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第2話 理想の夫婦という檻
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第2話 理想の夫婦という檻
翌朝、ヴァルモント家の屋敷は、祝宴の余韻に包まれていた。
広い食堂の長卓には、白磁の食器と銀のカトラリーが整然と並び、湯気を立てる朝食が運ばれてくる。使用人たちの動きは無駄がなく、すべてが「名門の朝」として完璧に整えられていた。
ジェシカは、正面に座る夫――アルヴィンの姿を静かに見つめていた。
昨夜と変わらず、彼は非の打ち所のない当主然とした佇まいで、新聞代わりの王都報を読みながら、優雅に紅茶を口にしている。視線の上げ下ろし、カップの持ち方、すべてが洗練されていた。
「よく眠れましたか、ジェシカ」
不意にかけられた声に、彼女は小さく背筋を伸ばす。
「ええ。おかげさまで」
そう答えると、アルヴィンは満足そうに頷いた。
「それは何よりです。新婚早々、体調を崩されては困りますからね」
その言葉は気遣いの形をしていたが、どこか事務的だった。
ジェシカは違和感を覚えながらも、微笑みを崩さない。
食事が終わると、間を置かずに客人が訪れた。
「お祝いに参りましたぞ、ヴァルモント卿!」
扉をくぐってきたのは、近縁の貴族や社交界の顔役たちだった。彼らは口々に祝福の言葉を述べ、ジェシカに向けて好奇と羨望の視線を向ける。
「噂通りのご令嬢だ」
「これでヴァルモント家は安泰だな」
「まさに理想のご夫婦です」
その言葉を聞くたび、胸の奥が小さく軋んだ。
(理想……?)
彼らが見ているのは、白いドレスと家名、整えられた笑顔だけだ。ジェシカという人間ではない。
アルヴィンは、そんな視線を受け止めるのにも慣れているようだった。自然に彼女の肩に手を置き、穏やかな声で言う。
「妻は聡明で、控えめで、ヴァルモント家に相応しい女性です」
称賛の言葉。
だが、その言葉の中に「愛」はなかった。
昼前には、貴族院からの使者が訪れた。
「白の誓約に基づく婚姻登録が正式に完了しました。
本日より、ジェシカ様はヴァルモント家の正夫人として認められます」
淡々と告げられるその宣言は、祝福というより、契約の締結に近かった。
その後も一日中、屋敷には人の出入りが絶えなかった。挨拶、報告、形式的な祝賀。ジェシカは当主夫人としての役割を果たし続け、笑顔を貼り付けたまま、夜を迎えた。
夜。
客人が去り、屋敷が静まり返った頃。
回廊を歩いていたジェシカは、ふと書斎の前で足を止めた。扉の向こうから、低く抑えた声が聞こえた気がしたのだ。
――アルヴィンの声。
誰かと話している。だが、その相手の声は聞き取れない。
(まだ、仕事……?)
そう思い、声をかけようとして、なぜか躊躇した。
扉の向こうから漏れてきたのは、冷静で、淡々とした口調だった。
「……問題はない。
白の誓約だ。役割は果たしてもらう」
その一言に、胸がひやりと冷えた。
役割。
彼女は、今、自分が「妻」ではなく「役割」として語られていることに気づいてしまった。
扉からそっと離れ、自室へ戻る。
部屋に入った瞬間、張り詰めていたものが、すっと緩んだ。
(おかしい……わよね)
完璧な夫。
理想の結婚。
誰もが羨む白の誓約。
それなのに、なぜこんなにも、心が冷えていくのだろう。
鏡の前に立ち、ジェシカは自分の顔を見つめた。
そこに映るのは、笑顔の貴族夫人。
だが、その奥で、確かに小さな声が囁いていた。
(私は、この檻の中で、何を失おうとしているの?)
その疑問は、まだ形にならない。
けれど、確実に芽吹いていた。
――理想の夫婦という名の、見えない檻が、静かに閉じ始めていることに。
翌朝、ヴァルモント家の屋敷は、祝宴の余韻に包まれていた。
広い食堂の長卓には、白磁の食器と銀のカトラリーが整然と並び、湯気を立てる朝食が運ばれてくる。使用人たちの動きは無駄がなく、すべてが「名門の朝」として完璧に整えられていた。
ジェシカは、正面に座る夫――アルヴィンの姿を静かに見つめていた。
昨夜と変わらず、彼は非の打ち所のない当主然とした佇まいで、新聞代わりの王都報を読みながら、優雅に紅茶を口にしている。視線の上げ下ろし、カップの持ち方、すべてが洗練されていた。
「よく眠れましたか、ジェシカ」
不意にかけられた声に、彼女は小さく背筋を伸ばす。
「ええ。おかげさまで」
そう答えると、アルヴィンは満足そうに頷いた。
「それは何よりです。新婚早々、体調を崩されては困りますからね」
その言葉は気遣いの形をしていたが、どこか事務的だった。
ジェシカは違和感を覚えながらも、微笑みを崩さない。
食事が終わると、間を置かずに客人が訪れた。
「お祝いに参りましたぞ、ヴァルモント卿!」
扉をくぐってきたのは、近縁の貴族や社交界の顔役たちだった。彼らは口々に祝福の言葉を述べ、ジェシカに向けて好奇と羨望の視線を向ける。
「噂通りのご令嬢だ」
「これでヴァルモント家は安泰だな」
「まさに理想のご夫婦です」
その言葉を聞くたび、胸の奥が小さく軋んだ。
(理想……?)
彼らが見ているのは、白いドレスと家名、整えられた笑顔だけだ。ジェシカという人間ではない。
アルヴィンは、そんな視線を受け止めるのにも慣れているようだった。自然に彼女の肩に手を置き、穏やかな声で言う。
「妻は聡明で、控えめで、ヴァルモント家に相応しい女性です」
称賛の言葉。
だが、その言葉の中に「愛」はなかった。
昼前には、貴族院からの使者が訪れた。
「白の誓約に基づく婚姻登録が正式に完了しました。
本日より、ジェシカ様はヴァルモント家の正夫人として認められます」
淡々と告げられるその宣言は、祝福というより、契約の締結に近かった。
その後も一日中、屋敷には人の出入りが絶えなかった。挨拶、報告、形式的な祝賀。ジェシカは当主夫人としての役割を果たし続け、笑顔を貼り付けたまま、夜を迎えた。
夜。
客人が去り、屋敷が静まり返った頃。
回廊を歩いていたジェシカは、ふと書斎の前で足を止めた。扉の向こうから、低く抑えた声が聞こえた気がしたのだ。
――アルヴィンの声。
誰かと話している。だが、その相手の声は聞き取れない。
(まだ、仕事……?)
そう思い、声をかけようとして、なぜか躊躇した。
扉の向こうから漏れてきたのは、冷静で、淡々とした口調だった。
「……問題はない。
白の誓約だ。役割は果たしてもらう」
その一言に、胸がひやりと冷えた。
役割。
彼女は、今、自分が「妻」ではなく「役割」として語られていることに気づいてしまった。
扉からそっと離れ、自室へ戻る。
部屋に入った瞬間、張り詰めていたものが、すっと緩んだ。
(おかしい……わよね)
完璧な夫。
理想の結婚。
誰もが羨む白の誓約。
それなのに、なぜこんなにも、心が冷えていくのだろう。
鏡の前に立ち、ジェシカは自分の顔を見つめた。
そこに映るのは、笑顔の貴族夫人。
だが、その奥で、確かに小さな声が囁いていた。
(私は、この檻の中で、何を失おうとしているの?)
その疑問は、まだ形にならない。
けれど、確実に芽吹いていた。
――理想の夫婦という名の、見えない檻が、静かに閉じ始めていることに。
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