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第三話 関わらないという選択
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第三話 関わらないという選択
王都の社交界は、聖女マルガリータの話題で持ちきりだった。
舞踏会。
茶会。
貴族の私室で交わされる、ひそやかな噂話に至るまで。
「奇跡をご覧になって?」
「ええ、あれは本物ですわ」
「やはり、王太子殿下が選ばれた方……」
ヘレン・バートンは、その輪の少し外側に立ちながら、静かに耳を傾けていた。
自分の名が話題に上ることは、ほとんどない。
あったとしても――
「元婚約者の公爵令嬢?」
「冷たい方だったそうですわね」
そんな程度だ。
(予想通りですわ)
人は、分かりやすい物語を好む。
“愛に生きる王太子”と、“奇跡の聖女”。
そこに、静かで感情を見せない元婚約者が割り込む余地はない。
ヘレンは、グラスに注がれた果実酒を口に運びながら、会話の流れを観察していた。
「聖女様の巡業、次は北区だそうですわ」
「護符も新しくなるとか」
――護符。
その単語に、ヘレンの意識が自然と向く。
(巡業……護符……寄付……)
頭の中で、点と点が繋がっていく。
巡業は、必ず人の集まる都市部。
護符は、巡業の前後で売られる。
寄付金は、教会ではなく“関連団体”を経由して動く。
(実に、無駄のない仕組みですこと)
信仰を餌にするなら、最適解に近い。
もちろん、ヘレンは帳簿を見たわけではない。
だが、商売の匂いというものは、隠しきれないものだ。
話題は、奇跡の内容へと移っていく。
「病が治ったと聞きましたわ」
「ええ、でも不思議ですのよ。あの方、三日前までは元気だったとか……」
「光が降り注いだのも、夕刻でしたわね」
「照明の位置が……あ、いえ、何でもありません」
最後の言葉は、すぐに笑いで流された。
疑問を口にすること自体が、場の空気を壊す。
誰も、そこまで踏み込まない。
(踏み込む必要もありませんし)
ヘレンは、そう判断した。
信じる者が満足している。
教会は利益を得ている。
王太子は民衆の支持を集めている。
全員が、今は幸せだ。
(それなら、それでいい)
茶会を終え、公爵家の馬車に揺られながら、ヘレンは窓の外を眺めていた。
街角では、聖女の絵姿が描かれた紙が配られている。
護符を売る露店も、以前より増えた。
人々の表情は明るい。
(希望を買っている、ということですわね)
それが虚構であっても、
希望は人を前に進ませる。
屋敷に戻ると、執事が一礼した。
「本日も、お疲れさまでした」
「ええ。ありがとう」
部屋に戻り、椅子に腰掛ける。
静かな空間に、ようやく一人きりになれた。
ヘレンは、ふっと小さく息を吐く。
(私は……)
自分の立場を、改めて確認する。
元王太子妃候補。
公爵令嬢。
そして今は、ただの一貴族。
政治的にも、宗教的にも、
表立って動く理由はない。
(関わらない)
その選択は、逃げではない。
知っているからこそ、距離を取る。
聖女という存在が、
どれほど多くの人を狂わせてきたかを。
ふと、窓の外から、遠く鐘の音が聞こえた。
教会の祈りの合図だ。
人々は、今この瞬間も祈っているのだろう。
奇跡を信じて。
(……どうか、そのままで)
ヘレンは、心の中でそう呟いた。
(欲を出さず、
線を越えず、
誰かの名を使わなければ)
その願いは、静かだった。
この時点では、
彼女はまだ知らない。
やがて教会が、
“伝説の聖女ヘレンヘレン”という名に手を伸ばすことを。
そしてそれが――
決して、触れてはならない逆鱗だったことを。
今はただ、
静かな日常が続くことを、
ほんの少しだけ、願っていただけだった。
王都の社交界は、聖女マルガリータの話題で持ちきりだった。
舞踏会。
茶会。
貴族の私室で交わされる、ひそやかな噂話に至るまで。
「奇跡をご覧になって?」
「ええ、あれは本物ですわ」
「やはり、王太子殿下が選ばれた方……」
ヘレン・バートンは、その輪の少し外側に立ちながら、静かに耳を傾けていた。
自分の名が話題に上ることは、ほとんどない。
あったとしても――
「元婚約者の公爵令嬢?」
「冷たい方だったそうですわね」
そんな程度だ。
(予想通りですわ)
人は、分かりやすい物語を好む。
“愛に生きる王太子”と、“奇跡の聖女”。
そこに、静かで感情を見せない元婚約者が割り込む余地はない。
ヘレンは、グラスに注がれた果実酒を口に運びながら、会話の流れを観察していた。
「聖女様の巡業、次は北区だそうですわ」
「護符も新しくなるとか」
――護符。
その単語に、ヘレンの意識が自然と向く。
(巡業……護符……寄付……)
頭の中で、点と点が繋がっていく。
巡業は、必ず人の集まる都市部。
護符は、巡業の前後で売られる。
寄付金は、教会ではなく“関連団体”を経由して動く。
(実に、無駄のない仕組みですこと)
信仰を餌にするなら、最適解に近い。
もちろん、ヘレンは帳簿を見たわけではない。
だが、商売の匂いというものは、隠しきれないものだ。
話題は、奇跡の内容へと移っていく。
「病が治ったと聞きましたわ」
「ええ、でも不思議ですのよ。あの方、三日前までは元気だったとか……」
「光が降り注いだのも、夕刻でしたわね」
「照明の位置が……あ、いえ、何でもありません」
最後の言葉は、すぐに笑いで流された。
疑問を口にすること自体が、場の空気を壊す。
誰も、そこまで踏み込まない。
(踏み込む必要もありませんし)
ヘレンは、そう判断した。
信じる者が満足している。
教会は利益を得ている。
王太子は民衆の支持を集めている。
全員が、今は幸せだ。
(それなら、それでいい)
茶会を終え、公爵家の馬車に揺られながら、ヘレンは窓の外を眺めていた。
街角では、聖女の絵姿が描かれた紙が配られている。
護符を売る露店も、以前より増えた。
人々の表情は明るい。
(希望を買っている、ということですわね)
それが虚構であっても、
希望は人を前に進ませる。
屋敷に戻ると、執事が一礼した。
「本日も、お疲れさまでした」
「ええ。ありがとう」
部屋に戻り、椅子に腰掛ける。
静かな空間に、ようやく一人きりになれた。
ヘレンは、ふっと小さく息を吐く。
(私は……)
自分の立場を、改めて確認する。
元王太子妃候補。
公爵令嬢。
そして今は、ただの一貴族。
政治的にも、宗教的にも、
表立って動く理由はない。
(関わらない)
その選択は、逃げではない。
知っているからこそ、距離を取る。
聖女という存在が、
どれほど多くの人を狂わせてきたかを。
ふと、窓の外から、遠く鐘の音が聞こえた。
教会の祈りの合図だ。
人々は、今この瞬間も祈っているのだろう。
奇跡を信じて。
(……どうか、そのままで)
ヘレンは、心の中でそう呟いた。
(欲を出さず、
線を越えず、
誰かの名を使わなければ)
その願いは、静かだった。
この時点では、
彼女はまだ知らない。
やがて教会が、
“伝説の聖女ヘレンヘレン”という名に手を伸ばすことを。
そしてそれが――
決して、触れてはならない逆鱗だったことを。
今はただ、
静かな日常が続くことを、
ほんの少しだけ、願っていただけだった。
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