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第15話 追いつけない距離
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第15話 追いつけない距離
王宮の会議室を出た瞬間、バルタザール・フォン・クロイツは、はっきりとした疲労を感じていた。
肉体ではない。思考の疲労だ。
「……結局、こちらの案で進める、か」
側近たちは頷き、各自の持ち場へと散っていく。
結論は出た。形としては、問題ない。
――だが。
胸の奥に、どうしても拭えない違和感が残る。
「本当に、これが最善だったのか」
誰に向けた言葉でもなく、独りごちる。
以前なら、こんな疑問は生じなかった。
決断はもっと速く、そして確信に満ちていた。
執務室へ戻る途中、彼は回廊の窓から中庭を見下ろした。
整えられた庭園を歩く貴族たちの姿が、小さく見える。
その中に、ふと――見覚えのある後ろ姿を探してしまう自分に気づき、彼は眉をひそめた。
「……まだ、探しているのか」
自嘲気味に呟き、視線を逸らす。
だが、頭の中では、ある報告が何度も反芻されていた。
――ヴァルデン伯爵令嬢が関わった案件は、どれも判断が早い。
――迷いがない。
――無駄がない。
そして、何より――
関係者の不満が、ほとんど出ていない。
「……なぜだ」
執務室に入り、机に向かう。
今日決裁した案件を、もう一度見直す。
資料は揃っている。
論点も整理されている。
だが、どこか違う。
「……遅い」
気づいた瞬間、胸が重くなった。
自分の判断は、遅いのだ。
慎重と言い換えることもできるが、違う。
――前提が、整っていない。
だから、考える時間が必要になる。
だから、迷いが生じる。
そして、その「前提」を、かつては誰が整えていたのか――
答えは、もうはっきりしている。
その日の午後、彼は思い切って、ある提案を出した。
小規模な改革案。
数字上は堅実で、失敗は少ない。
「……これで、いけるはずだ」
側近たちは概ね賛同したが、一人だけ、慎重な表情を浮かべる者がいた。
「閣下。この案ですが……実行自体は可能ですが、現場の負担がやや大きいかと」
「負担?」
「はい。短期的には耐えられますが、三年後に反発が出る可能性があります」
その言葉に、バルタザールは息を呑んだ。
――同じだ。
かつて、コルネリアが口にしていた言葉と、ほとんど同じ指摘。
「……代案はあるか」
問い返すと、側近は首を横に振った。
「現時点では、ありません」
沈黙が落ちる。
彼は、その沈黙の意味を理解していた。
かつてなら、ここで即座に修正案が出ていた。
それを、自分は「自分の判断」だと思い込んでいた。
結局、その案は保留となった。
また一つ、決断が先送りされる。
夕刻、彼は珍しく、王宮の外を歩いていた。
人混みの中で、ふと聞こえてきた会話が、足を止めさせる。
「ヴァルデン伯爵家の新しい取り組み、もう結果が出たそうよ」
「ええ。無理をしていないのに、早いわよね」
追い抜いていく人々の声は、彼に気づかない。
だが、その一言一言が、胸に突き刺さる。
――早い。
――迷いがない。
彼女は、もう先を歩いている。
一方その頃、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、静かな応接室で、書簡に目を通していた。
地方から届いた感謝の手紙。
次の段階への相談。
「この件は、急がなくていいですね」
彼女は穏やかに告げる。
「準備が整ってからで構いません。その方が、長く続きますから」
相手は、安堵したように頷いた。
焦らせない。
急かさない。
それが、結果として、最短距離になることを、彼女は知っている。
夜、バルタザールは執務室で一人、灯りを落とさずに座っていた。
机の上には、未処理の案件が残っている。
だが、もう焦りはなかった。
代わりに、はっきりとした感覚がある。
――追いつけない。
努力の問題ではない。
才能の差でもない。
彼女は、自分の人生を生きている。
自分は、彼女の人生に乗っていただけだった。
その差が、今になって、はっきりと形を持った。
「……遅すぎたな」
呟きは、誰に届くこともなく、夜に溶ける。
追いかけても、
手を伸ばしても、
もう同じ場所には立てない。
バルタザール・フォン・クロイツは、ようやく理解していた。
失ったのは、人ではない。
並んで歩けたはずの距離そのものだったのだ。
王宮の会議室を出た瞬間、バルタザール・フォン・クロイツは、はっきりとした疲労を感じていた。
肉体ではない。思考の疲労だ。
「……結局、こちらの案で進める、か」
側近たちは頷き、各自の持ち場へと散っていく。
結論は出た。形としては、問題ない。
――だが。
胸の奥に、どうしても拭えない違和感が残る。
「本当に、これが最善だったのか」
誰に向けた言葉でもなく、独りごちる。
以前なら、こんな疑問は生じなかった。
決断はもっと速く、そして確信に満ちていた。
執務室へ戻る途中、彼は回廊の窓から中庭を見下ろした。
整えられた庭園を歩く貴族たちの姿が、小さく見える。
その中に、ふと――見覚えのある後ろ姿を探してしまう自分に気づき、彼は眉をひそめた。
「……まだ、探しているのか」
自嘲気味に呟き、視線を逸らす。
だが、頭の中では、ある報告が何度も反芻されていた。
――ヴァルデン伯爵令嬢が関わった案件は、どれも判断が早い。
――迷いがない。
――無駄がない。
そして、何より――
関係者の不満が、ほとんど出ていない。
「……なぜだ」
執務室に入り、机に向かう。
今日決裁した案件を、もう一度見直す。
資料は揃っている。
論点も整理されている。
だが、どこか違う。
「……遅い」
気づいた瞬間、胸が重くなった。
自分の判断は、遅いのだ。
慎重と言い換えることもできるが、違う。
――前提が、整っていない。
だから、考える時間が必要になる。
だから、迷いが生じる。
そして、その「前提」を、かつては誰が整えていたのか――
答えは、もうはっきりしている。
その日の午後、彼は思い切って、ある提案を出した。
小規模な改革案。
数字上は堅実で、失敗は少ない。
「……これで、いけるはずだ」
側近たちは概ね賛同したが、一人だけ、慎重な表情を浮かべる者がいた。
「閣下。この案ですが……実行自体は可能ですが、現場の負担がやや大きいかと」
「負担?」
「はい。短期的には耐えられますが、三年後に反発が出る可能性があります」
その言葉に、バルタザールは息を呑んだ。
――同じだ。
かつて、コルネリアが口にしていた言葉と、ほとんど同じ指摘。
「……代案はあるか」
問い返すと、側近は首を横に振った。
「現時点では、ありません」
沈黙が落ちる。
彼は、その沈黙の意味を理解していた。
かつてなら、ここで即座に修正案が出ていた。
それを、自分は「自分の判断」だと思い込んでいた。
結局、その案は保留となった。
また一つ、決断が先送りされる。
夕刻、彼は珍しく、王宮の外を歩いていた。
人混みの中で、ふと聞こえてきた会話が、足を止めさせる。
「ヴァルデン伯爵家の新しい取り組み、もう結果が出たそうよ」
「ええ。無理をしていないのに、早いわよね」
追い抜いていく人々の声は、彼に気づかない。
だが、その一言一言が、胸に突き刺さる。
――早い。
――迷いがない。
彼女は、もう先を歩いている。
一方その頃、コルネリア・フォン・ヴァルデンは、静かな応接室で、書簡に目を通していた。
地方から届いた感謝の手紙。
次の段階への相談。
「この件は、急がなくていいですね」
彼女は穏やかに告げる。
「準備が整ってからで構いません。その方が、長く続きますから」
相手は、安堵したように頷いた。
焦らせない。
急かさない。
それが、結果として、最短距離になることを、彼女は知っている。
夜、バルタザールは執務室で一人、灯りを落とさずに座っていた。
机の上には、未処理の案件が残っている。
だが、もう焦りはなかった。
代わりに、はっきりとした感覚がある。
――追いつけない。
努力の問題ではない。
才能の差でもない。
彼女は、自分の人生を生きている。
自分は、彼女の人生に乗っていただけだった。
その差が、今になって、はっきりと形を持った。
「……遅すぎたな」
呟きは、誰に届くこともなく、夜に溶ける。
追いかけても、
手を伸ばしても、
もう同じ場所には立てない。
バルタザール・フォン・クロイツは、ようやく理解していた。
失ったのは、人ではない。
並んで歩けたはずの距離そのものだったのだ。
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