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第5話 円満という誤解
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第5話 円満という誤解
王都の朝は、噂とともに始まる。
市場の喧騒、馬車の行き交う音、貴族たちの邸宅に届く無数の手紙。そのどれよりも早く、そして確実に広がるのが、人の口から口へと渡る話題だった。
――クロイツ家の婚約破棄は、円満だったらしい。
その言葉を、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、三度目に聞いた。
「さすがはヴァルデン伯爵家のご令嬢ですわ。感情的にならず、立派なご対応だったと、皆さま感心なさっております」
客間でそう語ったのは、母の知人である伯爵夫人だった。
彼女は扇を口元に当て、どこか安心したような表情を浮かべている。
「夜会での様子を見た方々が、口を揃えておっしゃっておりますの。『あれほど穏やかな別れ方は珍しい』と」
穏やか。
円満。
大人の対応。
並べられる言葉は、どれも「褒め言葉」の形をしていた。
「……そうですか」
コルネリアは、静かにそう答えた。
声にも表情にも、波はない。
夫人は満足そうに頷く。
「ええ。ですから、今後も社交の場で気まずくなることはないでしょう。元婚約者とも、良好な関係を保てますわね」
その言葉に、コルネリアは一瞬だけ、視線を落とした。
良好な関係。
その前提が、すでに違っている。
「お気遣い、ありがとうございます」
それだけを返すと、話題は自然と別の方向へ移っていった。
彼女は、それ以上何も訂正しなかった。
否定する必要はない。
誤解は、いずれ自ら形を失う。
夫人が帰った後、静まり返った客間で、コルネリアは一人、紅茶に口をつけた。
香りはいつも通り穏やかだが、舌に残る味はどこか淡白に感じられる。
――円満ではない。
ただ、終わらせただけだ。
それを、誰に理解してもらう必要もない。
午後、執事が一通の書状を運んできた。
「お嬢様、クロイツ家よりです」
差し出された封筒を見た瞬間、胸の奥で、わずかな冷えが走る。
だが、動揺はない。
コルネリアは、封を切らずに、しばらく机の上に置いたままにした。
中身は、想像がつく。
――話し合いの提案。
――理解を示す言葉。
――あるいは、形式的な礼。
どれであっても、受け取る必要はない。
やがて彼女は、封筒をそのまま執事に返した。
「未開封のまま、お戻しください」
執事は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに深く一礼した。
「かしこまりました」
扉が閉じ、再び静寂が戻る。
その頃、別の場所では、まったく違う空気が流れていた。
バルタザール・フォン・クロイツは、王宮の執務室で、苛立ちを隠さずにいた。
机の上には、未決裁の書類が積まれ、側近たちは必要以上に口数が少ない。
「……例の件は、どうなっている」
低い声で問いかける。
「は、はい。ヴァルデン伯爵家には書状をお送りしましたが……未開封で返送されました」
その報告に、空気が一瞬、凍りついた。
「未開封、だと?」
バルタザールは、ゆっくりと顔を上げる。
信じられない、というよりも、想定していなかった反応だった。
「円満に終わったはずだろう」
思わず、口に出ていた。
夜会でのあの態度。
冷静で、反論もなく、すべてを受け入れたように見えた。
――だから、問題はないと思っていた。
「……その、世間では円満解消との見方が広がっておりますが」
側近が慎重に言葉を選ぶ。
「ヴァルデン伯爵令嬢ご本人は、そのように受け取っていない可能性が……」
「そんなはずはない」
即座に否定する。
「彼女は理解していた。だから、何も言わなかったのだ」
だが、その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
側近は沈黙した。
反論しない沈黙が、かえって重い。
バルタザールは、机に手をつき、深く息を吐いた。
――なぜ、返事をしない。
――なぜ、距離を取る。
頭の中に浮かぶのは、夜会で視線を外された瞬間のことだ。
あのときの彼女の目は、怒りでも悲しみでもなかった。
完全な無関心。
あるいは、それに近いもの。
「……円満だと思っているのは、俺だけなのか」
呟いた声は、誰の耳にも届かない。
一方、コルネリアは、その日の終わりに、静かに決意を固めていた。
これ以上、誤解が広がろうとも構わない。
円満だと思われようとも、冷たい女と評されようとも。
彼女が守るべきものは、ただ一つだ。
――もう、あの人の人生に関わらない。
それだけでいい。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。
その音を聞きながら、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、確かに理解していた。
円満という誤解は、
やがて静かに――崩れていく。
王都の朝は、噂とともに始まる。
市場の喧騒、馬車の行き交う音、貴族たちの邸宅に届く無数の手紙。そのどれよりも早く、そして確実に広がるのが、人の口から口へと渡る話題だった。
――クロイツ家の婚約破棄は、円満だったらしい。
その言葉を、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、三度目に聞いた。
「さすがはヴァルデン伯爵家のご令嬢ですわ。感情的にならず、立派なご対応だったと、皆さま感心なさっております」
客間でそう語ったのは、母の知人である伯爵夫人だった。
彼女は扇を口元に当て、どこか安心したような表情を浮かべている。
「夜会での様子を見た方々が、口を揃えておっしゃっておりますの。『あれほど穏やかな別れ方は珍しい』と」
穏やか。
円満。
大人の対応。
並べられる言葉は、どれも「褒め言葉」の形をしていた。
「……そうですか」
コルネリアは、静かにそう答えた。
声にも表情にも、波はない。
夫人は満足そうに頷く。
「ええ。ですから、今後も社交の場で気まずくなることはないでしょう。元婚約者とも、良好な関係を保てますわね」
その言葉に、コルネリアは一瞬だけ、視線を落とした。
良好な関係。
その前提が、すでに違っている。
「お気遣い、ありがとうございます」
それだけを返すと、話題は自然と別の方向へ移っていった。
彼女は、それ以上何も訂正しなかった。
否定する必要はない。
誤解は、いずれ自ら形を失う。
夫人が帰った後、静まり返った客間で、コルネリアは一人、紅茶に口をつけた。
香りはいつも通り穏やかだが、舌に残る味はどこか淡白に感じられる。
――円満ではない。
ただ、終わらせただけだ。
それを、誰に理解してもらう必要もない。
午後、執事が一通の書状を運んできた。
「お嬢様、クロイツ家よりです」
差し出された封筒を見た瞬間、胸の奥で、わずかな冷えが走る。
だが、動揺はない。
コルネリアは、封を切らずに、しばらく机の上に置いたままにした。
中身は、想像がつく。
――話し合いの提案。
――理解を示す言葉。
――あるいは、形式的な礼。
どれであっても、受け取る必要はない。
やがて彼女は、封筒をそのまま執事に返した。
「未開封のまま、お戻しください」
執事は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに深く一礼した。
「かしこまりました」
扉が閉じ、再び静寂が戻る。
その頃、別の場所では、まったく違う空気が流れていた。
バルタザール・フォン・クロイツは、王宮の執務室で、苛立ちを隠さずにいた。
机の上には、未決裁の書類が積まれ、側近たちは必要以上に口数が少ない。
「……例の件は、どうなっている」
低い声で問いかける。
「は、はい。ヴァルデン伯爵家には書状をお送りしましたが……未開封で返送されました」
その報告に、空気が一瞬、凍りついた。
「未開封、だと?」
バルタザールは、ゆっくりと顔を上げる。
信じられない、というよりも、想定していなかった反応だった。
「円満に終わったはずだろう」
思わず、口に出ていた。
夜会でのあの態度。
冷静で、反論もなく、すべてを受け入れたように見えた。
――だから、問題はないと思っていた。
「……その、世間では円満解消との見方が広がっておりますが」
側近が慎重に言葉を選ぶ。
「ヴァルデン伯爵令嬢ご本人は、そのように受け取っていない可能性が……」
「そんなはずはない」
即座に否定する。
「彼女は理解していた。だから、何も言わなかったのだ」
だが、その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
側近は沈黙した。
反論しない沈黙が、かえって重い。
バルタザールは、机に手をつき、深く息を吐いた。
――なぜ、返事をしない。
――なぜ、距離を取る。
頭の中に浮かぶのは、夜会で視線を外された瞬間のことだ。
あのときの彼女の目は、怒りでも悲しみでもなかった。
完全な無関心。
あるいは、それに近いもの。
「……円満だと思っているのは、俺だけなのか」
呟いた声は、誰の耳にも届かない。
一方、コルネリアは、その日の終わりに、静かに決意を固めていた。
これ以上、誤解が広がろうとも構わない。
円満だと思われようとも、冷たい女と評されようとも。
彼女が守るべきものは、ただ一つだ。
――もう、あの人の人生に関わらない。
それだけでいい。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。
その音を聞きながら、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、確かに理解していた。
円満という誤解は、
やがて静かに――崩れていく。
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