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第四十話 それで、十分ですわ
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第四十話 それで、十分ですわ
朝の光が、静かに屋敷を満たしていた。
特別な日ではない。
祝賀の鐘も鳴らず、人々が集まることもない。
それでも、ヘレン・バートンは、この日をはっきりと「区切りの日」だと感じていた。
窓を開けると、庭では使用人たちがいつも通りに働いている。落ち葉を集める者、水を撒く者、朝の準備を整える者。その一つひとつが、何事もなかったかのように進んでいた。
(ええ……何も起きていない)
それが、どれほど尊いことか。
朝食後、ヘレンは執務室で最後の書類に目を通した。教会再編に関する最終報告、自治会との協定文、領地の来年度計画。どれもすでに確認済みで、形式的な署名だけが残っている。
ペンを取り、迷いなく名前を書く。
ヘレン・バートン。
それは、伝説でも、象徴でもない。
ただの、一人の公爵令嬢の名だ。
書類を閉じた瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
(終わりましたわね)
婚約破棄から始まった一連の騒動。
聖女と呼ばれる偽り。
教会の暴走。
前世の名を利用される怒り。
それらはすべて、もう過去だ。
昼前、庭に出ると、陽だまりの中で猫が丸くなって眠っていた。呼吸に合わせて、腹が小さく上下している。その様子を眺めながら、ヘレンは思う。
奇跡とは、
こういう光景を、
奇跡と呼ばずにいられることなのかもしれない。
午後、紅茶を淹れ、本を開く。内容は、政治でも宗教でもない。旅の記録と、植物図鑑。役に立つかどうかはわからないが、読んでいて心が落ち着く。
ページをめくりながら、ふと、独り言が漏れた。
「……少し、大人げなかったかしら」
すぐに、小さく首を振る。
「いえ。
やりすぎていたのは、間違いなく向こうですもの」
誰かを裁くためではない。
見せしめでもない。
ただ、嘘を嘘のままにしないため。
それだけだった。
夕方、空が茜色に染まる。
その色を眺めながら、ヘレンは前世の記憶を思い返す。
かつて、聖女ヘレンヘレンとして生きた日々。
祈られ、期待され、縋られ続けた時間。
救えた命もあった。
救えなかった命も、数え切れないほどあった。
そして今。
誰からも祈られず、
誰にも縋られず、
それでも、確かに生きている。
「……これで、よかったのですわ」
夜、書斎の灯りを落とし、ベッドに横たわる。
胸の奥に残っているのは、達成感ではない。
静かな納得。
そして、穏やかな満足。
世界は、変わり続けるだろう。
また別の誰かが、過ちを犯すかもしれない。
それでも。
少なくとも今、この場所では、
奇跡に頼らず、
嘘に縋らず、
人が人として生きている。
ヘレン・バートンは、目を閉じる。
聖女ではない人生。
英雄でも、象徴でもない日々。
――それで、十分ですわ。
そう思えることこそが、
彼女が選び取った、
本当の結末だった。
朝の光が、静かに屋敷を満たしていた。
特別な日ではない。
祝賀の鐘も鳴らず、人々が集まることもない。
それでも、ヘレン・バートンは、この日をはっきりと「区切りの日」だと感じていた。
窓を開けると、庭では使用人たちがいつも通りに働いている。落ち葉を集める者、水を撒く者、朝の準備を整える者。その一つひとつが、何事もなかったかのように進んでいた。
(ええ……何も起きていない)
それが、どれほど尊いことか。
朝食後、ヘレンは執務室で最後の書類に目を通した。教会再編に関する最終報告、自治会との協定文、領地の来年度計画。どれもすでに確認済みで、形式的な署名だけが残っている。
ペンを取り、迷いなく名前を書く。
ヘレン・バートン。
それは、伝説でも、象徴でもない。
ただの、一人の公爵令嬢の名だ。
書類を閉じた瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
(終わりましたわね)
婚約破棄から始まった一連の騒動。
聖女と呼ばれる偽り。
教会の暴走。
前世の名を利用される怒り。
それらはすべて、もう過去だ。
昼前、庭に出ると、陽だまりの中で猫が丸くなって眠っていた。呼吸に合わせて、腹が小さく上下している。その様子を眺めながら、ヘレンは思う。
奇跡とは、
こういう光景を、
奇跡と呼ばずにいられることなのかもしれない。
午後、紅茶を淹れ、本を開く。内容は、政治でも宗教でもない。旅の記録と、植物図鑑。役に立つかどうかはわからないが、読んでいて心が落ち着く。
ページをめくりながら、ふと、独り言が漏れた。
「……少し、大人げなかったかしら」
すぐに、小さく首を振る。
「いえ。
やりすぎていたのは、間違いなく向こうですもの」
誰かを裁くためではない。
見せしめでもない。
ただ、嘘を嘘のままにしないため。
それだけだった。
夕方、空が茜色に染まる。
その色を眺めながら、ヘレンは前世の記憶を思い返す。
かつて、聖女ヘレンヘレンとして生きた日々。
祈られ、期待され、縋られ続けた時間。
救えた命もあった。
救えなかった命も、数え切れないほどあった。
そして今。
誰からも祈られず、
誰にも縋られず、
それでも、確かに生きている。
「……これで、よかったのですわ」
夜、書斎の灯りを落とし、ベッドに横たわる。
胸の奥に残っているのは、達成感ではない。
静かな納得。
そして、穏やかな満足。
世界は、変わり続けるだろう。
また別の誰かが、過ちを犯すかもしれない。
それでも。
少なくとも今、この場所では、
奇跡に頼らず、
嘘に縋らず、
人が人として生きている。
ヘレン・バートンは、目を閉じる。
聖女ではない人生。
英雄でも、象徴でもない日々。
――それで、十分ですわ。
そう思えることこそが、
彼女が選び取った、
本当の結末だった。
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