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第13話 取り戻せない時間
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第13話 取り戻せない時間
王宮の執務室で、バルタザール・フォン・クロイツは、長い間、窓の外を眺めていた。
書類は机の上に積まれたまま、手を伸ばす気にもなれない。
――話すべき内容は、ありません。
ヴァルデン伯爵家から届いた返書の一文が、何度も脳裏をよぎる。
拒絶ですらない。ただの事実確認。
その冷静さが、かえって胸を締めつけた。
「……終わった、か」
口に出してみても、現実感は薄い。
終わったのは婚約だけではない。
彼女と過ごした時間、そのすべてが、過去になったという意味なのだ。
ふと、机の端に置かれた古い記録箱が目に留まった。
婚約期間中の資料や覚書をまとめたものだ。
今までは、開こうとすら思わなかった。
――見るのが、怖かった。
だが、今は違う。
彼は、ゆっくりと箱を引き寄せ、蓋を開けた。
中には、整然と並べられた書類が収められている。
案件ごとに分類され、付箋には簡潔な要点が書かれていた。
「……ここまで、やっていたのか」
思わず、息が漏れる。
そこには、彼が決裁した結果だけでなく、
決裁に至るまでの過程――却下された案、想定された失敗、回避された衝突が、すべて残されていた。
つまり、彼が「何も起こらなかった」と思っていた日々は、
実際には、彼女が水面下で問題を処理し続けた結果だったのだ。
「……俺は」
言葉が、続かなかった。
彼は、自分が支えていたつもりでいた。
婚約者として、彼女を導き、守っていると。
だが、現実は逆だった。
守られていたのは、自分だ。
自分の評価も、立場も、判断力さえも。
書類を一枚、また一枚とめくるたびに、胸の奥が痛む。
そこには、彼女の筆跡で書かれた注意書きがある。
「この件は、感情論に傾きやすいので注意」
「表向きは譲歩だが、実質的な主導権はこちらに残る」
「この人物は、面子を重視する。正論だけでは動かない」
どれも、彼が得意だと思い込んでいた判断だ。
「……奪っていたのは、俺の方だったのか」
彼女の時間。
彼女の思考。
そして、彼女の可能性。
それらを、自分の「当たり前」として消費していた。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に、重い感情が沈んだ。
後悔では足りない。
罪悪感と呼ぶには、遅すぎる。
その日の午後、王宮の一角で、数人の貴族が囁き合っていた。
「最近、クロイツ卿の裁可、遅いと思わない?」
「ええ。以前はもっと迷いがなかったはず」
「ヴァルデン伯爵令嬢がいた頃とは、別人のようだわ」
その声は、意図せず彼の耳に届いた。
立ち止まり、否定しようとして――できなかった。
彼らは、事実を述べているだけだ。
一方その頃、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、静かな午後を過ごしていた。
小さな領地の代表者と書簡を交わし、具体的な改善策をまとめている。
「次は、水路整備ですね」
彼女は淡々と指示を出す。
相手の立場、資金、時期。すべてを考慮した現実的な案だ。
書簡の向こうからは、感謝と安堵の言葉が返ってくる。
それを受け取りながら、彼女は何の高揚も覚えなかった。
――これが、私の仕事。
誰かの影でも、補佐役でもない。
自分自身としての判断。
夕刻、バルタザールは再び記録箱を閉じた。
そこに書かれていた時間は、もう戻らない。
謝罪しても、理解しても、
奪ってしまった時間は、返せない。
「……遅すぎた」
呟きは、執務室の空気に溶けて消えた。
彼女が離れた理由は、怒りではない。
冷遇でもない。
――使い尽くされたからだ。
その事実に気づいたとき、
バルタザール・フォン・クロイツは、初めて本当の意味で理解した。
失ったのは、婚約者ではない。
共に未来を築くはずだった時間そのものだった。
そしてそれは、
どれほど悔やんでも、
二度と取り戻すことはできない。
王宮の執務室で、バルタザール・フォン・クロイツは、長い間、窓の外を眺めていた。
書類は机の上に積まれたまま、手を伸ばす気にもなれない。
――話すべき内容は、ありません。
ヴァルデン伯爵家から届いた返書の一文が、何度も脳裏をよぎる。
拒絶ですらない。ただの事実確認。
その冷静さが、かえって胸を締めつけた。
「……終わった、か」
口に出してみても、現実感は薄い。
終わったのは婚約だけではない。
彼女と過ごした時間、そのすべてが、過去になったという意味なのだ。
ふと、机の端に置かれた古い記録箱が目に留まった。
婚約期間中の資料や覚書をまとめたものだ。
今までは、開こうとすら思わなかった。
――見るのが、怖かった。
だが、今は違う。
彼は、ゆっくりと箱を引き寄せ、蓋を開けた。
中には、整然と並べられた書類が収められている。
案件ごとに分類され、付箋には簡潔な要点が書かれていた。
「……ここまで、やっていたのか」
思わず、息が漏れる。
そこには、彼が決裁した結果だけでなく、
決裁に至るまでの過程――却下された案、想定された失敗、回避された衝突が、すべて残されていた。
つまり、彼が「何も起こらなかった」と思っていた日々は、
実際には、彼女が水面下で問題を処理し続けた結果だったのだ。
「……俺は」
言葉が、続かなかった。
彼は、自分が支えていたつもりでいた。
婚約者として、彼女を導き、守っていると。
だが、現実は逆だった。
守られていたのは、自分だ。
自分の評価も、立場も、判断力さえも。
書類を一枚、また一枚とめくるたびに、胸の奥が痛む。
そこには、彼女の筆跡で書かれた注意書きがある。
「この件は、感情論に傾きやすいので注意」
「表向きは譲歩だが、実質的な主導権はこちらに残る」
「この人物は、面子を重視する。正論だけでは動かない」
どれも、彼が得意だと思い込んでいた判断だ。
「……奪っていたのは、俺の方だったのか」
彼女の時間。
彼女の思考。
そして、彼女の可能性。
それらを、自分の「当たり前」として消費していた。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に、重い感情が沈んだ。
後悔では足りない。
罪悪感と呼ぶには、遅すぎる。
その日の午後、王宮の一角で、数人の貴族が囁き合っていた。
「最近、クロイツ卿の裁可、遅いと思わない?」
「ええ。以前はもっと迷いがなかったはず」
「ヴァルデン伯爵令嬢がいた頃とは、別人のようだわ」
その声は、意図せず彼の耳に届いた。
立ち止まり、否定しようとして――できなかった。
彼らは、事実を述べているだけだ。
一方その頃、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、静かな午後を過ごしていた。
小さな領地の代表者と書簡を交わし、具体的な改善策をまとめている。
「次は、水路整備ですね」
彼女は淡々と指示を出す。
相手の立場、資金、時期。すべてを考慮した現実的な案だ。
書簡の向こうからは、感謝と安堵の言葉が返ってくる。
それを受け取りながら、彼女は何の高揚も覚えなかった。
――これが、私の仕事。
誰かの影でも、補佐役でもない。
自分自身としての判断。
夕刻、バルタザールは再び記録箱を閉じた。
そこに書かれていた時間は、もう戻らない。
謝罪しても、理解しても、
奪ってしまった時間は、返せない。
「……遅すぎた」
呟きは、執務室の空気に溶けて消えた。
彼女が離れた理由は、怒りではない。
冷遇でもない。
――使い尽くされたからだ。
その事実に気づいたとき、
バルタザール・フォン・クロイツは、初めて本当の意味で理解した。
失ったのは、婚約者ではない。
共に未来を築くはずだった時間そのものだった。
そしてそれは、
どれほど悔やんでも、
二度と取り戻すことはできない。
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