『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ

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第2話 沈黙の境界

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第2話 沈黙の境界

 王宮の回廊は、夜会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 厚手の絨毯が足音を吸い込み、遠くから微かに聞こえる音楽だけが、まだ宴が続いていることを告げている。

 コルネリア・フォン・ヴァルデンは、背筋を伸ばしたまま歩いていた。
 歩調は乱れていない。息も、心拍も、驚くほど落ち着いている。鏡があれば、そこに映る自分が「今しがた婚約を破棄された令嬢」だと、誰が思うだろう。

 ――だからこそ、視線が痛かった。

 好奇。
 同情。
 そして、ほんの少しの期待。

 誰もが、彼女が取り乱す瞬間をどこかで待っている。
 涙を見せるか、怒りを露わにするか、あるいは縋るか――そうした“分かりやすい反応”を。

 「……コルネリア様?」

 背後から、控えめな声がかかった。
 振り返ると、同じ夜会に招かれていた若い令嬢が、不安そうに立っている。親しい相手ではない。ただ、顔見知りだ。

 「大丈夫でいらっしゃるの?」

 その問いに、コルネリアは一瞬だけ考え、答えた。

 「ええ。ご心配には及びません」

 それ以上の言葉は添えない。
 慰めも、同情も、今の彼女には不要だった。

 令嬢は何か言いかけ、しかし結局は口を閉じ、曖昧な笑みを浮かべて去っていった。その背を見送りながら、コルネリアは思う。
 ――正しい距離だ、と。

 控室の扉を閉めると、ようやく周囲の視線から解放された。
 椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。

 胸の奥に、確かに何かはある。
 だがそれは、悲しみでも怒りでもなかった。

 空白。
 役割を終えた場所に残る、静かな空洞。

 バルタザール・フォン・クロイツの名が、自然と脳裏に浮かぶ。
 彼はいつも、選ぶ側だった。選択権は自分にあり、相手はそれを受け入れる存在だと、疑いもしなかった。

 コルネリアは、その前提を否定しなかった。
 否定しなかったからこそ、彼は気づかなかったのだ。

 ――支えられていたのではない。
 ――“許されて”いたのだということに。

 コンコン、と控えめなノックが響いた。

 「コルネリア。少し、話せるか」

 その声に、彼女は目を伏せてから立ち上がった。
 扉の向こうに立っていたのは、バルタザール本人だった。夜会用の正装のまま、だがその表情には、わずかな戸惑いが滲んでいる。

 「何かご用でしょうか」

 距離を保った声。
 それだけで、彼は違和感を覚えたらしい。

 「先ほどの件だが……突然だったとは思う。しかし、君が冷静で助かった。感情的に揉めるのは避けたかったからな」

 冷静。
 その言葉に、コルネリアの胸の奥が、さらに静まる。

 「誤解なさっているようです」

 遮るように、だが丁寧に言う。

 「私は冷静だったのではありません。あなたの言葉を、そのまま受け取っただけです」

 「……受け取った?」

 「ええ。婚約破棄という事実を」

 事務的な言葉だった。
 だが、その一言で、空気が変わる。

 「今後の手続きは、家同士で進めましょう。個人的なお話を続ける必要はありません」

 バルタザールは眉をひそめた。

 「そこまで距離を取る必要はないだろう。円満に――」

 「円満ではありません」

 コルネリアは、はっきりと否定した。

 「私たちは、もう婚約者ではありません。ただそれだけです」

 沈黙が落ちる。
 彼は、その沈黙を“保留”だと思ったのだろう。

 「改めて話す時間を設けよう。今日は互いに疲れている」

 いつも通りの口調。
 主導権を握り、結論を先送りにするやり方。

 だが、コルネリアは首を横に振った。

 「必要ありません」

 静かで、確かな拒絶だった。

 「私の感情は安定しています。ですから、改めて話す理由もありません」

 バルタザールは言葉を失った。
 その表情に浮かぶのは、怒りではなく困惑だ。

 ――彼はまだ理解していない。
 これは交渉ではない。終結なのだ。

 「今夜はこれで失礼いたします」

 コルネリアは一礼し、彼に背を向けた。
 呼び止める声は、なかった。

 回廊を歩きながら、彼女ははっきりと理解していた。

 沈黙は、了承ではない。
 あれは――境界線を引いた音だった。

 これ以上、踏み込ませない。
 それだけで、十分だった。
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