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第一話 奪われた屋敷
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第一話 奪われた屋敷
公爵家の屋敷は、静かだった。
広い廊下に足音は響かず、磨き上げられた床には、もう誰も走らない。
ほんの半年前まで、父の低い笑い声と、母のやわらかな叱責が満ちていた場所だというのに。
「お嬢様、お寒くありませんか」
老執事のルークが、そっと肩にショールを掛けてくれる。
エレノアは小さく首を振った。
「大丈夫よ、ルーク」
声は落ち着いている。
泣きはらした目も、もう赤くない。
両親を事故で亡くしたあの日から、涙は出なくなっていた。
代わりに胸の奥に残ったのは、ひどく静かな空洞だ。
その空洞に、今日から別のものが入り込む。
「後見人様が到着なさいました」
玄関が騒がしくなる。
馬車の音。荷物を運ぶ声。見知らぬ使用人たちのざわめき。
叔父――グレゴール男爵と、その家族。
父の弟にあたる人物だ。
父が亡くなった直後、王宮に申し出て「未成年の姪の後見人」を名乗り出た。
形式としては正しい。
だが、エレノアは一度も会ったことがない。
重たい扉が開き、濃い香水の匂いが流れ込んだ。
「まあ……ここが公爵家の本邸なのね」
高い声。
宝石をこれでもかと身につけた叔母が、遠慮なく大理石の床を踏みしめる。
その後ろで、エレノアと同じ年頃の少女が、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい……! 全部、私のものになるの?」
ルークの肩がぴくりと震える。
エレノアは何も言わない。
叔父が大股で近づいてきた。
「久しいな、エレノア。つらかっただろう」
口調は柔らかいが、目は屋敷の奥を測るように動いている。
「これからは私がこの家を守る。安心しなさい」
“この家を守る”。
その言葉に、かすかな違和感が走る。
守るのは、公爵である父の役目だった。
叔父は男爵だ。
立場が違う。
けれど今、この屋敷に公爵はいない。
いるのは、幼い公爵令嬢ひとり。
「どうぞ、叔父様」
エレノアは丁寧に頭を下げた。
「お力添えをお願いいたします」
叔母が満足げに笑う。
「聞き分けのいい子ね。病弱だと伺っていたけれど」
「社交界には出なくていいわ。体を休めていなさいな」
従妹がくすりと笑う。
「代わりに、私が出てあげる」
ルークの拳が強く握られる。
エレノアは気づかないふりをした。
――代わりに?
誰の代わりだというのだろう。
だが問い返さない。
今はまだ、その時ではない。
叔父は広間を見渡しながら言った。
「まずは財務の整理だな。公爵家の帳簿は私が管理しよう」
「ですが、それは――」
ルークが口を挟みかける。
エレノアがわずかに視線を向けると、老執事は言葉を飲み込んだ。
叔父は続ける。
「未成年では判断が難しいだろう。すべて私に任せなさい」
その“すべて”に、どこまで含まれるのか。
屋敷。
領地。
金庫。
公爵の名。
エレノアはゆっくりと頷いた。
「お願いいたします」
その瞬間、叔母の目が細められる。
勝った、と言わんばかりに。
使用人の入れ替えが始まったのは、その日のうちだった。
父の代から仕えていた者たちが、次々と暇を出される。
「人件費の削減よ」
叔母は軽く言う。
「公爵家の財政も見直さなくてはね」
見直す?
何を?
エレノアは窓辺に立ち、庭を眺めた。
冬の風が木々を揺らしている。
屋敷はまだ公爵家のものだ。
壁も、庭も、空気も。
だが、どこか違う。
音が変わった。
足音が荒い。
笑い声が下品だ。
「エレノア様」
ルークがそっと近づく。
「お守りいたします」
短い言葉。
それだけで十分だった。
エレノアは小さく微笑む。
「ありがとう」
視線の先では、従妹が鏡の前でドレスを合わせている。
それは本来、エレノアのために仕立てられたものだ。
「似合うでしょう? 公爵令嬢なんだから」
その言葉に、屋敷の空気が一瞬だけ軋む。
公爵令嬢。
それは、誰のことを指すのか。
エレノアは答えない。
まだ幼い。
まだ力もない。
だが、覚えている。
父が最後に言った言葉。
「公爵家を頼む」
あれは、後見人に向けた言葉ではなかった。
自分に向けられたものだ。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。
黒い喪服。
細い肩。
けれど、目だけは揺れていない。
屋敷は奪われた。
名も、役目も、静かに侵食されていく。
それでも。
エレノアは泣かなかった。
ただ、覚えている。
誰が何を持ち出したのか。
誰がどの部屋に入ったのか。
誰が公爵を名乗ったのか。
全部。
全部、覚えている。
静かな屋敷の奥で、小さな公爵令嬢は前を向いた。
まだ何も言わない。
だがその沈黙は、決して諦めではなかった。
公爵家の屋敷は、静かだった。
広い廊下に足音は響かず、磨き上げられた床には、もう誰も走らない。
ほんの半年前まで、父の低い笑い声と、母のやわらかな叱責が満ちていた場所だというのに。
「お嬢様、お寒くありませんか」
老執事のルークが、そっと肩にショールを掛けてくれる。
エレノアは小さく首を振った。
「大丈夫よ、ルーク」
声は落ち着いている。
泣きはらした目も、もう赤くない。
両親を事故で亡くしたあの日から、涙は出なくなっていた。
代わりに胸の奥に残ったのは、ひどく静かな空洞だ。
その空洞に、今日から別のものが入り込む。
「後見人様が到着なさいました」
玄関が騒がしくなる。
馬車の音。荷物を運ぶ声。見知らぬ使用人たちのざわめき。
叔父――グレゴール男爵と、その家族。
父の弟にあたる人物だ。
父が亡くなった直後、王宮に申し出て「未成年の姪の後見人」を名乗り出た。
形式としては正しい。
だが、エレノアは一度も会ったことがない。
重たい扉が開き、濃い香水の匂いが流れ込んだ。
「まあ……ここが公爵家の本邸なのね」
高い声。
宝石をこれでもかと身につけた叔母が、遠慮なく大理石の床を踏みしめる。
その後ろで、エレノアと同じ年頃の少女が、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい……! 全部、私のものになるの?」
ルークの肩がぴくりと震える。
エレノアは何も言わない。
叔父が大股で近づいてきた。
「久しいな、エレノア。つらかっただろう」
口調は柔らかいが、目は屋敷の奥を測るように動いている。
「これからは私がこの家を守る。安心しなさい」
“この家を守る”。
その言葉に、かすかな違和感が走る。
守るのは、公爵である父の役目だった。
叔父は男爵だ。
立場が違う。
けれど今、この屋敷に公爵はいない。
いるのは、幼い公爵令嬢ひとり。
「どうぞ、叔父様」
エレノアは丁寧に頭を下げた。
「お力添えをお願いいたします」
叔母が満足げに笑う。
「聞き分けのいい子ね。病弱だと伺っていたけれど」
「社交界には出なくていいわ。体を休めていなさいな」
従妹がくすりと笑う。
「代わりに、私が出てあげる」
ルークの拳が強く握られる。
エレノアは気づかないふりをした。
――代わりに?
誰の代わりだというのだろう。
だが問い返さない。
今はまだ、その時ではない。
叔父は広間を見渡しながら言った。
「まずは財務の整理だな。公爵家の帳簿は私が管理しよう」
「ですが、それは――」
ルークが口を挟みかける。
エレノアがわずかに視線を向けると、老執事は言葉を飲み込んだ。
叔父は続ける。
「未成年では判断が難しいだろう。すべて私に任せなさい」
その“すべて”に、どこまで含まれるのか。
屋敷。
領地。
金庫。
公爵の名。
エレノアはゆっくりと頷いた。
「お願いいたします」
その瞬間、叔母の目が細められる。
勝った、と言わんばかりに。
使用人の入れ替えが始まったのは、その日のうちだった。
父の代から仕えていた者たちが、次々と暇を出される。
「人件費の削減よ」
叔母は軽く言う。
「公爵家の財政も見直さなくてはね」
見直す?
何を?
エレノアは窓辺に立ち、庭を眺めた。
冬の風が木々を揺らしている。
屋敷はまだ公爵家のものだ。
壁も、庭も、空気も。
だが、どこか違う。
音が変わった。
足音が荒い。
笑い声が下品だ。
「エレノア様」
ルークがそっと近づく。
「お守りいたします」
短い言葉。
それだけで十分だった。
エレノアは小さく微笑む。
「ありがとう」
視線の先では、従妹が鏡の前でドレスを合わせている。
それは本来、エレノアのために仕立てられたものだ。
「似合うでしょう? 公爵令嬢なんだから」
その言葉に、屋敷の空気が一瞬だけ軋む。
公爵令嬢。
それは、誰のことを指すのか。
エレノアは答えない。
まだ幼い。
まだ力もない。
だが、覚えている。
父が最後に言った言葉。
「公爵家を頼む」
あれは、後見人に向けた言葉ではなかった。
自分に向けられたものだ。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。
黒い喪服。
細い肩。
けれど、目だけは揺れていない。
屋敷は奪われた。
名も、役目も、静かに侵食されていく。
それでも。
エレノアは泣かなかった。
ただ、覚えている。
誰が何を持ち出したのか。
誰がどの部屋に入ったのか。
誰が公爵を名乗ったのか。
全部。
全部、覚えている。
静かな屋敷の奥で、小さな公爵令嬢は前を向いた。
まだ何も言わない。
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