婚約破棄された公爵令嬢は、静かな辺境伯の隣でようやく息をする

ふわふわ

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第十五話 見えはじめた差

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第十五話 見えはじめた差

慈善晩餐会の翌朝、王都の空気はまた少しだけ変わっていた。

昨日まで囁きだったものが、今日はもう半ば共有された前提になる。社交界とはそういう場所だ。明確な宣言などなくても、誰がどこへ立ち、誰が誰に微笑み、どの席へ自然に収まったか――そうした小さな積み重ねが、一夜で人の評価を塗り替える。

そして昨夜の晩餐会は、確かにいくつかのことを決定づけた。

エルミア・ヴァレンティアは、もう“婚約破棄された気の毒な令嬢”ではない。

むしろ、中心から外れたことで本来の価値があらわになった公爵令嬢として見られ始めている。

一方で、ノエリア・ファルゼは――。

その朝、ファルゼ伯爵家の本邸では、ノエリアが珍しく苛立った顔で鏡台の前に座っていた。

侍女が髪を梳かす手を止めないよう努めているが、その空気はぴりついている。

「本当に、そう言っていたの?」

「は、はい……」

侍女は怯えたように頷いた。

「昨夜の晩餐会で、ヴァレンティア公爵令嬢様がとてもご立派だったと……その、何人かの奥様方が……」

ノエリアは唇をきゅっと引き結んだ。

ご立派。

その言葉が気に入らなかった。

なぜ今さら、あの女がそんなふうに言われるのか。舞踏会では確かに、自分が守られる側で、エルミアは断罪される側だった。あの時は皆が自分に同情し、セオドールは堂々とこちらを庇ってくれた。

なのに今はどうだ。

“やはりエルミア様は違う”

“落ち着いていらした”

“ああいう方が場を安定させるのね”

そんな声が、少しずつ増えている。

それも腹立たしいのに、もっと腹立たしいのは、それを否定できるだけの何かが今の自分にはないことだった。

「……下がって」

低く言うと、侍女は慌てて一礼して退室した。

一人になると、ノエリアは鏡の中の自分を見つめる。

可愛い。

それはわかっている。線の細い顎、守ってやりたくなるような目元、少し不安げに見える表情。自分がどう見えれば男が動くか、年上の女が甘くなるか、ノエリアは昔から知っていた。

けれど、最近はその“わかりやすい可愛さ”だけでは押し切れない場が増えてきた。

それが苛立たしかった。

華やかな場へ出れば出るほど、見えない基準がある。

席次、受け答え、贈り物の趣味、誰へどこまで踏み込むか、引くべき時に引けるか。あのエルミアは、そういうものを全部わかっていたのだろう。だからいなくなってから、ようやく周りがその不在に気づいた。

今さらそんなことを評価されても困る。

困るけれど、現実はそうなっている。

その頃、ヴァレンティア公爵邸では、エルミアが昨夜の疲れを引きずることもなく、静かな午前を過ごしていた。

温室の白薔薇はさらに開き、花弁の数が増えたぶん、昨日よりもいっそう柔らかな存在感を見せている。エルミアは窓際の椅子に座り、朝の紅茶を飲みながら、昨夜の余韻をぼんやりと思い返していた。

席順が語るもの。

向けられる視線。

そして、カイゼルの最後の一言。

あなたにだけです。

思い出すたびに、なぜか少しだけ心が落ち着かなくなる。浮かれているのかと言われれば違う。だが、気になっているのは間違いない。

それもまた認めざるを得なかった。

「お嬢様」

グラハムがいつもの足取りで入ってくる。

「おはようございます」

「おはよう、グラハム」

「今朝の報告でございます」

差し出された書面を受け取る。

王太子宮では昨夜の晩餐会の話が、すでに複数の家へ伝わっていること。エルミアの復帰が予想以上に好意的に受け取られていること。さらに、今週末の小規模な集まりへ、いくつか新たな招きが加わったこと。

どれも想定の範囲内ではある。

だが、最後の一枚を見たところでエルミアは少し眉を寄せた。

「……ノエリア様が、次の茶会で“もう少し格式のある場を”と望まれた?」

「はい」

グラハムは淡々と答える。

「最近の空気を変えたいのでしょう」

エルミアは紙を机に置いた。

なるほど、と思う。

昨日の晩餐会で、自分との差が見えてしまったのだろう。だからノエリアも、今度は“もう少し上の場”へ出て、自分が軽いだけの令嬢ではないと示したいのかもしれない。

だが、その選択は危うい。

「……少し早いわね」

「はい。かなり」

「今のあの方は、小さな茶会でも空気を読み切れていないのに」

「場を上げれば、ごまかしが利かなくなります」

グラハムの言い方はいつも通り容赦がない。

だが、その通りでもある。

小さな茶会なら、失敗は曖昧に流せる。相手も本気で見ないからだ。けれど格式が上がれば上がるほど、見られるのは見た目の可憐さではなく、場に立つ者としての整い方になる。

そしてそれこそが、ノエリアに最も足りないものだった。

「殿下は?」

「おそらく乗り気かと」

エルミアは少しだけ目を伏せた。

乗り気だろう。セオドールは最近、自分たちへの評価が微妙にずれていっていることを感じている。ならば、より大きな場でノエリアを伴い、“何も問題はない”と見せたくなるはずだ。

けれど、そういう時の彼は大抵、空回る。

「……差が見えはじめた時ほど、焦った側は無理をするのね」

「よくあることでございます」

「そして大体、うまくいかない」

「左様でございます」

短いやり取りなのに、結論が重い。

エルミアはふと、昨日の晩餐会で自分が感じたことを思い出した。

取り戻す夜ではない。

皆に“やはりそうだった”と再確認させる夜。

あの言葉の意味が、今日になるとさらにわかる気がする。自分は今、無理に目立とうとしていない。以前と変わらぬ立ち方をしただけで、周囲が勝手にその価値を見直しているのだ。

一方で向こうは、その差を埋めようとして背伸びを始めている。

その違いは、きっと今後もっと目立つ。

昼過ぎ、王太子宮ではセオドールがノエリアと向かい合っていた。

今日は珍しく、ノエリアのほうから会いに来た。

しかも、ただ不安げに寄り添うのではなく、少しだけ決意したような顔をしている。

「殿下、お願いがございます」

その言葉に、セオドールは片眉を上げた。

「なんだ」

「次の茶会なのですけれど……もう少し格式のある場にしていただけませんか」

セオドールは一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「格式?」

「はい。小さなお茶会ばかりですと、わたくし……なんだか、ずっと同じところを回っているようで」

ノエリアは言葉を選びながら続ける。

「もっときちんとした場で、皆様にお会いしたいのです。そうすれば、いろいろな誤解も解けるかもしれませんし……」

誤解。

その言葉に、セオドールは少しだけ顔をしかめた。

最近その手の言葉には敏感になっている。誤解、行き違い、空気のせい。そういう言葉で片づけられる段階ではないことを、さすがに感じ始めているからだ。

だが一方で、ノエリアの願いも理解できた。

つまり彼女は、自分たちが軽く見られていることに気づいているのだ。

そして、それを変えたいと思っている。

その気持ちは悪くなかった。

「……いいだろう」

セオドールは言った。

「ちょうど来週、王都慈善関係の小規模な昼餐がある。あれなら表向きの体裁もいい」

ノエリアの目がぱっと明るくなる。

「本当ですか?」

「ああ」

「ありがとうございます、殿下」

嬉しそうに微笑むその姿は、やはり可愛いと思う。

だがセオドールの胸の奥には、同時に別の感情もあった。

大丈夫だろうか、という妙な不安だ。

以前なら考えもしなかった。ノエリアをどの場へ連れて行くかなど、自分が決めれば済むことだと思っていた。けれど今は違う。場へ出すということは、見られるということだ。そして見られた結果が、そのまま評価になる。

もし、また違和感を生めば――。

そこまで考えて、セオドールは自分でその思考を打ち消した。

馬鹿馬鹿しい。

何を迷う必要がある。

自分は王太子で、ノエリアは自分が選んだ相手だ。そうである以上、堂々としていればいいはずだ。

「……殿下?」

ノエリアが不安そうに首をかしげる。

「なんでもない」

セオドールは短く答えた。

だが、何でもなくはなかった。

たしかに自分は、少し前よりずっと慎重になっている。慎重にならざるを得ないほど、周囲の空気が重くなっている。

そのこと自体が、ひどく不快だった。

夕方、ヴァレンティア公爵邸ではエルミアが書き物机に向かっていた。

今夜は特に大きな予定もなく、返答の必要な招待状も一段落している。窓の外はやわらかな夕暮れで、薄桃色の空が屋敷の庭へ落ちていた。

すると、控えめなノックのあと、グラハムが再び現れた。

「何かしら」

「ルヴァンシュ辺境伯家より返書が届いております」

エルミアの指先が、自然と止まる。

「……早いのね」

「白薔薇の報告を受けて、急がれたのかと」

「あなた、最近本当に余計な一言が増えているわ」

「恐れ入ります」

恐れ入っていない。

そう思いながらも、エルミアは封を受け取った。

便箋を開く。

“咲いたとのこと、嬉しく思います。
こちらはまだ朝の風が冷たいので、白薔薇の話は少し羨ましい。
あなたが“戻るのではなく選ぶ”と書かれたのが、ひどくあなたらしいと思いました。
次にお会いした時、咲いた花のお話を聞かせてください”

読み終えたところで、エルミアはしばらく黙った。

次にお会いした時。

その言い方が、ごく自然に胸へ残る。

社交辞令としても成立するはずなのに、なぜかそうは聞こえない。会うことを前提にしているようでいて、押しつけがましくない。

そして“あなたらしい”と書かれた一文に、また少し心が揺れた。

自分らしい。

それを、最近は父も、カイゼルも、違う言葉で認めてくる。

王太子の婚約者という役目が外れて、ようやく出てきた輪郭を。

「……困るわね」

思わずこぼすと、グラハムが静かに問う。

「何がでしょう」

「いちいち心に残るところがよ」

「辺境伯様ですから」

「理由になっていないわ」

けれど、そのやり取りすら少し楽しかった。

エルミアは便箋を丁寧にたたみ、引き出しへしまう。

見えはじめた差は、社交界だけのものではないのかもしれない。

無理に場を取り戻そうとする側と、ただ自分の立ち位置へ戻っていく側。

守られることで立とうとする側と、静かに自分の足で立つ側。

その違いが、少しずつ、いろいろなところで形になり始めている。

そしてその変化の中で、自分のすぐ隣ではないけれど、確かに近いところに立って見ていてくれる人がいる。

それが、今のエルミアには思っていた以上に大きな支えになっていた。
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