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その日、月曜の放課後から、俺は可能な限り細川を見守ることにした。
部活で一緒の時は極力様子をうかがい、終わって学校を去る際も密かに後をつけ彼女が無事自宅に帰り着くのを確認した。彼女はいつも一番最後まで部室に残り絵に向き合っているので、終わる頃には外が暗くなっている。自宅までの帰路は襲撃にはもってこいの機会でもあるのだ。
月曜は荒井も端波も部活に参加していたので、勿論2人への警戒も怠らなかった。怪しい動きをしないか一挙手一投足に注意していたが、幸か不幸かその日はどちらも尻尾を出さなかった。端波とは昼休みの口論を最後に、口を利いていなかった。向こうは部活中、何か俺に言いたそうな素振りをみせたが、結局一言も話しかけてこなかった。細川襲撃の障害になる俺の動きを探りたかったのかもしれない、と思った。
とにかく襲撃の時間も場所も分からない以上、一瞬たりとも気を抜けなかった。予知夢で見た光景が実現する段階になったとして、俺がその場に居合わせることができる保証はどこにもない。ここまで来て自分の知らない処で全てが終わってました、なんてことになったら間抜けにも程がある。
翌火曜日は早朝から細川の家の前まで行き、物陰から玄関を見守る。細川が制服で姿を現すと、やはり学校まで後をつける。休み時間も、出来る限り細川の教室へ行き、様子を伺う。放課後になって部活の時間が来れば、前日とほぼ同じく……そんなことを3日に渡って木曜日まで続けた。端波に相談した月曜の放課後も含めれば、正確には3.5日繰り返したことになるが。
火曜日から木曜日にかけては、荒井は第二美術室に顔を出さなかった。野球部エースが3日も美術部を休むなんて、大層珍しいことだ。端波もこの3日間は、妙に早々と帰宅していった。このタイミングでこの2人の行動はやはり怪しい、と俺は疑惑を深めた。
端波に理由を問いただそうかとも思ったが、どうせ無駄だろうと判断して放っておくことにした。月曜日からずっと、端波とは一言も口を利いていなかった。好きな女性を殺害するかもしれない男と平然と話ができるほど、俺は無神経ではないのだ。
事態が最終局面に突入したのは木曜日、俺が1人で細川を守ろうと決意してから3日後の放課後だった。
この日も細川は夕方遅くまで部室で絵に取り組み、俺もそれに付き合って残っていた。ぼんやりとした電灯に照らされた室内は、すでに2人きりだった。細川が時折チラチラと俺の方に視線を送ってきたが、そんなことで照れたりする余裕はなかった。何せ俺には彼女を守るという重大な使命がある。
やがて細川は今日の分の作業を終えたのか、帰り支度を始めた。絵を描くふりをして彼女に注意を払っていた俺も、慌てて画材をしまう。「一緒に帰ろう」と誘うことも考えたが、さすがにそれは図々しいと思い直した。彼女が部屋を出て行った後、やや間を置いて窓の鍵が閉まっていることだけ確認してから電気を消し、俺も細川に続いた。
廊下の奥まった処にある第二美術室から昇降口までは、直線だがかなりの距離がある。薄暗い廊下に、細川の後ろ姿が見えた。その背中が、途中にある女子トイレの中に消える。
流石にそこまでは尾行できない。出てくるのを待つか……俺は彼女に先回りして昇降口の下駄箱の陰に身を隠し、女子トイレを見守った。
細川はすぐに出てきた。そのまま昇降口までくるのかと思いきや、何故か下駄箱が並ぶスペースの直前でぴたりと足音が止まった。「はあ」と、ウンザリしたような大きなため息をつく。
「ねえ、何なの、多岐川くん」
ギクリとした。細川が俺に呼びかけている。ここに隠れているのがバレている!?
「そこにいるんでしょ、コソコソしてないで出てきなさいよ」
声は確信に満ちていた。こうなっては是非もない。俺はスゴスゴといった態で、下駄箱の影から廊下に出て行った。
廊下はすでに薄暗かったが、それでも嫌悪感がにじんだ細川の表情がはっきりわかった。
「あんた、最近ずっとあたしのことつけてるでしょ。朝、家を出る時から、夜学校を出る時までずっと。休み時間や部活中もずっとあたしを監視して。わかってんだよ」
「う……あの……」
「さっきだって部室で絵を描いてるふりして、あたしの方ばっか見てたよね。ねえ、一体どういうつもり? あんた、あたしのストーカーなわけ? キモいんだけど」
「こ、これは君のためなんだ」
「は、あたしの為?」
「そうだ、ヤバい男が君を狙っている。そいつから君を守るために、俺は……」
俺がそう言った途端、細川は哄笑を爆発させた。ややヒステリックに感じるほど、激しい笑い方だった。
「わ、笑い事じゃないんだ。本当に、」
「これが笑わずにいられるかっつーの。ヤバい奴に狙われてるだあ? おめーがまさに、そのヤベー男じゃねえかよ!」
「なっ……」
別に感謝されたくて護衛をしていたわけではないが、それでもこの言われようはショックだった。粗雑な喋り方も、俺が抱く細川のイメージに相応しくない。これが彼女の本性だろうか。
「妄想の果てに自分を特別視して、典型的なストーカー気質じゃねーか。仮にほんとにヤバい奴に狙われてたとしても、あんたにどうにかしてもらう必要ねーよ。彼氏を頼るわ」
「か、彼氏!?」
あまりに予想外の言葉が細川の口から飛び出して、俺は愕然とした。
「そうよ、あたし彼氏がいんだよ。知らなかった? だからあんたには万に一つも可能性ないの、諦めな」
細川はなおも嘲弄するような調子で俺が聞きたくない言葉を次々と重ねていく。やめろ、これ以上、俺の前で醜悪な様をみせないでくれ……
「あんたがあたしに気があることくらい、とっくに気づいてたわよ。美術部に入ったのも、どうせあたし目当てでしょ? いっつもジロジロこっちをみて、そういうのマジ迷惑だから。前からウザかったけどとうとうこんなストーカーまがいのことまではじめられて、もう我慢の限界。美術部出てって、そんで2度とあたしの前に姿見せんなよ。荒井もそうだけど、あんたもずっと追い出したかったの。あんたらみたいなやる気のない下手くそに居座られたんじゃ、こっちのモチベも……」
あんまりだ。
あの荒井と同列だなんて。君は俺のことをそんな風に見ていたのか。俺は君を守るために、身命を賭しているのに。こんなに、君のことを想っているのに――!
気がついたら右手をズボンのポケットに突っ込んでいた。ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、刃を立ち上げる。暴走気味に回転していた細川の舌が止まり、その顔には呆気に取られたような表情が浮かぶ。
俺は細川の顔めがけてナイフで切りつけた。細川は咄嗟に一歩下がってナイフの軌跡を避ける。皮膚が傷つくことはなかったが、前髪が数本切れてはらはらと舞った。
「ちょ、あんたいきなり何して……って、え、ナイフ、本物!? な、何でんなもの持ってんのよ!」
「君を守るためだ、君を……てめえを守るためだったんだよ!!」
謎の襲撃者がナイフを持っていることが分かっている以上、こちらも丸腰では対抗できない。そう思い、月曜の夜に量販店で折りたたみナイフを購入し、火曜日からはポケットの中に常に携行していた。すべては細川を守るためだった。それなのに、まさかこのナイフを細川に向けることになろうとは。
本末転倒の極みだが、今はそんなことはどうでも良かった。目の前の女への憎しみが飽和して、脳がパンクしそうだった。ひとの真心を、踏みにじりやがって!
「ひぃ……!」
俺が一歩踏み出すと細川は耳障りな悲鳴をあげ、俺に背中を見せて駆け出した。馬鹿め、そっちは第二美術室の方向、つまり行き止まりだ。追いかけながら心中で罵る。
廊下最奥の壁に突き当たった細川はややタタラを踏んだ後、すぐに傍らの第二美術室の扉をあけて入っていく。窮地に立って本能的に慣れ親しんだ場所に逃げこんだのだろうが、これでいよいよ袋のねずみだ。
間髪を入れず俺も第二美術室の扉をくぐると、細川は窓を開けようとしていた。そこから外に逃げ出すつもりなのだろうが、もちろんそんなことはさせない。サビが浮いて硬くなったクレセント錠に苦戦している背中めがけて踊りかかると、細川はビクッと反応して横に飛び退いた。勘のいいことだが、俺の攻撃を避けた拍子にバランスを崩し、床に尻もちをつくことになった。もちろん俺は、立ち上がる隙を与えるつもりはない。
細川は尻を床につけたまま、じりじりと後ろへ下がっていく。俺はそんな彼女を、じりじりと追い詰める。
やがて細川の背中は部屋の壁にぶつかり、それ以上は下がれなくなった。ざまあみやがれ。よく見るとその壁は、例の自画像用の特大姿見が取り付けられた壁だった。細川は鏡に背中をくっつけていることになる。
「や、やめなさいよ、こっちにこないで……」
「口の利き方に気をつけろ、クソ女」
時刻の早い月の光が、窓から電気の消えた室内に射しこんでいる。細川が恐怖に蒼ざめた表情で真正面から俺を見つめている。唇が小刻みに震えている。カチカチと歯を打ち鳴らす音がする。
姿見に背中を密着させている彼女の虚像は俺からは見えないが、彼女に迫る俺の姿は鏡の中にはっきり映っている。怒りと興奮で息が荒くなり、肩が上下している。まるで細川の背後から何者かが、闇に紛れて近づいてくるようだ。
どこかで見た光景だなと一瞬思ったが、そんな思考はすぐに殺意の濁流に流された。ナイフが届く距離まで近づく。細川は恐怖でまともに動けない。生殺与奪は思いのまま。
俺はナイフを持った右手を思い切り振り上げた。鏡の中の俺が、その行動を忠実にトレースする。左右が反転しているので、まるで背後の何者かがナイフを持った左手を振り上げたようにも見えた。
構わず、細川の首筋めがけて突き下ろし……
背後で、部屋の扉が勢いよく開く音がした。驚いて、俺は身体を硬直させてしまった。刃は細川まで届かなかった。
反射的に振り向いた時には、すでに薄闇の中を何者かがものすごい勢いで突進してきていた。その何者かは瞬く間に俺の至近に到達し、顔が月明かりに浮き上がる。荒井だった。野球部エースで、美術部員でもある、あの荒井重彦。
驚く間もなく俺は荒井のタックルを受け、後方にもんどりうった。その弾みでナイフを右手から離してしまう。荒井は俺に立ち上がる暇も与えず、そのまま組み伏せてしまった。身体の自由を回復しようと必死にもがいたが、膂力では適うはずもない。押さえつけられたまま、床に腹這っているしか術がなかった。
「やはりこうなったか。本当にお前の予知夢は、正確無比だよ……」
荒井は1人でここにきたわけではなかった。第二美術室の扉から、別の男が入ってきた。俺の予知夢について知っている者など、他にいるはずもない。
月の光の中で、端波秀臣が憐れむような眼で俺を見下ろしている……
部活で一緒の時は極力様子をうかがい、終わって学校を去る際も密かに後をつけ彼女が無事自宅に帰り着くのを確認した。彼女はいつも一番最後まで部室に残り絵に向き合っているので、終わる頃には外が暗くなっている。自宅までの帰路は襲撃にはもってこいの機会でもあるのだ。
月曜は荒井も端波も部活に参加していたので、勿論2人への警戒も怠らなかった。怪しい動きをしないか一挙手一投足に注意していたが、幸か不幸かその日はどちらも尻尾を出さなかった。端波とは昼休みの口論を最後に、口を利いていなかった。向こうは部活中、何か俺に言いたそうな素振りをみせたが、結局一言も話しかけてこなかった。細川襲撃の障害になる俺の動きを探りたかったのかもしれない、と思った。
とにかく襲撃の時間も場所も分からない以上、一瞬たりとも気を抜けなかった。予知夢で見た光景が実現する段階になったとして、俺がその場に居合わせることができる保証はどこにもない。ここまで来て自分の知らない処で全てが終わってました、なんてことになったら間抜けにも程がある。
翌火曜日は早朝から細川の家の前まで行き、物陰から玄関を見守る。細川が制服で姿を現すと、やはり学校まで後をつける。休み時間も、出来る限り細川の教室へ行き、様子を伺う。放課後になって部活の時間が来れば、前日とほぼ同じく……そんなことを3日に渡って木曜日まで続けた。端波に相談した月曜の放課後も含めれば、正確には3.5日繰り返したことになるが。
火曜日から木曜日にかけては、荒井は第二美術室に顔を出さなかった。野球部エースが3日も美術部を休むなんて、大層珍しいことだ。端波もこの3日間は、妙に早々と帰宅していった。このタイミングでこの2人の行動はやはり怪しい、と俺は疑惑を深めた。
端波に理由を問いただそうかとも思ったが、どうせ無駄だろうと判断して放っておくことにした。月曜日からずっと、端波とは一言も口を利いていなかった。好きな女性を殺害するかもしれない男と平然と話ができるほど、俺は無神経ではないのだ。
事態が最終局面に突入したのは木曜日、俺が1人で細川を守ろうと決意してから3日後の放課後だった。
この日も細川は夕方遅くまで部室で絵に取り組み、俺もそれに付き合って残っていた。ぼんやりとした電灯に照らされた室内は、すでに2人きりだった。細川が時折チラチラと俺の方に視線を送ってきたが、そんなことで照れたりする余裕はなかった。何せ俺には彼女を守るという重大な使命がある。
やがて細川は今日の分の作業を終えたのか、帰り支度を始めた。絵を描くふりをして彼女に注意を払っていた俺も、慌てて画材をしまう。「一緒に帰ろう」と誘うことも考えたが、さすがにそれは図々しいと思い直した。彼女が部屋を出て行った後、やや間を置いて窓の鍵が閉まっていることだけ確認してから電気を消し、俺も細川に続いた。
廊下の奥まった処にある第二美術室から昇降口までは、直線だがかなりの距離がある。薄暗い廊下に、細川の後ろ姿が見えた。その背中が、途中にある女子トイレの中に消える。
流石にそこまでは尾行できない。出てくるのを待つか……俺は彼女に先回りして昇降口の下駄箱の陰に身を隠し、女子トイレを見守った。
細川はすぐに出てきた。そのまま昇降口までくるのかと思いきや、何故か下駄箱が並ぶスペースの直前でぴたりと足音が止まった。「はあ」と、ウンザリしたような大きなため息をつく。
「ねえ、何なの、多岐川くん」
ギクリとした。細川が俺に呼びかけている。ここに隠れているのがバレている!?
「そこにいるんでしょ、コソコソしてないで出てきなさいよ」
声は確信に満ちていた。こうなっては是非もない。俺はスゴスゴといった態で、下駄箱の影から廊下に出て行った。
廊下はすでに薄暗かったが、それでも嫌悪感がにじんだ細川の表情がはっきりわかった。
「あんた、最近ずっとあたしのことつけてるでしょ。朝、家を出る時から、夜学校を出る時までずっと。休み時間や部活中もずっとあたしを監視して。わかってんだよ」
「う……あの……」
「さっきだって部室で絵を描いてるふりして、あたしの方ばっか見てたよね。ねえ、一体どういうつもり? あんた、あたしのストーカーなわけ? キモいんだけど」
「こ、これは君のためなんだ」
「は、あたしの為?」
「そうだ、ヤバい男が君を狙っている。そいつから君を守るために、俺は……」
俺がそう言った途端、細川は哄笑を爆発させた。ややヒステリックに感じるほど、激しい笑い方だった。
「わ、笑い事じゃないんだ。本当に、」
「これが笑わずにいられるかっつーの。ヤバい奴に狙われてるだあ? おめーがまさに、そのヤベー男じゃねえかよ!」
「なっ……」
別に感謝されたくて護衛をしていたわけではないが、それでもこの言われようはショックだった。粗雑な喋り方も、俺が抱く細川のイメージに相応しくない。これが彼女の本性だろうか。
「妄想の果てに自分を特別視して、典型的なストーカー気質じゃねーか。仮にほんとにヤバい奴に狙われてたとしても、あんたにどうにかしてもらう必要ねーよ。彼氏を頼るわ」
「か、彼氏!?」
あまりに予想外の言葉が細川の口から飛び出して、俺は愕然とした。
「そうよ、あたし彼氏がいんだよ。知らなかった? だからあんたには万に一つも可能性ないの、諦めな」
細川はなおも嘲弄するような調子で俺が聞きたくない言葉を次々と重ねていく。やめろ、これ以上、俺の前で醜悪な様をみせないでくれ……
「あんたがあたしに気があることくらい、とっくに気づいてたわよ。美術部に入ったのも、どうせあたし目当てでしょ? いっつもジロジロこっちをみて、そういうのマジ迷惑だから。前からウザかったけどとうとうこんなストーカーまがいのことまではじめられて、もう我慢の限界。美術部出てって、そんで2度とあたしの前に姿見せんなよ。荒井もそうだけど、あんたもずっと追い出したかったの。あんたらみたいなやる気のない下手くそに居座られたんじゃ、こっちのモチベも……」
あんまりだ。
あの荒井と同列だなんて。君は俺のことをそんな風に見ていたのか。俺は君を守るために、身命を賭しているのに。こんなに、君のことを想っているのに――!
気がついたら右手をズボンのポケットに突っ込んでいた。ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、刃を立ち上げる。暴走気味に回転していた細川の舌が止まり、その顔には呆気に取られたような表情が浮かぶ。
俺は細川の顔めがけてナイフで切りつけた。細川は咄嗟に一歩下がってナイフの軌跡を避ける。皮膚が傷つくことはなかったが、前髪が数本切れてはらはらと舞った。
「ちょ、あんたいきなり何して……って、え、ナイフ、本物!? な、何でんなもの持ってんのよ!」
「君を守るためだ、君を……てめえを守るためだったんだよ!!」
謎の襲撃者がナイフを持っていることが分かっている以上、こちらも丸腰では対抗できない。そう思い、月曜の夜に量販店で折りたたみナイフを購入し、火曜日からはポケットの中に常に携行していた。すべては細川を守るためだった。それなのに、まさかこのナイフを細川に向けることになろうとは。
本末転倒の極みだが、今はそんなことはどうでも良かった。目の前の女への憎しみが飽和して、脳がパンクしそうだった。ひとの真心を、踏みにじりやがって!
「ひぃ……!」
俺が一歩踏み出すと細川は耳障りな悲鳴をあげ、俺に背中を見せて駆け出した。馬鹿め、そっちは第二美術室の方向、つまり行き止まりだ。追いかけながら心中で罵る。
廊下最奥の壁に突き当たった細川はややタタラを踏んだ後、すぐに傍らの第二美術室の扉をあけて入っていく。窮地に立って本能的に慣れ親しんだ場所に逃げこんだのだろうが、これでいよいよ袋のねずみだ。
間髪を入れず俺も第二美術室の扉をくぐると、細川は窓を開けようとしていた。そこから外に逃げ出すつもりなのだろうが、もちろんそんなことはさせない。サビが浮いて硬くなったクレセント錠に苦戦している背中めがけて踊りかかると、細川はビクッと反応して横に飛び退いた。勘のいいことだが、俺の攻撃を避けた拍子にバランスを崩し、床に尻もちをつくことになった。もちろん俺は、立ち上がる隙を与えるつもりはない。
細川は尻を床につけたまま、じりじりと後ろへ下がっていく。俺はそんな彼女を、じりじりと追い詰める。
やがて細川の背中は部屋の壁にぶつかり、それ以上は下がれなくなった。ざまあみやがれ。よく見るとその壁は、例の自画像用の特大姿見が取り付けられた壁だった。細川は鏡に背中をくっつけていることになる。
「や、やめなさいよ、こっちにこないで……」
「口の利き方に気をつけろ、クソ女」
時刻の早い月の光が、窓から電気の消えた室内に射しこんでいる。細川が恐怖に蒼ざめた表情で真正面から俺を見つめている。唇が小刻みに震えている。カチカチと歯を打ち鳴らす音がする。
姿見に背中を密着させている彼女の虚像は俺からは見えないが、彼女に迫る俺の姿は鏡の中にはっきり映っている。怒りと興奮で息が荒くなり、肩が上下している。まるで細川の背後から何者かが、闇に紛れて近づいてくるようだ。
どこかで見た光景だなと一瞬思ったが、そんな思考はすぐに殺意の濁流に流された。ナイフが届く距離まで近づく。細川は恐怖でまともに動けない。生殺与奪は思いのまま。
俺はナイフを持った右手を思い切り振り上げた。鏡の中の俺が、その行動を忠実にトレースする。左右が反転しているので、まるで背後の何者かがナイフを持った左手を振り上げたようにも見えた。
構わず、細川の首筋めがけて突き下ろし……
背後で、部屋の扉が勢いよく開く音がした。驚いて、俺は身体を硬直させてしまった。刃は細川まで届かなかった。
反射的に振り向いた時には、すでに薄闇の中を何者かがものすごい勢いで突進してきていた。その何者かは瞬く間に俺の至近に到達し、顔が月明かりに浮き上がる。荒井だった。野球部エースで、美術部員でもある、あの荒井重彦。
驚く間もなく俺は荒井のタックルを受け、後方にもんどりうった。その弾みでナイフを右手から離してしまう。荒井は俺に立ち上がる暇も与えず、そのまま組み伏せてしまった。身体の自由を回復しようと必死にもがいたが、膂力では適うはずもない。押さえつけられたまま、床に腹這っているしか術がなかった。
「やはりこうなったか。本当にお前の予知夢は、正確無比だよ……」
荒井は1人でここにきたわけではなかった。第二美術室の扉から、別の男が入ってきた。俺の予知夢について知っている者など、他にいるはずもない。
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