握っている事も。

 ──離さないでね

 聞き覚えのある声が耳朶を打つと、中野は意識が引き上げられていく感を覚え──……暗から明へ。

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 最初に目に入ったのは白と灰色が混じり合った病院特有の無機質な天井だった。

 視界がクリアになるにつれて、彼は自分がベッドに横たわり、点滴が腕につながれていることに気づいた。

 ──病室だ

 見渡せば他にもベッドが並んでおり、それぞれの間を白いカーテンが仕切っていた。

 病室内は静かで、時折聞こえるのは隣のベッドからの小さな咳払いや、遠くの廊下を行き交う足音、そしてどこかの部屋から聞こえてくる医療機器の断続的なビープ音だけだ。

 なんで目覚めちゃったのかねぇ、とは思わない。

 中野は黙って掌を眺めている。

 あの手の感触、そしてあの囁きの声色──……

 中野には覚えがあった。

 ありすぎた。

 中野はもしかして、と思考を進めようとするが、病室のドアが開かれる音で考えを中断される。

 看護師が中野のもとへ近づいて「ああ、中野さん。体調はどうですか?」と妙に平坦な、感情を感じさせない声で言った。

 ◇◆◇

 中野が後から聞かされた話では、昼になっても出勤してこない中野を心配した同僚がマンションを訪れたとの事だった。

 玄関が施錠されていた為、ドアの外で電話をかけてみると室内からは着信音が聴こえてくる。

 同僚はこれでいわゆる "バックレ" ではない事に気付いた。

 仮にバックレであったなら、スマホの電源は切っておくかそもそも着信拒否をする筈だからだ。

 同僚の脳裏を最悪の光景が過ぎり──……

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「まあそんなわけで救急車を呼んだわけですけどね、思えばあれが切っ掛けだったのかなァ。なんかね、あの日は朝から変な感じがして……」

 癖毛の元同僚、新田がそんな事を言いながらグラスを呷る。頬はやや赤い。

「その話はもう何十回も聞いてますけど」

 中野は苦笑しながら空になった新田のグラスにビールを注ぐ。

 ここは都内某所のバーだ。

 特徴がないのが特徴というような、普通のバーである。

 値段も高くはない。

 安くもないが。

 二人がもう以前の会社を去ってから2年が経っていた。

 新田はヘッドハンティングされ、中野は思う所があり退職をしたのだ。

 新田は新しい会社で、中野は介護の仕事をしている。介護も介護で非常に忙しいが、以前の会社程ではない。

「まあ中野さんが正気に戻ってくれて良かったですよ。あの頃はなんかちょっと怖かったですからね。仕事に取り憑かれているというか、目なんか血走っちゃって、たまーに誰もいない方向へ話しかけたりもしてたんですよ。いやァ、おっかなかったなァ」

「そんな感じでしたか? 自分では良く分からないけど……まぁ僕も思う所があったというか」

 中野が答えると、新田は鼻の付け根に皺を集める様な変わった笑みを浮かべて言った。

「当事者ってのはまァそんなもんですよ、いざ自分が "そんなかんじ" になっていても、本人は気付かないもんなんです」

 中野は新田のいやに断定的な言に少し引っかかるも、頷いて自身もグラスを呷った。

 ◇◆◇

 それからの中野の人生は極々平坦なものだ。

 ただ、"良い事" は毎日何かしら続けていた。

 地域の清掃活動に参加したり、余裕がある時に寄付をしたり。

 ボランティアなどにも参加したりした。

 後は電車の席を譲ったりとかだろうか。

 良い事をすれば天国に行けるなどという事はもう真に受けては居なかったが、それでも辞める事はなかった。

 40歳を迎え、50歳となり、60歳となっても。

 "あの時" の手の感触、そして声が中野の精神に刻みつけられている。

 心の中で、中野はあの手を握り続けている。

 ──はなさないでね

 その声を思い出すと、決まって中野は思うのだ。

 ──はなすもんか

 と。

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 ・

 ◆

 結婚は出来なかった。

 いや、しなかった。

 所謂出会いとやらもあるにはあった。

 けれど、僕はそういうもの全てに気付かないフリをした。

 僕の心の中にはずっと佳絵が居たし、心の中の彼女を追い出す気分には到底なれなかったからだ。

 だから僕はこの年になるまで一人きりで暮らしている。

 そして、死にかけている。

 体は熱く、息苦しい。

 風邪か、他の病気か。

 呼吸もうまく出来ず、このままだと多分死んでしまうだろう。

 でも恐怖は無かった。

 誰かを遺していく悔いというものもない。

 新田などは10年程前に癌で死んでしまったし、そのほかにも数少ない友人、知人ももう居ない。

 家族? 

 佳絵以外には居ないし、彼女は随分前に僕を遺していってしまった。

 後は僕が居なくなるだけだ。

 ◇◆◇

 それは錯覚か、幻覚か。

 中野は自身の肉体から抜けて、空……というより "上" へと引き上げられていく感を覚えた。

 その感覚は初めてではない。

 "あの時" の感覚だ。

 だが、"あの時" とは明確に異なる点があった。

 中野の手を握っているその小さい手は──……

 ──佳絵

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 ──2023年11月2日

「ねぇ、きょうちゃん。今日は久しぶりに近所の公園に行ったんだけれどね、紅葉が真っ赤でとても綺麗だったんだよ。退院したら一緒に見に行こうね。今年は……こ、今年は無理かもしれないけれど。来年は、ぜ、ぜったい来年は……」

 そう言って、中野 佳絵は無理やり笑みを浮かべた。

 彼女の夫である中野 京平が過労による脳梗塞で倒れ、昏睡状態となってから半年以上となる。

 医者は京平の余命を三年と見立て、佳絵は覚悟は早めに決めた方がいいとまで言われていた。

 京平が身命を削って稼いだ金は、皮肉なことに京平の医療費に使われている。

 だがそれとて無限にあるわけではない。

 そもそも家族というものが存在しないのでそれらに頼る事も出来ない。

 まあ新田という京平の同僚がなにかと手助けしており、それには佳絵も随分と助けられていた。

 ──「結構普段から仕事で助けてもらってて、何かと世話になっていたので……中野さんには早く良くなって欲しいです。えっと、とにかくたくさん話しかけたり、体に刺激を与えてやったりするといいらしいですよ。まあそんなのは医者から説明を受けていると思うんですけど……」

 新田はそんな事をいって、京平に色々話しかけたりしていた。

 佳絵も京平の手を握り締め、色々と語り掛ける──……そんな日々だ。

 ところで医者は京平が目を覚ます可能性は非常に低いと診断を下しており、それにも関わらず佳絵が心を折らずにいれたのは理由がある。

 ある時彼女が京平の手を握り締めて何事かを話しかけていた時、京平が佳絵の手を握り返したのだ。

 少なくとも佳絵は京平が握り返してくれたと信じている。

 ・
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「私の手をはなさないでね。私も離さないから。絶対に……」

 昏睡し続ける京平に話しかけながら、佳絵は彼の手を強く握る。

 掌の中で何かがぴくりと何かが動いた。

 佳絵は目を大きく見開き、京平の顔を見つめる。

 京平の瞼がピクピクと震え、そして──……

「……佳絵」

 京平が呟き、目を開けた。

 佳絵の頬を透明な何かが伝う。

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