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A03運行:特命掛のハジメテ

0038A:今この瞬間も使っている紙も、樺太が作った物なんだ

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「つまりこの事故も、奥鈴谷の事故と同じ原因であったというわけだ」

 事故は果たして、解決した。彼らは連絡船へと向かう列車中で、事故の整理をしていた。

「樺太が置かれた状況を、東京は理解していなかった。我々の力不足です……」

「しかし、この問題を解決するのは難しいぞ」

 彼らの反省の弁を受けて、小林は一人難しい顔になる。

「鉄道現場の人間は、基本的に現地の市民から募集するのが原則だ」

「ということは、樺太の人口が増えなければ、現在の状況を改善するのは難しいということか?」

 笹井はそう言ったあとで、ハッとする。

「いやしかし、今現在のインフラがこの惨状では、人口増加なんて夢のまた夢だぞ」

「そう……ですね。鉄道事情だけを切り取ってみても、今の樺太は大変環境が悪いように見受けられました」

「これじゃ堂々巡り、いや、ともすれば悪循環にもなりかねんぞ」

「せっかくパルチザンから取り戻した土地なのに……。何か方法はないんですか? 例えば、本土から補充の人材を持ってくるとか」

「実は、それに関しての検討をしたことがある」

 小林がそう伝えると、水野はびっくりした。

「それは、職員局は樺太の窮状を前もって察知していたということですか?」

「いや、そうじゃない」

 小林は手をぶんぶんと振って否定した。

「樺太において、国鉄路線網を拡張しようという計画があるんだ」

「この状況で!?」

 水野は驚いて更に大きな声を出す。反対に、笹井は冷静だった。

「その話はワシも聞いた。たしか経済界からの要請だったな」

「その通り。水野君、考えてみたまえ。樺太がどういう土地なのかを」

 水野は頭の上にクエスチョンマークをぶら下げる。それをみて、笹井は苦笑しながら教えてくれた。

「日本の紙資源のうち、実に80%が樺太産の原料を使用している」

「80%!? それじゃあ、我が国の紙はほとんど樺太から供給されているということですか?」

「そうとも。林業を行っている地域は数知れど、紙産業向けの林業を行っているのは樺太ぐらいなものなんだ」

「静岡は、田子の浦は違うんですか?」

 水野は、間髪を入れず、紙の産地として有名な場所の名前を挙げる。小林は首を横に振った。

「あれは他所の原料を輸入して紙を作っているに過ぎない。考えてもみたまえ、あのあたりの一大森林と言えば富士樹海だが、樹海が伐採されているという話を聞いたことはあるか?」

 そう言われて、水野は首をブンブンと横に振った。

「つまり、そういうことさ。文明は紙によってもたらされたが、もし樺太が無ければ我々は紙をアメリカから輸入せざるを得ない」

「ちなみに、樺太で紙産業が興る前は、我が国は北欧、とりわけ瑞典スウェーデンから輸入していた。だが、肝心のスウェーデンは今……」

「あっ……」

 水野はここで、全てを理解したように口を手で覆った。

「そうか、欧州もパルチザンの攻撃で」

「そう。今や米国と樺太以外に、製紙原料パルプを供給できる地域は存在しないんだ」

 こういえば、事態の深刻さが分かるかね。小林がそう言うと、笹井が頭を抱える。

「これは本当に日本人全体の問題になってきたな。さらに言えば、樺太には石炭が大量に埋まっている」

「石炭問題も深刻だ。樺太には、最低でも日本の総需要6年分を優に超える石炭が埋蔵されている。しかし、今の状況では、それを満足に活かせていない」

「樺太は日本の生命線であるわけですね。しかし、それでもなお外部からの人員補充が難しいのは何故なんですか?」

 水野は盛大に脱線した話題を元に戻した。小林は、そう言えばそうだったと話を続けた。

「だから我々も、不要不急線の廃止・休止の代わりに、樺太で働かないかと方々に声をかけて回っているんだ」

「それで、どうなったんですか?」

 水野の言葉に、小林は腕まくりで答えた。そこには、まるで痣のようなものが並んでいる。

「これは?」

「現場に、それを提案しに行ったときに付いたものだ。まあ、俺はこれぐらいで済んでよかったよ」

 先輩方は頭から流血して大変な騒ぎになった、という。

「つまり、それだけ酷い抵抗にあったということですか。ただ提案をしただけなのに?」

「彼らの弁によると、樺太への転属は、”人権侵害”だそうだ」

 彼はそう憎々し気に吐き捨てた。

「そんなことを言われてしまっては、もうどうしようもないですね」

「計画案では、樺太に逃れた欧州系の避難民を雇用するという話まで出たそうだ。もしかしたら、樺太交通の現場でも、ロクに日本語……どころか、亜細亜語・英語すらできん者が必死に働いてるのかもしれん」

「結局、我々はどうしたらいいのでしょうか」

「わからん。職員局も様々頭を使ってきたが、結局出口は無かった」

 小林は煙草を吹かす。まるでやってられないと、彼はかぶりを振った。

「ともかく、先輩の言う通りこの状況を本庁へ報告しましょう。我々にできることは、まずここからです」
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