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第3話 事故という名の悪意
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第3話 事故という名の悪意
第三鐘が鳴り終わるころ、王城の回廊は不自然なほど静まり返っていた。
教会騎士に挟まれる形で歩くステラ・ダンクルの足取りは、落ち着いている。荷は最小限。聖女として使っていた祈祷具はすでに没収され、手元に残ったのは着替えと身の回りの品だけだった。公爵令嬢としての持ち物も、必要最低限に絞られている。余計なものを持たされるより、よほど親切だと、どこか他人事のように思えた。
回廊の先で、クレア・グレコが立っていた。
白い衣の裾を丁寧に整え、両手を胸の前で重ねている。見慣れた“聖女候補の姿”だ。けれど今は、取り巻きも王太子もいない。教会騎士が一礼して距離を取る。ほんの短い間、二人きりになるよう、計算された間だった。
「ステラ様……」
クレアは声を落とし、困ったように微笑んだ。
「少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか。これから修道院へ向かわれると聞いて……どうしても、お伝えしたいことがありまして」
断る理由はあった。だが断れば、「冷たい」「追放が不満なのだ」と解釈される。それが分かっているからこそ、ステラは一瞬の迷いの後、頷いた。
「短時間でしたら」
「ありがとうございます」
クレアはほっとしたように息をついた。その仕草はあまりにも自然で、演技だと見抜くのは難しい。二人は並んで歩き始めた。目的地は、王城の奥にある古い階段。夜間はほとんど使われない、石造りの段だ。
薄暗い灯り。足音が反響する。
「……わたくし、本当は」
クレアが口を開く。
「本当は、ステラ様の方が、ずっと聖女に相応しいと思っているのです」
昨夜も聞いた言葉だ。慰めの形をした刃。ステラは視線を前に向けたまま、答えない。
「でも……教会も、王太子殿下も……国のためには、決断が必要だと……」
言葉を切り、クレアは小さく息を吸った。
「わたくしが、代わりになれるなら……そう思ってしまったのです。自分勝手だと、分かっています。でも……」
涙を含んだ声。誰かに聞かせるための語り口。だが今は、聞き手が一人しかいない。だからこそ、その奥に滲む焦りが、ほんのわずかに混じった。
階段の踊り場に差し掛かったとき、クレアは足を止めた。
「ステラ様……」
呼びかけに、ステラも立ち止まる。振り返った瞬間、距離が近すぎることに気づいた。クレアの瞳が、思った以上に近い。
「……?」
次の瞬間だった。
背中に、はっきりとした衝撃が走った。
押された――そう理解した時には、身体がすでに宙に投げ出されている。視界が回転し、灯りが弧を描く。石段の縁が、鋭い線となって迫る。
――ああ。
音が遅れてやってきた。
硬い石に打ち付けられる感覚。肩、背中、そして頭。鈍い痛みが一気に広がり、呼吸が止まる。悲鳴を上げる間もなく、ステラの意識は暗闇に沈んでいった。
落下の途中、かすかに聞こえた声があった。
「……邪魔者は、早く退場してもらわないと……後の者が困るのよ……」
その声は、驚くほど冷静だった。
次の瞬間、空気が一変する。
「きゃああああっ! だれか! だれか来てください!」
甲高い悲鳴。恐怖に満ちた声。さきほどまでの冷たさは、微塵も残っていない。
「ステラ様が……! ステラ様が足を滑らせて……!」
駆け寄る足音。教会騎士の声。人が集まる気配。
クレアは膝をつき、泣き崩れる。
「わたくしが……ちゃんと、支えていれば……! 婚約破棄と追放の処分が、よほどお辛かったのでしょう……!」
その言葉は、用意されていた。筋書きの一部として、何度も頭の中で繰り返された台詞だ。
倒れたステラの周囲に人が集まり、騎士が脈を確認する。誰かが「生きている」と告げ、別の誰かが担架を呼ぶ。混乱の中で、クレアの声だけが妙に澄んで響いた。
「……ステラ様は、ずっと無理をなさっていたのです。お優しい方だから……」
同情の種は、こうして蒔かれる。
担架に乗せられたステラの意識は、まだ戻らない。だが完全に失われたわけでもなかった。遠くで、誰かの声が反響している。水の底から聞くような、不明瞭な音。
「……ステラ様……」
それは、クレアの声だった。
視界は暗い。身体が重い。けれど、言葉だけは、無理やり押し込まれてくる。
「かわいそう……こんなことになるなんて……」
かわいそう。誰に向けた言葉なのか、分からない。
「やっぱり……聖女は、ステラ様の方が……」
その囁きは、優しさの仮面を被っている。けれど奥にあるのは、罪悪感ではなく、恐怖だ。――生きているかもしれない、という恐怖。
だから、言葉を重ねる。
「……ほら……もう……楽になりますから……」
意識が混濁する中、ステラは思った。
楽になる、とは何だろう。
眠ることか。忘れることか。それとも、罪を背負わないための言い訳か。
声が遠ざかる。別の声が混じる。
「王太子殿下がお見えです!」
足音が増え、空気が張り詰める。アッシュの声が聞こえる。
「……事故だな?」
即断。疑問ではなく、確認。確認という名の決定。
「は、はい……!」
クレアの声が震える。
「わたくしが、ほんの少し目を離した隙に……」
「分かった。もういい」
その一言で、調査は終わった。王太子の言葉は、事実になる。
「すぐに治療を。教会で責任を持つ」
それは慈悲ではなく、管理だ。ステラは“守られる存在”として、再び囲われる。
担架が動き出す。視界が揺れ、天井が流れる。
クレアの声が、最後にもう一度だけ聞こえた。
「……ステラ様……どうか……」
その続きは、聞き取れなかった。
暗闇が、すべてを覆う。
意識が完全に途切れる直前、胸の奥で何かが小さく、確かに軋んだ。
それは悲鳴でも、怒りでもない。
――違う。
何かが、決定的に間違っている。
その感覚だけを残して、ステラ・ダンクルの意識は深い闇へと沈んでいった。
やがて、彼女はまだ知らない。
この「事故」という名の悪意が、
自分の中で眠っていた“別の人生”を――呼び覚ます引き金になることを。
第三鐘が鳴り終わるころ、王城の回廊は不自然なほど静まり返っていた。
教会騎士に挟まれる形で歩くステラ・ダンクルの足取りは、落ち着いている。荷は最小限。聖女として使っていた祈祷具はすでに没収され、手元に残ったのは着替えと身の回りの品だけだった。公爵令嬢としての持ち物も、必要最低限に絞られている。余計なものを持たされるより、よほど親切だと、どこか他人事のように思えた。
回廊の先で、クレア・グレコが立っていた。
白い衣の裾を丁寧に整え、両手を胸の前で重ねている。見慣れた“聖女候補の姿”だ。けれど今は、取り巻きも王太子もいない。教会騎士が一礼して距離を取る。ほんの短い間、二人きりになるよう、計算された間だった。
「ステラ様……」
クレアは声を落とし、困ったように微笑んだ。
「少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか。これから修道院へ向かわれると聞いて……どうしても、お伝えしたいことがありまして」
断る理由はあった。だが断れば、「冷たい」「追放が不満なのだ」と解釈される。それが分かっているからこそ、ステラは一瞬の迷いの後、頷いた。
「短時間でしたら」
「ありがとうございます」
クレアはほっとしたように息をついた。その仕草はあまりにも自然で、演技だと見抜くのは難しい。二人は並んで歩き始めた。目的地は、王城の奥にある古い階段。夜間はほとんど使われない、石造りの段だ。
薄暗い灯り。足音が反響する。
「……わたくし、本当は」
クレアが口を開く。
「本当は、ステラ様の方が、ずっと聖女に相応しいと思っているのです」
昨夜も聞いた言葉だ。慰めの形をした刃。ステラは視線を前に向けたまま、答えない。
「でも……教会も、王太子殿下も……国のためには、決断が必要だと……」
言葉を切り、クレアは小さく息を吸った。
「わたくしが、代わりになれるなら……そう思ってしまったのです。自分勝手だと、分かっています。でも……」
涙を含んだ声。誰かに聞かせるための語り口。だが今は、聞き手が一人しかいない。だからこそ、その奥に滲む焦りが、ほんのわずかに混じった。
階段の踊り場に差し掛かったとき、クレアは足を止めた。
「ステラ様……」
呼びかけに、ステラも立ち止まる。振り返った瞬間、距離が近すぎることに気づいた。クレアの瞳が、思った以上に近い。
「……?」
次の瞬間だった。
背中に、はっきりとした衝撃が走った。
押された――そう理解した時には、身体がすでに宙に投げ出されている。視界が回転し、灯りが弧を描く。石段の縁が、鋭い線となって迫る。
――ああ。
音が遅れてやってきた。
硬い石に打ち付けられる感覚。肩、背中、そして頭。鈍い痛みが一気に広がり、呼吸が止まる。悲鳴を上げる間もなく、ステラの意識は暗闇に沈んでいった。
落下の途中、かすかに聞こえた声があった。
「……邪魔者は、早く退場してもらわないと……後の者が困るのよ……」
その声は、驚くほど冷静だった。
次の瞬間、空気が一変する。
「きゃああああっ! だれか! だれか来てください!」
甲高い悲鳴。恐怖に満ちた声。さきほどまでの冷たさは、微塵も残っていない。
「ステラ様が……! ステラ様が足を滑らせて……!」
駆け寄る足音。教会騎士の声。人が集まる気配。
クレアは膝をつき、泣き崩れる。
「わたくしが……ちゃんと、支えていれば……! 婚約破棄と追放の処分が、よほどお辛かったのでしょう……!」
その言葉は、用意されていた。筋書きの一部として、何度も頭の中で繰り返された台詞だ。
倒れたステラの周囲に人が集まり、騎士が脈を確認する。誰かが「生きている」と告げ、別の誰かが担架を呼ぶ。混乱の中で、クレアの声だけが妙に澄んで響いた。
「……ステラ様は、ずっと無理をなさっていたのです。お優しい方だから……」
同情の種は、こうして蒔かれる。
担架に乗せられたステラの意識は、まだ戻らない。だが完全に失われたわけでもなかった。遠くで、誰かの声が反響している。水の底から聞くような、不明瞭な音。
「……ステラ様……」
それは、クレアの声だった。
視界は暗い。身体が重い。けれど、言葉だけは、無理やり押し込まれてくる。
「かわいそう……こんなことになるなんて……」
かわいそう。誰に向けた言葉なのか、分からない。
「やっぱり……聖女は、ステラ様の方が……」
その囁きは、優しさの仮面を被っている。けれど奥にあるのは、罪悪感ではなく、恐怖だ。――生きているかもしれない、という恐怖。
だから、言葉を重ねる。
「……ほら……もう……楽になりますから……」
意識が混濁する中、ステラは思った。
楽になる、とは何だろう。
眠ることか。忘れることか。それとも、罪を背負わないための言い訳か。
声が遠ざかる。別の声が混じる。
「王太子殿下がお見えです!」
足音が増え、空気が張り詰める。アッシュの声が聞こえる。
「……事故だな?」
即断。疑問ではなく、確認。確認という名の決定。
「は、はい……!」
クレアの声が震える。
「わたくしが、ほんの少し目を離した隙に……」
「分かった。もういい」
その一言で、調査は終わった。王太子の言葉は、事実になる。
「すぐに治療を。教会で責任を持つ」
それは慈悲ではなく、管理だ。ステラは“守られる存在”として、再び囲われる。
担架が動き出す。視界が揺れ、天井が流れる。
クレアの声が、最後にもう一度だけ聞こえた。
「……ステラ様……どうか……」
その続きは、聞き取れなかった。
暗闇が、すべてを覆う。
意識が完全に途切れる直前、胸の奥で何かが小さく、確かに軋んだ。
それは悲鳴でも、怒りでもない。
――違う。
何かが、決定的に間違っている。
その感覚だけを残して、ステラ・ダンクルの意識は深い闇へと沈んでいった。
やがて、彼女はまだ知らない。
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