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第3話 失われた役割
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第3話 失われた役割
翌朝、バルタザール・フォン・クロイツは、いつもより早く目を覚ました。
正確には、眠りが浅く、夜明け前から何度も目を覚ましていたのだ。
胸の奥に、正体の分からない違和感が残っている。
怒りでも、後悔でもない。
――ただ、何かを置き忘れたような感覚。
「……くだらない」
小さく呟き、ベッドから起き上がる。
婚約破棄は、自分が決めたことだ。正しい判断だったはずだ。理想の未来を思い描くためには、感情のない女よりも、華やかで人心を掴める存在が必要だった。
ローザリンデ・フォン・シュテイン。
彼女は美しく、評判もよく、誰の目にも分かりやすい「理想」だ。
――それなのに。
執務室へ向かう足取りは、なぜか重かった。
机の上には、昨夜のうちに積まれた書類がある。
どれも重要な案件ばかりだ。王宮関連の調整、宗教会議への返答、地方領主からの陳情。いつもなら、目を通す前から優先順位が頭に浮かぶ。
だが、この朝は違った。
「……どれからだ?」
思わず声に出してしまい、眉をひそめる。
そんなことを迷うなど、今まで一度もなかった。
彼は無意識のうちに、机の端へ視線を向けていた。
そこには、いつもなら一枚の整理表が置かれているはずだった。
案件ごとに要点がまとめられ、注意点と落とし穴が簡潔に書かれた、見慣れた紙。
――だが、そこには何もない。
「……ああ」
遅れて、理解が追いついた。
あの紙を用意していたのは、コルネリアだった。
彼女は決して前に出なかったが、いつも事前に情報を整理し、彼が迷わず判断できるよう整えていた。
それが、ない。
「……まあいい」
自分でやればいいだけの話だ。
そう思い、最初の書類を手に取る。
だが、読み進めるうちに、違和感が積み重なっていく。
文面の裏にある意図が掴めない。どこまでが譲歩で、どこからが危険なのか、判断が鈍る。
彼は舌打ちし、次の書類を開いた。
――結果は同じだった。
時間だけが過ぎ、机の上の書類はほとんど減っていない。
額に、じわりと汗が滲む。
「……コルネリアなら、どう言った?」
その名が、自然と口をついて出た。
はっとして、彼は口を閉ざす。
自分で決めた別れだ。今さら彼女の名前を出すなど、未練がましいにもほどがある。
だが、思考は止まらなかった。
彼女は、感情を挟まず、いつも淡々としていた。
だからこそ、彼は彼女の存在を軽んじていたのかもしれない。
――あれは、当たり前ではなかったのだ。
昼前、側近が執務室を訪れた。
「閣下、本日の会議ですが、議題が一部変更になっております」
「変更? 聞いていないぞ」
「昨日、調整役だったヴァルデン伯爵家からの返答が――」
そこで、側近は言葉を濁した。
「……伯爵令嬢が、辞退されたそうで」
バルタザールの手が、ぴたりと止まる。
「辞退?」
「はい。今後は家としても、私的な関与は控える、と」
それはつまり――
コルネリアが、完全に手を引いたということだ。
胸の奥が、きしりと鳴った。
「……代わりは?」
「急ぎ探しておりますが、彼女ほど事情に通じた者は……」
側近は言葉を選び、視線を逸らした。
その仕草が、答えだった。
会議は散々だった。
意見はまとまらず、議論は堂々巡りを繰り返す。今までなら、彼が一言でまとめていた場面で、なぜか決断が遅れる。
帰路につく頃には、疲労がはっきりと顔に出ていた。
その夜、彼はローザリンデと会った。
彼女は変わらず美しく、気遣いの言葉をかけてくる。
「大変でしたのね。お疲れでしょう?」
「……ああ」
だが、会話は続かない。
彼女は優しいが、状況を整理する言葉を持たない。
「会議の内容は、どのような……?」
尋ねられ、彼は言葉に詰まった。
説明しようとすると、頭の中が曖昧で、要点をまとめられない。
ローザリンデは困ったように微笑んだ。
「難しいことは、よく分かりませんけれど……閣下なら、きっと大丈夫ですわ」
励ましの言葉だった。
だが、胸に響かない。
部屋に戻り、一人になると、静寂が重くのしかかる。
ふと、昨夜の光景が蘇った。
夜会の広間。
自分の宣告。
そして――泣きも怒りもせず、ただ「承知しました」と言ったコルネリアの姿。
「……なぜ、あんなに平然としていた」
怒りが、遅れて湧き上がる。
拒絶されたような気分が、胸を刺す。
だが、その怒りの奥に、別の感情が潜んでいた。
不安。
そして、はっきりとした喪失感。
彼は、ようやく理解し始めていた。
コルネリアは、婚約者という肩書きを失ったのではない。
――自分が、彼女を失ったのだ。
それが、どれほど大きな損失だったのか。
この時点では、まだ完全には分かっていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女がいない世界は、
思っていたよりもずっと――不便だった。
翌朝、バルタザール・フォン・クロイツは、いつもより早く目を覚ました。
正確には、眠りが浅く、夜明け前から何度も目を覚ましていたのだ。
胸の奥に、正体の分からない違和感が残っている。
怒りでも、後悔でもない。
――ただ、何かを置き忘れたような感覚。
「……くだらない」
小さく呟き、ベッドから起き上がる。
婚約破棄は、自分が決めたことだ。正しい判断だったはずだ。理想の未来を思い描くためには、感情のない女よりも、華やかで人心を掴める存在が必要だった。
ローザリンデ・フォン・シュテイン。
彼女は美しく、評判もよく、誰の目にも分かりやすい「理想」だ。
――それなのに。
執務室へ向かう足取りは、なぜか重かった。
机の上には、昨夜のうちに積まれた書類がある。
どれも重要な案件ばかりだ。王宮関連の調整、宗教会議への返答、地方領主からの陳情。いつもなら、目を通す前から優先順位が頭に浮かぶ。
だが、この朝は違った。
「……どれからだ?」
思わず声に出してしまい、眉をひそめる。
そんなことを迷うなど、今まで一度もなかった。
彼は無意識のうちに、机の端へ視線を向けていた。
そこには、いつもなら一枚の整理表が置かれているはずだった。
案件ごとに要点がまとめられ、注意点と落とし穴が簡潔に書かれた、見慣れた紙。
――だが、そこには何もない。
「……ああ」
遅れて、理解が追いついた。
あの紙を用意していたのは、コルネリアだった。
彼女は決して前に出なかったが、いつも事前に情報を整理し、彼が迷わず判断できるよう整えていた。
それが、ない。
「……まあいい」
自分でやればいいだけの話だ。
そう思い、最初の書類を手に取る。
だが、読み進めるうちに、違和感が積み重なっていく。
文面の裏にある意図が掴めない。どこまでが譲歩で、どこからが危険なのか、判断が鈍る。
彼は舌打ちし、次の書類を開いた。
――結果は同じだった。
時間だけが過ぎ、机の上の書類はほとんど減っていない。
額に、じわりと汗が滲む。
「……コルネリアなら、どう言った?」
その名が、自然と口をついて出た。
はっとして、彼は口を閉ざす。
自分で決めた別れだ。今さら彼女の名前を出すなど、未練がましいにもほどがある。
だが、思考は止まらなかった。
彼女は、感情を挟まず、いつも淡々としていた。
だからこそ、彼は彼女の存在を軽んじていたのかもしれない。
――あれは、当たり前ではなかったのだ。
昼前、側近が執務室を訪れた。
「閣下、本日の会議ですが、議題が一部変更になっております」
「変更? 聞いていないぞ」
「昨日、調整役だったヴァルデン伯爵家からの返答が――」
そこで、側近は言葉を濁した。
「……伯爵令嬢が、辞退されたそうで」
バルタザールの手が、ぴたりと止まる。
「辞退?」
「はい。今後は家としても、私的な関与は控える、と」
それはつまり――
コルネリアが、完全に手を引いたということだ。
胸の奥が、きしりと鳴った。
「……代わりは?」
「急ぎ探しておりますが、彼女ほど事情に通じた者は……」
側近は言葉を選び、視線を逸らした。
その仕草が、答えだった。
会議は散々だった。
意見はまとまらず、議論は堂々巡りを繰り返す。今までなら、彼が一言でまとめていた場面で、なぜか決断が遅れる。
帰路につく頃には、疲労がはっきりと顔に出ていた。
その夜、彼はローザリンデと会った。
彼女は変わらず美しく、気遣いの言葉をかけてくる。
「大変でしたのね。お疲れでしょう?」
「……ああ」
だが、会話は続かない。
彼女は優しいが、状況を整理する言葉を持たない。
「会議の内容は、どのような……?」
尋ねられ、彼は言葉に詰まった。
説明しようとすると、頭の中が曖昧で、要点をまとめられない。
ローザリンデは困ったように微笑んだ。
「難しいことは、よく分かりませんけれど……閣下なら、きっと大丈夫ですわ」
励ましの言葉だった。
だが、胸に響かない。
部屋に戻り、一人になると、静寂が重くのしかかる。
ふと、昨夜の光景が蘇った。
夜会の広間。
自分の宣告。
そして――泣きも怒りもせず、ただ「承知しました」と言ったコルネリアの姿。
「……なぜ、あんなに平然としていた」
怒りが、遅れて湧き上がる。
拒絶されたような気分が、胸を刺す。
だが、その怒りの奥に、別の感情が潜んでいた。
不安。
そして、はっきりとした喪失感。
彼は、ようやく理解し始めていた。
コルネリアは、婚約者という肩書きを失ったのではない。
――自分が、彼女を失ったのだ。
それが、どれほど大きな損失だったのか。
この時点では、まだ完全には分かっていない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女がいない世界は、
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