聖女と呼ばれたくなかった公爵令嬢は、静かにざまぁを選ぶ

ふわふわ

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第十一話 使われ始めた名前

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第十一話 使われ始めた名前

 嫌な予感というものは、当たる時ほど静かに近づいてくる。

 その日、ヘレン・バートンが違和感を覚えたのは、ほんの些細な噂だった。王都の市場で、聖女マルガリータを称える語り口が、これまでとは少しだけ変わったという話である。

「最近は、“ただの聖女”ではないそうですわ」
「ええ、なんでも……とても由緒ある存在だとか」

 侍女の何気ない報告に、ヘレンは手を止めた。

「由緒、ですか」

「はい。教会の方がそう話していた、と」

 その言葉だけで、十分だった。

(……ついに、来ましたわね)

 奇跡。
 信仰。
 献金。

 それらだけでは足りなくなったのだ。次に必要なのは、“正当性”。誰も疑えない、歴史そのものを味方につける看板。

 午後、ヘレンは馬車で王都を通った。教会前の広場では、聖職者が人々を前に語りかけている。

「聖女マルガリータ様は、偶然この時代に現れたのではありません」
「神は、かつて偉大なる聖女を遣わし、そして再び――」

 その続きを、ヘレンは聞かなかった。聞く必要もない。

 広場に立てられた簡素な掲示板に、目を向ける。そこには、教会の紋章とともに、目新しい文言が書かれていた。

『聖女の系譜について』

 系譜。
 その言葉が、胸の奥で冷たく響く。

 屋敷に戻ると、ほどなくして正式な報告が届いた。

「教会が、新たな教義解釈を発表する準備を進めているそうです」

 執事の声は慎重だった。

「内容は……“伝説の聖女ヘレンヘレンの魂は、時を超えて受け継がれる”というものだとか」

 ヘレンは、何も言わなかった。

 怒りが湧いたわけではない。
 驚きも、なかった。

 ただ、はっきりと理解しただけだ。

(私の名前を、使うつもりですわね)

 それは、偶然ではない。
 教会は調べただろう。
 史書を漁り、民衆の反応を計算し、最も効果的な“物語”を選んだ。

 五百年前の偉大な聖女。
 誰もが敬い、誰もが疑えない存在。

 その転生だと言われれば、奇跡が失敗しようが、壺が偽物だろうが、すべてが正当化される。

「……見事ですこと」

 ヘレンは、静かに紅茶を口に運んだ。

 自分が怒っているのかどうか、確かめるように。

 答えは、はっきりしていた。

 まだ、怒りではない。
 だが、明確な“不快”がある。

 名を使うこと。
 過去を飾りにすること。
 そして、詐欺の正当化に、自分の存在を組み込むこと。

(それは……)

 彼女は、カップを置いた。

(私を、共犯にする行為ですわ)

 夜、書斎で一人になる。

 史書の背表紙に並ぶ、「ヘレンヘレン」の名。
 かつて、自分が必死に背負わされた偶像。

 もう、戻る気はない。
 名乗るつもりもない。

 だが――。

(勝手に使われるのは、話が別)

 ヘレンは、ゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。夜風が、カーテンを揺らす。

 遠くで、教会の鐘が鳴った。
 その音は、これまでとは違って聞こえる。

 祝福ではない。
 警鐘でもない。

 ――宣言だ。

「……線は、越えましたわね」

 声は低く、静かだった。

 この瞬間、
 ヘレン・バートンの中で、
 “関わらない”という選択肢が、ゆっくりと消え始めていた。

 まだ、表には出ない。
 まだ、名も明かさない。

 だが――
 止める準備は、始まった。
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