3 / 39
第3話 失われた役割
しおりを挟む
第3話 失われた役割
翌朝、バルタザール・フォン・クロイツは、いつもより早く目を覚ました。
正確には、眠りが浅く、夜明け前から何度も目を覚ましていたのだ。
胸の奥に、正体の分からない違和感が残っている。
怒りでも、後悔でもない。
――ただ、何かを置き忘れたような感覚。
「……くだらない」
小さく呟き、ベッドから起き上がる。
婚約破棄は、自分が決めたことだ。正しい判断だったはずだ。理想の未来を思い描くためには、感情のない女よりも、華やかで人心を掴める存在が必要だった。
ローザリンデ・フォン・シュテイン。
彼女は美しく、評判もよく、誰の目にも分かりやすい「理想」だ。
――それなのに。
執務室へ向かう足取りは、なぜか重かった。
机の上には、昨夜のうちに積まれた書類がある。
どれも重要な案件ばかりだ。王宮関連の調整、宗教会議への返答、地方領主からの陳情。いつもなら、目を通す前から優先順位が頭に浮かぶ。
だが、この朝は違った。
「……どれからだ?」
思わず声に出してしまい、眉をひそめる。
そんなことを迷うなど、今まで一度もなかった。
彼は無意識のうちに、机の端へ視線を向けていた。
そこには、いつもなら一枚の整理表が置かれているはずだった。
案件ごとに要点がまとめられ、注意点と落とし穴が簡潔に書かれた、見慣れた紙。
――だが、そこには何もない。
「……ああ」
遅れて、理解が追いついた。
あの紙を用意していたのは、コルネリアだった。
彼女は決して前に出なかったが、いつも事前に情報を整理し、彼が迷わず判断できるよう整えていた。
それが、ない。
「……まあいい」
自分でやればいいだけの話だ。
そう思い、最初の書類を手に取る。
だが、読み進めるうちに、違和感が積み重なっていく。
文面の裏にある意図が掴めない。どこまでが譲歩で、どこからが危険なのか、判断が鈍る。
彼は舌打ちし、次の書類を開いた。
――結果は同じだった。
時間だけが過ぎ、机の上の書類はほとんど減っていない。
額に、じわりと汗が滲む。
「……コルネリアなら、どう言った?」
その名が、自然と口をついて出た。
はっとして、彼は口を閉ざす。
自分で決めた別れだ。今さら彼女の名前を出すなど、未練がましいにもほどがある。
だが、思考は止まらなかった。
彼女は、感情を挟まず、いつも淡々としていた。
だからこそ、彼は彼女の存在を軽んじていたのかもしれない。
――あれは、当たり前ではなかったのだ。
昼前、側近が執務室を訪れた。
「閣下、本日の会議ですが、議題が一部変更になっております」
「変更? 聞いていないぞ」
「昨日、調整役だったヴァルデン伯爵家からの返答が――」
そこで、側近は言葉を濁した。
「……伯爵令嬢が、辞退されたそうで」
バルタザールの手が、ぴたりと止まる。
「辞退?」
「はい。今後は家としても、私的な関与は控える、と」
それはつまり――
コルネリアが、完全に手を引いたということだ。
胸の奥が、きしりと鳴った。
「……代わりは?」
「急ぎ探しておりますが、彼女ほど事情に通じた者は……」
側近は言葉を選び、視線を逸らした。
その仕草が、答えだった。
会議は散々だった。
意見はまとまらず、議論は堂々巡りを繰り返す。今までなら、彼が一言でまとめていた場面で、なぜか決断が遅れる。
帰路につく頃には、疲労がはっきりと顔に出ていた。
その夜、彼はローザリンデと会った。
彼女は変わらず美しく、気遣いの言葉をかけてくる。
「大変でしたのね。お疲れでしょう?」
「……ああ」
だが、会話は続かない。
彼女は優しいが、状況を整理する言葉を持たない。
「会議の内容は、どのような……?」
尋ねられ、彼は言葉に詰まった。
説明しようとすると、頭の中が曖昧で、要点をまとめられない。
ローザリンデは困ったように微笑んだ。
「難しいことは、よく分かりませんけれど……閣下なら、きっと大丈夫ですわ」
励ましの言葉だった。
だが、胸に響かない。
部屋に戻り、一人になると、静寂が重くのしかかる。
ふと、昨夜の光景が蘇った。
夜会の広間。
自分の宣告。
そして――泣きも怒りもせず、ただ「承知しました」と言ったコルネリアの姿。
「……なぜ、あんなに平然としていた」
怒りが、遅れて湧き上がる。
拒絶されたような気分が、胸を刺す。
だが、その怒りの奥に、別の感情が潜んでいた。
不安。
そして、はっきりとした喪失感。
彼は、ようやく理解し始めていた。
コルネリアは、婚約者という肩書きを失ったのではない。
――自分が、彼女を失ったのだ。
それが、どれほど大きな損失だったのか。
この時点では、まだ完全には分かっていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女がいない世界は、
思っていたよりもずっと――不便だった。
翌朝、バルタザール・フォン・クロイツは、いつもより早く目を覚ました。
正確には、眠りが浅く、夜明け前から何度も目を覚ましていたのだ。
胸の奥に、正体の分からない違和感が残っている。
怒りでも、後悔でもない。
――ただ、何かを置き忘れたような感覚。
「……くだらない」
小さく呟き、ベッドから起き上がる。
婚約破棄は、自分が決めたことだ。正しい判断だったはずだ。理想の未来を思い描くためには、感情のない女よりも、華やかで人心を掴める存在が必要だった。
ローザリンデ・フォン・シュテイン。
彼女は美しく、評判もよく、誰の目にも分かりやすい「理想」だ。
――それなのに。
執務室へ向かう足取りは、なぜか重かった。
机の上には、昨夜のうちに積まれた書類がある。
どれも重要な案件ばかりだ。王宮関連の調整、宗教会議への返答、地方領主からの陳情。いつもなら、目を通す前から優先順位が頭に浮かぶ。
だが、この朝は違った。
「……どれからだ?」
思わず声に出してしまい、眉をひそめる。
そんなことを迷うなど、今まで一度もなかった。
彼は無意識のうちに、机の端へ視線を向けていた。
そこには、いつもなら一枚の整理表が置かれているはずだった。
案件ごとに要点がまとめられ、注意点と落とし穴が簡潔に書かれた、見慣れた紙。
――だが、そこには何もない。
「……ああ」
遅れて、理解が追いついた。
あの紙を用意していたのは、コルネリアだった。
彼女は決して前に出なかったが、いつも事前に情報を整理し、彼が迷わず判断できるよう整えていた。
それが、ない。
「……まあいい」
自分でやればいいだけの話だ。
そう思い、最初の書類を手に取る。
だが、読み進めるうちに、違和感が積み重なっていく。
文面の裏にある意図が掴めない。どこまでが譲歩で、どこからが危険なのか、判断が鈍る。
彼は舌打ちし、次の書類を開いた。
――結果は同じだった。
時間だけが過ぎ、机の上の書類はほとんど減っていない。
額に、じわりと汗が滲む。
「……コルネリアなら、どう言った?」
その名が、自然と口をついて出た。
はっとして、彼は口を閉ざす。
自分で決めた別れだ。今さら彼女の名前を出すなど、未練がましいにもほどがある。
だが、思考は止まらなかった。
彼女は、感情を挟まず、いつも淡々としていた。
だからこそ、彼は彼女の存在を軽んじていたのかもしれない。
――あれは、当たり前ではなかったのだ。
昼前、側近が執務室を訪れた。
「閣下、本日の会議ですが、議題が一部変更になっております」
「変更? 聞いていないぞ」
「昨日、調整役だったヴァルデン伯爵家からの返答が――」
そこで、側近は言葉を濁した。
「……伯爵令嬢が、辞退されたそうで」
バルタザールの手が、ぴたりと止まる。
「辞退?」
「はい。今後は家としても、私的な関与は控える、と」
それはつまり――
コルネリアが、完全に手を引いたということだ。
胸の奥が、きしりと鳴った。
「……代わりは?」
「急ぎ探しておりますが、彼女ほど事情に通じた者は……」
側近は言葉を選び、視線を逸らした。
その仕草が、答えだった。
会議は散々だった。
意見はまとまらず、議論は堂々巡りを繰り返す。今までなら、彼が一言でまとめていた場面で、なぜか決断が遅れる。
帰路につく頃には、疲労がはっきりと顔に出ていた。
その夜、彼はローザリンデと会った。
彼女は変わらず美しく、気遣いの言葉をかけてくる。
「大変でしたのね。お疲れでしょう?」
「……ああ」
だが、会話は続かない。
彼女は優しいが、状況を整理する言葉を持たない。
「会議の内容は、どのような……?」
尋ねられ、彼は言葉に詰まった。
説明しようとすると、頭の中が曖昧で、要点をまとめられない。
ローザリンデは困ったように微笑んだ。
「難しいことは、よく分かりませんけれど……閣下なら、きっと大丈夫ですわ」
励ましの言葉だった。
だが、胸に響かない。
部屋に戻り、一人になると、静寂が重くのしかかる。
ふと、昨夜の光景が蘇った。
夜会の広間。
自分の宣告。
そして――泣きも怒りもせず、ただ「承知しました」と言ったコルネリアの姿。
「……なぜ、あんなに平然としていた」
怒りが、遅れて湧き上がる。
拒絶されたような気分が、胸を刺す。
だが、その怒りの奥に、別の感情が潜んでいた。
不安。
そして、はっきりとした喪失感。
彼は、ようやく理解し始めていた。
コルネリアは、婚約者という肩書きを失ったのではない。
――自分が、彼女を失ったのだ。
それが、どれほど大きな損失だったのか。
この時点では、まだ完全には分かっていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女がいない世界は、
思っていたよりもずっと――不便だった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう
冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」
セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。
少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。
※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。
さくさく進みます。
お前が産め!
星森
ファンタジー
結婚して3ヶ月、夫ジュダルから突然の離婚宣言。
しかし妻アルネは、あっさり「はい、いいですよ」と返答。
だがその裏には、冷徹な計画があった──。
姑ロザリアの暴走、夫ジュダルの迷走、義父バルドランの混乱。
魔方陣が光り、契約精霊が応え、屋敷はいつしか常識の彼方へ。
そして誕生するオシリーナとオシリーネ。
「子供が欲しい? なら、産めばいいじゃない」
冷静沈着な契約者アルネが、家族の常識を魔法でぶち壊す!
愛も情もどこ吹く風、すべては計画通り(?)の異色魔法家族劇、ここに完結。
⚠️本作は下品です。性的描写があります。
AIの生成した文章を使用しています。
これが普通なら、獣人と結婚したくないわ~王女様は復讐を始める~
黒鴉そら
ファンタジー
「私には心から愛するテレサがいる。君のような偽りの愛とは違う、魂で繋がった番なのだ。君との婚約は破棄させていただこう!」
自身の成人を祝う誕生パーティーで婚約破棄を申し出た王子と婚約者と番と、それを見ていた第三者である他国の姫のお話。
全然関係ない第三者がおこなっていく復讐?
そこまでざまぁ要素は強くないです。
最後まで書いているので更新をお待ちください。6話で完結の短編です。
【完結】この運命を受け入れましょうか
なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」
自らの夫であるルーク陛下の言葉。
それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。
「承知しました。受け入れましょう」
ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。
彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。
みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。
だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。
そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。
あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています
葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。
倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。
実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士──
実は、大公家の第三公子でした。
もう言葉だけの優しさはいりません。
私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。
※他サイトにも掲載しています
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
『嫌われ令嬢ですが、最終的に溺愛される予定です』
由香
恋愛
貴族令嬢エマは、自分が周囲から嫌われていると信じて疑わなかった。
婚約者である侯爵令息レオンからも距離を取られ、冷たい視線を向けられている――そう思っていたのに。
ある日、思いがけず聞いてしまった彼の本音。
「君を嫌ったことなど、一度もない」
それは誤解とすれ違いが重なっただけの、両片思いだった。
勘違いから始まる、甘くて優しい溺愛恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる