3 / 40
第3話 微笑みの裏側
しおりを挟む
第3話 微笑みの裏側
朝の光が差し込む回廊を歩きながら、ジェシカは静かに呼吸を整えていた。
ヴァルモント家の朝は早い。
当主夫人となった彼女には、家令や使用人、執事長との顔合わせ、日々の報告、確認すべきことが山のようにあった。
「本日より、夫人の裁量で女中頭を指名していただきます」
執事長の言葉に、ジェシカは一瞬だけ戸惑いながらも、頷いた。
「分かりました。後ほど名簿を拝見します」
言葉遣いも、所作も、完璧に。
そう意識するほど、胸の内側に小さな緊張が溜まっていく。
――失敗は許されない。
――私は“ヴァルモント家の正夫人”なのだから。
昼前、アルヴィンと共に屋敷の庭園を歩いた。
薔薇が咲き誇り、噴水の水音が穏やかに響く。
まるで絵画のような光景だ。
「この庭は、代々当主が手を入れてきたものです」
アルヴィンは淡々と説明した。
「あなたにも、いずれ管理を任せることになるでしょう」
「……はい」
任せる。
その言葉に含まれる意味を、ジェシカは測りかねていた。
「無理に馴染もうとしなくて構いません。
必要なのは、家の顔としての振る舞いですから」
そう言って、彼は微笑む。
優しく、穏やかで、完璧な微笑み。
だが、どこか遠い。
(また……この感じ)
まるで、対等な伴侶ではなく、よく出来た置物を前にしているような距離感。
午後、社交界からの招待状が山のように届いた。
「すべて受ける必要はありませんよ」
アルヴィンは書類に目を通しながら言った。
「取捨選択は私がします。
あなたは、出るべき場にだけ顔を出せばいい」
「……私の判断では、いけませんか?」
思わず口をついて出た言葉に、部屋の空気が一瞬だけ止まった。
アルヴィンは顔を上げ、穏やかなまま答える。
「誤解しないでください。
これは軽視ではなく、効率の問題です」
効率。
その言葉は、正論だった。
けれど――。
「あなたは、まだ社交界の空気に慣れていない。
私が先に選んだ方が、無難でしょう」
その口調は、丁寧で、理性的で、否定の余地がない。
ジェシカは、微笑みを作った。
「……そうですね。お任せします」
その瞬間、胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
夕刻、侍女たちの会話が、ふと耳に入った。
「本当にお似合いよね」
「アルヴィン様、完璧な方だもの」
「ジェシカ様も、控えめで……」
控えめ。
それは誉め言葉のはずだった。
けれど、なぜか胸が痛んだ。
(私は……そう見えているのね)
意見を言わない。
出しゃばらない。
夫の判断に従う。
それが“理想の妻”。
夜、アルヴィンは書斎に籠もったまま戻らなかった。
ジェシカは一人、寝室で窓の外を見つめる。
王都の灯りが、遠くで瞬いている。
(私は、ここで何をするためにいるの?)
結婚したはずなのに、生活を共にしている感覚がない。
夫は隣にいるのに、どこか別の世界にいる。
――いいえ。
(最初から、そうだったのかもしれない)
白の誓約。
役割。
効率。
今日一日で、何度も耳にした言葉が、心に重くのしかかる。
ジェシカは、そっと拳を握った。
まだ、確信はない。
けれど――。
(私は、このまま“理想の妻”で終わるつもりはない)
その小さな決意は、まだ誰にも見えない。
だが確かに、彼女の内側で、静かに、しかし確実に芽を出し始めていた。
完璧な微笑みの裏に隠されたものを、
いずれ、自分の目で確かめるために。
朝の光が差し込む回廊を歩きながら、ジェシカは静かに呼吸を整えていた。
ヴァルモント家の朝は早い。
当主夫人となった彼女には、家令や使用人、執事長との顔合わせ、日々の報告、確認すべきことが山のようにあった。
「本日より、夫人の裁量で女中頭を指名していただきます」
執事長の言葉に、ジェシカは一瞬だけ戸惑いながらも、頷いた。
「分かりました。後ほど名簿を拝見します」
言葉遣いも、所作も、完璧に。
そう意識するほど、胸の内側に小さな緊張が溜まっていく。
――失敗は許されない。
――私は“ヴァルモント家の正夫人”なのだから。
昼前、アルヴィンと共に屋敷の庭園を歩いた。
薔薇が咲き誇り、噴水の水音が穏やかに響く。
まるで絵画のような光景だ。
「この庭は、代々当主が手を入れてきたものです」
アルヴィンは淡々と説明した。
「あなたにも、いずれ管理を任せることになるでしょう」
「……はい」
任せる。
その言葉に含まれる意味を、ジェシカは測りかねていた。
「無理に馴染もうとしなくて構いません。
必要なのは、家の顔としての振る舞いですから」
そう言って、彼は微笑む。
優しく、穏やかで、完璧な微笑み。
だが、どこか遠い。
(また……この感じ)
まるで、対等な伴侶ではなく、よく出来た置物を前にしているような距離感。
午後、社交界からの招待状が山のように届いた。
「すべて受ける必要はありませんよ」
アルヴィンは書類に目を通しながら言った。
「取捨選択は私がします。
あなたは、出るべき場にだけ顔を出せばいい」
「……私の判断では、いけませんか?」
思わず口をついて出た言葉に、部屋の空気が一瞬だけ止まった。
アルヴィンは顔を上げ、穏やかなまま答える。
「誤解しないでください。
これは軽視ではなく、効率の問題です」
効率。
その言葉は、正論だった。
けれど――。
「あなたは、まだ社交界の空気に慣れていない。
私が先に選んだ方が、無難でしょう」
その口調は、丁寧で、理性的で、否定の余地がない。
ジェシカは、微笑みを作った。
「……そうですね。お任せします」
その瞬間、胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
夕刻、侍女たちの会話が、ふと耳に入った。
「本当にお似合いよね」
「アルヴィン様、完璧な方だもの」
「ジェシカ様も、控えめで……」
控えめ。
それは誉め言葉のはずだった。
けれど、なぜか胸が痛んだ。
(私は……そう見えているのね)
意見を言わない。
出しゃばらない。
夫の判断に従う。
それが“理想の妻”。
夜、アルヴィンは書斎に籠もったまま戻らなかった。
ジェシカは一人、寝室で窓の外を見つめる。
王都の灯りが、遠くで瞬いている。
(私は、ここで何をするためにいるの?)
結婚したはずなのに、生活を共にしている感覚がない。
夫は隣にいるのに、どこか別の世界にいる。
――いいえ。
(最初から、そうだったのかもしれない)
白の誓約。
役割。
効率。
今日一日で、何度も耳にした言葉が、心に重くのしかかる。
ジェシカは、そっと拳を握った。
まだ、確信はない。
けれど――。
(私は、このまま“理想の妻”で終わるつもりはない)
その小さな決意は、まだ誰にも見えない。
だが確かに、彼女の内側で、静かに、しかし確実に芽を出し始めていた。
完璧な微笑みの裏に隠されたものを、
いずれ、自分の目で確かめるために。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
【完結】もう誰にも恋なんてしないと誓った
Mimi
恋愛
声を出すこともなく、ふたりを見つめていた。
わたしにとって、恋人と親友だったふたりだ。
今日まで身近だったふたりは。
今日から一番遠いふたりになった。
*****
伯爵家の後継者シンシアは、友人アイリスから交際相手としてお薦めだと、幼馴染みの侯爵令息キャメロンを紹介された。
徐々に親しくなっていくシンシアとキャメロンに婚約の話がまとまり掛ける。
シンシアの誕生日の婚約披露パーティーが近付いた夏休み前のある日、シンシアは急ぐキャメロンを見掛けて彼の後を追い、そして見てしまった。
お互いにただの幼馴染みだと口にしていた恋人と親友の口づけを……
* 無自覚の上から目線
* 幼馴染みという特別感
* 失くしてからの後悔
幼馴染みカップルの当て馬にされてしまった伯爵令嬢、してしまった親友視点のお話です。
中盤は略奪した親友側の視点が続きますが、当て馬令嬢がヒロインです。
本編完結後に、力量不足故の幕間を書き加えており、最終話と重複しています。
ご了承下さいませ。
他サイトにも公開中です
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
「可愛げがない」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、領地経営をしていたのは私です
希羽
恋愛
「お前のような可愛げのない女との婚約は破棄する!」
卒業パーティの会場で、婚約者である第二王子デリックはそう宣言し、私の義妹ミナを抱き寄せました。 誰もが私が泣き崩れると思いましたが――正直、せいせいしました。 だって、王子の領地経営、借金返済、結界維持、それら全ての激務を一人でこなしていたのは「可愛げのない」私だったのですから。
「承知しました。では、あとはミナと二人で頑張ってください」
私は手切れ金代わりに面倒な仕事を全て置いて国を出ました。 すると、国境で待っていたのは、隣国ガルガディア帝国の冷徹皇太子ことクライド様。なぜか彼は私を溺愛し、帝国で最高の地位と環境を与えてくれて……。
病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します
佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。
セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。
婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。
愛想を尽かした女と尽かされた男
火野村志紀
恋愛
※全16話となります。
「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる