17 / 37
第5章‑1:体育の授業
しおりを挟む
第5章‑1:体育の授業
澄み渡る青空が広がった春の午後、校庭には柔らかな日差しと軽い南風が交差していた。体育の時間、白河優はグラウンドの端で準備運動をしていた。長い前髪は顎まで垂れ、視界を完全に遮りながらも、体操着の袖を手首までしっかり引き上げ、膝を抱えるように静かに屈伸している。
クラス全員が陣形を整え、担任の先生が口笛を吹く合図とともにラジカセのスイッチを入れた。運動会の練習かと思わせる軽快なリズムに、クラスメイトたちは手拍子を合わせながら走り始める。しかし、優だけは走り出さずに微かに肩を揺らし、呼吸を整える仕草を見せる。
「では、リレー形式で二週行います。順番はA組とB組で交互に。白河さんは一番後ろ、スタートのタイミングだけ合わせてくださいね」
先生の声に、優は頷くだけだった。
スタートのピストル音が鳴り響き、第一走者が勢いよく駆け出す。観客席のように並んだクラスメイトたちが声援を送る中、優の前でバトンリレーが始まった。前髪の先端が地面をかすめるほど低く垂れ下がり、一歩一歩を慎重に踏みしめるように足を動かしている。
そして──
その瞬間、強い突風が校庭を駆け抜けた。春風のさわやかさとは裏腹に、突如として吹き荒れた風は、まるで意志を持つかのように、優の長い前髪をいっきに掬い上げた。
ふわり、と。
優の前髪は頭頂で宙を舞い、大きく弧を描いて後ろへ翻った。
時間が止まったかのような、その一瞬。
クラスメイト全員の視線が、音もなく優に集まった。
「……え?」
「今の、何?」
「あの、髪……」
ざわめきが校庭中に広がる。
前髪の向こう側に、──はっきりと──誰もが見たことのないはずの、大きく澄んだ瞳と、繊細に整った顔立ちが一瞬だけ露呈したのだ。
日差しを反射する白い肌。
すっきりと通った鼻筋。
かすかに紅を帯びた唇の輪郭。
彼女の美しさは、まるで映画のワンシーンのように、あまりにも鮮烈で幽玄だった。
その場に立つ教師でさえ、唇を震わせながらも口をつぐんだ。バトンを持った走者が一瞬躊躇し、バトンパスのリズムが乱れたほどだ。校庭の空気は急激に冷たくなり、誰一人として次の動作を取ることができなかった。
(この子が……?)
(Yuu?)
(まさか……)
ざわめきの合間を縫うように、小さなささやき声が広がっていく。
“Yuu”としてしか知られていなかった歌姫の姿が、今、学校のグラウンドに立っている──そんな衝撃的な光景だった。
優は、乾いた口のまま、視線を右へ左へと泳がせた。
次の瞬間、顔が真っ赤に染まり、ぱたりと息を止める。
動揺と羞恥がいっせいに身体を突き抜け、目の前の世界が急に遠のいていった。
///
「っっっっっ!!!」
叫びにも似た声を漏らし、優は全力で走り出した。体育着のスニーカーが砂埃を巻き上げ、グラウンドの中央を駆け抜ける。振り返りざまに見えたのは、まだ固まったままのクラスメイトたちと、呆然と立ち尽くす担任の先生の姿だった。
息が荒く、心臓は今にもはみ出しそうだ。
「もう、無理……学校、行けない……!」
彼女は構わずスタート地点を越え、体育館へと続く脇道を目指した。
グラウンドの歓声も、風の音も、自分を追う視線さえもすべてが遠のいて、ただ――逃げることしか考えられなかった。
──こうして、体育の授業は未完のまま幕を閉じた。
長かった前髪の壁が一瞬にして剥がれ落ち、“地味子”としての最後の守りが崩れ去る瞬間だった。
放課後の教室には、動転した教師と興奮したクラスメイトの波紋だけが残されていた。
澄み渡る青空が広がった春の午後、校庭には柔らかな日差しと軽い南風が交差していた。体育の時間、白河優はグラウンドの端で準備運動をしていた。長い前髪は顎まで垂れ、視界を完全に遮りながらも、体操着の袖を手首までしっかり引き上げ、膝を抱えるように静かに屈伸している。
クラス全員が陣形を整え、担任の先生が口笛を吹く合図とともにラジカセのスイッチを入れた。運動会の練習かと思わせる軽快なリズムに、クラスメイトたちは手拍子を合わせながら走り始める。しかし、優だけは走り出さずに微かに肩を揺らし、呼吸を整える仕草を見せる。
「では、リレー形式で二週行います。順番はA組とB組で交互に。白河さんは一番後ろ、スタートのタイミングだけ合わせてくださいね」
先生の声に、優は頷くだけだった。
スタートのピストル音が鳴り響き、第一走者が勢いよく駆け出す。観客席のように並んだクラスメイトたちが声援を送る中、優の前でバトンリレーが始まった。前髪の先端が地面をかすめるほど低く垂れ下がり、一歩一歩を慎重に踏みしめるように足を動かしている。
そして──
その瞬間、強い突風が校庭を駆け抜けた。春風のさわやかさとは裏腹に、突如として吹き荒れた風は、まるで意志を持つかのように、優の長い前髪をいっきに掬い上げた。
ふわり、と。
優の前髪は頭頂で宙を舞い、大きく弧を描いて後ろへ翻った。
時間が止まったかのような、その一瞬。
クラスメイト全員の視線が、音もなく優に集まった。
「……え?」
「今の、何?」
「あの、髪……」
ざわめきが校庭中に広がる。
前髪の向こう側に、──はっきりと──誰もが見たことのないはずの、大きく澄んだ瞳と、繊細に整った顔立ちが一瞬だけ露呈したのだ。
日差しを反射する白い肌。
すっきりと通った鼻筋。
かすかに紅を帯びた唇の輪郭。
彼女の美しさは、まるで映画のワンシーンのように、あまりにも鮮烈で幽玄だった。
その場に立つ教師でさえ、唇を震わせながらも口をつぐんだ。バトンを持った走者が一瞬躊躇し、バトンパスのリズムが乱れたほどだ。校庭の空気は急激に冷たくなり、誰一人として次の動作を取ることができなかった。
(この子が……?)
(Yuu?)
(まさか……)
ざわめきの合間を縫うように、小さなささやき声が広がっていく。
“Yuu”としてしか知られていなかった歌姫の姿が、今、学校のグラウンドに立っている──そんな衝撃的な光景だった。
優は、乾いた口のまま、視線を右へ左へと泳がせた。
次の瞬間、顔が真っ赤に染まり、ぱたりと息を止める。
動揺と羞恥がいっせいに身体を突き抜け、目の前の世界が急に遠のいていった。
///
「っっっっっ!!!」
叫びにも似た声を漏らし、優は全力で走り出した。体育着のスニーカーが砂埃を巻き上げ、グラウンドの中央を駆け抜ける。振り返りざまに見えたのは、まだ固まったままのクラスメイトたちと、呆然と立ち尽くす担任の先生の姿だった。
息が荒く、心臓は今にもはみ出しそうだ。
「もう、無理……学校、行けない……!」
彼女は構わずスタート地点を越え、体育館へと続く脇道を目指した。
グラウンドの歓声も、風の音も、自分を追う視線さえもすべてが遠のいて、ただ――逃げることしか考えられなかった。
──こうして、体育の授業は未完のまま幕を閉じた。
長かった前髪の壁が一瞬にして剥がれ落ち、“地味子”としての最後の守りが崩れ去る瞬間だった。
放課後の教室には、動転した教師と興奮したクラスメイトの波紋だけが残されていた。
0
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる