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第三話 奪われたドレス
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第三話 奪われたドレス
屋敷の針子部屋は、甘い布の匂いに満ちていた。
薄い金糸を織り込んだ淡い蒼のドレスが、仕上げの段階に入っている。
それは本来、エレノアのために誂えられたものだった。
亡き母が選んだ生地。
父が「お前によく似合う」と微笑んだ色。
王都の冬の夜会に備えた、初めての社交用の正装。
まだ袖も通していない。
「まあ……素敵」
背後から声がした。
振り向くと、従妹が目を輝かせて立っている。
「これ、私にぴったりじゃない?」
針子たちが顔を見合わせる。
エレノアは一歩前に出た。
「それは――」
言葉が途切れる。
従妹は勝手にドレスを手に取り、身体に当てて鏡の前へ回った。
「ねえ、見て。ほら、サイズも合いそう」
「それはエレノア様のために……」
若い針子が震える声で言う。
「公爵令嬢用でございます」
「そうよ。公爵令嬢用」
従妹はくるりと振り返る。
「だから、私が着るの」
空気が凍る。
エレノアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
だが顔は変わらない。
「公爵令嬢は私です」
言葉にすると、ひどく小さく聞こえる。
従妹は笑った。
「体調不良の公爵令嬢? 夜会にも出られないのに?」
「……」
「おじさまもおばさまも言ってるわ。公爵家の名を守るのは、外に出られる者の役目だって」
針子たちが俯く。
守る。
その言葉が、ひどく軽い。
従妹はドレスを抱えたまま、針子に命じる。
「私のサイズに直してちょうだい」
「で、ですが――」
「命令よ」
ぴしゃりと響く声。
エレノアは針子に向かって小さく頷いた。
止めるな、と。
針子は涙ぐみながらドレスを受け取る。
布が離れる瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。
母の選んだ色。
父の言葉。
それが遠ざかる。
「ありがとう、エレノア」
従妹がわざとらしく言う。
「あなたは奥で本でも読んでいればいいわ」
背を向けて去っていく。
布の裾が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
針子部屋に残された沈黙。
ルークがいつの間にか立っている。
「お嬢様……」
エレノアは微笑んだ。
「似合うといいわね」
それだけ。
怒らない。
奪い返さない。
泣かない。
ただ、記憶する。
誰が命じたか。
誰が笑ったか。
誰が黙ったか。
全部。
午後、屋敷の中庭で叔母の声が響く。
「夜会では堂々となさい。あなたは公爵令嬢なのだから」
従妹が胸を張る。
「もちろんよ。王太子殿下もいらっしゃるんでしょう?」
「ええ。運がよければ、お声がかかるかもしれないわ」
笑い声。
その音は軽く、無邪気で、残酷だ。
エレノアは二階の窓からそれを見下ろしている。
自分のドレスを着て、回る少女。
公爵令嬢を名乗る少女。
その足元には、公爵家の紋章が刻まれた石畳。
踏みつけられている。
「お嬢様」
ルークがそっと差し出す。
小さな木箱。
「旦那様の書斎より」
エレノアは受け取る。
中には、父の印章があった。
重い。
確かな重み。
従妹が着るドレスより、はるかに重い。
これが公爵の証。
布ではない。
名でもない。
印。
責任。
覚悟。
「今はまだ」
エレノアは小さく呟く。
「好きにさせておきましょう」
ルークが驚く。
「ですが……」
「ドレスは布ですもの」
視線を下に向ける。
「本物は、ここにあります」
印章を胸に抱く。
中庭では従妹が笑っている。
夕陽が差し込み、蒼いドレスが輝く。
一瞬、本当に美しく見えた。
けれど。
その輝きは借り物だ。
夜会は近い。
王太子も来る。
偽物は舞台に立つ。
エレノアは立たない。
まだ。
窓から目を離す。
静かな部屋。
冷たい空気。
小さな公爵令嬢は、静かに椅子へ腰を下ろした。
奪われたドレスは戻らない。
だが、名は布ではない。
本物は消えない。
彼女は本を開く。
頁をめくる音だけが響く。
屋敷のどこかで、笑い声がまた弾けた。
エレノアは顔を上げない。
まだ、動かない。
けれどその沈黙は、決して敗北ではなかった。
屋敷の針子部屋は、甘い布の匂いに満ちていた。
薄い金糸を織り込んだ淡い蒼のドレスが、仕上げの段階に入っている。
それは本来、エレノアのために誂えられたものだった。
亡き母が選んだ生地。
父が「お前によく似合う」と微笑んだ色。
王都の冬の夜会に備えた、初めての社交用の正装。
まだ袖も通していない。
「まあ……素敵」
背後から声がした。
振り向くと、従妹が目を輝かせて立っている。
「これ、私にぴったりじゃない?」
針子たちが顔を見合わせる。
エレノアは一歩前に出た。
「それは――」
言葉が途切れる。
従妹は勝手にドレスを手に取り、身体に当てて鏡の前へ回った。
「ねえ、見て。ほら、サイズも合いそう」
「それはエレノア様のために……」
若い針子が震える声で言う。
「公爵令嬢用でございます」
「そうよ。公爵令嬢用」
従妹はくるりと振り返る。
「だから、私が着るの」
空気が凍る。
エレノアの胸の奥が、ひやりと冷えた。
だが顔は変わらない。
「公爵令嬢は私です」
言葉にすると、ひどく小さく聞こえる。
従妹は笑った。
「体調不良の公爵令嬢? 夜会にも出られないのに?」
「……」
「おじさまもおばさまも言ってるわ。公爵家の名を守るのは、外に出られる者の役目だって」
針子たちが俯く。
守る。
その言葉が、ひどく軽い。
従妹はドレスを抱えたまま、針子に命じる。
「私のサイズに直してちょうだい」
「で、ですが――」
「命令よ」
ぴしゃりと響く声。
エレノアは針子に向かって小さく頷いた。
止めるな、と。
針子は涙ぐみながらドレスを受け取る。
布が離れる瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。
母の選んだ色。
父の言葉。
それが遠ざかる。
「ありがとう、エレノア」
従妹がわざとらしく言う。
「あなたは奥で本でも読んでいればいいわ」
背を向けて去っていく。
布の裾が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
針子部屋に残された沈黙。
ルークがいつの間にか立っている。
「お嬢様……」
エレノアは微笑んだ。
「似合うといいわね」
それだけ。
怒らない。
奪い返さない。
泣かない。
ただ、記憶する。
誰が命じたか。
誰が笑ったか。
誰が黙ったか。
全部。
午後、屋敷の中庭で叔母の声が響く。
「夜会では堂々となさい。あなたは公爵令嬢なのだから」
従妹が胸を張る。
「もちろんよ。王太子殿下もいらっしゃるんでしょう?」
「ええ。運がよければ、お声がかかるかもしれないわ」
笑い声。
その音は軽く、無邪気で、残酷だ。
エレノアは二階の窓からそれを見下ろしている。
自分のドレスを着て、回る少女。
公爵令嬢を名乗る少女。
その足元には、公爵家の紋章が刻まれた石畳。
踏みつけられている。
「お嬢様」
ルークがそっと差し出す。
小さな木箱。
「旦那様の書斎より」
エレノアは受け取る。
中には、父の印章があった。
重い。
確かな重み。
従妹が着るドレスより、はるかに重い。
これが公爵の証。
布ではない。
名でもない。
印。
責任。
覚悟。
「今はまだ」
エレノアは小さく呟く。
「好きにさせておきましょう」
ルークが驚く。
「ですが……」
「ドレスは布ですもの」
視線を下に向ける。
「本物は、ここにあります」
印章を胸に抱く。
中庭では従妹が笑っている。
夕陽が差し込み、蒼いドレスが輝く。
一瞬、本当に美しく見えた。
けれど。
その輝きは借り物だ。
夜会は近い。
王太子も来る。
偽物は舞台に立つ。
エレノアは立たない。
まだ。
窓から目を離す。
静かな部屋。
冷たい空気。
小さな公爵令嬢は、静かに椅子へ腰を下ろした。
奪われたドレスは戻らない。
だが、名は布ではない。
本物は消えない。
彼女は本を開く。
頁をめくる音だけが響く。
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エレノアは顔を上げない。
まだ、動かない。
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