『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ

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第9話 埋まらない席

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第9話 埋まらない席

 執務室の空気が、妙に重かった。

 バルタザール・フォン・クロイツは、机の前に座ったまま、しばらく身動きが取れずにいた。
 視線の先には、整理されきらない書類の山。そして、その横――いつもなら、自然と目をやっていたはずの場所。

 そこには、何もない。

 「……」

 無意識に、指が机の縁をなぞる。
 そこは、かつてコルネリアが控えめに腰掛け、必要な時だけ言葉を挟んでいた位置だった。

 前に出ない。
 だが、いないと困る。

 その事実を、彼はこの数日で嫌というほど思い知らされている。

 「閣下、本日の会議の件ですが」

 側近の声に、バルタザールは顔を上げた。

 「出席者が一部変更になっております。調整役として、別の者を同席させますが……」

 言葉が、途中で濁る。

 「……不足か?」

 問いかけると、側近は一瞬だけ視線を逸らし、正直に答えた。

 「率直に申し上げますと、以前と同じ水準は、期待できません」

 以前。
 その言葉が、今では重い。

 「分かった。進めよう」

 会議室では、議論が散漫だった。
 発言は多いが、要点がまとまらない。主張はぶつかるが、収束しない。

 バルタザールは、何度も口を開こうとして、結局、閉じた。
 何を言えばいいのか、判断がつかない。

 以前なら、違った。
 意見が出揃う前に、すでに結論の輪郭が見えていた。

 「……今日は、ここまでにしよう」

 またしても、結論は先送りだ。

 会議が終わり、人がはけた後、広い室内に残されたのは、空席だった。
 議長席の隣――本来、補佐が座るべき場所。

 誰もいない。

 埋まらない席を見つめながら、バルタザールは胸の奥に、はっきりとした苛立ちを感じていた。

 ――なぜ、誰も代われない。

 優秀な人材はいる。
 忠実な部下も、経験豊富な側近も。

 それでも、何かが違う。

 午後、彼は思い切って、ある人物を呼び出した。
 臨時の補佐役として抜擢した、若い貴族だ。

 「率直に聞きたい。今日の会議、どう見えた?」

 若者は一瞬、言葉に詰まり、それから慎重に口を開いた。

 「……正直に申し上げるなら、論点が整理されていないと感じました」

 「整理、か」

 「はい。皆、意見は持っているのですが、優先順位が共有されていませんでした」

 その言葉に、胸が痛んだ。

 それは、まさに――
 コルネリアが常に整えていた部分だ。

 「……君は、どうすれば良かったと思う?」

 若者は少し考え、答える。

 「事前に、判断基準が示されていれば。どこまで譲歩できて、何を守るべきかが分かっていれば、議論はもっと早くまとまったはずです」

 それ以上、聞く必要はなかった。

 彼は若者を下がらせ、再び一人になる。

 机に肘をつき、深く息を吐く。

 ――判断基準。
 ――優先順位。

 それらは、いつも「最初からそこにあった」わけではない。
 誰かが、用意していたのだ。

 その夜、バルタザールは珍しく、ローザリンデと会う約束を断った。
 理由を説明する気力が、なかった。

 代わりに、彼は自室で、一人、過去の記録を読み返していた。
 決裁文書、覚書、議事録。

 そこには、必ず同じ特徴がある。

 要点が簡潔。
 リスクが明確。
 感情が、入っていない。

 「……完璧すぎる」

 それは、褒め言葉ではない。
 今になって、ようやく気づいた重さだった。

 完璧だからこそ、彼は頼り切り、
 そして、失った瞬間に何も残らなかった。

 一方その頃、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、穏やかな夕食をとっていた。
 家族との会話は静かで、無理のない間合いが心地いい。

 「最近、顔色がいいわね」

 母の言葉に、彼女は小さく微笑んだ。

 「余計なことを考えなくなりましたから」

 それだけだった。

 夜、書斎に戻り、彼女は新しい計画書に目を通す。
 小さな領地の改革案。規模は小さいが、確実に成果が出る内容だ。

 ペンを走らせながら、彼女は一度も、クロイツ家のことを考えなかった。

 それが、何よりの証拠だった。

 同じ夜、バルタザールは、埋まらない席を前に、ようやく理解し始めていた。

 ――彼女は、代替できない。

 その事実が、
 遅すぎる自覚として、静かに胸に沈んでいく。

 だが、理解したところで、席は埋まらない。

 それが、彼に突きつけられた現実だった。
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