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第2話 黙って耐える公爵令嬢
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第2話 黙って耐える公爵令嬢
翌朝、王城の回廊はやけに静かだった。
昨夜の舞踏会の華やぎが嘘のように、窓から差し込む冬の光だけが淡々と床を照らしている。けれど静かなのは音だけで、人の視線はむしろ増えていた。すれ違う侍女、近衛、下働き――誰もが一瞬だけ足を止め、そして慌てたように目を逸らす。
ステラ・ダンクルは、その視線の意味を正確に理解していた。
同情。好奇。安堵。ざまあみろ――そうはっきり形にならない曖昧な感情の塊が、空気に溶けている。貴族社会の噂は音を立てない。囁きという名の霧になって、知らぬ間に人の胸に入り込む。
「ステラ様」
背後から控えめな声がした。振り向くと、侍女のマリアが小さなトレイを抱えて立っている。いつもなら朝食の香りがするはずの時間に、トレイの上にあるのは封蝋のついた書状だった。
「教会から……至急とのことです」
ステラは頷き、書状を受け取った。封蝋には教会の紋章――光輪と羽根。聖女の象徴でもあるその印が、今はやけに冷たく見える。
封を切る指先が、わずかにかすれた。
内容は簡潔だった。
――昨夜の婚約破棄を受け、聖女ステラ・ダンクルの職務を当面停止する。
――本日、第三鐘の刻、評議の場へ出頭せよ。
――その後の処遇については、評議の決定に従うこと。
「当面」という言葉が、もっとも残酷だとステラは思った。期限も条件も書かれていない。当面とは、今日で終わるかもしれないし、一生続くかもしれない。人は曖昧な言葉でいくらでも縛れる。
「……マリア」
「はい」
「身支度を。礼装で」
マリアは少しだけ唇を噛み、それでも「かしこまりました」と頭を下げた。何か言いたいことがあるのだろう。けれど彼女は侍女で、ステラは公爵令嬢で、そして――元婚約者の決定が王国の空気そのものになってしまった今、言葉は刃になる。
だから彼女も黙った。
ステラも黙った。
黙ることは弱さではない。少なくともステラはそう信じてきた。聖女とは、国の器だ。器が割れるところを見せれば、民は不安になる。だから心が揺れても、顔は揺らさない。涙は祈りの中で流せばいい。そう教わった。
身支度を整え、教会の評議室へ向かう途中、ステラは広間の前を通った。そこにはすでに貴族たちが集まり、朝の挨拶という名の情報交換をしている。ステラの姿が見えた瞬間、会話の波が一斉に引いた。
「……公爵令嬢」
「……聖女、だった方」
聞こえないふりをした。聞こえていないふりは、上品さの一部だ。
評議室の扉の前には、教会騎士が二人立っていた。どちらも視線を下げ、形式的に礼をする。だが、その体の位置が示す通り、ステラは「招かれた」のではなく「呼び出された」のだ。
扉が開く。
中には高位司祭、重臣、そして王城側の代表として――王太子アッシュがいた。
ステラの胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。まだ現実に追いついていない部分が、そこでやっと形になったのだと思う。昨夜の舞踏会は公開の場で、今ここは正式な場だ。公式の判断は、ここで確定する。
「ステラ・ダンクル」
司祭長が名を呼ぶ。いつもは祝福を与える声が、今日は判決を告げる声だった。
「あなたは昨夜の件を受け、聖女としての職務を停止する。異論は?」
異論。
昨夜も同じ言葉を投げられた。問いかけの形をした圧力。ここで「あります」と答える者は、最初から切り捨てられる。誰もがそれを知っている。
ステラは一呼吸し、静かに言った。
「ございません」
アッシュの視線が動く。昨夜と同じだ。彼は「反論」を待っている。反論をしてくれれば、自分が正しく見える。怒りをぶつけてくれれば、クレアを守る王太子の姿がより美しくなる。そういう筋書きが好まれることを、彼は本能で理解している。
けれどステラは、筋書きに乗らなかった。
「よろしい」
司祭長が頷き、書類が差し出される。
「療養の名目で、教会管理下の修道院へ移送する。外部との接触は制限される。必要なものは最小限を持参しなさい。――署名を」
ステラは羽ペンを受け取り、迷いなく署名した。
この瞬間、ステラは「聖女」ではなく「管理される者」になる。肩書きが剥がれるのは痛みを伴う。だが、ここで紙を破ったところで、状況が変わるわけではない。むしろ「暴れた」と記録されるだけだ。
理不尽に対抗するには、理不尽の土俵で踊らないこと。ステラはそういうやり方を身につけてきた。……身につけさせられてきた、と言う方が正しいのかもしれない。
署名を終えると、司祭長が淡々と続けた。
「なお、あなたの所持品の検分を行う。聖遺物、供物、祈祷具……教会資産の持ち出しは禁じる」
その言葉が終わらぬうちに、扉が開いた。
入ってきたのは、白い衣の少女だった。
偽聖女――まだそうとは誰も言わない。新聖女候補、クレア・グレコ。昨夜の舞踏会で、守られる側に立っていた少女だ。
「司祭長様……失礼いたします」
クレアは胸の前で手を組み、震える声を装った。完璧な礼儀、完璧な弱さ、完璧な被害者の輪郭。貴族社会は「守りたい相手」に甘くなる。守ることで自分が善人になれるからだ。
「ステラ様……」
クレアの瞳が潤む。
「本当に……こんなことになるなんて。わたくし、昨夜から胸が苦しくて……」
その言葉に、アッシュが自然に一歩前へ出る。彼女を庇う位置。昨夜と同じ配置。物語は繰り返される。
ステラは、ただクレアを見た。
クレアは善意の顔を貼り付けたまま、さらに近づいてくる。
「ステラ様は……お優しいから。きっと、無理をしていらっしゃる。だから……」
だから、何?
ステラは問い返さなかった。問い返せば、クレアはきっと泣く。そして泣いた者の勝ちになる。ここはそういう場所だ。
「ご心配なく」
ステラは静かに答えた。
「王国と教会の決定に従います」
それが精一杯の拒絶だった。これ以上を言えば、余計な燃料になる。
クレアは一瞬だけ口角を固くした。ほんの一瞬。すぐに「ほっとしたような微笑」に戻る。
「……よかった。どうか、どうか、お身体だけは……」
慈悲深い言葉。きれいな言葉。誰の心にも触れないように整えた言葉。
ステラは礼をして、評議室を後にした。
廊下へ出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が入ってきた。王城の空気はいつも澄んでいるはずなのに、今日はやけに息が重い。
マリアが控えていた。目が赤い。
「ステラ様……」
「大丈夫です」
そう言うしかない。大丈夫かどうかを判断する権利が、ステラの手から消えかけている。
「荷造りをします。必要最低限だけ」
「……はい」
部屋へ戻ると、机の上には昨夜の舞踏会で使った手袋が置かれていた。繊細な刺繍。聖女として、人前に出るために用意された品。昨日まで確かに自分の生活だったものが、今日はもう「過去」の匂いを帯びている。
窓の外では、王城の庭師が淡々と枝を剪定していた。季節が変わる準備。人の事情など関係なく、世界は進む。
ステラは、荷をまとめながら思った。
――私は、追放される。
それは事実だ。けれど、何かが胸の奥で小さく音を立てていた。悲しみとも怒りとも違う、もっと硬いもの。折れないための芯のようなもの。
第三鐘の刻。教会騎士が迎えに来る。
扉の外から聞こえた足音は、最後通牒のように一定のリズムで近づいてきた。
ステラは最後に、鏡の中の自分を見た。
上品で、静かで、完璧な公爵令嬢。泣かない聖女。
その顔のまま、ステラは扉へ向かった。
この時の彼女はまだ知らない。
この「黙って耐える」日々が、ある一瞬で――音を立ててひっくり返ることを。
翌朝、王城の回廊はやけに静かだった。
昨夜の舞踏会の華やぎが嘘のように、窓から差し込む冬の光だけが淡々と床を照らしている。けれど静かなのは音だけで、人の視線はむしろ増えていた。すれ違う侍女、近衛、下働き――誰もが一瞬だけ足を止め、そして慌てたように目を逸らす。
ステラ・ダンクルは、その視線の意味を正確に理解していた。
同情。好奇。安堵。ざまあみろ――そうはっきり形にならない曖昧な感情の塊が、空気に溶けている。貴族社会の噂は音を立てない。囁きという名の霧になって、知らぬ間に人の胸に入り込む。
「ステラ様」
背後から控えめな声がした。振り向くと、侍女のマリアが小さなトレイを抱えて立っている。いつもなら朝食の香りがするはずの時間に、トレイの上にあるのは封蝋のついた書状だった。
「教会から……至急とのことです」
ステラは頷き、書状を受け取った。封蝋には教会の紋章――光輪と羽根。聖女の象徴でもあるその印が、今はやけに冷たく見える。
封を切る指先が、わずかにかすれた。
内容は簡潔だった。
――昨夜の婚約破棄を受け、聖女ステラ・ダンクルの職務を当面停止する。
――本日、第三鐘の刻、評議の場へ出頭せよ。
――その後の処遇については、評議の決定に従うこと。
「当面」という言葉が、もっとも残酷だとステラは思った。期限も条件も書かれていない。当面とは、今日で終わるかもしれないし、一生続くかもしれない。人は曖昧な言葉でいくらでも縛れる。
「……マリア」
「はい」
「身支度を。礼装で」
マリアは少しだけ唇を噛み、それでも「かしこまりました」と頭を下げた。何か言いたいことがあるのだろう。けれど彼女は侍女で、ステラは公爵令嬢で、そして――元婚約者の決定が王国の空気そのものになってしまった今、言葉は刃になる。
だから彼女も黙った。
ステラも黙った。
黙ることは弱さではない。少なくともステラはそう信じてきた。聖女とは、国の器だ。器が割れるところを見せれば、民は不安になる。だから心が揺れても、顔は揺らさない。涙は祈りの中で流せばいい。そう教わった。
身支度を整え、教会の評議室へ向かう途中、ステラは広間の前を通った。そこにはすでに貴族たちが集まり、朝の挨拶という名の情報交換をしている。ステラの姿が見えた瞬間、会話の波が一斉に引いた。
「……公爵令嬢」
「……聖女、だった方」
聞こえないふりをした。聞こえていないふりは、上品さの一部だ。
評議室の扉の前には、教会騎士が二人立っていた。どちらも視線を下げ、形式的に礼をする。だが、その体の位置が示す通り、ステラは「招かれた」のではなく「呼び出された」のだ。
扉が開く。
中には高位司祭、重臣、そして王城側の代表として――王太子アッシュがいた。
ステラの胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。まだ現実に追いついていない部分が、そこでやっと形になったのだと思う。昨夜の舞踏会は公開の場で、今ここは正式な場だ。公式の判断は、ここで確定する。
「ステラ・ダンクル」
司祭長が名を呼ぶ。いつもは祝福を与える声が、今日は判決を告げる声だった。
「あなたは昨夜の件を受け、聖女としての職務を停止する。異論は?」
異論。
昨夜も同じ言葉を投げられた。問いかけの形をした圧力。ここで「あります」と答える者は、最初から切り捨てられる。誰もがそれを知っている。
ステラは一呼吸し、静かに言った。
「ございません」
アッシュの視線が動く。昨夜と同じだ。彼は「反論」を待っている。反論をしてくれれば、自分が正しく見える。怒りをぶつけてくれれば、クレアを守る王太子の姿がより美しくなる。そういう筋書きが好まれることを、彼は本能で理解している。
けれどステラは、筋書きに乗らなかった。
「よろしい」
司祭長が頷き、書類が差し出される。
「療養の名目で、教会管理下の修道院へ移送する。外部との接触は制限される。必要なものは最小限を持参しなさい。――署名を」
ステラは羽ペンを受け取り、迷いなく署名した。
この瞬間、ステラは「聖女」ではなく「管理される者」になる。肩書きが剥がれるのは痛みを伴う。だが、ここで紙を破ったところで、状況が変わるわけではない。むしろ「暴れた」と記録されるだけだ。
理不尽に対抗するには、理不尽の土俵で踊らないこと。ステラはそういうやり方を身につけてきた。……身につけさせられてきた、と言う方が正しいのかもしれない。
署名を終えると、司祭長が淡々と続けた。
「なお、あなたの所持品の検分を行う。聖遺物、供物、祈祷具……教会資産の持ち出しは禁じる」
その言葉が終わらぬうちに、扉が開いた。
入ってきたのは、白い衣の少女だった。
偽聖女――まだそうとは誰も言わない。新聖女候補、クレア・グレコ。昨夜の舞踏会で、守られる側に立っていた少女だ。
「司祭長様……失礼いたします」
クレアは胸の前で手を組み、震える声を装った。完璧な礼儀、完璧な弱さ、完璧な被害者の輪郭。貴族社会は「守りたい相手」に甘くなる。守ることで自分が善人になれるからだ。
「ステラ様……」
クレアの瞳が潤む。
「本当に……こんなことになるなんて。わたくし、昨夜から胸が苦しくて……」
その言葉に、アッシュが自然に一歩前へ出る。彼女を庇う位置。昨夜と同じ配置。物語は繰り返される。
ステラは、ただクレアを見た。
クレアは善意の顔を貼り付けたまま、さらに近づいてくる。
「ステラ様は……お優しいから。きっと、無理をしていらっしゃる。だから……」
だから、何?
ステラは問い返さなかった。問い返せば、クレアはきっと泣く。そして泣いた者の勝ちになる。ここはそういう場所だ。
「ご心配なく」
ステラは静かに答えた。
「王国と教会の決定に従います」
それが精一杯の拒絶だった。これ以上を言えば、余計な燃料になる。
クレアは一瞬だけ口角を固くした。ほんの一瞬。すぐに「ほっとしたような微笑」に戻る。
「……よかった。どうか、どうか、お身体だけは……」
慈悲深い言葉。きれいな言葉。誰の心にも触れないように整えた言葉。
ステラは礼をして、評議室を後にした。
廊下へ出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が入ってきた。王城の空気はいつも澄んでいるはずなのに、今日はやけに息が重い。
マリアが控えていた。目が赤い。
「ステラ様……」
「大丈夫です」
そう言うしかない。大丈夫かどうかを判断する権利が、ステラの手から消えかけている。
「荷造りをします。必要最低限だけ」
「……はい」
部屋へ戻ると、机の上には昨夜の舞踏会で使った手袋が置かれていた。繊細な刺繍。聖女として、人前に出るために用意された品。昨日まで確かに自分の生活だったものが、今日はもう「過去」の匂いを帯びている。
窓の外では、王城の庭師が淡々と枝を剪定していた。季節が変わる準備。人の事情など関係なく、世界は進む。
ステラは、荷をまとめながら思った。
――私は、追放される。
それは事実だ。けれど、何かが胸の奥で小さく音を立てていた。悲しみとも怒りとも違う、もっと硬いもの。折れないための芯のようなもの。
第三鐘の刻。教会騎士が迎えに来る。
扉の外から聞こえた足音は、最後通牒のように一定のリズムで近づいてきた。
ステラは最後に、鏡の中の自分を見た。
上品で、静かで、完璧な公爵令嬢。泣かない聖女。
その顔のまま、ステラは扉へ向かった。
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