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第四話 名乗らなかった理由
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第四話 名乗らなかった理由
夜更けの書斎は、静まり返っていた。
分厚い本が並ぶ書棚。
机の上には、読みかけの史書と、冷めかけた紅茶。
ヘレン・バートンは、椅子に腰掛けたまま、頁をめくる手を止めていた。
書かれているのは、五百年以上前の宗教史――
聖女制度が確立される以前の、混沌とした時代の記録だ。
その中に、よく知った名前がある。
――ヘレンヘレン。
かつて、
天の声を聞く者。
奇跡をもたらす者。
民を導く聖女。
そう記されている。
ヘレンは、静かに本を閉じた。
(……ずいぶんと、美しく書かれたものですこと)
紅茶を一口含む。
苦味が、舌に残った。
史書に残る聖女ヘレンヘレンは、慈愛に満ち、清らかで、
一切の私欲を持たぬ存在として描かれている。
だが。
(現実は、そんなに都合のいいものではなかった)
かつて――
確かに、自分は“聖女”と呼ばれていた前世〈とき〉があった。
名前は、ヘレンヘレン。
奇跡を起こす力を持ち、
天の声を聞く存在として、
人々に祀り上げられた。
最初は、救いたかっただけだった。
困っている人を助け、
苦しむ声に応えただけ。
けれど、気づけば周囲には、
祈る者と、命じる者と、利用する者が集まっていた。
(……ずいぶん、疲れる役目でしたわ)
奇跡を求められ、
失敗を許されず、
沈黙すら「神託」と解釈される。
聖女は、人ではなくなる。
期待に応え続ける偶像へと、
都合よく作り替えられていく。
だから――。
(転生したとき、決めたのです)
もう二度と、
聖女にはならない。
静かに生きる。
誰にも期待されず、
誰にも利用されない場所で。
公爵家に生まれ、
“ヘレン”という名を与えられたとき。
父は、誇らしげにこう言った。
「偉大なる伝説の聖女ヘレンヘレンから取った名だ。
お前も、立派な人間になるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、
ヘレンは、内心で苦笑した。
(まさか……)
(その“偉大な聖女様”本人の転生者だとは、
思いもしないでしょうね)
何かの因縁なのか。
それとも、ただの皮肉か。
いずれにせよ、
名乗るつもりはなかった。
(名乗った瞬間、
また“聖女”に戻される)
奇跡を求められ、
裁きを期待され、
正しさを押し付けられる。
そんな役目は、もう十分だ。
ヘレンは、椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
夜の王都は、静かに眠っている。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
今も、誰かが祈っているのだろう。
奇跡を信じて。
(信じること自体は、悪くありません)
人は、弱い。
縋るものがなければ、立っていられない時もある。
護符を買い、
祈りを捧げ、
救われた気になる。
それで前を向けるなら、
それも一つの生き方だ。
(だから、私は関わらない)
聖女が本物かどうか。
奇跡が真実かどうか。
それを暴く気はない。
人が、自分で選んだ幻想に、
自分で満足している限りは。
――ただし。
ヘレンは、カーテンを静かに閉じた。
(私の名を)
(私の過去を)
(勝手に使わない限りは)
その一線だけは、譲れない。
静かに、
穏やかに、
何事もなく。
それが、今世で望んだ人生だ。
ヘレンは書卓に戻り、
史書を元の位置に戻した。
伝説の聖女ヘレンヘレンは、
過去の存在。
今の自分は、
ただの公爵令嬢ヘレン・バートン。
――そう、あり続けるつもりだった。
少なくとも、
この夜の時点では。
まだ、教会がその名を掘り起こし、
“商売の看板”にしようとする未来を、
彼女は知らない。
知らないからこそ、
この静けさを、
ほんの少しだけ、大切にしていた。
夜更けの書斎は、静まり返っていた。
分厚い本が並ぶ書棚。
机の上には、読みかけの史書と、冷めかけた紅茶。
ヘレン・バートンは、椅子に腰掛けたまま、頁をめくる手を止めていた。
書かれているのは、五百年以上前の宗教史――
聖女制度が確立される以前の、混沌とした時代の記録だ。
その中に、よく知った名前がある。
――ヘレンヘレン。
かつて、
天の声を聞く者。
奇跡をもたらす者。
民を導く聖女。
そう記されている。
ヘレンは、静かに本を閉じた。
(……ずいぶんと、美しく書かれたものですこと)
紅茶を一口含む。
苦味が、舌に残った。
史書に残る聖女ヘレンヘレンは、慈愛に満ち、清らかで、
一切の私欲を持たぬ存在として描かれている。
だが。
(現実は、そんなに都合のいいものではなかった)
かつて――
確かに、自分は“聖女”と呼ばれていた前世〈とき〉があった。
名前は、ヘレンヘレン。
奇跡を起こす力を持ち、
天の声を聞く存在として、
人々に祀り上げられた。
最初は、救いたかっただけだった。
困っている人を助け、
苦しむ声に応えただけ。
けれど、気づけば周囲には、
祈る者と、命じる者と、利用する者が集まっていた。
(……ずいぶん、疲れる役目でしたわ)
奇跡を求められ、
失敗を許されず、
沈黙すら「神託」と解釈される。
聖女は、人ではなくなる。
期待に応え続ける偶像へと、
都合よく作り替えられていく。
だから――。
(転生したとき、決めたのです)
もう二度と、
聖女にはならない。
静かに生きる。
誰にも期待されず、
誰にも利用されない場所で。
公爵家に生まれ、
“ヘレン”という名を与えられたとき。
父は、誇らしげにこう言った。
「偉大なる伝説の聖女ヘレンヘレンから取った名だ。
お前も、立派な人間になるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、
ヘレンは、内心で苦笑した。
(まさか……)
(その“偉大な聖女様”本人の転生者だとは、
思いもしないでしょうね)
何かの因縁なのか。
それとも、ただの皮肉か。
いずれにせよ、
名乗るつもりはなかった。
(名乗った瞬間、
また“聖女”に戻される)
奇跡を求められ、
裁きを期待され、
正しさを押し付けられる。
そんな役目は、もう十分だ。
ヘレンは、椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
夜の王都は、静かに眠っている。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
今も、誰かが祈っているのだろう。
奇跡を信じて。
(信じること自体は、悪くありません)
人は、弱い。
縋るものがなければ、立っていられない時もある。
護符を買い、
祈りを捧げ、
救われた気になる。
それで前を向けるなら、
それも一つの生き方だ。
(だから、私は関わらない)
聖女が本物かどうか。
奇跡が真実かどうか。
それを暴く気はない。
人が、自分で選んだ幻想に、
自分で満足している限りは。
――ただし。
ヘレンは、カーテンを静かに閉じた。
(私の名を)
(私の過去を)
(勝手に使わない限りは)
その一線だけは、譲れない。
静かに、
穏やかに、
何事もなく。
それが、今世で望んだ人生だ。
ヘレンは書卓に戻り、
史書を元の位置に戻した。
伝説の聖女ヘレンヘレンは、
過去の存在。
今の自分は、
ただの公爵令嬢ヘレン・バートン。
――そう、あり続けるつもりだった。
少なくとも、
この夜の時点では。
まだ、教会がその名を掘り起こし、
“商売の看板”にしようとする未来を、
彼女は知らない。
知らないからこそ、
この静けさを、
ほんの少しだけ、大切にしていた。
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