聖女と呼ばれたくなかった公爵令嬢は、静かにざまぁを選ぶ

ふわふわ

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第二十六話 戻らない名前

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第二十六話 戻らない名前

 王都の朝は、いつも通りに始まっていた。

 市場は開き、馬車は行き交い、人々は昨日と同じ話題を口にする。教会の件は、すでに「過去の出来事」として扱われ始めていた。思い出されることはあっても、掘り返されることはない。その距離感こそが、完全に終わった証だった。

 ヘレン・バートンは、屋敷の執務室で書類に目を通していた。内容は、領地の収支と春に向けた準備。奇跡も、聖女も、一切関係のない話だ。

(こういう仕事の方が、よほど現実的ですわね)

 前世では、祈りと期待に囲まれていた。今は、数字と計画に囲まれている。その違いに、違和感はなかった。

 昼前、執事が一通の報告を持ってくる。

「地方で、奇妙な噂が立っているようです」

「奇妙な噂?」

「“本物の聖女は、もう表に出ない”と」

 ヘレンは、わずかに眉を動かした。

「……それは、正しいですわね」

 誰かが信じたいのだろう。
 奇跡が消えた理由を、
 納得できる形で。

 だが、ヘレンはそこに関わるつもりはなかった。名を使われようと、影を追われようと、彼女自身が否定しなければ、噂は勝手に育ち、勝手に消える。

 午後、庭を歩きながら、彼女はふと思う。

(ヘレンヘレンという名前は、
 もう戻らない)

 前世の名は、役割とともに終わった。
 今の彼女は、公爵令嬢ヘレン・バートンだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 夕方、紅茶を飲みながら本を開く。
 物語は、静かな章に入っている。

 登場人物は、誰かを救わず、
 誰かに裁かれず、
 ただ、それぞれの場所へ戻っていく。

 ヘレンは、その展開を気に入った。

「……派手じゃなくて、いいですわ」

 奇跡は、人を集める。
 日常は、人を支える。

 今の彼女が選ぶのは、迷いなく後者だった。

 夜、窓の外で鐘が鳴る。
 いつもの時刻を告げる音。

 それを聞きながら、ヘレンは静かに目を閉じた。

 もう、呼ばれる名前は一つだけ。
 それで、十分だ。

 ――明日もまた、
 同じ日常が、
 変わらず続いていく。
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