『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ

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第7話 崩れ始める前提

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第7話 崩れ始める前提

 バルタザール・フォン・クロイツは、その朝、違和感とともに目を覚ました。
 夢を見ていたはずだが、内容は思い出せない。ただ、胸の奥に引っかかるものだけが残っている。

 ――何かが、思い通りにいっていない。

 その感覚は、ここ数日、確実に強まっていた。

 身支度を整え、執務室へ向かう廊下を歩きながら、彼は周囲の様子に意識を向ける。
 使用人たちの動きは変わらない。礼儀も、態度も、いつも通りだ。

 だが、どこか違う。

 視線が、微妙に泳ぐ。
 声をかけられる回数が、減っている。

 ――気のせいだ。

 そう結論づけ、執務室の扉を開いた。

 机の上には、例によって書類が積まれている。
 以前なら、昨夜のうちに半分は処理されていたはずの量だ。

 「……多いな」

 呟きながら腰を下ろし、最初の一枚に目を通す。
 内容は、地方貴族からの陳情。小規模な問題だが、対応を誤れば、後々まで尾を引く。

 彼はペンを取ったまま、動きを止めた。

 ――どう処理する?

 選択肢はいくつかある。
 だが、どれを選ぶべきか、決めきれない。

 以前なら、自然と浮かんできたはずの「最適解」が、今は見えない。
 代わりに、頭の片隅に別の考えが浮かぶ。

 ――コルネリアなら、どう言った。

 その思考に、彼は思わず眉をひそめた。

 「……違う」

 彼女はもう、関係ない。
 そう決めたのは、自分だ。

 だが、思考は止まらなかった。

 彼女は、決して命令しなかった。
 ただ、選択肢を整理し、結果を淡々と示していただけだ。

 「ここは譲っても構わないが、代わりにこの条件は外せない」
 「この案は、短期的には有利だが、三年後に反発を招く」

 ――そんな声が、脳裏に蘇る。

 彼は舌打ちし、書類を脇へ押しやった。

 「次だ」

 次の書類も、その次も、同じ結果だった。
 決めきれない。進まない。時間だけが過ぎていく。

 やがて、側近が控えめに声をかけてきた。

 「閣下、本日の予定ですが……昼前に神殿からの使者が参ります」

 「また神殿か」

 「はい。前回の件について、再度の確認を求めているようです」

 前回。
 あの、結論を先送りにした交渉。

 「……分かった。通せ」

 返事をしながら、胸の奥に小さな苛立ちが芽生える。
 本来なら、もう片が付いているはずの案件だ。

 神殿の使者は、穏やかな態度で現れた。
 だが、その穏やかさは、譲歩の意思を示すものではない。

 「以前と同じ条件であれば、こちらとしては問題ありません」

 その一言で、交渉は行き詰まった。

 「状況が変わった」

 バルタザールは、少し強めの口調で言う。

 「我々にも、再考すべき事情がある」

 使者は微笑みを崩さない。

 「その事情を、具体的にお示しいただけますか?」

 言葉に詰まる。
 “事情”は確かにある。だが、それを整理し、相手に納得させる形にできていない。

 沈黙が、じわりと広がる。

 「……本日は、ここまでにしよう」

 結局、またも結論は出なかった。

 使者が去った後、執務室に残された空気は重い。
 側近は何も言わなかったが、その沈黙が、かえって刺さる。

 「……何か言いたいことがあるなら、言え」

 苛立ちを隠さずに言うと、側近は一瞬ためらい、やがて口を開いた。

 「失礼を承知で申し上げますが……以前は、こうした場面で迷われることは、ほとんどありませんでした」

 「それは、俺の判断力が落ちたと言いたいのか」

 「いえ。ただ……」

 言葉を探す仕草の後、側近は続けた。

 「ヴァルデン伯爵令嬢が関与されていた頃は、判断の前提が、自然と整っておりました」

 その名前を聞いた瞬間、空気が凍る。

 「彼女の話は、するな」

 低く言い放つと、側近は深く頭を下げた。

 「……申し訳ありません」

 側近が退室した後、バルタザールは椅子にもたれ、天井を仰いだ。

 ――前提が、整っていた。

 その言葉が、頭の中で反響する。

 自分は、何を前提に動いていたのか。
 自分一人で決めていた、と思っていた判断の多くが、実はすでに“整えられた道”だったのではないか。

 「……そんなはずはない」

 否定の言葉は、弱々しかった。

 その日の夕刻、彼はローザリンデと短い時間を過ごした。
 彼女は変わらず柔らかく、気遣いの言葉をかける。

 「お忙しそうですわね。無理をなさらないでください」

 「……ああ」

 だが、会話は深まらない。
 彼女は励ましてくれるが、状況を切り分けることはできない。

 それが悪いわけではない。
 だが――足りない。

 部屋に戻り、一人になったとき、バルタザールはようやく認めざるを得なかった。

 コルネリアがいなくなったことで、
 自分の世界は、確実に変わってしまった。

 そして、これまで“当たり前”だと思っていた前提が、
 静かに、だが確実に――崩れ始めている。

 その事実に気づいたとき、
 彼の胸に芽生えたのは、怒りではなく、
 名付けようのない不安だった。
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