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第8話 初めての取りこぼし
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第8話 初めての取りこぼし
それは、誰の目にも明らかな失敗だった。
バルタザール・フォン・クロイツが執務室に呼び戻されたのは、昼を少し回った頃だった。
扉の向こうに集まっている気配だけで、事態が穏やかではないことが分かる。
「……入れ」
短く告げると、側近と書記官、さらに財務担当官が一斉に入室した。
彼らの表情は硬く、視線が定まらない。
「閣下。先ほどの裁可について、ご報告が」
財務担当官が一歩前に出る。
「南部交易路の件ですが……想定よりも反発が強く、すでに二つの商会が撤退を示唆しています」
バルタザールは眉をひそめた。
「撤退? 条件は悪くないはずだ。むしろ、こちらが譲歩した形だろう」
「その“譲歩”が、問題だったかと」
担当官は、慎重に言葉を選ぶ。
「免税期間を短縮した代わりに通行権を拡大する案でしたが……長期的な負担増を警戒されました。事前に調整があれば、防げた可能性が高いかと」
事前調整。
その四文字が、胸に刺さる。
「……損失は」
「現時点では、信用低下が主です。ただ、このままでは周辺領主にも影響が及ぶかと」
沈黙が落ちた。
これは小さな失敗ではない。
だが、致命的でもない。
――だからこそ、余計に厄介だった。
「……対応策をまとめろ」
低い声で命じる。
側近たちは一礼し、速やかに退出した。
扉が閉まった後、執務室には静寂が残る。
バルタザールは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
胸の奥に、じわじわと広がる感覚がある。
――取りこぼした。
それも、初めてのはずなのに、妙に馴染みがある。
まるで、以前から起こるはずだったことが、今になって表に出ただけのような。
彼は無意識に、机の引き出しを開けた。
そこには、もう使われていない古い覚書が残っている。
手に取ると、整った文字が目に入った。
「この案は短期的に数字が出ますが、商会側の心理的抵抗が大きいです」
「譲歩する場合は、必ず“期限付き”であることを明示してください」
コルネリアの筆跡だ。
胸の奥が、きしりと音を立てた。
「……だからか」
呟きは、誰に向けたものでもない。
彼女は、失敗を防いでいたのではない。
失敗が起きる前に、取りこぼしを拾っていただけだ。
それを、自分の判断力だと勘違いしていた。
午後、王宮内では、すでに噂が立ち始めていた。
「クロイツ卿、最近どうしたのかしら」
「判断が遅れているらしい」
「以前は、もっと切れ味があったはずだが……」
それらの言葉は、直接耳に入るわけではない。
だが、態度や視線の端々に、確かに滲んでいた。
一方その頃、ヴァルデン伯爵邸では、まったく異なる空気が流れていた。
コルネリア・フォン・ヴァルデンは、書斎で静かに帳簿をめくっている。
窓から差し込む光は穏やかで、時間の流れは緩やかだ。
「お嬢様、先ほどの商会からの返答ですが」
執事が報告書を差し出す。
「問題ありません。想定通りです」
即答だった。
「取引条件は、当初の案で進めましょう。余分な譲歩は不要です」
執事は一瞬、感心したように目を細める。
「さすがでございます」
コルネリアは、わずかに首を振った。
「さすがでも、特別でもありません。ただ、整理しただけです」
それだけのこと。
かつて彼女がしていたのも、同じ作業だった。
夕刻、彼女のもとにも噂は届いていた。
クロイツ家の判断ミス。商会の撤退。信用低下。
だが、コルネリアはそれに何の感情も抱かなかった。
――関係ない。
同情もしない。
嘲笑もしない。
彼女はもう、その舞台に立っていないのだから。
その夜、バルタザールは一人、執務室に残っていた。
灯りの下で、未処理の書類が影を落とす。
今日の失敗は、偶然ではない。
そして、次もきっと起こる。
その予感が、はっきりと胸にある。
「……一度くらい、話せば」
ふと、そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。
彼女は、会わない。
それを、彼自身が一番よく知っている。
初めての取りこぼしは、
小さな傷のようでいて、確実に彼の自尊心を削っていた。
そしてそれは、
“彼女がいない現実”を、否応なく突きつける合図でもあった。
それは、誰の目にも明らかな失敗だった。
バルタザール・フォン・クロイツが執務室に呼び戻されたのは、昼を少し回った頃だった。
扉の向こうに集まっている気配だけで、事態が穏やかではないことが分かる。
「……入れ」
短く告げると、側近と書記官、さらに財務担当官が一斉に入室した。
彼らの表情は硬く、視線が定まらない。
「閣下。先ほどの裁可について、ご報告が」
財務担当官が一歩前に出る。
「南部交易路の件ですが……想定よりも反発が強く、すでに二つの商会が撤退を示唆しています」
バルタザールは眉をひそめた。
「撤退? 条件は悪くないはずだ。むしろ、こちらが譲歩した形だろう」
「その“譲歩”が、問題だったかと」
担当官は、慎重に言葉を選ぶ。
「免税期間を短縮した代わりに通行権を拡大する案でしたが……長期的な負担増を警戒されました。事前に調整があれば、防げた可能性が高いかと」
事前調整。
その四文字が、胸に刺さる。
「……損失は」
「現時点では、信用低下が主です。ただ、このままでは周辺領主にも影響が及ぶかと」
沈黙が落ちた。
これは小さな失敗ではない。
だが、致命的でもない。
――だからこそ、余計に厄介だった。
「……対応策をまとめろ」
低い声で命じる。
側近たちは一礼し、速やかに退出した。
扉が閉まった後、執務室には静寂が残る。
バルタザールは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
胸の奥に、じわじわと広がる感覚がある。
――取りこぼした。
それも、初めてのはずなのに、妙に馴染みがある。
まるで、以前から起こるはずだったことが、今になって表に出ただけのような。
彼は無意識に、机の引き出しを開けた。
そこには、もう使われていない古い覚書が残っている。
手に取ると、整った文字が目に入った。
「この案は短期的に数字が出ますが、商会側の心理的抵抗が大きいです」
「譲歩する場合は、必ず“期限付き”であることを明示してください」
コルネリアの筆跡だ。
胸の奥が、きしりと音を立てた。
「……だからか」
呟きは、誰に向けたものでもない。
彼女は、失敗を防いでいたのではない。
失敗が起きる前に、取りこぼしを拾っていただけだ。
それを、自分の判断力だと勘違いしていた。
午後、王宮内では、すでに噂が立ち始めていた。
「クロイツ卿、最近どうしたのかしら」
「判断が遅れているらしい」
「以前は、もっと切れ味があったはずだが……」
それらの言葉は、直接耳に入るわけではない。
だが、態度や視線の端々に、確かに滲んでいた。
一方その頃、ヴァルデン伯爵邸では、まったく異なる空気が流れていた。
コルネリア・フォン・ヴァルデンは、書斎で静かに帳簿をめくっている。
窓から差し込む光は穏やかで、時間の流れは緩やかだ。
「お嬢様、先ほどの商会からの返答ですが」
執事が報告書を差し出す。
「問題ありません。想定通りです」
即答だった。
「取引条件は、当初の案で進めましょう。余分な譲歩は不要です」
執事は一瞬、感心したように目を細める。
「さすがでございます」
コルネリアは、わずかに首を振った。
「さすがでも、特別でもありません。ただ、整理しただけです」
それだけのこと。
かつて彼女がしていたのも、同じ作業だった。
夕刻、彼女のもとにも噂は届いていた。
クロイツ家の判断ミス。商会の撤退。信用低下。
だが、コルネリアはそれに何の感情も抱かなかった。
――関係ない。
同情もしない。
嘲笑もしない。
彼女はもう、その舞台に立っていないのだから。
その夜、バルタザールは一人、執務室に残っていた。
灯りの下で、未処理の書類が影を落とす。
今日の失敗は、偶然ではない。
そして、次もきっと起こる。
その予感が、はっきりと胸にある。
「……一度くらい、話せば」
ふと、そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。
彼女は、会わない。
それを、彼自身が一番よく知っている。
初めての取りこぼしは、
小さな傷のようでいて、確実に彼の自尊心を削っていた。
そしてそれは、
“彼女がいない現実”を、否応なく突きつける合図でもあった。
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