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第十四話 席順が語るもの
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第十四話 席順が語るもの
慈善晩餐会の会場は、夜が深まるにつれていっそう落ち着いた華やかさを帯びていった。
楽師たちの奏でる音色は控えめで、笑い声も高すぎない。普通の舞踏会のような浮ついたきらめきではなく、良識と格式を保った者たちが集う場らしい空気がある。けれど、そういう場だからこそ見えるものもあった。
誰がどこに立つか。
誰が誰へ先に挨拶するか。
誰が誰の隣に自然と席を得るか。
そういった細かなことが、そのまま社交界の評価になる。
エルミアはカイゼルと短く言葉を交わしたあと、慈善委員会の夫人たちへ案内されて席へ向かった。
長いテーブルにはすでに卓上花が整えられ、燭台の光が銀器にやわらかく映り込んでいる。席札は品よく置かれ、名前の並びは一見するとごく自然だった。
だが自然に見える席順ほど、実際にはよく考えられている。
エルミアは自分の席を見て、ほんのわずかに目を細めた。
主賓格の夫人たちに近い位置。
しかも、ただ“公爵令嬢だから”というだけでは説明しきれない置かれ方だった。あからさまではない。けれど、今夜のこの場において、彼女を軽んじるつもりはないのだと、誰の目にもわかる程度には明確だった。
「ずいぶんと、良いお席ですね」
隣から、柔らかな声がした。
振り向けばセレスティーヌ伯爵夫人が微笑んでいる。
「そう見えますか」
「ええ、とても。控えめに見えて、でも“あなたはここにいて当然です”という並びですもの」
その言葉に、エルミアは少しだけ視線を落とした。
席順。
それは時に、言葉よりよほど雄弁だ。
舞踏会の夜、自分は大勢の前で婚約破棄を言い渡され、悪女のように扱われた。あの瞬間、社交界の表向きの席順は崩れたのだろう。少なくとも多くの人間が、そう見せた。
だが今夜、このテーブルの並びは違う。
エルミア・ヴァレンティアを、元婚約者に捨てられた気の毒な令嬢としてではなく、社交界の中心近くに置くべき存在として扱っている。
「嬉しそうにはなさらないのですね」
セレスティーヌ伯爵夫人が少しだけ首をかしげた。
「嬉しくないわけではありませんわ」
エルミアは正直に答えた。
「ただ、少し不思議なのです。ほんの少し前まで、皆様は距離をお取りになっていたのに」
伯爵夫人はくすりと笑う。
「それは皆様が賢かったからですわ」
「賢い?」
「ええ。軽率にどちらかへついてしまうのではなく、少し待ってから本当の値打ちを見る。社交界の上のほうに残る方々は、大抵そういうものです」
ずいぶんとあけすけな言い方だ。
だがそれは真実でもあるのだろう。
最初に騒いだ者たちは、物語へ飛びついた。
少し遅れて動く者たちは、現実を見ている。
そして今、現実を見た結果として、席順が変わっている。
「今夜は特にそうですわね」
セレスティーヌ伯爵夫人は小声で続ける。
「皆様、見ていらっしゃるもの」
「何をでしょう」
「あなたが、どういう顔でここにいらっしゃるかを」
エルミアは一瞬だけ言葉を失った。
だが、すぐに小さく笑う。
「では、期待に添えておりますかしら」
「ええ、とても」
伯爵夫人は迷いなく頷いた。
「痛々しくもなく、見せつけがましくもなく、でも弱ってもいない。理想的ですわ」
それは褒められているのだろうが、ずいぶん評価項目が現実的だった。
「ずいぶん厳しい基準ですのね」
「社交界ですもの」
まったくその通りで、エルミアも苦笑するしかない。
やがて会の主催者による短い挨拶があり、最初の料理が運ばれてくる。
同席する夫人たちとの会話は穏やかだった。慈善事業のこと、春の催しのこと、最近の王都の空気。直接的な話題は避けられているようでいて、しかしそのすべての底には、今この場にエルミアがいることへの認識が流れている。
「ルシエ侯爵夫人も、今日はずいぶん機嫌がよろしいですわね」
向かいの若い伯爵夫人が、控えめにそう囁く。
その視線の先で、ルシエ侯爵夫人は他家の夫人たちと落ち着いて言葉を交わしていた。表情そのものは穏やかで変わらない。だが、よく見れば今夜はエルミアへ向ける目線に明確な温度がある。
単なる同情ではない。
歓迎に近い。
「ご機嫌がよろしいというより」
年長の子爵夫人が静かに言った。
「安心なさっているのではなくて?」
「安心、ですか」
「ええ。社交界は、不安定な中心を嫌いますから」
その一言に、会話の空気が少しだけ引き締まる。
不安定な中心。
誰も名前を出さない。だが、それが誰を指しているかは明らかだ。
王太子セオドールと、その隣にいるノエリア。
可哀想な伯爵令嬢の物語は、人目を引くには十分だった。けれど社交界の中心に置くには不安定すぎた。守る、庇う、愛している――その種の言葉だけで運営できるほど、貴族社会は甘くない。
そして、その反対側にいるのがエルミアなのだと、今夜ここにいる人々は少しずつ確認している。
「席順というのは恐ろしいものですね」
エルミアがぽつりと言うと、隣のセレスティーヌ伯爵夫人が笑う。
「ええ。言葉よりずっと残酷ですわ」
「でも、正直でもあります」
「それもそうですわね」
会話は自然に流れながらも、エルミアは時折、離れた位置に立つカイゼルの姿を目で追ってしまう自分に気づいていた。
彼は主賓席に近すぎず、かといって遠すぎもしない、絶妙な場所にいた。必要以上に目立たず、それでいて誰に軽んじられることもない位置だ。辺境伯という立場にふさわしい、落ち着いた存在感。
しかも不思議なことに、彼は会場にあっても少しも浮つかない。
華やかな灯りの中にいても、彼だけは温室で見た時と同じように静かだった。
その時、ふいにルシエ侯爵夫人がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「少しお時間をいただいてもよろしいかしら、エルミア様」
「もちろんですわ」
エルミアが立ち上がると、夫人は数歩だけ彼女をテーブルの端へ誘った。
周囲の耳に入らぬ程度の距離。
けれど、完全に隠れ話にはならない程度の開けた位置。
それもまた、社交の作法だった。
「今夜の席順に驚かれましたか」
侯爵夫人は前置きもなく尋ねた。
エルミアは正直に答える。
「少しだけ」
「そうでしょうね。でも、これは急な気まぐれではありませんの」
「と、申しますと」
「皆、見ていたのです。舞踏会の夜からずっと」
ルシエ侯爵夫人の声は静かだった。
「最初は空気に流される者もいました。けれど、少し待てばわかる。王太子宮の綻び、招待の変化、商会の動き、そしてあなたの態度。そういったものを見て、今夜の席順が決まったのです」
エルミアは息を潜めて聞く。
侯爵夫人は続けた。
「社交界には、“誰が正しかったか”より“誰といると場が安定するか”を重く見るところがあります。冷たいようですが、そういうものです」
「ええ……わかります」
「あなたは、今夜ここにいるだけで場を安定させる側の人間だと判断されたのです」
その言葉は、静かだが重かった。
場を安定させる側。
それは王太子の婚約者だった頃の自分が、裏でずっと担っていた役割そのものだ。だが今、それを別の形で言われると、どこか違って聞こえる。
以前は、誰かのために安定させていた。
今は、自分自身がその側にいると認識されている。
「だから」
ルシエ侯爵夫人はわずかに微笑んだ。
「今夜のあなたは、何かを取り戻しに来たのではないのです。皆に“やはりそうだった”と再確認させているだけですわ」
その一言で、胸の奥が少し熱くなった。
取り戻す。
そのつもりはないと思っていたのに、心のどこかでは少しそう感じていたのかもしれない。失われた席や評価を、静かに取り戻す夜なのだと。
けれど侯爵夫人の言葉は違った。
取り戻すのではない。
本来そこにあるものを、周囲が見直しているだけ。
そう言われると、不思議なほど肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます」
エルミアがそう言うと、侯爵夫人は穏やかに頷いた。
「礼には及びませんわ。わたくしたちは、見誤りを訂正しているだけですもの」
なんとも社交界らしい、率直で冷たい言い方だった。
だが、それが今夜は妙に優しく感じられた。
席へ戻る途中、ふと視線を感じる。
見れば、少し離れた位置にいたカイゼルがこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬だけ。
けれど彼は、何も聞かず、ただわずかに頷いた。
“大丈夫そうだ”と確認したようにも見えたし、“よく立っている”と認めたようにも見えた。
それだけで、なぜか心が少し静かになる。
席に戻ったエルミアを見て、セレスティーヌ伯爵夫人が目を細めた。
「何か良いことを言われました?」
「どうしてそう思われるの」
「戻っていらした時のお顔が、少し違いましたもの」
「そんなにわかりやすいかしら」
「ええ、わたくしには」
さすがに見る人はよく見ている。
エルミアは少しだけ笑って、答えた。
「取り戻す夜ではない、と言われましたの」
伯爵夫人は一瞬だけ考え、それから納得したように頷いた。
「なるほど。素敵な言い方ですわね」
「ええ。本当に」
その後の会は穏やかに進んでいった。
誰も露骨に王太子宮の話などしない。ノエリアの名も出ない。けれど、だからこそわかることがある。今夜この場にいる者たちの関心は、もう“可哀想な伯爵令嬢”には向いていないのだ。
視線は別のところへ移っている。
エルミアがどのように立つか。
誰がその隣へ寄るか。
どの席に誰が置かれるか。
そうしたことが、今の社交界の現実だった。
そして会の終わり近く、退出前の挨拶が交わされる頃、カイゼルがごく自然な足取りで近づいてきた。
周囲にはまだ人がいる。
けれど今は、誰の耳にも不自然に聞こえない距離だった。
「今夜のあなたは、思った以上でした」
唐突なようでいて、彼らしい言い方だった。
「それは褒めすぎではありませんか」
「いいえ。少なくとも、席順に負けていなかった」
エルミアは一瞬だけ息を止める。
席順に負けていない。
それは、今夜のこの場で言われるには、あまりに的確な言葉だった。
どれほど良い席を与えられても、本人が気後れしたり、逆に得意げになったりすれば、すぐに崩れる。けれど今夜の自分は、少なくともそうは見えなかったらしい。
「……少し緊張はしておりましたのよ」
正直に言うと、カイゼルはほんのわずかに笑った。
「知っています」
「知っていたのですか」
「ええ」
「それでも平然として見えたなら、よかったですわ」
「平然というより、静かでした」
彼はそう言って、少しだけ声を落とす。
「あなたは、そういう立ち方のほうが似合う」
その言葉は、またしても真正面だった。
誰かに見せつけるように輝くのではなく。
自分の足元で静かに立つ。
そういう姿が似合うと、彼は言う。
エルミアは少しだけ視線を伏せ、それから静かに返した。
「辺境伯様は、そういう言葉を自然におっしゃるのですね」
「自然ではありません」
意外な返答だった。
エルミアが顔を上げると、カイゼルはいつも通り落ち着いた顔で続けた。
「あなたにだけです」
その瞬間、胸の奥が強く揺れた。
会場の灯りも、周囲の話し声も、一瞬だけ遠のく。
たったそれだけの言葉なのに、なぜこんなにも熱を持つのだろう。
だがエルミアは、辛うじて表情を崩さなかった。
それでもたぶん、少しは頬に出ていたのだろう。カイゼルは何も言わず、ただ見ていた。
その沈黙が余計にずるい。
「……そういうところが、少し困りますわ」
ようやくそう言うと、彼はごくわずかに目を細めた。
「困らせるつもりはありませんでした」
「今のは、かなり困りました」
「では、次は気をつけます」
まったく気をつけるつもりのない声だった。
それがわかってしまって、エルミアは小さく笑うしかない。
今夜の席順は、多くを語っていた。
社交界が誰をどう見ているか。
誰が中心に近づき、誰がそこから外れ始めているか。
けれど、それ以上にエルミアに残ったのは、最後のその一言だった。
あなたにだけです。
その言葉の余韻を胸の奥に残したまま、彼女は夜の会場をあとにした。
慈善晩餐会の会場は、夜が深まるにつれていっそう落ち着いた華やかさを帯びていった。
楽師たちの奏でる音色は控えめで、笑い声も高すぎない。普通の舞踏会のような浮ついたきらめきではなく、良識と格式を保った者たちが集う場らしい空気がある。けれど、そういう場だからこそ見えるものもあった。
誰がどこに立つか。
誰が誰へ先に挨拶するか。
誰が誰の隣に自然と席を得るか。
そういった細かなことが、そのまま社交界の評価になる。
エルミアはカイゼルと短く言葉を交わしたあと、慈善委員会の夫人たちへ案内されて席へ向かった。
長いテーブルにはすでに卓上花が整えられ、燭台の光が銀器にやわらかく映り込んでいる。席札は品よく置かれ、名前の並びは一見するとごく自然だった。
だが自然に見える席順ほど、実際にはよく考えられている。
エルミアは自分の席を見て、ほんのわずかに目を細めた。
主賓格の夫人たちに近い位置。
しかも、ただ“公爵令嬢だから”というだけでは説明しきれない置かれ方だった。あからさまではない。けれど、今夜のこの場において、彼女を軽んじるつもりはないのだと、誰の目にもわかる程度には明確だった。
「ずいぶんと、良いお席ですね」
隣から、柔らかな声がした。
振り向けばセレスティーヌ伯爵夫人が微笑んでいる。
「そう見えますか」
「ええ、とても。控えめに見えて、でも“あなたはここにいて当然です”という並びですもの」
その言葉に、エルミアは少しだけ視線を落とした。
席順。
それは時に、言葉よりよほど雄弁だ。
舞踏会の夜、自分は大勢の前で婚約破棄を言い渡され、悪女のように扱われた。あの瞬間、社交界の表向きの席順は崩れたのだろう。少なくとも多くの人間が、そう見せた。
だが今夜、このテーブルの並びは違う。
エルミア・ヴァレンティアを、元婚約者に捨てられた気の毒な令嬢としてではなく、社交界の中心近くに置くべき存在として扱っている。
「嬉しそうにはなさらないのですね」
セレスティーヌ伯爵夫人が少しだけ首をかしげた。
「嬉しくないわけではありませんわ」
エルミアは正直に答えた。
「ただ、少し不思議なのです。ほんの少し前まで、皆様は距離をお取りになっていたのに」
伯爵夫人はくすりと笑う。
「それは皆様が賢かったからですわ」
「賢い?」
「ええ。軽率にどちらかへついてしまうのではなく、少し待ってから本当の値打ちを見る。社交界の上のほうに残る方々は、大抵そういうものです」
ずいぶんとあけすけな言い方だ。
だがそれは真実でもあるのだろう。
最初に騒いだ者たちは、物語へ飛びついた。
少し遅れて動く者たちは、現実を見ている。
そして今、現実を見た結果として、席順が変わっている。
「今夜は特にそうですわね」
セレスティーヌ伯爵夫人は小声で続ける。
「皆様、見ていらっしゃるもの」
「何をでしょう」
「あなたが、どういう顔でここにいらっしゃるかを」
エルミアは一瞬だけ言葉を失った。
だが、すぐに小さく笑う。
「では、期待に添えておりますかしら」
「ええ、とても」
伯爵夫人は迷いなく頷いた。
「痛々しくもなく、見せつけがましくもなく、でも弱ってもいない。理想的ですわ」
それは褒められているのだろうが、ずいぶん評価項目が現実的だった。
「ずいぶん厳しい基準ですのね」
「社交界ですもの」
まったくその通りで、エルミアも苦笑するしかない。
やがて会の主催者による短い挨拶があり、最初の料理が運ばれてくる。
同席する夫人たちとの会話は穏やかだった。慈善事業のこと、春の催しのこと、最近の王都の空気。直接的な話題は避けられているようでいて、しかしそのすべての底には、今この場にエルミアがいることへの認識が流れている。
「ルシエ侯爵夫人も、今日はずいぶん機嫌がよろしいですわね」
向かいの若い伯爵夫人が、控えめにそう囁く。
その視線の先で、ルシエ侯爵夫人は他家の夫人たちと落ち着いて言葉を交わしていた。表情そのものは穏やかで変わらない。だが、よく見れば今夜はエルミアへ向ける目線に明確な温度がある。
単なる同情ではない。
歓迎に近い。
「ご機嫌がよろしいというより」
年長の子爵夫人が静かに言った。
「安心なさっているのではなくて?」
「安心、ですか」
「ええ。社交界は、不安定な中心を嫌いますから」
その一言に、会話の空気が少しだけ引き締まる。
不安定な中心。
誰も名前を出さない。だが、それが誰を指しているかは明らかだ。
王太子セオドールと、その隣にいるノエリア。
可哀想な伯爵令嬢の物語は、人目を引くには十分だった。けれど社交界の中心に置くには不安定すぎた。守る、庇う、愛している――その種の言葉だけで運営できるほど、貴族社会は甘くない。
そして、その反対側にいるのがエルミアなのだと、今夜ここにいる人々は少しずつ確認している。
「席順というのは恐ろしいものですね」
エルミアがぽつりと言うと、隣のセレスティーヌ伯爵夫人が笑う。
「ええ。言葉よりずっと残酷ですわ」
「でも、正直でもあります」
「それもそうですわね」
会話は自然に流れながらも、エルミアは時折、離れた位置に立つカイゼルの姿を目で追ってしまう自分に気づいていた。
彼は主賓席に近すぎず、かといって遠すぎもしない、絶妙な場所にいた。必要以上に目立たず、それでいて誰に軽んじられることもない位置だ。辺境伯という立場にふさわしい、落ち着いた存在感。
しかも不思議なことに、彼は会場にあっても少しも浮つかない。
華やかな灯りの中にいても、彼だけは温室で見た時と同じように静かだった。
その時、ふいにルシエ侯爵夫人がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「少しお時間をいただいてもよろしいかしら、エルミア様」
「もちろんですわ」
エルミアが立ち上がると、夫人は数歩だけ彼女をテーブルの端へ誘った。
周囲の耳に入らぬ程度の距離。
けれど、完全に隠れ話にはならない程度の開けた位置。
それもまた、社交の作法だった。
「今夜の席順に驚かれましたか」
侯爵夫人は前置きもなく尋ねた。
エルミアは正直に答える。
「少しだけ」
「そうでしょうね。でも、これは急な気まぐれではありませんの」
「と、申しますと」
「皆、見ていたのです。舞踏会の夜からずっと」
ルシエ侯爵夫人の声は静かだった。
「最初は空気に流される者もいました。けれど、少し待てばわかる。王太子宮の綻び、招待の変化、商会の動き、そしてあなたの態度。そういったものを見て、今夜の席順が決まったのです」
エルミアは息を潜めて聞く。
侯爵夫人は続けた。
「社交界には、“誰が正しかったか”より“誰といると場が安定するか”を重く見るところがあります。冷たいようですが、そういうものです」
「ええ……わかります」
「あなたは、今夜ここにいるだけで場を安定させる側の人間だと判断されたのです」
その言葉は、静かだが重かった。
場を安定させる側。
それは王太子の婚約者だった頃の自分が、裏でずっと担っていた役割そのものだ。だが今、それを別の形で言われると、どこか違って聞こえる。
以前は、誰かのために安定させていた。
今は、自分自身がその側にいると認識されている。
「だから」
ルシエ侯爵夫人はわずかに微笑んだ。
「今夜のあなたは、何かを取り戻しに来たのではないのです。皆に“やはりそうだった”と再確認させているだけですわ」
その一言で、胸の奥が少し熱くなった。
取り戻す。
そのつもりはないと思っていたのに、心のどこかでは少しそう感じていたのかもしれない。失われた席や評価を、静かに取り戻す夜なのだと。
けれど侯爵夫人の言葉は違った。
取り戻すのではない。
本来そこにあるものを、周囲が見直しているだけ。
そう言われると、不思議なほど肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます」
エルミアがそう言うと、侯爵夫人は穏やかに頷いた。
「礼には及びませんわ。わたくしたちは、見誤りを訂正しているだけですもの」
なんとも社交界らしい、率直で冷たい言い方だった。
だが、それが今夜は妙に優しく感じられた。
席へ戻る途中、ふと視線を感じる。
見れば、少し離れた位置にいたカイゼルがこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬だけ。
けれど彼は、何も聞かず、ただわずかに頷いた。
“大丈夫そうだ”と確認したようにも見えたし、“よく立っている”と認めたようにも見えた。
それだけで、なぜか心が少し静かになる。
席に戻ったエルミアを見て、セレスティーヌ伯爵夫人が目を細めた。
「何か良いことを言われました?」
「どうしてそう思われるの」
「戻っていらした時のお顔が、少し違いましたもの」
「そんなにわかりやすいかしら」
「ええ、わたくしには」
さすがに見る人はよく見ている。
エルミアは少しだけ笑って、答えた。
「取り戻す夜ではない、と言われましたの」
伯爵夫人は一瞬だけ考え、それから納得したように頷いた。
「なるほど。素敵な言い方ですわね」
「ええ。本当に」
その後の会は穏やかに進んでいった。
誰も露骨に王太子宮の話などしない。ノエリアの名も出ない。けれど、だからこそわかることがある。今夜この場にいる者たちの関心は、もう“可哀想な伯爵令嬢”には向いていないのだ。
視線は別のところへ移っている。
エルミアがどのように立つか。
誰がその隣へ寄るか。
どの席に誰が置かれるか。
そうしたことが、今の社交界の現実だった。
そして会の終わり近く、退出前の挨拶が交わされる頃、カイゼルがごく自然な足取りで近づいてきた。
周囲にはまだ人がいる。
けれど今は、誰の耳にも不自然に聞こえない距離だった。
「今夜のあなたは、思った以上でした」
唐突なようでいて、彼らしい言い方だった。
「それは褒めすぎではありませんか」
「いいえ。少なくとも、席順に負けていなかった」
エルミアは一瞬だけ息を止める。
席順に負けていない。
それは、今夜のこの場で言われるには、あまりに的確な言葉だった。
どれほど良い席を与えられても、本人が気後れしたり、逆に得意げになったりすれば、すぐに崩れる。けれど今夜の自分は、少なくともそうは見えなかったらしい。
「……少し緊張はしておりましたのよ」
正直に言うと、カイゼルはほんのわずかに笑った。
「知っています」
「知っていたのですか」
「ええ」
「それでも平然として見えたなら、よかったですわ」
「平然というより、静かでした」
彼はそう言って、少しだけ声を落とす。
「あなたは、そういう立ち方のほうが似合う」
その言葉は、またしても真正面だった。
誰かに見せつけるように輝くのではなく。
自分の足元で静かに立つ。
そういう姿が似合うと、彼は言う。
エルミアは少しだけ視線を伏せ、それから静かに返した。
「辺境伯様は、そういう言葉を自然におっしゃるのですね」
「自然ではありません」
意外な返答だった。
エルミアが顔を上げると、カイゼルはいつも通り落ち着いた顔で続けた。
「あなたにだけです」
その瞬間、胸の奥が強く揺れた。
会場の灯りも、周囲の話し声も、一瞬だけ遠のく。
たったそれだけの言葉なのに、なぜこんなにも熱を持つのだろう。
だがエルミアは、辛うじて表情を崩さなかった。
それでもたぶん、少しは頬に出ていたのだろう。カイゼルは何も言わず、ただ見ていた。
その沈黙が余計にずるい。
「……そういうところが、少し困りますわ」
ようやくそう言うと、彼はごくわずかに目を細めた。
「困らせるつもりはありませんでした」
「今のは、かなり困りました」
「では、次は気をつけます」
まったく気をつけるつもりのない声だった。
それがわかってしまって、エルミアは小さく笑うしかない。
今夜の席順は、多くを語っていた。
社交界が誰をどう見ているか。
誰が中心に近づき、誰がそこから外れ始めているか。
けれど、それ以上にエルミアに残ったのは、最後のその一言だった。
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