婚約破棄追放された公爵令嬢、前世は浪速のおばちゃんやった。 ―やかましい?知らんがな!飴ちゃん配って正義を粉もんにした結果―

ふわふわ

文字の大きさ
2 / 30

第2話 黙って耐える公爵令嬢

しおりを挟む
第2話 黙って耐える公爵令嬢

 翌朝、王城の回廊はやけに静かだった。

 昨夜の舞踏会の華やぎが嘘のように、窓から差し込む冬の光だけが淡々と床を照らしている。けれど静かなのは音だけで、人の視線はむしろ増えていた。すれ違う侍女、近衛、下働き――誰もが一瞬だけ足を止め、そして慌てたように目を逸らす。

 ステラ・ダンクルは、その視線の意味を正確に理解していた。

 同情。好奇。安堵。ざまあみろ――そうはっきり形にならない曖昧な感情の塊が、空気に溶けている。貴族社会の噂は音を立てない。囁きという名の霧になって、知らぬ間に人の胸に入り込む。

「ステラ様」

 背後から控えめな声がした。振り向くと、侍女のマリアが小さなトレイを抱えて立っている。いつもなら朝食の香りがするはずの時間に、トレイの上にあるのは封蝋のついた書状だった。

「教会から……至急とのことです」

 ステラは頷き、書状を受け取った。封蝋には教会の紋章――光輪と羽根。聖女の象徴でもあるその印が、今はやけに冷たく見える。

 封を切る指先が、わずかにかすれた。

 内容は簡潔だった。

 ――昨夜の婚約破棄を受け、聖女ステラ・ダンクルの職務を当面停止する。
 ――本日、第三鐘の刻、評議の場へ出頭せよ。
 ――その後の処遇については、評議の決定に従うこと。

 「当面」という言葉が、もっとも残酷だとステラは思った。期限も条件も書かれていない。当面とは、今日で終わるかもしれないし、一生続くかもしれない。人は曖昧な言葉でいくらでも縛れる。

「……マリア」

「はい」

「身支度を。礼装で」

 マリアは少しだけ唇を噛み、それでも「かしこまりました」と頭を下げた。何か言いたいことがあるのだろう。けれど彼女は侍女で、ステラは公爵令嬢で、そして――元婚約者の決定が王国の空気そのものになってしまった今、言葉は刃になる。

 だから彼女も黙った。

 ステラも黙った。

 黙ることは弱さではない。少なくともステラはそう信じてきた。聖女とは、国の器だ。器が割れるところを見せれば、民は不安になる。だから心が揺れても、顔は揺らさない。涙は祈りの中で流せばいい。そう教わった。

 身支度を整え、教会の評議室へ向かう途中、ステラは広間の前を通った。そこにはすでに貴族たちが集まり、朝の挨拶という名の情報交換をしている。ステラの姿が見えた瞬間、会話の波が一斉に引いた。

「……公爵令嬢」

「……聖女、だった方」

 聞こえないふりをした。聞こえていないふりは、上品さの一部だ。

 評議室の扉の前には、教会騎士が二人立っていた。どちらも視線を下げ、形式的に礼をする。だが、その体の位置が示す通り、ステラは「招かれた」のではなく「呼び出された」のだ。

 扉が開く。

 中には高位司祭、重臣、そして王城側の代表として――王太子アッシュがいた。

 ステラの胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。まだ現実に追いついていない部分が、そこでやっと形になったのだと思う。昨夜の舞踏会は公開の場で、今ここは正式な場だ。公式の判断は、ここで確定する。

「ステラ・ダンクル」

 司祭長が名を呼ぶ。いつもは祝福を与える声が、今日は判決を告げる声だった。

「あなたは昨夜の件を受け、聖女としての職務を停止する。異論は?」

 異論。

 昨夜も同じ言葉を投げられた。問いかけの形をした圧力。ここで「あります」と答える者は、最初から切り捨てられる。誰もがそれを知っている。

 ステラは一呼吸し、静かに言った。

「ございません」

 アッシュの視線が動く。昨夜と同じだ。彼は「反論」を待っている。反論をしてくれれば、自分が正しく見える。怒りをぶつけてくれれば、クレアを守る王太子の姿がより美しくなる。そういう筋書きが好まれることを、彼は本能で理解している。

 けれどステラは、筋書きに乗らなかった。

「よろしい」

 司祭長が頷き、書類が差し出される。

「療養の名目で、教会管理下の修道院へ移送する。外部との接触は制限される。必要なものは最小限を持参しなさい。――署名を」

 ステラは羽ペンを受け取り、迷いなく署名した。

 この瞬間、ステラは「聖女」ではなく「管理される者」になる。肩書きが剥がれるのは痛みを伴う。だが、ここで紙を破ったところで、状況が変わるわけではない。むしろ「暴れた」と記録されるだけだ。

 理不尽に対抗するには、理不尽の土俵で踊らないこと。ステラはそういうやり方を身につけてきた。……身につけさせられてきた、と言う方が正しいのかもしれない。

 署名を終えると、司祭長が淡々と続けた。

「なお、あなたの所持品の検分を行う。聖遺物、供物、祈祷具……教会資産の持ち出しは禁じる」

 その言葉が終わらぬうちに、扉が開いた。

 入ってきたのは、白い衣の少女だった。

 偽聖女――まだそうとは誰も言わない。新聖女候補、クレア・グレコ。昨夜の舞踏会で、守られる側に立っていた少女だ。

「司祭長様……失礼いたします」

 クレアは胸の前で手を組み、震える声を装った。完璧な礼儀、完璧な弱さ、完璧な被害者の輪郭。貴族社会は「守りたい相手」に甘くなる。守ることで自分が善人になれるからだ。

「ステラ様……」

 クレアの瞳が潤む。

「本当に……こんなことになるなんて。わたくし、昨夜から胸が苦しくて……」

 その言葉に、アッシュが自然に一歩前へ出る。彼女を庇う位置。昨夜と同じ配置。物語は繰り返される。

 ステラは、ただクレアを見た。

 クレアは善意の顔を貼り付けたまま、さらに近づいてくる。

「ステラ様は……お優しいから。きっと、無理をしていらっしゃる。だから……」

 だから、何?

 ステラは問い返さなかった。問い返せば、クレアはきっと泣く。そして泣いた者の勝ちになる。ここはそういう場所だ。

「ご心配なく」

 ステラは静かに答えた。

「王国と教会の決定に従います」

 それが精一杯の拒絶だった。これ以上を言えば、余計な燃料になる。

 クレアは一瞬だけ口角を固くした。ほんの一瞬。すぐに「ほっとしたような微笑」に戻る。

「……よかった。どうか、どうか、お身体だけは……」

 慈悲深い言葉。きれいな言葉。誰の心にも触れないように整えた言葉。

 ステラは礼をして、評議室を後にした。

 廊下へ出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が入ってきた。王城の空気はいつも澄んでいるはずなのに、今日はやけに息が重い。

 マリアが控えていた。目が赤い。

「ステラ様……」

「大丈夫です」

 そう言うしかない。大丈夫かどうかを判断する権利が、ステラの手から消えかけている。

「荷造りをします。必要最低限だけ」

「……はい」

 部屋へ戻ると、机の上には昨夜の舞踏会で使った手袋が置かれていた。繊細な刺繍。聖女として、人前に出るために用意された品。昨日まで確かに自分の生活だったものが、今日はもう「過去」の匂いを帯びている。

 窓の外では、王城の庭師が淡々と枝を剪定していた。季節が変わる準備。人の事情など関係なく、世界は進む。

 ステラは、荷をまとめながら思った。

 ――私は、追放される。

 それは事実だ。けれど、何かが胸の奥で小さく音を立てていた。悲しみとも怒りとも違う、もっと硬いもの。折れないための芯のようなもの。

 第三鐘の刻。教会騎士が迎えに来る。

 扉の外から聞こえた足音は、最後通牒のように一定のリズムで近づいてきた。

 ステラは最後に、鏡の中の自分を見た。

 上品で、静かで、完璧な公爵令嬢。泣かない聖女。

 その顔のまま、ステラは扉へ向かった。

 この時の彼女はまだ知らない。

 この「黙って耐える」日々が、ある一瞬で――音を立ててひっくり返ることを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです

ほーみ
恋愛
 「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」  その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。  ──王都の学園で、私は彼と出会った。  彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。  貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。

【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?

ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。 卒業3か月前の事です。 卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。 もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。 カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。 でも大丈夫ですか? 婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。 ※ゆるゆる設定です ※軽い感じで読み流して下さい

花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果

藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」 結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。 アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。 ※ 他サイトにも投稿しています。

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい

よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。 王子の答えはこうだった。 「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」 え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?! 思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。 ショックを受けたリリアーナは……。

婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました

ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」  大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。  けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。  王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。  婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。  だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。

【片思いの5年間】婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。

五月ふう
恋愛
「君を愛するつもりも婚約者として扱うつもりもないーー。」 婚約者であるアレックス王子が婚約初日に私にいった言葉だ。 愛されず、婚約者として扱われない。つまり自由ってことですかーー? それって最高じゃないですか。 ずっとそう思っていた私が、王子様に溺愛されるまでの物語。 この作品は 「婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。」のスピンオフ作品となっています。 どちらの作品から読んでも楽しめるようになっています。気になる方は是非上記の作品も手にとってみてください。

処理中です...