『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ

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第35話 静かに継がれるもの

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第35話 静かに継がれるもの

 王都の朝は、いつも通りに始まった。
 鐘が鳴り、市が立ち、人々は昨日と変わらぬ足取りで歩き出す。

 だが、その「変わらなさ」を支えているものが、少しずつ世代を越え始めていることに、気づく者はまだ少ない。

 王宮の執務棟の一室で、若い官僚たちが集まっていた。
 新任者向けの、小さな勉強会だ。

 「では、この案件の場合、まず何を確認しますか」

 指導役を務めているのは、バルタザール・フォン・クロイツだった。
 以前なら考えられない立場だが、今の彼には、それが自然に馴染んでいる。

 若い官僚の一人が、少し考えてから答える。

 「……目的、ですか?」

 「そう」

 バルタザールは、静かに頷いた。

 「目的が曖昧なまま判断すると、後で必ず歪みが出る」

 彼自身が、何度も失敗してきた部分だ。

 別の者が続ける。

 「判断基準は、事前に共有されているものを確認します」

 「良い」

 さらに、もう一人。

 「迷った場合は……記録を残す」

 その言葉に、バルタザールは小さく笑った。

 「そうだ。答えを急がない。問いを残す」

 その勉強会に、コルネリア・フォン・ヴァルデンの姿はない。
 だが、使われている言葉も、判断の順序も、彼女が作った流れそのものだった。

 午後、コルネリアは屋敷の書斎で、届いた数通の書簡に目を通していた。
 内容は、近況報告と、小さな判断の共有。

 どれも、結論はすでに出ている。
 彼女に、指示を仰ぐものではない。

 「……きちんと、考えていますね」

 短い返事を書きながら、彼女はそう感じていた。

 返書の内容は、相変わらず簡潔だ。

 ――判断は妥当です。
 ――理由を、残してください。

 それだけで、十分だった。

 夕刻、王都の一角で、小さな問題が起きた。
 住民からの要望が、複数の部署にまたがっている。

 以前なら、責任の押し付け合いになっていた案件だ。

 だが今回は、違った。

 担当者たちは集まり、自然と確認を始める。

 「目的は何か」
 「影響範囲はどこまでか」
 「誰が判断を引き受けるか」

 時間はかかった。
 だが、結論は静かにまとまった。

 誰も、コルネリアの名を口にしない。
 それでも、その場にある判断の形は、彼女が残したものだった。

 夜、屋敷の庭で、コルネリアは風に揺れる木々を眺めていた。
 最近、彼女のもとに届く相談は減っている。

 それは、寂しさではない。

 「……継がれていますね」

 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 判断の仕方。
 問いの立て方。
 選ばない勇気。

 それらは、言葉ではなく、習慣として残り始めている。

 同じ夜、バルタザールは自室で、一日のメモをまとめていた。
 そこには、若い官僚たちの言葉が、箇条書きで残されている。

 ――目的を確認する
 ――基準に戻る
 ――理由を記録する

 彼は、ペンを置き、静かに息を吐いた。

 「……これは、もう個人のものじゃないな」

 誰か一人が去っても、残るもの。
 誰かが前に立たなくても、続くもの。

 それこそが、本当に価値のある仕事なのだと、今は分かる。

 王都の灯りが、ゆっくりと夜に溶けていく。
 今日も、大きな拍手はない。
 称賛の声も、聞こえない。

 だが、確かに――
 静かに、確実に、
 何かが継がれている。

 コルネリア・フォン・ヴァルデンは、
 それを誇示しない。
 確認もしない。

 ただ、次の世代が自然に歩き出していることを、
 遠くから見守りながら、
 静かに、その価値を噛みしめていた。

 継がれるものは、
 声高に語られない。
 だが、消えもしない。

 それが、本当の意味で――
 残った仕事だった。
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