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第23話 見送る瞳、戻らぬ想い
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玉座の間で夜が明けていた。
厚い雲を貫いて差し込む朝陽の筋が、大理石の床にまるで誰かの魂を映すように落ちている。
王は己の冠を降ろし、新たな時代の幕が静かに開かれた。だが、全ての者が救われたわけではなかった。
兵士たちは戦いをやめ、重臣たちは沈黙のまま頭を垂れている。
誰もが疲弊した表情で、終わりと始まりの狭間に立っていた。
アイラ――かつてのアイリスは、まだその中にいた。
人々が称える“聖女”の名を持ちながらも、その顔には微笑も涙もなかった。
心が、まだ追いついていなかった。
清算された罪も、果たされた償いも、すべてが遠い夢の出来事のようだった。
「……王都が、こんなに静かだなんて」
呟いたその声を、ディランが隣で聞いていた。
彼もまた、長い戦を終えた戦士のような顔をしている。
「静けさに慣れるのに、少し時間がかかるかもしれないな」
「私たちは、これからどうなるのでしょう」
「どうにでもなれるさ。お前と俺は自由だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられる。自由――ずっと渇望してきた言葉なのに、なぜか涙が出そうだった。
城の外では、朝陽を浴びたレオンハルトが人々の前に立っていた。
誰よりも強く、そして弱い男。地に膝をつき、己の過ちを認めた王太子は、もう王になる器に変わっていた。
彼の声が響く。
「この国は新しく生まれ変わる。
王冠を守るためではなく、人の尊厳を守るために。
そして、かつて失った者たちのために、未来を紡ごう」
群衆がざわめき、歓声が起こる。
民はようやく夜の支配から解き放たれた。
だがその声を遠くで聞くアイラの心は、どこか遠い。
ディランが小さく眉をひそめた。
「何か、気がかりか」
「……彼の姿を見ていると、初めて会った日のことを思い出すんです」
婚約を命じられ、笑顔しか知らなかった幼い自分。
彼が笑えば嬉しくて、眉をひそめれば怯えていた過去。
それでも確かに、愛だった。
「レオンハルト様は、変わろうとしています。きっと、もう一度信じてもいい人になる」
「もう“信じる”必要はない。お前が彼に過去を赦した。奴はそれで救われた」
「……ええ、でも、心は勝手ですね。感謝と同じくらい、痛みもまだ残っている」
ディランは何も言わず、そっと彼女の肩に手を置いた。
「なら、痛みごと抱えて生きればいい。無理に忘れるな」
「あなたはいつも……そうやって、私ができないことを簡単に言う」
「俺は戦場で嫌というほど失った。忘れるより抱いていく方が、人は強くなるって知っただけさ」
彼の言葉には、戦場での重みと優しさがあった。
アイラの目が潤み、微笑がわずかに浮かぶ。
一方、広場では人々の前でレオンハルトが最後の宣言をしていた。
「王位の継承を終えたのち、私はしばし政を離れます。
かつて傷つけた者たちのために、歩き直す時間がほしい」
臣下がざわついたが、彼の眼差しの強さを前に誰も反論できなかった。
見上げる群衆の中に、彼の視線は確かにアイラを見つけた。
群れの中を越え、彼女の瞳を真っ直ぐに捉える。
――ありがとう。
声にならない言葉が、風に乗って届く。
アイラは一瞬だけ頷き、唇の動きで「さよなら」と返した。
ふたりの間に言葉はいらなかった。
赦しも懺悔も、すでに終わったのだから。
レオンハルトが背を向けて歩き出した。
誰かが「新しい王よ」と叫んだ。だが、誰よりも人間らしい彼の背中は、悲しくも清々しかった。
***
夕暮れ。
王都を離れる馬車が、金色の街道を走っていた。
窓の外には茜色の空、風にたなびく旗がひとつ。
ディランとアイラは並んでその景色を見つめていた。
「明日から、どこへ行きましょうか」
「決めていない。ただ……辺境にはもう春が来ている頃だ。戻って村の再建を始めたい」
「辺境に、戻るんですね」
「そこが、お前と俺の始まりだからな」
アイラは彼の肩に頭を預けた。
ゆるやかに馬車が揺れるたび、彼の体温が確かに伝わってくる。
全てを失って、また取り戻す。それがどんなに険しい道でも、今は怖くなかった。
「……あなたに会ってから、私はようやく“生きる”ことを知りました」
「お前がいなければ、俺もただの剣に過ぎなかった」
「それでも、一度きりの人生をあなたと選べてよかった」
「その言葉があれば、何もいらない」
窓の外で、遠くに王城の塔が見えた。
そこには、今はもう過去の自分たちが立っている。
血と涙で塗られた場所。それでも、消すことはできない歴史。
彼女は静かにその方角に手を合わせた。
「さようなら、王都。
さようなら、私が愛した全ての人たち。
もう、私は戻りません」
ディランがその手を包み、優しく囁く。
「戻らなくていい。前だけを見ろ。お前の居場所は俺が守る」
「……ありがとう」
その瞬間、風が二人の髪を撫でた。
赤く染まった空に、一片の花びらが舞う。
それは辺境の地から吹き渡った春の印だった。
やがて馬車は丘を越え、王都の景色が消えていく。
アイラは最後に窓越しに振り返った。
西に沈む夕陽が塔の上を染め、輝きの中にひとつの影が見えた気がした。
レオンハルトだ。
彼は城壁の上で、静かに右手を掲げている。
それが、彼女にとっての“最後の別れ”だった。
胸の奥で何かがふっと軽くなり、彼女は息を深く吸い込んだ。
見送る瞳の奥で願うのは、ただ一つ。
――どうか、あなたも幸福でありますように。
馬車が遠ざかり、影が完全に見えなくなる。
ディランがそっと彼女の肩を抱いた。
「さあ、行こう。今度こそ、お前が笑う場所へ」
「はい」
その返事には、涙も震えもなかった。
ただ確かに、希望と未来があった。
続く
厚い雲を貫いて差し込む朝陽の筋が、大理石の床にまるで誰かの魂を映すように落ちている。
王は己の冠を降ろし、新たな時代の幕が静かに開かれた。だが、全ての者が救われたわけではなかった。
兵士たちは戦いをやめ、重臣たちは沈黙のまま頭を垂れている。
誰もが疲弊した表情で、終わりと始まりの狭間に立っていた。
アイラ――かつてのアイリスは、まだその中にいた。
人々が称える“聖女”の名を持ちながらも、その顔には微笑も涙もなかった。
心が、まだ追いついていなかった。
清算された罪も、果たされた償いも、すべてが遠い夢の出来事のようだった。
「……王都が、こんなに静かだなんて」
呟いたその声を、ディランが隣で聞いていた。
彼もまた、長い戦を終えた戦士のような顔をしている。
「静けさに慣れるのに、少し時間がかかるかもしれないな」
「私たちは、これからどうなるのでしょう」
「どうにでもなれるさ。お前と俺は自由だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられる。自由――ずっと渇望してきた言葉なのに、なぜか涙が出そうだった。
城の外では、朝陽を浴びたレオンハルトが人々の前に立っていた。
誰よりも強く、そして弱い男。地に膝をつき、己の過ちを認めた王太子は、もう王になる器に変わっていた。
彼の声が響く。
「この国は新しく生まれ変わる。
王冠を守るためではなく、人の尊厳を守るために。
そして、かつて失った者たちのために、未来を紡ごう」
群衆がざわめき、歓声が起こる。
民はようやく夜の支配から解き放たれた。
だがその声を遠くで聞くアイラの心は、どこか遠い。
ディランが小さく眉をひそめた。
「何か、気がかりか」
「……彼の姿を見ていると、初めて会った日のことを思い出すんです」
婚約を命じられ、笑顔しか知らなかった幼い自分。
彼が笑えば嬉しくて、眉をひそめれば怯えていた過去。
それでも確かに、愛だった。
「レオンハルト様は、変わろうとしています。きっと、もう一度信じてもいい人になる」
「もう“信じる”必要はない。お前が彼に過去を赦した。奴はそれで救われた」
「……ええ、でも、心は勝手ですね。感謝と同じくらい、痛みもまだ残っている」
ディランは何も言わず、そっと彼女の肩に手を置いた。
「なら、痛みごと抱えて生きればいい。無理に忘れるな」
「あなたはいつも……そうやって、私ができないことを簡単に言う」
「俺は戦場で嫌というほど失った。忘れるより抱いていく方が、人は強くなるって知っただけさ」
彼の言葉には、戦場での重みと優しさがあった。
アイラの目が潤み、微笑がわずかに浮かぶ。
一方、広場では人々の前でレオンハルトが最後の宣言をしていた。
「王位の継承を終えたのち、私はしばし政を離れます。
かつて傷つけた者たちのために、歩き直す時間がほしい」
臣下がざわついたが、彼の眼差しの強さを前に誰も反論できなかった。
見上げる群衆の中に、彼の視線は確かにアイラを見つけた。
群れの中を越え、彼女の瞳を真っ直ぐに捉える。
――ありがとう。
声にならない言葉が、風に乗って届く。
アイラは一瞬だけ頷き、唇の動きで「さよなら」と返した。
ふたりの間に言葉はいらなかった。
赦しも懺悔も、すでに終わったのだから。
レオンハルトが背を向けて歩き出した。
誰かが「新しい王よ」と叫んだ。だが、誰よりも人間らしい彼の背中は、悲しくも清々しかった。
***
夕暮れ。
王都を離れる馬車が、金色の街道を走っていた。
窓の外には茜色の空、風にたなびく旗がひとつ。
ディランとアイラは並んでその景色を見つめていた。
「明日から、どこへ行きましょうか」
「決めていない。ただ……辺境にはもう春が来ている頃だ。戻って村の再建を始めたい」
「辺境に、戻るんですね」
「そこが、お前と俺の始まりだからな」
アイラは彼の肩に頭を預けた。
ゆるやかに馬車が揺れるたび、彼の体温が確かに伝わってくる。
全てを失って、また取り戻す。それがどんなに険しい道でも、今は怖くなかった。
「……あなたに会ってから、私はようやく“生きる”ことを知りました」
「お前がいなければ、俺もただの剣に過ぎなかった」
「それでも、一度きりの人生をあなたと選べてよかった」
「その言葉があれば、何もいらない」
窓の外で、遠くに王城の塔が見えた。
そこには、今はもう過去の自分たちが立っている。
血と涙で塗られた場所。それでも、消すことはできない歴史。
彼女は静かにその方角に手を合わせた。
「さようなら、王都。
さようなら、私が愛した全ての人たち。
もう、私は戻りません」
ディランがその手を包み、優しく囁く。
「戻らなくていい。前だけを見ろ。お前の居場所は俺が守る」
「……ありがとう」
その瞬間、風が二人の髪を撫でた。
赤く染まった空に、一片の花びらが舞う。
それは辺境の地から吹き渡った春の印だった。
やがて馬車は丘を越え、王都の景色が消えていく。
アイラは最後に窓越しに振り返った。
西に沈む夕陽が塔の上を染め、輝きの中にひとつの影が見えた気がした。
レオンハルトだ。
彼は城壁の上で、静かに右手を掲げている。
それが、彼女にとっての“最後の別れ”だった。
胸の奥で何かがふっと軽くなり、彼女は息を深く吸い込んだ。
見送る瞳の奥で願うのは、ただ一つ。
――どうか、あなたも幸福でありますように。
馬車が遠ざかり、影が完全に見えなくなる。
ディランがそっと彼女の肩を抱いた。
「さあ、行こう。今度こそ、お前が笑う場所へ」
「はい」
その返事には、涙も震えもなかった。
ただ確かに、希望と未来があった。
続く
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